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ダラエ・ヌールへの道

カテゴリー:未分類

著者:中村 哲、出版社:石風社
 15年以上前に発刊された本ですから、少し古くはなりましたが、アフガニスタンのことを少しでも知るためには決して古すぎることはありません。福岡出身の中村哲医師がアフガニスタンで、どんな活動をしているのか、それにどんな意義があるのかを知るうえで今も貴重な本です。なにしろ、日本の一般マスコミの報道があまりにも少な過ぎます。
 アフガニスタンに住むほとんどの人々にとって、西欧的な国民国家や民主主義など、想像もつかないしろものだ。それは、あたかも日本の源平時代や戦国時代の日本人に「近代国家」を強制しようとするに等しい夢物語でしかない。アフガニスタンの多くの人々には、もともと「国家」など頭の中にない。
 これは、イスラム原理主義者についても同じことが言える。アメリカは、後になって手を焼くことになる「イスラム原理主義」に対し、軍事的に肥大させるよう援助した。アメリカは、「生かさず、殺さず」式の戦争を継続させ、ソ連の国力を消耗させる戦略をとった。
 ダラエ・ヌール渓谷一帯は、いわゆるパシャイー族というヌーリスタン族の一部族が占め、戦争中もほぼ完全な自治体制をとって政治的利害から自由な地域だった。
 ここの山人は、ほとんど自給自足なので、絶対的な必需品はマッチと岩塩くらいである。石油ランプをもつ家庭が多いので、灯油も取引品として大切であった。緑の畑が広がっている。よく見ると、ケシ畑だった。
 中村医師は次のように断言します。
 現地では、非武装がもっとも安価で強力な武器である。だから、診療所内での武器携行を一切禁止した。自分自身が丸腰であることを示したうえ、敵を恐れて武器を携える者を説得し、門衛に預けさせてから中に入る許可を与える。無用な過剰防衛は、さらに敵の過剰防衛を生み、果てしなく敵意・対立がエスカレートしていく。
 私心のない医療活動は、地元民の警戒心を解き、彼らが著者たちを防衛してくれるようになった。渓谷のあらゆる住民が我々を必要として、その方針に協力するようになったのだ。アフガニスタンの膨大な水面下の人々にアピールしようとするなら、何も特別の宣伝はいらない。ひたすら黙々と誠実に仕事をしていたらいい。
 日本国憲法9条2項がアフガニスタンで生きていることを実感させられます。
 日本人の特性は、そのチームワークと勤勉さ、緻密さにある。だが、ペシャワールのようなところでは、これが裏目に出る。日本人は、一人で衝突をくり返しながら、現地の人々とのつきあいを切り開いていくたくましさに乏しい。
 うむむ、なるほど、なーるほど、そうなんでしょうね。
 アフガニスタンで今も医療活動を地道に続けている中村医師をはじめとするペシャワール会の活動に対して、日本人はもっともっと注目し、大きな声援を送るべきなのではないでしょうか。大喰いタレントやおバカキャラを笑いながらもてはやす前に、もっと真剣に考えるべき世界の現実があると私は思いました。
(1993年11月刊。2000円+税)

甘粕正彦 乱心の曠野

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:佐野眞一、出版社:新潮社
 いやあ面白くて、ぐいぐいと引きこまれてしまいました。よくもここまで調べ上げたと感嘆するほど、「主義者殺し」の烙印を負った甘粕憲兵大尉の事件との関わり、そして満州での暗躍ぶりと自殺に至るまでが迫真にみちみちて描かれています。
 甘粕は、大杉栄一家3人虐殺の主犯として軍法会議で懲役10年の判決を受け、千葉刑務所に服役した。ところが昭和天皇の結婚による恩赦を受け、大正15年(1926年) 10月、わずか2年10ヶ月で極秘のうちに仮出獄した。そして翌1927年(昭和2年)7月にはフランスに渡った。さらに、1929年秋に満州に移住した。
 甘粕正彦の長男は三菱電機の副社長を経て、現在は顧問。考古学者の甘粕健、社会学者の見田宗介、服飾デザイナーの森南海子は、みな近い親戚である。いやあ、有名人ぞろいですね。私も見田宗介の本は大学生のころ読みました。見田石介の本もです。
 甘粕正彦は名古屋の陸軍幼年学校に入ったが、そこは6年前に大杉栄が入学し、あまりの不良少年ぶりに2年で放校処分を受けたところだった。
 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の当日、渋谷憲兵分隊長の甘粕正彦は麹町憲兵分隊長との兼務を命じられた。首相官邸などを警護対象とする麹町憲兵分隊は、文字どおり、憲兵あこがれのエリート中のエリートコースだった。
 甘粕は帝都の治安を攪乱する不穏分子を摘発するエースだった。皇族の安寧を願い、帝都の治安維持に尽力してきた甘粕の目ざましい働きに対する論功行賞でもあった。
 甘粕に対する軍法会議が始まると、減刑嘆願運動が在郷軍人会を中心として全国に広がり、65万人もの署名を集めた。しかし、これも、軍法会議が始まると、甘粕に対する同情の声はおさまり、むしろ非難する声が高まった。
 大杉栄の虐殺が露見したのは、軍と警察の反目にあった。そして、その裏には、内務省と陸軍省のドロドロした暗躍劇がからんでいた。
 死因鑑定書が発見された今、甘粕は殺害された宗一(子ども)ばかりか、大杉栄ら3人の死体が菰包みになったのを見て初めて殺害の事実を知ったという可能性も否定できない。いやあ、そういうことなんですか。驚きました。
 軍法会議は、宗一少年を殺したとして自首してきた東京憲兵隊の3人を無罪にしたことに象徴される。この軍法会議は第1回が10月8日、6回の審理を経て、結審したのが11月24日。そして、判決は12月8日。審理に費やした期間は、わずか2ヶ月。しかも、甘粕に対する追及が厳しかった判士の小川法務官は途中で突然に解任された。
 そもそも、甘粕には麹町憲兵分隊に所属する4人を指揮命令する権限はなく、そんな立場にもなかった。
 赤坂憲兵分隊長の服部が麹町憲兵分隊に行ってみると、屋上に大杉栄が両手両脚を厳重にしばられ、コンクリートの上に筵(むしろ)を敷いて座らされていた。そばには、大杉の妻・野枝と子どももいた。こんな目撃談を部下が書いています。
 死因鑑定書には次のように書かれている。「男女二屍の前胸部の受傷はすこぶる強大なる外力(蹴る、踏みつけるなど)によるものとなることは明白。・・・これは絶命前の受傷にして・・・」
 つまり、大杉栄も野枝も明らかに寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けた。虫の息になったところを一気に絞殺された。すなわち、集団暴行によるなぶり殺しが実態である。
 おお、なんとむごいことでしょうか。許せません。そして、実行犯は、みな無罪放免となり、甘粕一人がわずか2年あまりで出所したなんて・・・。まさしく軍隊の犯罪としか言いようがありません。
 甘粕が出所してすぐにフランスに渡ったのは、甘粕をスケープゴートとして自らの責任を逃れた憲兵司令部の後ろめたさと、口封じを感じざるをえない。そして、甘粕正彦は満州に渡り、満映の理事長となり、終戦直後に青酸カリを飲んで服毒自殺した。そのとき、今をときめく有名作家の赤川次郎の父親が甘粕の側で働いていた。
 これは伝記ものの傑作の一つだと思います。なにしろ、歴史的事実を一つ発掘したのですからね。私は、東京行きの飛行機のなかで、一心に読みふけり、飛行の怖さを忘れてしまいました。あっという間に東京に着いてしまったのです。
(2008年5月刊。1500円+税)

ネゴ・スキル

カテゴリー:司法

著者:弁護士・三四郎、出版社:文芸社
 私は相手方との交渉がいつまでたっても苦手です。タフ・ネゴシエーターと呼ばれる人たちの縦横無尽の駆け引きを、いつもうらやましく思いながら眺めています。私の交渉のやり方は、ひたすら誠意を尽くすということです。もちろん、これでうまくいくこともあるわけです。でも、そんなことでは解決しないことも多いのです。
 ちなみに、私は、商品を値切って買うことも好きではありません。定価で買うか、買わないか、です。そんなつまらないことで、精力を無駄につかいたくないという気分です。ですから、たいてい、あとになって後悔しないように何も買いません。海外旅行に出かけたときも、食事は別として、買い物にお金をかけることは絶対にしません。記念になる小物を買うだけです。家の中には必要最小限のものさえあればよいのです(もちろん、たくさんの本に囲まれて・・・)。
 相手から脅されたとき、どうするか。まず、心を強くもつ。人は交渉相手の手強さを過大評価するものだ。冷静になり、簡単には引き下がらないと決意する。そのうえで、相手に向かって「脅しはなしにしましょう」と静かに告げる。すると、たいてい相手は脅しをやめてしまう。
 それでも脅しが続いたときには、相手の話を黙って聞き続ける。そのうち、だんたん言葉の勢いがなくなり、とうとう脅しの理由を説明しはじめ、ポロリと自分の弱点をもらす。そこで出番が来る。怒る気持ちは分かる。脅しのようなことは今後やめよう。そう言って休憩をとる。コーヒーとクッキーを出す。雑談をし、ジョークを飛ばす。すでに、相手には当初の勢いはなくなっているはずだ。
 脅しが本物か、ブラフかを見定めるのが必要。それには質問をする。質問を繰り返しながら、相手の表情、態度を見る。答え方と声のトーンを聞く。経験を積んだら見抜くことができる。ブラフは軽くあしらい、軽くいなす。
 手強いとみた相手との本格的な交渉は2人でやることだ。脅しに対抗するとっておきの手は、聞こえないふりをする、おバカなふりをすること。
 聴き方の4原則は、第1に、相手の目を見る。第2に、微笑む。微笑みは、相手を受け入れているというサインである。第3に、うなずく。これは話を聴いているというサインだ。第4に、相槌をうつ。これで話の流れをよくする。聴くとは、忍耐でもある。
 相手を説得しようとするときには、相手の言葉をつかう。人は、他人の言葉よりも、自分自身の言葉によって説得されるものだ。
 人は対面する相手の顔から55%、声から38%、そして言葉から7%の割合で情報をつかむ。
 嘘をつくとき、人は手を隠す。手の動きから心を読まれるのを恐れるから。嘘をつくとき、人は手で顔をさわる。嘘を隠そうと思って、口を押さえているのだ。嘘をつくとき、人は何度も姿勢を変える。この場から早く逃げ出したいという無意識の欲求がそうさせる。嘘をつくとき、人は目だけで笑う。不安を隠すためだ。
 嘘をつくとき、男性は視線をそらす。女性は相手を凝視する。男は、嘘をつく罪悪感にさいなまれて視線をはずす。女性は嘘がバレたかバレなかったかを確認しようとする。
 上手に交渉を締めくくる方法がある。相手を評価し、ほめること。相手がプロであっても。勝ってもうれしい顔を見せず、相手が負けていても勝利感を分け与える。
 交渉下手の私にとって、すごく勉強になりました。
 先日の仏検(一級)の結果が届きました。これまでで最低の34点でした(120点満点)。昨年は45点でしたし、その前には70点とったこともありました(合格点は90点以上)ので、受け初めて10年以上になりますが、最悪です。体調が不良だったという言い訳はしません。頭の中がフランス語モードになっていなかったとしか言いようがありません。やはり1ヶ月以上前から試験に向けて頭のなかを切り換える。具体的には朝晩、フランス語を聞いて書く。過去問にあたる。こんなことを怠ったからです。
 8月にフランスへ行く予定ですので、いささか心配になる結果でしたが、臆することなくフランス語を話してくるつもりです。
(2008年3月刊。1200円+税)

戦争の心理学

カテゴリー:アメリカ

著者:デーヴ・グロスマン、出版社:二見書房
 怖い話が多いのですが、人間とは何かを知ることもできる本です。そして、子どもたちを取り巻く環境がひどく危険なことに警鐘を乱打しています。耳を傾けるべきです。
 恐怖を感じるとアドレナリンが増える。生き残りの確率を高めるために増加する物質にコルチゾールがある。これが増えると、血液の凝固速度が上昇する。
 すごいですね、人間の身体って、本当によく出来ています。
 第二次大戦に出たアメリカ兵の4分の1が尿失禁の経験があり、8分の1が大失禁を経験した。激戦を経験した兵士の場合には、半分が尿をもらし、4分の1が大便をもらした。
 多大なストレスのかかる生きるか死ぬかの状況に直面したとき、下腹部に荷物が入っていたら、それは放り出される。膀胱がどうした?括約筋なんか知ったことか、と身体が言ったわけだ。全身のあらゆる資源が、ただひとつ、生き残りのためという目的にふり向けられる。な、なーるほど、そういうことなんですか・・・。
 継続的な戦闘状態が60昼夜も続くと、全兵士の98%が精神的戦闘犠牲者になる。
 スターリングラードの戦いに参加したソ連軍の復員兵士は40歳前後で死亡した。この戦いでは、長く苛酷な6ヶ月間、1日24時間たえまないストレスにさらされていたからだ。
 2003年のイラク侵攻のとき、アメリカ軍は兵士にストレス過重の徴候があらわれたら交代させ、シャワーを浴びたり軽い休養をとったりできる場所へ送ったのち、すぐにまた元の部隊に戻すという方針をとった。
 精神的なストレスから回復するのに睡眠は特効薬となる。逆に、ストレスの犠牲になりたければ、物理的に一番簡単なのは睡眠時間を削ること。睡眠不足は、精神衛生に悪影響を及ぼし、がん、かぜ、抑うつ、糖尿病、肥満、心筋梗塞の誘因となる。
 24時間、一睡もしないと、生理状態も心理状態も、法的に酒酔いとされるのと同じ状態に陥る。ベテラン兵士は寝られるチャンスは絶対に逃さない。眠りの甘さを知っているのは兵士だけ。そうですよね、あのウトウト感って、たまりませんよね。いい心もちです。
 心拍数が高まると、微細運動の抑制と近視野が失われる。落ち着いているときは簡単に思えることでも、ふだんから練習しておかないといけないのは、このためだ。そして、深い腹式呼吸をすると、心拍数が下がる。
 耳は聞こえ、目は見えていても、生き残るという最大の目標に集中していると、その目標に無関係と思われる情報は、大脳皮質が意識からはじいてしまう。感覚刺激を遮断してしまう。たとえば、戦闘中には銃声が聞こえなくなる。
 似た例として、私は列車内で読書に夢中になっているときには、車内アナウンスがまったく聞こえません。そのときは、本に大あたりして、はまっているのです。
 アメリカでは10代の青年による大量殺人がしばしば起きている。これは歴史はじまって以来のこと。この大量殺人を可能にしているのは大人であり、親であり、ゲーム業界である。子どもたちが遊んでいるゲームは大量殺人シミューレーターである。画面の人物を残らず殺し、高得点をあげるように日々、訓練されている。犯人たちはコンピューターゲームの狙撃シミュレーターをつかって、殺人に対する心理的障壁を取り除いていた。
 もちろん、暴力的なゲームで遊ぶ子どもが、みな大量殺人者になるわけではない。しかし、なる者もいるのだ。
 アメリカの学校で銃乱射事件を起こした生徒たちはみな、規律の厳しい団体活動には参加したがらず、逆にメディアの暴力表現に耽溺していた。暴力的なテレビや映画、そしてとくにコンピューターゲームが子どもに多大の影響を与えた。
 暴力的なメディアの影響は、子どもにとっては新兵訓練のようなものだ。子どもたちはテレビの前に何時間もすわり、暴力は善であり必要なものだと学ぶ。それを見、それを経験し、そして信じる。暴力という成分はいやというほど浴びているのに、規律はかけらも与えられない。テレビで見る映像は、子どもにとっては現実なのである。血や殺戮や復讐を見ると、世界はそんなところだと学習することになる。
 暴力的なメディアにさらされ、精神的に傷を負い、残酷な行為に慣らされたとしても、ほとんどの子どもは暴力をふるうことにはならない。しかし、抑うつと恐怖に悩むようにはなる。
 文字で書いたものが幼児に影響することはない。しかし、暴力的な映像は早くも生後 14ヶ月で完全に処理できる。幼児のみる映像は、目からまっすぐ感情の中枢に入り、そのこの世界観に直接の影響を及ぼす。いやあ、これって、ホント、怖いことですよね。
 コンピューターゲームに影響された新世代の殺人者は、爆弾を仕掛けたあと、すぐに立ち去らない。目標は全員を殺すこと、なのだから。
 メディアの暴力にひんぱんに接した子どもの脳は、論理的な部分の活動が減少する。事後にストレス障害を予防する決め手は、事後報告会をおこない、感情と記憶とを切り離し、喜びを掛け算し、苦しみを割り算することである。
 なるほど、よくよく日本人の大人も考えるべき指摘だと思います。ゲーセンでは「人殺し」がありふれています。多くの若者がそれに没頭している光景はおぞましいものです。
 銃で撃たれたら、まず第一にパニックを起こさないこと。撃たれたと分かるのは生きている証拠であり、これは良い徴候だ。非常に強烈な警告の一発を受けたと考えよう。最高の状態じゃないが、最悪でもない。自分にそう言い聞かせる。目下の目標は、2発目を浴びないこと。そうなんですか。こう考えるといいのですね。
 送りこまれる兵士のうち100人に10人は足手まといだ。80人は標的になっているだけ。9人はまともな兵士で、戦争をするのは、この9人だ。残りの1人が戦士で、この1人がほかの者を連れて帰ってくる。敵によって殺された兵士より、ストレスで戦えなくなった戦闘員のほうが多かった。
 白兵戦のさなかの兵士は、たいてい文字どおり正気を失うほどおびえている。矢や弾丸が飛びかいはじめると、戦闘員は人を人たらしめている脳である前脳で考えるのやめ、思考過程は中脳に集中する。中脳は、脳のなかでも原始的な部分であり、ほかの動物の脳とほとんど区別がつかない。
 戦場における人間の行動と生理面を分析したこの本を読み、人間というものを少し理解しました。それにしても暴力的メディア(とくにコンピューターゲーム)の怖さを再認識させられました。
(2008年3月刊。2400円+税)

松本清張への召集令状

カテゴリー:社会

著者:森 史朗、出版社:文春新書
 松本清張の本は私もかなり読んでつもりですが、その著書が750冊もあると言われると、その何分の1を読んだのだろうかと不安になります。まあ、それでも私は2割くらい読んだように思うのですが、自信ありません。
 清張が作家としてデビューしたのは41歳のとき。『点と線』『眼の壁』によってベストセラー作家となり、社会派推理小説の草分け的存在となったのは48歳のとき。1992年に82歳で亡くなるまでに、著書750冊を出した。まさに驚異的な巨匠です。
 清張は、34歳のときに招集され、1家6人の家族を残して朝鮮に出征した。
 実は、清張は、20歳のときの徴兵検査で身体虚弱のため、第二乙種補充となり、兵営入りを免れた。そして、昭和18年秋に教育招集されたが、そのときの入営期間は3ヶ月だった。
 ところが、昭和19年6月に再び召集令状が届いて、朝鮮半島に送られた。すでに朝鮮海峡もアメリカ軍潜水艦によって日本軍の輸送船は次々に沈められていた。対岸の朝鮮半島にたどり着くのも生命がけの時期だった。
 この本は、なぜ34歳の妻子をかかえた第二乙種補充兵が召集されたのかを追求しています。どうやら、ここに社会派・清張の原点があるようなのです。
 清張の学歴は、尋常高等小学校卒。朝日新聞西部本社広告部意匠係の嘱託から正社員に昇格したばかり。広告の版下を書く職人だった。
 19歳の石版工・清張は、思想犯として特高警察に検挙された。文学仲間にまわっていた非合法雑誌『戦旗』をまわし読みする一員になっていた。
 この『戦旗』は80年後の今、ブームを呼んでいる小林多喜二の『蟹工船』が掲載されたりする全日本無産者芸術連名の機関誌であった。
 清張が貫いた反権力の姿勢は、特高警察によって十二分にいたぶられた体験と決して無縁ではない。
 清張は徴兵検査の結果、第二乙種補充兵だった。虚弱な体質だった。
 最長に2度目の召集令状が来たのは、昭和19年6月28日のこと。すでに34歳。兵隊では老兵である。なぜ、こんな中年兵が招集されたのか? 清張は疑問に思った。
 在郷軍人会の教練にあまり出なかった男性に対する懲罰的な意味あいが込められていた。それを「ハンドウを回す」という。反動を回すとは、大砲を撃ったときの砲身の反動から来た言葉であり、ものごとが行き過ぎた場合に逆方向に戻すという意味。
 軍隊で受けた理不尽な私的制裁は、清張を終生、強い反軍傾向をもつ人間としたのです。当然のことでしょうね。
 清張は、東大の井上光貞教授と張り合ったようです。井上光貞教授と言えば、私が大学受験生のころは、まさに日本史の権威でした。その教科書をバイブルのように大事にして暗記したものです。井上光貞教授は、清張を学者ではない単なるアマチュアとしてしかみなかったようです。それで官学ぎらい、権威ぎらい、反権力の清張はカチンときた。
 転向した反共文筆家としてもてはやされた平林たい子が清張について、共産主義者の秘書に資料を集めさせて、その資料で書くだけだから、いわば人間ではないタイプライターだと根拠なく非難したことがあった。
 しかし、清張は取材記者をつかったことはない。あくまでも独自に取材し、豊富な人脈をつかって広く資料収集につとめていた。
 実は、私も清張は何人もの調査員を雇っているとばかり思い込んでいました。
 清張は神田の古本屋(たとえば)「一誠堂書店」)に、関連する資料をごっそり注文して受けとっていた。
 清張は、多作のため、やがて書痙(しょけい)を患った。やむなく、口述筆記とした。そのため、速記者を雇った。執筆量は月に700〜800枚。昭和30年代半ばまでは 1000枚をこえていた。さすがに書きすぎるとの批判が寄せられた。
 清張は文壇づきあいは、あまりしていない。社交嫌いで、酒の飲めない体質だった。清張は、既成文壇に対しては辛辣だが、後進の新人作家には、一転して心優しき先達だった。
 文士とは小説家っていうのは、自信とうぬぼれを栄養にしていないとやっていけない。だから、普通の人間にない、鼻持ちならぬ嫌な種族だろう。
 これは清張と対談した大佛次郎の言葉です。うむむ、そうなんですか。私は、とても、そこまでは・・・。
 清張は作品タイトルの名人だ。『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』『張り込み』など、すごいものです。清張は巨匠すぎて、及びもつきません。でも、最近の若い人は読んでいるのかな・・・?
 1泊2日の人間ドックから明るいうちに帰宅すると、庭で蝉の飛ぶのを見かけました。7月11日のことです。やがて蝉の鳴き声も聞こえてきました。蝉が鳴くと夏本番の到来です。
(2008年3月刊。890円+税)

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