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わたしがナチスに首をはねられるまで

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ミリアム・ルロワ 、 出版 新潮クレストブック
 ベルギーをナチスが占領していた時代、ロシア系移民の若い女性、ただし2人の子をもつ母親がナチスの将校に背後からナイフを突き立てて殺そうとしたことで処刑された。しかも、絞首刑でも銃殺でもなく、斧(おの)で斬首された。
 今、そんな女性がいたことはベルギーではすっかり忘れ去られている。女性の名前はマリーナ・シャフロフ・マルタ―エフ。ロシア系移民だけど、ベルギーに移り住んでいるので、フランス語を話す。
 ナチス占領下のブリュッセルで、ひそかにモスクワ放送を聞き、スターリンの呼びかけに呼応したいと思って、反戦ビラを通りに貼ったり、ちょっとしたレジスタンスを試みたりしていた。
 そして、ナチスの将校が刺され、犯人は逃走したまま捕まらない。そこでナチスは、期限までに犯人が検挙されないときは、ベルギー市民60人を処刑すると発表した。
 マリーナは、この期限の前日、路上のナチスの将校を背後から襲って直ちに逮捕された。別の説では、マリーナは、ナチスの警察本部に自首した。前の説によると、マリーナはナチス将校を2回刺したことになる。後説では、1回目のナチス将校を刺したのはマリーナの夫のユーリとその仲間。いずれにしても、マリーナは犯人として捕らえられた。
ヒットラーは処刑せよと指示したが、ベルギーのナチスの大将はマリーナに2回も面会して、助命・嘆願まで勧めた。しかし、マリーナは決断と断った。
 最初の事件発生は、1941年12月7日の日曜日の夜7時30分のこと。16日正午までに犯人が発見されないときには、「重大な報復措置が講じられることになる」と布告された。
 拘束されている60人のなかには街の名士たち、司祭・医師・市の元助役も含まれていた。マリーナの母親がベルギー王妃に手紙を書いて恩赦を願い、王妃は同情してナチスに恩赦を求めた。そこで、ナチスの将軍はマリーナに会って、恩赦を与えるつもりなので、嘆願書を書くように促した。すると、マリーナは断った。
 「自分は、もう生涯の仕事を終えてしまった。悲しんだり、怒ったりするには及ばない。死ぬのを恐れてはいない。死刑になって当然のことをしたのだから…」
 占領下のベルギーのドイツ軍司令官、フォン・ファルケンハウゼン将軍も、できたらマリーナの処刑は避けたいと考えていた。ヒトラーの指示に逆らってもいい。それより、マリーナの処刑を知ったときのベルギー市民の心情を恐れていた。
 マリーナはいよいよ処刑されることになり、別の刑務所に移された。そこから夫へ手紙を書いている。当然、子どものことをとても心配している。
 「神様が子どもたちをお守りくださいますように。子どものただひとつの楽しみ、読書をさせてやってください。子どもたちには優しくしてあげてください。もう母親がいないのだということを忘れないように」
 下の子は、まだ3歳だった。処刑前に、教誨(きょうかい)師がやってきて、まもなく処刑されることを告げた。それを聞いて、マリーナはこう言った。
 「それほどうれしいことはない」
 教誨師は驚いた。ふつうなら自分は無実だと泣き叫ぶのに…。マリーナは落ち着いて死んでいこうとしており、しかも幸せそうだった。
 マリーナは、鈴をつけた天使たちが自分を待っている。天国での生活がどんなに素敵なものか、しゃべり続けた。そして、マリーナは、最後の料理、大きな茶色いケーキ、果物とミルクチョコレートとリキュールが混じりあったものを、最後まで美味しそうに平らげた。それから夫と息子たちへの最後のひと言を書き残し、鼻唄をうたい、お祈りをして、神父の両手にキスしたりした。
 「今から8時後に私は死にますが、怖くはないし、少しも後悔はしていません。私の心は穏やかで、お行儀よく死んでいくつもりです。刑務所では泣いたこともありませんでした。ほとんどいつも心のなかに安らぎがあり、キリスト様がいたからです。私は天国で待っています。天国に行けるとすれば、ですが…」
 処刑台でマリーナは、頭を処刑人に向けて、笑みを浮かべた。ジタバタすることはなかった。1942年1月31日朝5時5分すぎ。マリーナは斬首された。市民の反応を恐れて、この処刑は公表されなかった。
 ベルギーに住むロシア系移民女性がナチス将校を殺害しようとした事件で斬首された事実を丹念に掘り起こした本です。その勇気ある行為、信念にもとづいて最後までぶれなかったことに、心の震える思いがしました。
(2025年5月刊。2530円)

日本被団協と出会う

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 大塚 茂 、 出版 旬報社
 2024年12月10日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)はノーベル平和賞を受賞し、代表社員の田中照巳(てるみ)氏がスピーチをしました。とても92歳という高齢者とは思えない、しっかりした足取りで演壇に立ち、明瞭な訴えそのものでした。
田中氏は長崎で、13歳のときに被爆しましたが、奇跡的に無傷でした。爆心地から3キロしか離れていない自宅にいたのです。このとき、田中氏は、被爆直後の長崎市内を歩いて、惨状を目の当たりにしました。
 「そのときに目にした人々の死にざまは、人間の死とはとても言えないありさまでした。…たとえ戦争といえども、こんな殺し方、こんな傷つけ方をしてはいけない。そのとき強く感じたのです」
 広島市民35万人のうちの14万人、長崎市民24万人のうちの7万人が年末までに亡くなりました。今、日本全国にいる被爆者は10万人を下まわり、平均年齢は86歳をこえる。なので、全国にあった被爆者組織が今では35団体にまで減っている。
 原爆を落としたアメリカ軍の将軍は、被爆の真相を覆い隠した。「死ぬべき者は死んでしまい、9月上旬現在、原爆放射能のために苦しんでいるものはいない」と言い放った。許し難い暴言であり、嘘八百です。
日本人が原爆被爆の悲惨な真相を知ったのは、1952年8月に「アサヒグラフ」が原爆被爆の特集号を出したから。この特集号は、なんと70万部も発行された。被害の惨状を知った日本人は大変ショックを受けたのでした。それから原水爆禁止運動が始まりました。
 しかし、被爆者が自らの被爆体験を語るのは、容易なことではなかった。たとえば、家の下敷きになって動けなくなった母親に火の手が迫っているのを「見捨て」て逃げ出した子どもは、とてもそんな体験を語れるはずがない…。被爆体験はとてもデリケートな問題であって、何年、何十年たっても気持ちの整理のつかない人は少なくなかった。
 そして、体験者が高齢化して人数が減るなか、継承者をつくっていこうという取り組みが進められています。この本のサブタイトルは、「私たちは継承者になれるか」なのです。被爆を自らは体験していなくても、原爆被爆の悲惨な状況を語り伝えることは出来る。私も、そう思います。
 「原爆は、人間として死ぬことも、人間らしく生きることも許さない悪魔の兵器である」
 先日の参院選のとき、参政党の候補者(当選したので、今は国会議員)が、「日本も核兵器を持つべきだ。安上がりの兵器なんだから」と主張しました。原爆被爆の恐ろしさを知らない、いかにも軽薄な主張です。参政党という得体のしれない極右政党が国会のなかで大きな顔をしていくのかと思うと、身の震える、凍える思いがします。
 日本政府は、今なお核兵器禁止条約に加盟していません。アメリカの核の傘に入っていたほうがいいと考えているのです。でも、アメリカが日本を守ってくれるなんて、単なる幻想でしかありません。トランプ大統領の嘘の多いハッタリばかりの発言が何より証明してくれています。それより、9条をもつ平和憲法を世界中に広めましょう。
 著者から贈呈していただきました。とてもいい本をありがとうございます。
(2025年8月刊。1870円)

淀川長治

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 北村 洋 、 出版 名古屋大学出版会
 「では、また来週お会いしましょうね。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」
 「日曜洋画劇場」(東芝)の最後に登場する、白髪のおじさんとして、淀川長治はすっかり全国の茶の間でおなじみでした。このテレビ番組は、なんと32年間も続いたそうです。信じられない、とんでもない長寿番組です。
 淀川長治は1909年4月の生まれで、89歳で亡くなりました。映画会社の宣伝員、雑誌編集者、著述家、批評家、ラジオのパーソナリティと、マルチ人間でした。
 小学生のときから、一人で映画館に行っていたというのですから、恐れ入ります。
 本人は、13際のとき映画を本気で愛し、16歳のときは映画で生きようと決意したと言うのです。本当に、そんなことがあるんですね。
淀川長治は、来日したチャップリンにも面会している。1936年の2度目の来日のときのこと。
 淀川長治は1933年、アメリカの映画会社(ユナイト社大阪支社)に入社し、3年後には宣伝部長になっている。そして、東京に転勤して、日本支部の宣伝部長となった。そして、アメリカの西部劇「駅馬車」の宣伝を担当。前宣伝には小津安二郎(日本一有名な映画監督)をも巻き込んで、大評判をとった。戦前最後のヒット作品だった。
 日本敗戦後、淀川長治は再びアメリカ映画を扱った。ところが、一般には好評だった「カサブランカ」を「ちっともいいとは思えない凡作」だとみた。「社会性」の見えない映画に淀川は不満だった。
 淀川は映画批評家として、誰にも分かる読みやすさを重視した。平易なコトバを多用し、文に流れをつける努力をした。そして、一般の映画ファンの立場から映画を批評した。淀川の映画評はリズムのある文章だった。
 日曜日の夜9時、「日曜洋画劇場」が始まると、白髪のちらつく丸顔の男性が登場する。リハーサルは1度だけ。その後、すぐ本番。毎回の収録はピタリ4分30秒。NGが出たことはない。いやあ、これはスゴイことです。まさしく神業(かみわざ)ですね。
 家族とともテレビで映画をみて楽しむ。そのため、前説(1分)、後説(1分半)、予告(1分)を淀川は担当した。
 「ハイ、みなさん今晩は」(前説の冒頭)、「それでは、あとでまたお会いしましょう」(前説の末尾)、「ハイ、いかがでしたか」(後説の冒頭)。そして、最後は「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」。
 親しみやすい語り手。しかし、猛烈な早口で、内容を盛り込んだ。もう、映画が好きで好きでタマラナイっていうのが分かるのがいいというファンが大勢いた。
 淀川長治は日本映画を観ていないわけではない。たとえば、『二十四の瞳』は絶賛している。そして、山田洋次の「男はつらいよ」シリーズにも好感を持っている。さらには、「砂の器」も惚れ込んだ。
 偉大な映画狂(フランス語ではシネフィルと呼びます)の一生を駆け足でのぞいてみた気分になりました。
(2024年12月刊。4950円)

不便なコンビニ②

カテゴリー:韓国

(霧山昴)
著者 キム・ホヨン 、 出版 小学館
 私の事務所のすぐ前にコンビニがあります。事務所の場所を電話で教えるときにも、「分からないときはコンビニの広い駐車場に車をいったん停めてから電話して下さい」と説明することがあります(事務所専用の駐車場もありますが、コンビニのほうが目立っているし、分かりやすいのです)。
 私も昔はコンビニなんか利用しないと高言していたのですが、今は愛用しています。だって、他に選択肢はないのです。小売商店はすっかり消え去ってしまいました。商店街のほとんどはシャッター通りになっています。
 この本の舞台は大手コンビニのチェーン店ではなく、中小系列のようです。日本では大手コンビニのチェーン店ばかりになってしまいましたが、韓国では、まだ中小系列のコンビニが生き残っているようです。そして、日本の都会のコンビニの定員の多くは東南アジア系です。「日本人ファースト」を唱えて「躍進」した参政党は外国人排斥の差別主義を広めていますが、現実を無視していますし、怖いです。900万人以上の日本人が参政党に投票したという現実に身の震える思いです。
 この本のコンビニには外国人労働者は登場しません。しかし、韓国内で、差別され、落ちこぼれた人たちの救いの場にコンビニという職場がなっていますし、客層も、家庭と職場に安住できる居所のない人たちが寄り集まってきます。ここらの社会の現実と登場人物の心理描写が見事で、いかにもありそうな展開です。
 韓国式の表現に驚かされます。お尻の穴が裂ける。貧しいとき、代用植物として木の皮を食べていると便秘に苦しまされることから来たもの。カラスの肉でも食べたの?忘れっぽい人を皮肉る慣用句。韓国式の語感が似ているコトバによるもの。
コンビニという場所は、店長のような人だけでなく、何か訳ありな人が出入りするところ。
 彼らは皆、不愉快な顔で、むっつりと何かに耐えているようだったが、クンベ(店員)が一言かけると、風船が割れたように口から言葉が飛び出してきた。
 本書は『不便なコンビニ』の続編です。前書は120万部も売れる超ベストセラーになりましたが、続編も初版だけで10万部で、たちまち重版となり、正続あわせて170万部といいます。いずれ劣らぬ個性的なキャラクターが章ごとに登場するのですが、彼らがうまい調子に結びついていく趣向は前作と同じで、ともかく読ませます。
 人生につまづいた人たちへの温かい眼差(まなざ)しと激励は、著者自身の苦労を反映したものだという訳者の解説があります。だからこそ人々に広く読まれるのだと思います。
(2025年3月刊。1980円)

文芸編集者、作家と闘う

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 山田 裕樹 、 出版 光文社
 私も小学生のときから今まで、それなりに本を読んできたと思っていますが、この本を読むと、さすがに上には上がいるものだと痛感させられます。世界的に有名な古典文学では読んだ本はごくわずかですし、SFや推理小説も、それほど読んではいません。
 編集者は、最初は量を読むことが不可欠。読む量が多ければ、ダメ本と良書の違いが分かってくる。そして、ダメ本の中に、どこがダメの理由であり、そこを変えれば面白くなるという本も混じっていることを発見する。
預かった原稿は、すぐに読む習慣を身につけること。そうしないと、たちまち机の周辺が原稿の山になる。
 「筆が止まってしまったときには、自分の潜在能力が代わりに書いてくれる」(北方謙三)。
書いているうちに、登場人物が勝手に書き出してしまって制御が難しくなり、自分の初めに予定していたテーマとプロットが大幅に変わりそうになった。その瞬間、「これはいけるかも」と思ってしまう。これはモノカキのはしくれとして、私も実感します。
本が出来るまでの編集者と、本が出来てからの批評家とは、立場が違う。立場が違うと、正義も違う。
 作家は、自分といるときは、楽しく遊んでくれる編集者を欲するが、会社(出版社)に戻ったら自分の作品に正当な評価を会社にさせる編集者を欲するものだ。
 文章が実にうまい。というのは、読んでいてリズミカルで快(こころよ)い。肝心なことは、優れた文章が練られたプロットを効果的に読者に提示する手段になっていること。優れた文章を書くだけが目的の作品には感動しない。私もリズミカルで快い文章を書いてみたいと思いました。
 作家と喧嘩ばかりしている編集者は使いものにならない。しかし、ここというときに作家と喧嘩ひとつできない編集者もダメ。原稿を書くだけなら、作家には紙とペンがあればいい。それを本にするには、編集者が必要だ。そして、それをベストセラーにするには、販売部のプロが必要になる。
 そうなんですよね、きっと…。私も一度くらい、「〇万部、売れた」と言いたいのですが…。今や誰でも知っている作家たちが、世に出るまでの、生みの苦しみを編集者は作家と共働作業してつくり出していくものだということがよく分かる本でもあります。
 北方謙三、椎名誠、逢坂剛、夢枕獏、東野圭吾、高野秀行あたりは私もよく読みましたが、私の読んだことのない本の作家が何人も登場します。そして、編集者というのは、作家と夜を徹して、飲み、食べ、語り明かすのですね、そのタフさ加減には、とてもついていけません。
 それにしても、本のタイトルにあるとおり、文芸編集者は、文字どおり作家とガップリ四つに組んでたたかうことがよく分かりました。すごい本です。
(2024年12月刊。2750円)

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