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絵で読む歌舞伎の歴史

カテゴリー:社会

著者:服部 幸雄、 発行:平凡社
 山田洋次監督のシネマ歌舞伎『人情噺・文七元結』を見ました。帰りに買ったパンフレットのなかで、山田監督が「あんまりハッピーなんで涙が出てしょうがないというニュアンスのものにしたい」と語っていますが、まさにその通りで、人情物の落語であり、私もうれし涙が止まりませんでした。映画が終わってスクリーンが真っ暗になり、また明かりがついて映画館を出るときには、すっかり気持ちが明るくなっていました。いい映画が見れて、なんと今日は幸せなんだろう。そんな気分で歳末を迎えて気ぜわしくなった町を歩いて帰宅することができました。
 主人公の中村勘三郎の顔が本当に生き生きしています。舞台と違って映画ですから、ド・アップの迫力があります。汗たらたらの役者の顔を大画面で見れるというのは本当にいいものです。昨年10月、東京は新橋演舞場で本当に上演されたものをカメラで撮影したもののようです。観客席、しかもド・アップで役者の顔が見れる超特等席に座っているかのような気分に浸ってあっという間に時間がたってしまいました。まだ見ていない方は、ぜひ映画館に足を運んでみてください。なぜか、いつもなら1800円で見れるのに、2000円となっていましたが……。
 この本は、江戸時代の歌舞伎をたくさんの浮世絵とともに紹介したものです。歌舞伎の語源となっている「かぶく」というのは、オーソドックスなものに反抗し、異端の思想・ふるまいをすること。
歌舞伎の歴史は、慶長5年(1600年)、宮中に参上した一座から始まる。お国のややこ踊りである。お国は男装していた。相手として登場した茶屋の女性は、むくつけき男性の狂言師が扮していた。
 その後、寛永のころ(17世紀前半)、遊女歌舞伎が流行した。このころ新しく渡来した三味線を主要楽器として使用したのが成功した原因の一つだった。
 そのあと、若衆歌舞伎が流行する。しかし、男色趣味と一体となって展開したことから、男同士のケンカ争論そして女性同士の嫉妬争いが日常的に起きて、風俗が乱れ、幕府は承応元年(1652年)、全面的に禁止した。ただし、翌年には復活・再開した。これを野郎歌舞伎という。
 初代の市川団十郎は「曽我物語」で荒事(あらごと)をはじめた。正義と勇気、そして超人的な怪力でもって悪鬼などを徹底的にやっつけてしまうのである。
 元禄時代、近松門左衛門は、歌舞伎の狂言役者として活躍した。「曽根崎心中」は実際に起きた事件を題材としたもので、興行的に大成功した。
 大坂(大阪とは書かない)の観客は、歌舞伎と人形浄瑠璃の両方を見ていた。相互に手ごわいライバル同士だが、もちつもたれつの影響関係をもっていた。そして、人形浄瑠璃は歌舞伎を圧倒してしまった。そこで、人形浄瑠璃であたった狂言をすぐに歌舞伎化して上演するようになった
 「花形」(はながた)という言葉は、本当は「花方」という。「実方」(みかた)に対して、芸に「花」のある役者をさす。初代の菊五郎は、「芝居が細かすぎるのだけが欠点だ」と言われるほど、演技の工夫をした実事仕(じつごとし)でもあった。
 江戸時代の中ごろ、役者の顔の特徴をつかんだオールカラーの似顔絵(錦絵)が流行し始めた。このころ、江戸の大衆は、大まかな荒事芸にあきたらず、内容のある芝居と屈折した人間の心情表現を求めるようになっていった。
 今、日本全国200ヶ所で地芝居が行われている。芝居は、その村を守る神社の行事として開催されることが多く、そして役者は、土地の素人である。
 多くの地芝居は、江戸の寛政から文化・文政時代に始まった。為政者による厳しい弾圧や膨大な出費を覚悟しても、毎年、奉納芝居をしたくてたまらない人が日本全国に無数にいる。都会でも農村でも、日本人は本当に歌舞伎が好きだ。明治末期から大正・昭和初期までが地芝居の最盛期だった。
 私も、父の伝記をつくる過程で、出身地である大川における農村生活の様子を聞いたとき、芝居興行が盛んだったことを聞かされました。父の本家前には、いまもクリークがありますが、そこに芝居小屋を造って父の子どものころまで芝居が演じられていたというのです。歌舞伎のことが視覚的にわかる楽しい本です。
 福島の知人から今年も「ラ・フランス」が届きました。A農園特産なのですが、ともかく美味しいのです。みずみずしく、柔らかくて甘い洋梨です。ほかのものは少し果肉が固かったり、ゴワゴワしているのがありますが、このA農園産は絶品です。いつも晩秋、冬到来の時期に贈られてきますので、「ラ・フランス」が来ると、冬到来になります。
(2008年10月刊。2600円+税)

オバマ、勝つ話術、勝てる駆け引き

カテゴリー:アメリカ

著者:西川 秀和・池本 克之、 発行:講談社
 オバマ大統領が誕生することになりました。その大統領就任式には300万人がワシントンに集まるだろうと言われているそうです。アメリカが軍事優先の国家から少しでも平和志向の国へ変化することを願うばかりです。
 この本は、はじめヒラリー・クリントンより劣勢だったオバマがなぜ逆転勝利へ駆け上がることができたのか、その秘密を明らかにしています。読むと、なるほど、と思います。インターネットを使って膨大な資金カンパを集め、惜しみなくテレビCMなどに注ぎこんだという物量作戦もバックにあって支えたのでしょうが、やはりオバマ自身の演説のうまさは決定的だったようです。
 リーダーとなる者は、人の心を動かす言葉を持っていなければならない。とくに政治家は、自らの理想を、自らの信念を、人々に明確に伝えなければならない。まさに、言葉は人なのである。記憶に残る一言と明確なコンセプトがもっとも求められる。
 漢字が読めず、空気も読めない麻生さんは、首相として失格と言うだけでなく、そもそも政治家になったのが間違いなんですよね。
 オバマの演説には、信じること、希望など、人々に勇気と自信を与える言葉が随所に散りばめられている。不信に凝り固まった人々の心をほぐすためには、大ゲサでしつこいほど、そうしたポジティブな言葉を繰り返す必要がある。
 オバマは、ネガティブ・キャンペーンに対して反撃はできるだけせず、希望と連帯を前面に打ち出すことで勝利した。ネガティブ・キャンペーンに対していちいち反撃すれば、相手のペースに巻き込まれるし、きりがない。相手を落としめ自分を上げようとすると、心ある有権者は言葉に耳を傾けてくれなくなる。ネガティブ・キャンペーンが行き過ぎれば、いずれ自滅する。
 オバマは、過去の政治からの脱却と未来の新しい政治の導入を約束して多くの人々の支持を集めた。過去対未来という2項対立は、連帯を呼びかけるのに好都合なのだ。
 オバマが有権者に黒人の代表だと判断されたら、幅広い得票ができない。オバマは白人と黒人の連帯を訴えかけ、圧倒的な黒人票に加え、一定数の白人票も集めることに成功した。
 オバマとヒラリーの両者には政策の面で根本的な争点があまりないため、イメージ戦略の勝負だった。「経験のヒラリー」対「変化のオバマ」というイメージがすっかり定着した。
 変化、きっと私たちは出来る、そして過去対未来という人々の脳裏に強烈に刻まれるイメージ戦略で、オバマは支持層の急拡大に成功した。
 重要なことは何度でも繰り返す。どんなことでも一度聞いたくらいでは、記憶には残らない。訴え掛けるテーマがいけると思えば、くどいと言われようが中身がないと批判されようが、とにかく繰り返す。そうすれば、多くの人々に浸透する。
 ヒラリーは理性に訴えかけ、オバマは情勢に訴えかけた。
 多くの人々が今のままではダメだという漠然とした不安を抱いていたが、何をどうすればよいのか分からないでいた。そんなときには、まずは希望を与えることが大事だ。不安で心がいっぱいのときに理性に訴えかけても効果がない。オバマは情勢に訴えかける言葉で人々の不安を行動に変えさせた。人々の持つ不安を汲み取り、それを打ち消す力強い言葉の力を発揮することこそ、オバマの真骨頂だった。自分の思いを語るだけではダメ。人々が待ち望む言葉、そして人々が待ち望む物語を語らなくてはならない。
 そうなんですよね。不況のとき、ヒットラーのようなデモゴギーではなく、素直に現実を直視しつつも明日への希望を持たせる呼びかけのできる政治家が日本にもいてほしいですね。
 オバマのカリスマの秘密は、人々の心を代弁することに、そして人々に夢と希望を与える救世主というイメージをつくることに成功したことにある。
 オバマが人々の心をぐっと掴む演説のうまさに、日本人とりわけ弁護士は大いに見習うところがあると思いました。
 先週の日曜日、庭の一隅を半畳分ほど掘り上げ、水仙などの球根類を植えかえてやりました。掘り上げたところには近ポストに入れていた枯草などを埋め込みます。球根を植えているうちに陽が落ちてしまいました。夕方5時です。急に冷え込み、背中に冷気さえ感じるようになり、しばらく辛抱して夕方5時半まで頑張りました。庭仕事を終えて空を見上げると、天高く半月が煌々と輝いていました。
 今日は私の誕生日です。ついに還暦を迎えてしまいました。20代のころ、自分が60代になるなんて考えたこともありませんでした。先日、依頼者の方から、「まだ40代に見えますよ」と言われましたが、私の頭のなかはまだ20代のままなのです。といっても、身体の方は確実に老いを実感させてくれます。そこがつらいところです。
(2008年10月刊。1400円+税)

荷抜け

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:岡崎 ひでたか、 発行:新日本出版社
 信濃(しなの)、安曇(あずみ)地方に実際に起きた牛方集団の「荷抜け」事件を題材として書かれた小説です。青少年読書感想文全国コンクールの高校生向けの課題図書となっていますが、なるほど、とうなずける内容です。
 文政7年、信州・松本藩では、戸田氏が藩主になって100年の祝いを華やかに行った。松本城の城門前には、祝いの品を山と積み、家臣には紋付袴、裃、真綿などを下賜し、町は芝居や踊りに興じた。下されものの酒樽を町中に置き、誰にも自由に飲ませた。
 地主層は、より財を蓄えるため、飢饉で困窮した農民から高利貸しで稼ぎ、米・麦を買い占め、売り惜しみして値を釣り上げた。食うに困った農民の怒りが爆発したのは当然のこと。それが赤蓑騒動だった。3万の群衆が松本城へ押しかけた。藩の鉄砲隊によって解散させられたものの、それ以降、藩は農民たちの力を恐れるようになり、農民の要求は無視できず、力関係が逆転しはじめた。
 犠牲者は農民4人が永牢を命じられただけで、見せしめの磔(はりつけ)はできなかった。これが世直し一揆のはしりだった。3万人が起ち上がったこの百姓一揆にも、首謀者名を残さない工夫などがしてあった。
 「荷抜け」とは、荷主に頼まれた送り荷を横領すること。もちろん、発覚したら厳罰に処せられる。それが、牛方26人衆が集団で荷抜けしたという。その総額は76両にもなる。
 牛方26人衆は、問屋とかけあい、借用したことにして、年賦返済を承知させた。半分にもならないうちに、荷主問屋側はあきらめ、事件の幕を引いた。
 牛方の10歳になる子どもを主人公として話は展開します。次はどうなるのか、ハラハラドキドキの展開です。やがて、牛方は一揆勢の情報伝達などの役割を担って活躍していきます。百姓一揆は、きわめて組織的に、百姓の知恵と力を総結集して長い準備期間をかけて取り組まれていったことが分かる本でもあります。
 島根の弁護士から待望のノドグロが到来しました。干物なのですが、軽く焼くと、ねっとり柔らかい白身で、淡白な味というより、もちっとした味わいがあります。信じられないほどのおいしさです。一度食べると、病みつきになってしまう魚ですよ。まだ食べていない人は、ぜひ食べてみてください。
(2008年6月刊。800円+税)

筑紫の磐井

カテゴリー:日本史(古代史)

著者:太郎良 盛幸、 発行:新泉社
 6世紀の初め、北部九州、八女の地に巨大な岩戸山古墳を築いた偉大な王がいました。大和王権に対抗して戦った筑紫の大王(おおきみ)・磐井(いわい)の偉大な生涯を描いたスケールの大きな小説です。
 私は八女によく行きますが、岩戸山古墳は遠くから見るくらいです。この本を読むと、「大和朝廷に反逆した」という通説がいかに間違っているか、再認識させられます。九州には、奈良にいた大王(おおきみ)と対抗していた立派な大王がいたのです。
 著者は岩戸山歴史資料館の館長をつとめる、元は高校教師だった人です。それにしても、よく描けた小説だと感心しました。古代朝鮮半島の状況、そして、大和朝廷における諸勢力の抗争との関連で、筑紫の大王・磐井の活躍ぶりが生き生きと語られていて、一気に読みとおしました。今度こそ、岩戸山古墳にのぼって実見してくるつもりです。著者も、この小説が縁となって、多くの人に八女を訪れていただければ幸いです、と語っています。
 この時期、筑紫・肥・豊国などの北部九州の豪族は、個々には独立した国であったが、筑紫君を盟主として穏やかな連合王国を形成していた。そして、各豪族は、周辺諸国との友好関係と先進文化を求めて、後継者と目される男子を大和王権や朝鮮半島の新羅・百済などに留学させていた。
 筑紫連合王国は、大和王権とは一線を画し、つかず離れずの状態にあった。連合王国にとっては、大和・新羅・百済が対立を強めず、伽耶(かや)諸国が安定していることがもっとも望ましいことだった。
この当時、多数の人に聞こえる大きな声を出すことは、王や将軍にとって欠かせないことだった。磐井は、上に立つ者は、はっきりと大きな声で話すことが大切だ、日頃から心がけておくように、と常日頃から言われていた。
 南九州一円には、大和王権の支配に属さない隼人(はやと)という勢力がいた。その中でも、急速に勢力を拡大しつつあったのが、薩摩隼人だった。今でも、ものすごく毛深い男性を時折見かけます。きっと隼人の血筋を引いているのでしょうね。
 501年9月5日、磐井は筑紫君(つくしのきみ)を襲名した。
 今後さらに筑紫連合国を発展させて、大和王権や朝鮮半島諸国と対等に親交できる国としたい。そのためには、まず、政(まつりごと)の仕組みの充実と、鉄製武器・農具の生産を増加させることだ。磐井は、政を政部(まつりごとぶ)、大蔵部(おおくらぶ)、司法部、戦部(いくさぶ)の4部門に分けた。そして、司法部の充実にとくに力を入れた。
 磐井は、筑紫連合王国全体から大王(おおきみ)と呼ばれることになった。
 奈良では、継体大王の即位に大和豪族が根強く反対したため、継体大王はなかなか大和に入ることができなかった。そうなんです。継体大王とは何者なのか。今も議論が続いています。日本の天皇は万世一系ではないのです。
 岩戸山の古墳が完成したのは518年。墳墓の特徴は別区にあった。別区には、裁判の様子を表すため、中央に解部(ときべ)に見立てた一丈(つえ。3メートル)もある大石人が立てられ、前には盗人に見立てた正座をした石人が置かれ、傍には盗んだものと分かる猪が4頭置かれた。
東側には、2丈四方の石で造った3つの宮殿、北側には1丈半四方の2つの石蔵が置かれた。石殿は、門、階段、しきりのある部屋、屋根など、実物そっくりに造られていた。西側には3体の武装石人、3正の飾り馬が並べられた。また、墳墓の周りには、武装した石人、石盾が120体も並べられた。
墳墓の入口にあたる北と南には、赤・青・白などの顔料で飾った力士に見立てた石人も墳墓の番をするように2体ずつ立てられた。
 526年9月、継体大王は、ようやく大和入りした。そして、磐井を討たなければ大和王権は危うい、として3万の討伐隊を九州に差し向けた。
 このあと、磐井の指揮する連合王国軍が大和王権の討伐軍と果敢に戦う様子が活写されます。この本がどこまで史実を反映しているのか知りませんが、古代日本が奈良の大和朝廷によって一元支配されていたわけではないこと、朝鮮半島と古代日本とは人的にも政治的にも密接な関連があったこと、そして継体大王と戦って敗れた磐井大王が、単なる大和朝廷への反抗児でなかったことは確実だと思ったことでした。
(2008年1月刊。2000円+税)

人が壊れてゆく職場

カテゴリー:司法

著者:笹山 尚人、 発行:光文社新書
若者に安定した雇用を保障しないでおいて、「今時の若者には我慢が足らない」なんて言う資格はありません。とりわけ、日本経団連の御手洗会長なんて、まったくもって許し難い存在です。自己保身と自分の取り巻き、そして大株主の利益を守っていたらいいなんていう発想の人物に、日本の将来を語る資格なんてあろうはずがありません。トヨタや日産、そしてイスズなどの自動車産業もそうですよね。
 たしかに、アメリカの金融危機に発した深刻な不況のなかで自動車産業がピンチになっているのは理解できます。それでも、若者の首切りをする前にやるべき企業努力というのがあるのではありませんか。なにより、これまでの貯め込み資産を吐き出し、雇用存続を前提としての知恵と工夫を働かすべきではないでしょうか。
 この本は、若手の労働弁護士の手になる奮闘記ですが、大変、今の若者に役立つ、実践的な内容となっています。
 「管理監督者」とは、経営者に近い立場の実体を有する労働者を指すのであって、「科長」とか「マネージャー」という名前で決まるものではない。「管理職」に祭り上げることによって残業代を払わなくてもよいという会社の取り扱いは、実のところ、残業代を払わないための偽装にすぎない。就業規則で定める基準に達しない労働条件を定める労働契約は、その部分については無効とする。この場合において、無効となった部分は、就業規則で定める基準による。
 要するに、就業規則の水準に満たない合意は無効なのである。
 裁判は生き物であるから、当初は想定しなかった事情が出現して成り行きが変わっていくことも当然ある。だから、労働者から「不当に解雇されました」と訴えられても、「そうですね。不当ですね」とはうっかり口にすることはできない。慎重に回答せざるを得ない。
 この点は、本当にそうなんです。思わぬ反論が出てくることがあるのが裁判です。
 労働審判は、弁護士にとっても大変使い勝手が良い。
 7割の事件は、申立から3ヶ月以内に話し合い(調停)で事件全体が解決している。
 この本には、労働審判でうまく決着のついた事件が紹介されていて、参考になります。
 録音テープが有効なのか、とくに隠し撮りテープは証拠として使えるか、ということにも触れられています。私も、この本にあるとおり、たとえ相手方の同意のない録音であっても、内容がよれば基本的に証拠としてつかうべきだし、裁判所も採用する(させるべきもの)と考えています。
 著者は、若者たちの非正規雇用をめぐる事件で、弁護士費用がいくらかかるのか、それをどうしたのかについても触れています。たとえば、着手金は実費程度とし、報酬は上げた成果の1割とする、という具合です。
 本当に助けを必要としている労働者を、弁護士の側で拒否することがあってはならない。まったく同感です。
非正規雇用に関わる弁護士の仕事は、実に気持ちがいい。本当に助けを必要としている人の役に立てたという実感があるからだ。そこに非正規雇用の権利問題に取り組む醍醐味がある。
 いやあ、実にそのとおりです。著者には引き続き、大いにがんばってほしいと思います。といっても、先日の相談のとき、まずは自分でやれることをやってから来て下さい、と言ってお引き取り願ったことはありました。なんでも弁護士に任せてしまえば安心だという姿勢でも困るのです。弁護士と一緒になって取り組み、なんとかいい方向で解決を図りたい。そんな若者であれば、私も協力を惜しみません。
 先週、日比谷公園を歩きました。大きな銀杏の木が黄色く輝いていて、つい見とれてしまいました。ところが、あいにくの強風で、黄金の葉が舞い上がります。桐一葉、落ちて天下の秋を知る。ではありませんが、銀杏の木の葉が風で舞うのを見て、秋の終わりを実感しました。銀杏の木のなかに一本だけ緑の濃い葉をつけたものがあり、銀杏でも種類が違うのかなと友人と話したことでした。絵を描いている友人は銀杏の黄色をカンバスに描き出すのはとても難しいという話をしてくれました。それでも、静かに絵を描く時間を持つと、とても心が休まるだろうと思いました。
 翌朝、福岡に帰ると雪が降っていました。いよいよ冬突入です。
(2008年9月刊。760円+税)

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