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アメリカ、自由の物語(上)

カテゴリー:アメリカ

著者 エリック・フォーナー、 出版 岩波書店
 昔、ギリシャの哲学者セネカが、次のように喝破したそうです。
 「奴隷でない人間にお目にかかりたいものだ。ある者は性の奴隷であり、またある者はお金の奴隷であり、またある者は野心の奴隷なのだ」
 うむむ、こ、このように決めつけられると、私なんか、ぐうの音も出ません。それでも……。
 18世紀、自由の理念が広まった、イギリス・フランス・オランダという国々は、すべて大西洋奴隷貿易に深く関与していた。イギリス人が非常に大切にした海洋の自由とは、自国の商人が望む、いかなる港にも奴隷を運ぶ権利を含んでいた。
 そこで、「黒人奴隷の監督者から、自由を求める最も声高い要求を聴くとは、いったいどういうことだろうか」という皮肉な指摘もなされていた。いかにして、アメリカ人は、アフリカ人の自由な権利や幸福を追求する権利を奪うことを正当化できるのだろうか、と。
 黒人奴隷制は、必ずしも白人であるアメリカ人の自由の理解とは矛盾しなかった。多くのアメリカ人にとって、奴隷を所有することは、真の自由に不可欠と広くみなされた経済的自立を保障するものだった。1857年、トーニー最高裁長官によれば、黒人は市民ではありえなかった。アメリカ国民は白人に限定された政治的家族集団を構成していると考えられていた。
 アメリカ北部の社会のもっとも顕著な特徴として、自由労働が称賛を受けても、その中にはアフリカ系アメリカ人は含まれなかった。
 1860年、400万人のアフリカ系アメリカ人がアメリカにおいて奴隷として働いていた。
 自由黒人は、西部の開拓を利用して、アメリカの自由にとって不可欠である自らの経済的地位を向上させることもできなかった。連邦法によって黒人は公有地の獲得を禁じられ、インディアナ、イリノイ、アイオワ、オレゴンの4州は、自由黒人が州内に入るのを全面的に禁止した。
 リンカーンは、人種的平等主義者ではなく、当時の社会で広く見られた人権剥奪の多くの事例を容認した。人生のほとんど最後までリンカーンは黒人の選挙権に反対し、折にふれて国外への黒人の植民について語った。
 しかし、南北戦争になって、その後半に連邦軍に20万人の黒人が入隊したことが、黒人市民権の問題は戦後に検討されるべき事項となった。
 奴隷制の廃止は、自由の誕生を自動的には意味しなかった。
 20世紀に入って、何百万人という白人女性が新しく有権者に加えられたが、民主主義を改善するという名目で、何百万人もの人々、つまり黒人・移民・労働者が有権者名簿から削除された。
 今日のアメリカがよく用いる、ダブル・スタンダード(二重基準)というものが、実は昔からのものであることもよく分かる興味深い本でした。
(2008年7月刊。3800円+税)

ロシアのマスメディアと権力

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 飯島 一孝、 出版 東洋書店
 わずか64頁のうすっぺらなブックレットですが、ロシアにおけるマスメディアの置かれている状況が実に簡潔にまとめられていて、よく分かります。ソ連時代より統制は緩和されたのでしょうが、それにしても権力によるマスメディアの統制はかなりのものです。でも、よくよく考えてみれば、日本だって似たようなものでしょう。五十歩百歩という気がします。
 今のプーチン首相は、1999年12月31日、エリツィン大統領の突然の辞任表明を受け、大統領代行に任命された。そして、2000年3月の大統領選で当選し、第二代ロシア大統領に就任した。このとき、マスメディアが大々的に動いて逆転勝利した裏話も紹介されています。要するに、今の日本と同じで、お金の力にものを言わせて票をもぎとったのです。
 プーチンが最初に手掛けた仕事は二大メディア財閥の強制排除で、自らの出身母体である旧KGBの元同僚などをつかって、メディア財閥大物二人の国外追放に成功した。
 プーチン政権が誕生したころ、強大な力をもつ新興財閥がメディアを利用してプーチン政権の政策を妨害するのは必至の情勢だった。そこで、新興財閥からメディアを切り離し、プーチン政権がメディアをコントロールする必要があった。
 新興財閥のなかでもグシンスキー氏とベレゾフスキー氏がもっとも強力だった。2人ともユダヤ系で、それぞれ総帥をつとめるグループは、メディアだけでなく、経済界全体をリードしていた。プーチンがメディア財閥排除を決意するに至ったのは、エリツィン時代末期の激しい政権争いを目の当たりにしたことによる。
 グシンスキー氏は逮捕されたあと、スペインへ出国、亡命した。
 グシンスキー氏は、検察庁に出頭を命じられて拒否し、イギリスに出国、亡命した。
こうやってロシアのテレビは反国ネット3局とも政府系になった。しかし、プーチン政権による強権的なテレビ支配に対して、世論の大きな反対は起きなかった。政府や経営陣の説明をそのまま受け止める人が多く、「言論の自由の問題」と深刻に考えているロシア国民は少なかった。しょせん、新興財閥とメディアの争い、とクールに眺めていた。な、なーるほど、ですね。日本の国民も、実際、あまり表現の自由に関心を示していませんよね。
 プーチン政権がマスメディアを支配できた背景には、「シロビキ」と呼ばれる旧KGBなどの治安・情報機関出身者が、政権の主流派を占めていたこともあげられる。プーチンが彼らを積極的に登用したため、政府機関の幹部の8割を占めるに至ったとも指摘されている。彼らは捜査機関や実力部隊にさまざまなネットワークをもっていて、監視もしやすいことから、メディア支配の実効はよかった。
 ソ連が崩壊した1992年から2008年までにロシアのジャーナリスト49人が殺害された。この死者の数は、イラクの135人、アルジェリアの60人に続いて3番目に多い。ロシアの犠牲者は、プーチン政権在任中の8年間だけで17人にのぼる。
 世界の報道の自由ランキングでは、ロシアは173ヶ国のうち141番目である。ちなみに、日本は29位、アメリカは36位。中国は167位、北朝鮮は172位だ。
 ロシアの世論調査によると、マスメディアに対する信頼度は、ロシア大統領、宗教団体、ロシア軍に続いて4番目と、意外なほど低い。
 マスメディアがロシア国民からあまり信用されていない理由は、民主主義が導入されると政治がよくなり、生活も豊かになるという神話が崩れ、それにともなって民主主義の旗手とされるマスメディアへの幻想も薄れたことによる。そして、メディアの大半が新興財閥や国営企業の参加に入り、国民のための報道というより、財閥や企業優位の報道というイメージが強くなったことにもとづく。
 検閲がなくなり、共産党による統制がなくなった反面、経営重視で売れる商品づくりに熱中したため、記事の質が低下した。新聞もテレビも商業主義に走り、その結果、ロシア国民の信頼を失った。
 ロシアでは、テレビの信頼度が他のメディアに比べて大きい。その信頼度で見ると、テレビが49%、新聞が21%という調査データもある。
 新聞は、人口1000人あたり91.8部で、10人に1人しか購読していない。ちなみに、日本では2人に1人。百万部以上も発行している日刊紙は、大衆紙1紙しかない。高級紙では、「コムソモリスカヤ・プラウダ」22万5000部の一紙しかない。つまり、ロシアを代表するといえる高級紙はなく、政府に影響力のある有力紙もないのである。それだけに、ロシアではテレビの影響力はますます大きくなっている。
 ロシアの政治には、もともと強権的な体質があり、国民の中にも、強い指導者を求める雰囲気が大勢を占めている。
 いやはや、ロシアに本当の民主化が定着するまでは、まだ相当の苦難が続きそうです。
(2009年2月刊。600円+税)

ナポレオン帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ジェフリー・エリス、 出版 岩波書店
 ナポレオンは9歳で陸軍幼年学校に入学し、パリの陸軍士官大学校を16歳で修了して砲兵少尉に任官した。砲兵中尉となったあと、大佐としてフランス正規軍に復帰し、トゥーロン攻囲戦で活躍して、24歳にして准将に昇進した。そして、准将のとき、1795年10月の王党派蜂起事件を鎮圧して名をあげた。
 この事件は、一般市民を鎮圧するためフランス大革命以降初めてパリ市中に公然と正規軍が投入されたという点で重要であり、先例となった。
 1796年3月、未亡人ジョゼフィーヌ32歳と結婚したとき、ナポレオンは26歳だった。彼女には前夫との間に子どもが2人いた。
 第一統領となったナポレオンは、秘密警察を配置して警察事態をひそかに監視しようと考えた。この業務をおもに担当したのがパリ警視庁である。警視総監は、名目上フーシェの指揮下に置かれていたが、実際にはナポレオンに対してのみ責任を負った。つまり、パリ警視庁は警察省から事実上独立して動いていた。
 ナポレオンは革命期の党派抗争を非建設的なものだったと考え、抗争を超越する立場に自身を置き、抗争が政治に及ぼしかねない衝撃を解消しようとした。
 1800年12月、ナポレオンを爆弾で暗殺しようとした企ては失敗に終わったが、わずか数秒差のことだった。犯人は王党派であったが、ナポレオンは事実を捻じ曲げてジャコバン派やバブーフ主義者130人を国外追放する口実に利用した。
 1810年までにパリで刊行を許された新聞は4紙のみとなり、いずれも政府の代弁機関であって、ナポレオンの戦勝を念入りに賞揚した。そのプロパガンダの狙いは、市民兵の士気を高揚せることにあった。
 ナポレオンは、信心深いわけでなく、カトリックの教義に好感を抱いてはいなかったが、その有用性をはっきり認識していた。社会の基盤をなし、イデオロギーによる鎮痛剤として有用なものとみ、教会に対して和解を持ちかけた。
 ナポレオンは民法典をつくる4人の委員会に頻繁に出席し、議長をつとめ、陣頭に立って草案内容に指示を与えた。これによって妻は法律上、夫に従属する存在となった。つまり、民法典の成立によってもっとも不遇をかこったのは、間違いなく女性であった。
 ナポレオンに仕える軍の将官の大部分は、さまざまなブルジョワ階層出身者であった。
 ナポレオンの大陸軍の将校集団は、旧貴族と有能なブルジョワジーを混ぜ合わせ、帝政名士という新改装を生み出そうという構想だった。
 普通の兵士のほとんどは、貧困層出身、とくに小作農階層出身の青年男子であった。
 金銭にゆとりのある者は、代理人を立てて徴兵を遁れることができた。
 脱走兵は年平均で9600人にも及ぶと推計されている。徴兵は各地で抵抗運動を引き起こし、不正行為も誘発したが、山賊との戦いについてはナポレオンの憲兵隊に有産階級から期待が集まっていた。
 ナポレオンは、白紙から出発した変革者というより、既に知られ実践されてもいた軍事手法を整理し、一つにまとめあげた人物であった。そして、ナポレオンは天賦の即興の才を発揮した。しかし、ナポレオンは自分の大権を他人と共有することをひどく嫌った。ナポレオンが戦場で手にした成功は、その場しのぎの結果だった。
 以下、省略しますが、大変興味深い記述が続いており、ナポレオンそのものとナポレオン帝国の実相がよく分かる本でした。
 チューリップ500本が見事に咲きそろいました。一番に咲いていたものは花びらが落ち始めています。
 今年はじめて、玄関わきの植え込みにチューリップを植えてみました。ピンク・白・黄色の大きな花です。朝、出るときにそのカラフルな花を眺めると、さあ、行ってくるよ、と足取りが軽くなります。
 チューリップのほか、フリージアが咲き始めました。赤や黄色の小さい花をたくさんつけ、とても甘い香りをふりまいています。
 ボタンのつぼみが大きくなってきました。5月を待たずに4月のうちに咲いてくれるかもしれません。楽しみです。隣家の玄関脇にライトブルーのアイリスの花も見えます。我が家の庭は、春真っ盛りです。
(2008年12月刊。2600円+税)

アメリカで死刑を見た

カテゴリー:アメリカ

著者 布施 勇如、 出版 現代人文社
 アメリカで死刑囚が処刑される場面に立ち会った日本人の新聞記者がいたなんて、驚きです。アメリカでは、死刑囚の家族だけでなく、被害者の遺族の立ち会いも認められています。窓を通して、死刑囚が死んでいく様子の一部始終を見守るのです。
 著者は、テネシー州のナッシュビルに行き、死刑囚の収容されている最高度警備刑務所を見学します。私もナッシュビルには行ったことがあります。エルヴィス・プレスリーの家も見学しました。
 この刑務所には、90人の男性死刑囚がいる。執行の72時間前になると、正常の監房から執行室に近い房に移される。ここでは執行開始は午前1時と決まっていて、最後の食事は20ドル(2000円)以内なら、何でも好きな物を選ぶことができる。
 電気椅子による処刑だと死ぬまで45分かかるが、薬物注射だと2分半。担当する職員は3人か4人で、誰が注入した薬物で死んだのか、誰にも分からない仕組みになっている。日本の絞首刑のときも同じような仕組みになっているそうです。
 アメリカでは1968年から1977年まで死刑執行はゼロとなっていたが、1977年に再開されてから、2007年末までに1099人が処刑された。
 そして、死刑判決が確定しながら、あとで無実とされて釈放された「死刑囚」が1973年以降で129人にのぼる(2008年5月現在)。むむむ、こ、これは、多すぎ、多すぎます。
 受刑者への暴力は、アメリカの刑務所では珍しいことではない。刑務所では、殺人事件も起きている。
 死刑囚の3分の2以上は黒人。160人の死刑囚のうち、35人の黒人死刑囚は、陪審員全員が白人から成る法廷で有罪・死刑の判決を受けた。アメリカでの殺人の50%は黒人が被害者である。アメリカで執行される死刑のうち80%以上は、被害者が白人である。死刑囚のうち33人は、あとで資格を剥奪されたか停職処分を受けた弁護士が弁護人となっていた。
 死刑の制度があることによって犯罪が減ったことを実証した調査・研究はほとんどなく、死刑による犯罪抑止効果は期待できない。殺人の防止について言うと、死刑を廃止した州の方がうまくいっている。死刑を執行している州と、死刑を廃止した州との殺人発生率の格差は、この10年間に広がっている。死刑執行数が上位の州は、執行しない州に比べて殺人発生率が2倍も多い。死刑は犯罪抑止とは関係ない。それは、政治的なものにすぎない。
 テキサス州では、死刑執行まで刑務所で過ごす期間は平均して10年あまり。死刑1件あたりの費用は230万ドル(2億3000万円)で、最高度警備の独房で40年間も服役した場合よりコストは3倍になる。
 アメリカでも死刑制度を存置するのは、50州のうち37州である。
 今の日本では、なんでも死刑にしろと声高に叫びたてる風潮がますます強くなり、気の弱い私なんか恐ろしい気がします。
 先週の金曜日に日比谷公園に行くと、快晴の下で桜が満開でした。我が家のほうは、先週の日曜日に見事に満開となりました。そのあと寒い日が続いたせいで、満開状態が1週間ほど続きましたが、土曜日に雨が降り、日曜日にはかなり花が散っていました。
 北海道の弁護士に訊くと、桜は連休明けだよと言われてしまいました。
(2008年7月刊。1500円+税)

レッドムーン・ショック

カテゴリー:アメリカ

著者 マシュー・ブレジンスキー、 出版 NHK出版
 1957年10月4日、ソ連が世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げたと聞いたとき、アメリカ軍のメダリス少将は言った。
 「ロシア人にそんなことができるわけがない。衛星をつくって打ち上げるのが、どれほど難しいか、十分わかってるはずだ」
 メダリスはソ連の技術力を見くびっていた。共産主義は良質な日用品をつくるのには向かないが、科学における画期的な偉業を成し遂げるには理想的な環境だということを多くのアメリカ人は分かっていなかった。
 スプートニクの重さが83キロもあると聞いて、アメリカ軍の関係者は信じられない、間違いじゃないのかと思った。このとき、アメリカ軍で打ち上げが可能なのは、せいぜい1.6キロ程度でしかなかった。
 ホワイトハウスの公式見解は、スプートニクは騒ぎ立てるほどのものではない。しいて言えば、ナチスの技術の功績であり、ソ連の専門知識によるものではない、というものだった。
 しかし、アメリカ政府が共産主義国家の飛躍的進歩をどれほど軽んじようとしても、メディアの判断は違った。スプートニクは、大ニュース、それもショッキングで恐ろしい超ビッグニュースだった。
 アメリカ人は恐怖におののいた。スプートニクを宇宙へと打ち上げたミサイルは、アメリカは絶対に安全だという人々意識を粉々に砕いた。スプートニクに対するアメリカ国民の反応は、無関心から恐れに変わった。国中の人が屋根の上にのぼって夜通し空を見上げ、忌まわしい球体を一目見ようと待ち構えた。夜中の3時に隣近所が勢ぞろいし、心配そうに夜空を見上げていることが珍しくなかった。
 アメリカの記者はアイゼンハワー大統領に質問した。
 「ソ連は人工衛星を打ち上げました。彼らは大陸間弾道ミサイルの打ち上げにも成功したと言っています。どちらも我が国は所有していません。どうなさるおつもりですか?」
 これに対するアイゼンハワーの言葉はあまりによそよそしく、国中を覆っている不安とはかけ離れていた。
 ソ連のフルシチョフも、はじめ、スプートニクが政治の世界にこれほど大きな影響を及ぼすとは思っていなかった。
 10月5日の晩になって、ようやくアメリカに対して大勝利をおさめたことを理解しはじめた。一夜にして、世界にとってソ連が真の超大国となった。金属のボール一個で、ソ連は何十年と言葉を連ねても得られなかった名声を得た。
 スプートニクは、アメリカの同盟国に有形無形の衝撃を与えた。大陸間ロケット(ICBM)は、最終兵器と呼ぶには重大な欠陥があった。それをごまかすためのはったりがつかわれた。
 ソ連のミサイル(ICBM)は先制攻撃に弱く、発射台上にあるとき、アメリカの爆撃機に攻撃されたら、ひとたまりもない。しかし、示威効果は抜群だった。
 1957年11月4日、スプートニクは犬を乗せて宇宙へ飛んだ。生きた犬を乗せていたのだ。実のところ、テリアの雑種犬ライカは、打ち上げ直後に焼き殺されるようにして死んでいた。しかし、ソ連の公式発表では、犬は生きて地球を回っているということになっていた。
アメリカが人工衛星エクスプローラーを打ち上げたのは、1958年1月31日夜のことだった。そして、ソ連は、1961年4月12日、宇宙飛行士ガガーリンが軌道を周回した。ガガーリンの宇宙飛行の成功は、発展途上国に大きな反響を与えた。
 ところが、宇宙で大きな勝利をおさめたソ連は、軍事面で高い代償を支払うことになった。つまり、ICBMは失敗作だったのだ。というのも、アメリカが実用的なICBMを160機ももっているのに、ソ連はわずか4機しかもっていなかった。スプートニクの成功のかげでICBMの開発が遅れていたのだった。
 当時、小学生だった私もスプートニクとかライカ犬とか、ガガーリン少佐の宇宙旅行というのを聞いて胸躍らせた覚えがあります。ソ連って、すごい国なんだと思ったわけです。
 ところが、この本を読むと、アメリカもてんやわんやだったようですが、ソ連のほうは、もっとひどかったようです。それでも、いわゆる一点突破、一点豪華主義でスプートニクの打ち上げ、そしてガガーリン少佐の宇宙飛行には成功したということになります。
 宇宙競争の内実を知り、これって想像以上に政治と生々しく密接な関わりをもっている問題なんだ、と改めて認識させられました。430頁もの大部な本ですが、面白く読み通すことができます。
(2009年1月刊。2500円+税)

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