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先生、どうやってヤセたんですか?

カテゴリー:人間

著者 山田 春木、 出版 WAC文庫
 20キロやせた医師の体験にもとづくダイエット法が書かれています。
 身長180センチ、体重103キロの巨体が、10ヶ月間で83キロになったというのですから、すごいものです。そして、リバウンドなし、なのです。見事です。
 私はダイエットを始めてから毎日、体重計に乗っています。63キロに減らすのを理想としていますが、なかなか減りません。それで、65キロより少ないと、ヤッターと叫んでいるのです。ところが、著者は毎日でなくていい、毎週1回だけでいいというのです。トホホ…。
 著者は排便が大切だと強調しています。そのためには、朝しっかり食べるべきだと強調します。パンやうどんは、消化吸収が良く、大腸に到達するまでになくなってしまうので便秘には不向きな食品だ。食物繊維がたっぷり含まれた食事を心がけるべきである。
 私の朝食は、7年前からニンジンとリンゴ、そして青汁と牛乳をミキサーにかけたものです。このおかげで便秘はなくなり、境界型糖尿病といわれることもなくなりました。
 適量のアルコールは、むしろ胃に優しい。人間の意志は気まぐれなプリマドンナと同じ。すぐに厭きた、休みたいなどと文句を言い、緊張を保てない。
 ダイエットが辛いと思うようでは長続きしない。
 ダメだ、ダメだと抑えつけるのは逆効果、じっくり味わいつつ、低カロリーのものを食べるようにしたらいい。
 一番いいのは、モズクやところてん、コンブのような海藻。夕食にも海藻と豆腐を食べるように心がける。
 バナナはカロリーが低く、食物繊維を多く含んでいる。キノコもいい。
 メロンパンは450カロリーもある。リンゴは1個で150カロリー。やせたい人は、とびきり甘くて美味しい香り高いコーヒーやミルクティーを飲む。わずかなカロリーで、甘いものを食べたいという欲求の歯止めになってくれる。
 コンソメスープはたったの8カロリー。腹もちがよく、塩分のかわりにアミノ酸で味が付いている。ウーン、そうなのか。私も、これからは飛行機の中ではコンソメスープにします。
 みんなから否定され、やる気をなくした時は、鏡で自分を見つめる。自分自身に関心を向けないと、自分を律するのがおろそかになる。
 もったいない、などと思わず、さっさと捨てる。保険の掛け捨てと同じ。なーるほど、ですね、これって……。
 ダイエットを成功させたいなら、モッタイナイは禁句だ。ダイエットとは、贅沢な行為だと認識しなければいけない、
 なるほど、なるほど、そうなんですね。お金とヒマがないとダイエットも成功しないのですよね。
 サンモリッツの空は抜けるような青空です。日差しはそれほど強くは感じません。暑くはありませんので、湖の周囲の遊歩道を歩いても汗をかくわけではありません。
 ところが、やはり夏の日差しでした。帽子もかぶらず歩きまわっていると、すっかり顔が日焼けして赤くなりました。そして、唇のあたりがこわばってしまったのです。用心しなかったせいです。やはり油断大敵でした。ティラノで1000円の安い帽子を買いました。
 サンモリッツの夜9時は、まだ昼間の明るさです。夜10時にようやく暗くなります。
 レストランは、外のテラスで食事している人もいるのですが、涼しいからでしょうね、はじめから室内で食事をしている人も大勢います。昨年行った南フランスでは、外のテーブルが埋まるまでは、室内で食事をとる人はほとんどいませんでした。気温の違いだと思います。
 ディアヴォレッツァ展望台で軽い昼食をとったときには、シャンパンで喉を潤しました。
 夕方、サンモリッツに戻ってからは、ホテルの斜め前にあるイタリア料理店に入りました。ピザとボンゴレを注文したのですが、ピザはとても一人では食べきれないボリュームでした。
 スイスでも赤ワインがとれるというので注文しました。渋みとコクのある重めのワインでしたので、私にぴったりでした。若い頃はボジョレーのような軽い味が良かったのですが、だんだんカオールのような重い味の方が良くなってきました。
 
(2009年5月刊。857円+税)

大和物語の世界

カテゴリー:日本史(平安)

著者 尾崎 佐永子、 出版 書肆フローラ
 『大和物語』は、天暦5年(951年)、村上天皇の時代に成立した。在原業平の『伊勢物語』よりも、文章が古体である。ところが、この『大和物語』に登場してくる宮廷人たちは、恋をし、失恋し、自由奔放に生きていたことが描かれている。
 昔から、日本では男も女も、性的にかなり自由であったことを裏付ける格好の本でもあります。先日、『源氏物語』の現代語訳を紹介しましたが、同じことがそこでも言えました。
 『かぐや姫の物語』が流行して以来、月をまともに見ると、はるかな月の都に女は連れていかれてしまうという噂が、まことしやかに女たちの間に広がっていた。そこには、「垣間見をする男たちに顔をさらすな」という裏の意味もこめられていた。男に顔を見せない女の身だしなみを、月の夜にはつい忘れやすい。それをよいことに男たちは、月を仰ぐ女のほのかに白い顔を遠見ながら、垣の陰から覗き見て、心をときめかすのである。
 内親王の多くは、未婚のまま生涯を終える運命にあった。しかし、皇女といっても生身の女である。年頃が来て、恋をするのは当然なのだが、まわりがそれを許さない。
 この本には、舞台となったお寺などの素晴らしいカラー写真とともに、国宝である文章そのもの(原文)も紹介されています。流麗な筆致で、往時をしのぶよすがとなります。
 当時は、宮廷内での貴公子と女たちとの恋は日常のこと。丁々発止と恋のやり取りを存分に楽しむ雰囲気があった。女から誘いの消息を出すことも、異例ではあっても、あった。
 女性は、ただひらすら忍従して耐えていたというのではなかった。
 身を憂しと思ふ心のこりねばや人をあはれと思ひそむらむ
 すぐ男を好きになって、心をひかれてしまうわが身を情けないと思いますのに、まだこりないのでしょうか。またもや、ほかの男を好きになってしまったようなのです。
 花すすき君がかにぞなひくめる思はぬ山の風は吹けども
 花すすきのように、なびきやすい私。でも、どうもあなたの方に心がなびくようです。思いがけない山の嵐が吹いて、ちょっと花すすきは乱れましたけど……。
 男を引き入れるのではなくて、女のほうから男に逢いに行くこともあったようです。
 たましひはをかしきこともなかりけりよろづの物はからにぞありける
 魂だけではちっとも面白くありませんわ。あなた自身でなければ。すべてのものは形あっての価値でしょうに。どうやら、心より体と言っているようである。なかなかどうして、しっかりした女性のようである。
 自由に男と交際している女たちがいて、それを堂々と歌に詠んで残していたことが分かる本でした。たまに、こんな本を読むのもいいものですよ。
 
(2009年5月刊。2500円+税)

リンゴが教えてくれたこと

カテゴリー:生物

著者 木村 秋則、 出版 日経プレミアシリーズ
 先日、青森に行ってきました。リンゴが木になっているのを見ると、なんだか不思議な気がしてきます。どうしてこんなに重たいものが、たくさん木にぶら下がっているのだろうと疑問を抱いてしまいます。
 私の毎朝は、リンゴとニンジンそして青汁のジュースから始まります。もう何年も続けています。おかげで、健診を受けるたびに境界型糖尿病と指摘されていたのが、パッタリ止みました。ですから、リンゴを一年中、欠かさず食べているのです。
 この本を読んで、完全無農薬で育てた木村さんちのリンゴをぜひ味わってみたいと思いました。
 完全無農薬で育てながら、なんと虫もつかないというのです。信じられない話です。私は、庭でキャベツを完全無農薬で育てようとしたことがあります。でも、見事に完敗しました。世の中、そんな甘いものじゃありませんでした。毎日毎朝、青虫との戦いでしたが、まるで完全に敗北してしまったのです。
 写真を見ると、私より断然年長のように思われるのですが、なんと、私の一歳年下だったのでした。大変な苦労をしたうえ、農薬のせいで歯を悪くしてしまったので、年齢以上に老けて見えるようです。
 リンゴはバラ科の植物。葉がでんぷんを作る。
 青森県はリンゴの病害中に関する条例を定め、肥料や農薬等で徹底した防除管理をしていた。通告された畑の持ち主が、県の指導を無視すると、強制伐採、そして30万円の罰金が科せられた。農薬を使わない木村さんは、「かまど消し」つまり破産者扱いとなり、村八部同然となりました。
 害虫がたくさん害を及ぼすようになると、初めて益虫が出てくる。しかし、食べつくされることはなく、害虫も益虫もいっこうにずっと消えない環境にある。不思議な仕組みだ。
 木村さんは、リンゴの木に話しかけていったのです。声をかけなかったリンゴの木82本は枯れてしまったといいます。まさか……。本当のことでしょうか?
 無農薬栽培の基本は、園地を放任することではない。剪定、園地の手入れ、土づくりなど環境の整備をすることが大切だ。
 自然栽培で失敗しないためには、穴を掘って、10センチ刻みに温度計で測ること。自然の山では、地表の温度と地下50センチの温度には、ほとんど差がない。
 普通の畑は、20~30センチのところに硬盤層があるから、その冷えたところを破壊しなければならない。
 大規模農家でリンゴ園をやった人は、みんな失敗している。リンゴは、手作業の割合が大きく、人件費など経費がものすごくかかる。昔から、リンゴは労多く益なくといわれてきた。
 木村さんのリンゴのつるは柔軟性があり、しなやかで、落下しにくい。ちょっとくらいの風では、びくともしない。
 無農薬のリンゴづくりに長い間挑戦し、ドン底の生活を余儀なくされながらも、畑とリンゴの木をよくよく観察して、その泥沼から苦労してはい上がった木村さんの話には、感動的なものがありました。大したものです。
 サンモリッツの3日間は、快晴に恵まれました。それもそのはずです。サンモリッツの晴天日は、年間平均で322日もあるというのです。実は、ついた初日は夕方近く少し曇ってしまい、すぐ近くにあるピッツ・ネイルという3000メートルの高さの展望台は、ガスに包まれていました。
 ヤギの一種というアイベックスのブロンズ像の前で、たまたま一緒になった日本人夫婦に記念写真をとってもらいました。
 そして、サンモリッツは涼しいのです。というのも、標高1800メートルの高さにある街なのです。そこで、ガイドブックは次のように書いています。
 サンモリッツに着いてまずやるべきことは、深呼吸。サンモリッツの空気は、古くからシャンパン気候として有名だ。泡のなかで光の粒がはじけるような爽快感がある。
 いやあ、これが誇大広告とは思えない爽やかさが、たしかにサンモリッツ湖の周辺を歩いていると味わえるのでした。両手を大きく広げて、何度も深呼吸してしまいました。
 サンモリッツ湖を見下ろす高台にホテルがあります。カールトンホテルは明かりが見えません。閉鎖されている気配です。私はクルムというホテルに3泊しました。湖に面した部屋を注文すべきでした(もちろん割高になります)。反対側の部屋でもケーブルカーが見え、牛たちが急斜面で草を食んでいる光景が見え、また、ピサの社党のように全体が傾いた教会の塔を眺めることができ、負け惜しみのようですが、それなりの風景が眼前に広がっていました。
 私のブログにスイス・イタリアの風景写真を紹介しています。ぜひ、そちらものぞいてみてください。
(2009年6月刊。850円+税)

社宅街

カテゴリー:社会

著者 社宅研究会、 出版 学芸出版社
 私自身は社宅に住んだという記憶はありません。でも、生まれたのは少し高台にある鳥塚社宅というところでした。そこが、三井の下級職員社宅だったのです。三井の社宅は階級による格差があって、それは見かけで分かります。炭鉱長屋は一目瞭然。下級職員社宅と幹部職員社宅では、塀から違います。
 徴兵されて中国大陸に渡り、終戦後しばらく中国で八路軍とともに行動していた叔父に、故郷の無事を知らせる手紙に社宅で撮った幼い私を含めた一家全員の写真が同封されていました。なつかしい写真です。
 小学校にあがる前後からは、炭鉱社宅に出入りしていました。父が脱サラして小売酒屋を始めたので、私も酒やビールを配達し、また集金していたのです。
 社宅に入ると、まさに子どもがうじゃうじゃといました。広場ではメンコ(パチ)が流行っていました。子どもたちは、ここ、あそこで異年齢を含めて群れをなして行動していましたから、かえっていじめは少なかったように思います。
 この本は、そんななつかしい社宅の実情を、日本全国駆け巡って明らかにしています。
 新居浜の山田社宅が登場します。ここには、兄一家が生活していましたので、私も、弁護士になりたての頃ですが、出かけたことがあります。今も、かなり残っているということです。福岡県内にたくさんあった炭鉱社宅も残しておけばよかったと思います。
 社宅は、日本の文化の一つだったと、たしかに思います。悲惨なことばかりではなく、相互助け合いの場でもありました。
社宅街とは、企業が所有する福利施設により構成された地域とする。たしかに、劇場もあったりしたのです。共同便所はともかく、大きな共同風呂がありました。今の生協のような売店がありました。炭鉱では売勘場(ばいかんば)と言います。そこでは、給料引きになる金券(きんけん)が通用していました。
 社宅には監視員がいて、閉鎖社会でもありましたが、労働運動の拠点、その単位にもなったのです。人々の交流は密でした。
 職員社宅と炭鉱長屋とは、画然とした区別がありました。差別と言ってよいでしょう。だから、鉱員も教育には熱心でした。教育にお金をかけて大学に行かせたら、よい社宅に住めるわけです。
 近代化日本を底辺で支えたのは、この社宅群だったのではないでしょうか。
 いい本です。画期的な労作だと思いました。
 コモはイタリア北部にある小さな都市です。コモ湖に面していますが、市内の中心部には、狭い路地が縦横に走っており、そこにブティックがあり、観光客がアイスクリームをなめなめ、そぞろ歩きしています。ですから、コモの街を楽しむためには、バスの走る大通りから、一歩、路地へはいりこむ必要があります。
 大勢の老若男女、そして子ども連れが路地をぞろぞろ歩いていますので、ちっとも危ないこともありません。もっとも、私のすぐ前を、若い警察官2人が歩いていきました。彼らは、やがてブティックのなかへ入っていきました。
 翌日は、早朝に出発する予定でしたから、6時に夕食をスタートさせようと思って適当なレストランを物色するのですが、時間が早すぎます。ようやくテーブルクロスをかけたりして、セッティングをはじめる状況です。仕方ありません。路地をふたまわりして、なんとか先客のいるレストランに入り込みました。広場に面した、というより、広場の一角にテーブルをならべたレストランです。大きな陽覆いがあります。そうなんです。夕方6時なんて、まだ日本では午後4時ごろの感覚です。広場を眺めながら、注文を取りに来てくれるのを待ちますが、おじさん一人でやっているため、なかなか注文取りに来てくれません。テーブルは次第に埋まってきました。メニュー表の前に立ち止まった人を見かけると、おじさんがにこやかに声をかけるのです。客の呼び込みが先決なのでした。
 ようやく注文しても、料理が運ばれるまで時間がたっぷりかかりました。私の方も急ぐ用事はありませんので、赤ワインを飲みながら広場を行きかう人々を眺めます。中高生のような思春期の青年の姿はなぜか見かけません。家族連れの子どもは小学生くらいまでです。思春期の若者たちが集う場所は、おそらく別なのでしょう。ですから、広場は静かな大人の雰囲気です。
 隣にすわった老夫婦は、注文を取りに来るのがあまりに遅いと思ったのか、途中で席を立って別のレストランへ移っていきました。
 犬を連れた人も多く、小さな犬を胸に抱きかかえた若い女性が、連れの女性と一緒にテーブルに座りました。犬がうるさく鳴いたり吠えたりすることもありません。
 ようやく料理が運ばれてきました。
(2009年5月刊。3000円+税)

記憶に出会う

カテゴリー:中国

著者 大野 のり子、 出版 未来社
 中国黄土高原、紅棗(なつめ)が実る村から。こんなサブタイトルのついた写真集です。中国の辺地を紹介する写真集かなと思って手に取ると、そこはなんと、あの日本軍が三光作戦を展開した地域だったのでした。そこに、私と同じ団塊世代の女性が、単身、現地にでかけて生活しながら、地元の人々の生活と顔写真を撮り続けていたのです。いやはや、すごい勇気です。
 この村にも民兵がいた。民兵は10代後半から20歳くらいの青年で組織され、八路軍を支援した。民兵は武器をもたなかったので、日本軍が来ると隠れるしかなかった。民兵の主な任務は、村人の逃げ道を確保し、八路軍を支援すること。
 女性も婦女隊を結成した。主な仕事は、糸を紡ぎ布を織ること。八路軍が身に着けていたものは、すべて婦女隊が織った粗布だった。
 日本軍と戦って犠牲になった一人の農民兵士の生命の値段は、180元、わずか2700円でしかなかった。
 中国は公式には一人っ子政策をとっているが、農村ではだいたい2人か3人、多いと子どもが5人もいる。罰金を払ってでも子供をつくる。
 中国では子どもが2歳か3歳になって、言葉をしゃべるようになってから名前をつける(起名)のが普通。それまではドンドンとかバンバンとか適当な名前で呼ぶ。
 子どもが12歳になる前に死んだときには、棺にも入れず、服も着せず、裸のまま川に流すか、山や河原に放置して自然のままに任せる。これは、お金のあるなしとは関係ない。
 うむむ、果たして、本当にそうなんでしょうか……?
 日本軍がやってきていたとき、この村では7年間、まるまる7年間、隠れて住み続けた。
 日本人は2、3日に1回、この村にやってきた。その目的は、焼き、殺し、奪い、破壊することだった。
 日本軍は中国軍(八路軍)の倍以上いた。村を包囲し、機関銃で攻撃してきた。ある村人は、日本人と刀による白兵戦となって腕を斬り落とされた。足もやられた。日本軍は強く、八路軍の300人いた部隊は7,8人をのぞいて全滅してしまった。
 1945年夏、日本軍が投降したあと、閻鍚山はひそかに1000人の日本兵を残留させ、八路軍との戦いに参加させた。この中国軍に参加させられた日本兵が「自発的に」中国軍に参加したという不当な扱いを日本政府から受けていることは前に紹介しました。このときの八路軍兵士だった人からの貴重な聞き取りもあります。
 中国のお葬式は、にぎやかにすすめられる。お墓には墓碑というものはなく、土盛りは風雨にさらされて、やがて大地と一体化する。
 私も、敦煌の近くの砂漠地帯で、そのような墓地を見ました。人は土から生まれ、また土に還っていく存在なのですね。
 この村は、中国山西省中部にあります。北京から高速バスで7時間、そして乗り換えたあともバスに乗って、合計14時間ほどの行程のところです。
 焼き尽くし、奪いつくし、殺しつくす。残虐な三光作戦を繰り返した地に、日本人女性が一人で現れたわけですから、地元の拒絶反応はすごいものがありました。それも当然ですよね。自分の身内が殺されているのですからね。それでも次第に村の生活に溶け込んでいくのがすごいです。村の人々の生活と、おだやかな顔写真がよく撮れていました。
(2009年5月刊。1500円+税)

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