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ヤバい社会学

カテゴリー:アメリカ

著者 スディーン・ヴェニカテッシュ、 出版 東洋経済新報社
 シカゴに私も二度行ったことがあります。もう20年ほど前のことです。といっても、安全な中心地にしか行っていません。オバマ大統領はシカゴの下町で活動したことがあるようです。オバマはコロンビア大学を卒業して、この本の舞台あたりで地域活動に従事し、ハーバード・ロースクールを出たあと、もう一度シカゴに戻り、シカゴ大学で教えています。
 この本の著者は、シカゴ大学の院生として学びながら、社会学者としてギャングのなかに入って体験調査したのです。この本を読むと、それがいかに危険にみちみちたものか分かります。よそのギャングが車に乗って襲撃してくるし、ケガ人が出ても救急車も警察も来てくれないのです。私なんて、とても著者のような勇気は持ち合わせていません。著者は、蛮勇とも言うべき、向こう見ずの突進リポーターなのです。
 でも、無事に調査が終わってしまえば、これほど面白い体験社会学の本はありません。400頁の本を2時間以上かけて一日じっくり読みとおしました。アメリカのギャングの実情がよく分かる本です。
 著者がシカゴ大学に入ったのは1989年秋のこと。大学のすぐ外は危険地帯。そこはギャングの支配する町なのです。といっても、そこには何万人ものアメリカ人が住んでいるのですが……。
 住民の半分は働いていない。犯罪が横行し、ギャングが大手を振って歩き、生活保護を受ける人は増えるばかり。街角には、うちひしがれた黒人がたむろし、車の窓ふきやヤク売りに精を出し、物乞いをしている。
 ここには、2種類の白人がいる。黒人を見たら殴りかかる白人。そして、家の周りに黒人を見かけたら警官を呼び、警官が黒人を殴りつける。
 ギャングの支配する28棟もの高層アパート群に著者は入っていく。そこには、4400室の部屋があり、3万人が住んでいる。住民の9割が生活保護に頼って生きている。
 無法者資本主義の下で暮らす人びとは、麻薬中毒と暴力沙汰に囲まれて生活している。住民の15%は筋金入りの麻薬中毒であり、25%はときどきやる程度。
 ほとんどのギャングは売春商売には手を出さない。もうからないから。売春婦は扱いが難しいし、ものすごく手がかかる。しかし、ギャングは売春婦を直接に支配はしないけれど、「税金」はしっかり徴収する。売上の10~25%を取り上げるのだ。
 ポン引きのついている売春婦は、客から殴られることも殺されることも少ない。ポン引きのついていない独立系の売春婦は、4倍ほど客に殴られる回数が多いし、この2年間に3人が殺されている。収入の方も、独立系より週に20ドルは多い。ただし、どちらもヘロインやクラックをやる人の割合は高い。
 ギャングは月に1回、週末にバスケットボール大会を催す。だから掃除も行き届くことになる。ギャングのリーダーは、いつも手下やほかのリーダーたちに蹴落とされてナワバリを奪われるのを心配している。
 著者の取材相手となったギャングのリーダー(黒人)は、大学を出ていた。食えないためにギャングになった。ギャングは市会議員も1人1万ドルかけて雇っている。
 ギャングの親玉連中は、みんな同じような格好をしている。新品のジャージ、白いスニーカー、手首や首には、黄金が山ほど光っている。
 たとえば、このギャングには若いメンバーが250人いる。
 対抗するギャングとの抗争が数週間も続くことはない。商売が上がったりになるからだ。
 ギャングでは、担当地域の配置換えや組織変更が頻繁に行われる。原因は、出入りとかの大きい事件ではなく、基本的な経済原理だ。どこかのギャングが弱体化した。お客に十分なクラックを提供できない、やる気のある働き手を雇えない。そんなとき、ギャングの幹部はヤクを売る権利をライバルのギャングに譲ったりする。
 この団地に住む女性たちは、1960年代は公民権運動で戦い、1970年代には選挙で黒人候補を後押しした。コミュニティのために真剣に戦った。ところが、1980年代から90年代になると、ギャングや麻薬、そして貧しさのために暮らしぶりが悪化して、家族をつなぎとめるのに必死になった。住宅当局も警察も腐敗してあてにならず、女性たちは弱体化した。
 警察はギャングたちの稼ぎをねたみ、ときどきギャングを襲い、売上を強奪していった。うへーっ、すごいことが書かれています。
 そんな諸悪の根源であった低所得層の多く住む高層アパート群が取り壊され、ギャングたちも力を失っていくのでした。彼らは一体、その後どこに行ったのでしょうか。大変面白い実地社会学の本でした。
(2009年1月刊。2200円+税)

ヒトラーの特攻隊

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 三浦 耕喜、 出版 作品社
 第二次大戦のとき、日本軍は無謀なカミカゼ特攻隊を組織し、あたら有為の青年を多く死に追いやってしまいました。知覧に行くと、純真な青年たちの顔写真がたくさんあり、胸を痛めます。特攻を命じた軍上層部は敗戦と同時に「鬼畜米英」にすり寄っていき、その後輩たちはいまもってアメリカのいいなりの政治に加担しているのですから、浮かばれません。
 このカミカゼ特攻隊をナチス・ドイツも一回だけ真似したことがあるというのが本書で紹介されている話です。ところが、あのナチス・ドイツでは有為のドイツ青年を無駄死にさせるのはもったいないということで、一回きりで終わったというのです。戦前の日本は本当に人命軽視の国でした。
 1945年4月。ドイツの上空に侵入してくる連合国軍爆撃機の編隊に対して、機関砲などの戦闘能力を取り外し、急降下して体当たりするだけの特攻隊「エルベ特別攻撃隊」が出撃した。ドイツ北部のエルベ川周辺に展開したため「エルベ特攻隊」と呼ばれる。戦闘機180機が出撃し、80人が戦死・行方不明となった。
 日本の、カミカゼ特攻隊の第1号は1944年10月25日、レイテ沖でアメリカ艦船に体当たり攻撃を敢行した敷島隊である。このとき、関行男大尉(23歳)は、「僕のような優秀なパイロットを殺すなんて、日本はおしまいだよ」と出撃の前に言った。いやあ、本当にそうですよね。未来は青年のものです。今の日本のように、平然と派遣切りをしながら、国を愛せなどとうそぶき、青年から仕事も未来も奪ったら、日本の将来はありませんよね。
 ドイツで体当たり特攻作戦が立案されたとき、ヒトラーは命令を下すのをためらった。あくまで自由意志だと強調し、自分の命令であるというのを避けた。
 「特別攻撃隊」という名前は、おおっぴらには使えず、「エルベ教育講習会」という名称で集められた。特攻隊の隊員は、熟練の飛行士ではなく、未熟な若者たちばかり。燃料は1時間分のみ積まれた。動員された180機のうち、故障や燃料不足のため、実際に飛び立ったのは150機ほど。そして、不時着したり、故障のため帰投する機が相次いだため、実際に敵に接触したのは100機程度。
 アメリカ軍の記録によると、墜落8機、大破5機、機体に損傷を被ったのは147機。本帰還者はドイツ側の記録によると77人。ゲッペルスは、日記に「期待したほどのことはなかった」と書いた。そして、エルベ特攻隊は解散してしまった。
 この特攻隊の指揮者だったハヨ・ヘルマンは戦後、弁護士の資格を得てネオ・ナチの弁護人となり、ネオ・ナチ運動に協力していった。95歳の今も健在だ。うへーっ、ひどいものですね。といっても、日本でも岸信介のように戦前の「革新」官僚が戦後日本の首相になったわけですから、ドイツのことを笑うわけにはいきません。
 人命軽視の戦前の日本の考え方は、今も根強いんじゃないかと思います。派遣切りも同じようなものですよね。
(2009年2月刊。1800円+税)

空白の日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ケーテ・レヒアイス、 出版 福音館日曜日文庫
 舞台はオーストリアの小さな村です。ナチスの影が平和な村に忍び寄ってきます。あのヒトラーもオーストリアの生まれでした。ですから、ヒトラーを賛美する村人もいます。もちろんヒトラーを軽蔑する人もいました。お城に住んでいるユダヤ人の伯爵夫妻は、ついに村を出ていかなければならなくなります。
 1938年3月、オーストリアにヒトラーが入ってきました。人々は、反対したくても反対できなくなっていました。ドイツへ併合されることを決めた国民投票でも、監視されるなか反対投票することはできなかったのです。人々はヒトラーの旗を家の前に立ててナチスを歓迎せざるをえません。学校の教室にもヒトラーの写真が掲げられるようになりました。
 ナチスが支配するようになると、浮浪者は借り集められ、「病死」させられました。それに異を唱えた司祭も逮捕されます。
 そして、村の若者たちが次々にナチスの軍隊にひっぱられていきます。やがて若者たちの戦死公報が村に届きます。そのうちドイツ本土も連合軍によって空襲されるようになりました。ドイツの敗戦も間近になったのですが、村人たちは今度は連合軍の攻撃に悩まされるのです。
 12歳の少女の目から見た第2次大戦前と戦中・戦後の日常生活が淡々と語られます。
 子どもたちを含めて、当時の多くの人々がナチスによる嘘で固めたいつわりの理想に強く惹きつけられていたいた日常生活の様子が細かく描写されています。
 「空白の日記」とは、あのころの高揚感に燃えた日々のことは、そのあとにきた失望と悔悟の思いから、その反動として記憶から消し去っていたことを意味しています。
 日本人にも、戦前・戦中のことを真正面から向き合いたくない人が多いように思えます。いかがでしょうか。
 
(1997年5月刊。1700円+税)

継体天皇、二つの陵墓 四つの王宮

カテゴリー:日本史(古代史)

著者 森田 克行・西川 寿勝・鹿野 塁、 出版 新泉社
 継体天皇(大王)の実態を知るために、多くの図と写真があって、大変楽しく学べる本です。
 継体天皇が注目される理由の一つは、現在の天皇家につながる最初の天皇ではないかと考えられていることによる。
 天皇家の系統は実は3系統ある。えっ、日本って、万世一系の天皇が支配してきたんじゃなかったの……。そう思った人は、皇国史観に毒されています。それは間違った認識です。
 よく調べると、皇位継承が円滑にいかなかった時期が2回ある。第1回目は仲哀天皇から広神天皇の間で、2回目が武烈天皇から継体天皇の間。
 日本で馬の国産化が定着するのは400年代後半のこと。このころ朝鮮半島では高句麗が南下し、百済や伽耶諸国を圧迫する。500年ころからは、日本にも騎馬兵が増加する。古墳に副葬されたヨロイが短甲から桂甲、つまり徒歩用から乗馬用に変化した。
 継体天皇にとって、仏教の拡散は耐えがたい憂鬱だったと推測できる。継体天皇が死んで7年目(538年)に、仏教が日本に公伝した。
 鐘の縁に鈴を鋳造した鈴鏡(れいきょう)と呼ばれる一群の鏡が500年代前半の古墳から全国的に出土した。これは中国起源ではなく、日本独自のものである。鏡の周辺部にあとから鈴を溶接したものではなく、鋳型に金と鈴を同時に彫り込み、一鋳づくりで仕上げたもの。
 400年代前半ころから、古墳の副葬品に馬具がみられる。これらの馬具は、乗馬の風習がこのころ伝わって来たこと、馬具が当時の人々にとって非常に重要なものであったことを示している。
この本には、数多くの図版が入っているため、本来の古墳がどのように作られていたのかを容易に理解することができます。
 そして、朝鮮半島からの渡来系の人々が日本の有力な支配層になったことは間違いないと思いますが、いったい言葉はどうしていたのでしょうか。文字は、どうなのでしょうか。いろいろ疑問も湧いてきます。まあ、だからこそ本を読む楽しみは尽きないわけですが……。
(2008年8月刊。2300円+税)

医者を殺すな

カテゴリー:社会

著者 塚田 真紀子、 出版 日本評論社
 この本を読むと、医師の仕事のすさまじさがよく伝わってきます。高校生のころ、医師になることを少しは真面目に考えた私ですが、医師にならず弁護士になって本当に良かったと思ったことでした。だって、何日間も徹夜続きなんて厭じゃないですか。そんなことしたら病気になるにきまってます。医者になってわずか2か月余り、20代の半ばで死ぬなんて、信じられないハードスケジュールです。
 毎日15時間以上も働き、法定労働時間を月に200時間はオーバーしていた。その対価として得たのは、月6万円の奨学金と「日夜直手当」のみ。うへーっ、ひどいものです。
 医師も聖職者というより、その前に労働者ですよね。自明のことだと私は思います。ある勤務医は、毎晩、午前0時までに帰るのが目標だったと語る。土日も出勤した。うひょひょ、これでは身体がもちませんね。
 一審判決は、1億3500万円の賠償を大学病院に命じました。そして、そのあとで、労働基準監督署は労災認定したのです。発症1か月前に100時間をこえ残業したときは、業務と発症の関連性は強いと認定する新しい基準が適用されたのでした。でも、これって順番が逆ですよね。労働者を守るのが労基署の使命でしょ。
 研修医はものすごいストレスにさらされる。これまで学生として責任なく自分のペースで生活してきた人が、いきなり医師として大きなストレスにさらされる。そして、研修医の労働時間はあまりに長く、睡眠・食事・家事など、人間としての生活を営むに必要な時間が足りない。自分の能力以上の役割を期待されるなど、医師としての責任が重い。さまざまな患者と家族を相手にしなければならないし、医療スタッフの中では研修医が一番弱い立場にある。だから、うつになる研修医が多い。
勤務医が過重労働をせざるをえない理由は4つある。第1に、医師の仕事量や労働密度が増えたこと。第2に、深夜の受診数が増えたこと。第3に、勤務医の年齢構成の変化。第4に、長時間働くのは当たり前という医師の意識。
 あまりにも大変なため、たとえば20代の外科医が激減しているそうです。それは本当に困ったことです。医師も大切にしないといけませんよね。なんだか、悪循環に陥っているなと感じました。
(2009年2月刊。1800円+税)

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