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漱石の長襦袢

カテゴリー:日本史(明治)

著者 半藤 末利子、 出版 文芸春秋
 夏目漱石は熊本にいるときに結婚した。妻の鏡子は20歳。漱石は鏡子に対して、こう言った。
「俺はこれから毎日たくさんの本を読まねばならないから、お前のことなどかまっていられない」
 それに対する返事は……、「よござんす。私の父も相当に本を読む方でしたから、少々のことではびくともしやしません」。
 ええーっ、こんな会話が新婚家庭で本当にかわされたのでしょうか……?信じられません。
 鏡子はおおざっぱで、がむしゃらで、尊大であった。それは育った家庭環境によるところが大きい。鏡子の父・中根重一は、東大医学部を卒業して医師になり、その後官吏となってついには貴族院書記官長にまでなった。ただし、56歳で亡くなっている。
 鏡子が漱石とお見合い、結婚した頃の明治27、8年ごろは、父・重一の絶頂期だった。鏡子は鹿鳴館の華やかなりしころ、舞踏界にも出席している。
 鏡子は小学校を卒業すると、女学校に通わず、全科目に家庭教師がついて自宅で勉強した。だから、友人関係から学ぶところがなかった。鏡子も下の妹たちも、人に頭を下げたり、気兼ねしたりする必要のない境遇で育った。
 だから、男性に隷属していない。これが漱石の小説にも反映され、男性と対等に接する女性が登場している。うへーっ、そういうことだったんですか……。なるほど、ですね。
 漱石はイギリス留学の前後はひどいうつ状態であり、妻・鏡子や幼い娘2人にまで手を出していた。DV夫であり、父親だった。幼い子供を庭に放り出したほどひどかったというのですから、信じられません。
 漱石は、あの明治時代にアイスクリームの製造機を自宅に買い込んで作るほどの美食家だった。対する鏡子は、外食するか店から取り寄せる主義だった。
 漱石は、享年50歳で病死した。鏡子は、漱石の死後、ぜいたく好きの妹たちや娘からもあきれ果てられるほどの並はずれた浪費をしまくった。
 漱石の弟子たちと折り合いが悪くなってから、鏡子の悪妻ぶりが定着してしまった。
 ところで、この本のタイトルです。
 漱石が女ものの長襦袢を着た事実はないのに、あたかもあるかのように事実に反する新聞記事が書かれた(朝日。2007年10月17日)からです。
 著者は漱石の長女・筆子の娘であり、有名な歴史モノカキの半藤一利氏の奥さまです。明治の文豪・夏目漱石の知らなかった人間性の一面にふれることができました。
 
(2009年10月刊。1429円+税)

エレサレムから来た悪魔(上・下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 アリアナ・フランクリン、 出版 創元推理文庫
 最優秀ミステリ賞を受賞したというだけはある本です。作家の想像力の素晴らしさに感嘆しながら読みすすめました。文庫本2冊で、舞台が中世(12世紀)イギリスなので、よく分かっていない社会状況だということもあって、いつもより時間をかけ、じっくり読み耽りました。
 舞台は1171年の中世イングランド。ケンブリッジで4人の子どもが惨殺された。その殺され方が磔(はりつけ)のように見えたため、カトリックの町民はユダヤ人のしわざだとして暴徒と化した。そのせいで、ユダヤ人たちからの税金が激減するのを恐れた時の王ヘンリー2世は、騒ぐ群衆からユダヤ人を守るために、王の保護のもとにおき、シチリア王国から解剖学の専門家を派遣してもらうことにした。そして、やってきたのは、なんと若い女医、死因を探る学問を身につけた病理医学者だった。
 当時のイングランドでは、女医などとんでもない、女が医療を施そうものなら、魔女のそしりを免れえなかった。
 ヘンリー2世の君臨する中世イギリスの世界が細やかに描写され、法医学を扱う検視官の仕事が見事に融和しています。私は、似たようなイメージだろうと勝手に想像して、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を想像しながら読みすすめました。
 4人の子どもを惨殺した犯人は、最後近くまで明らかにされませんが、十字軍に騎士として従軍したことが想定されています。そのなかで、十字軍のひどい実態が暴かれています。それは、キリスト教の輝かしい精神を具現したというより、犯罪者を寄せ集めたゴロツキ集団と化していた面もあったようなのです。
 そして、ユダヤ人へのすさまじいばかりの迫害です。ヘンリー2世も、ユダヤ人を保護していたのは、信教の自由を何人にも保障するというより、そこからあがってくる収入をあてにしていた気配が濃厚です。
 いずれにしても、12世紀イギリスの寒々とした雰囲気が実によく伝わってくる本でした。
(2009年9月刊。840円+税)

ワルシャワの日本人形

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 田村 和子、 出版 岩波ジュニア新書
 ポーランドの人々は日本に対して親近感を持っているそうです。
 第二次大戦前のポーランドで、オペラ『蝶々夫人』が演じられ、プリマドンナをつとめた歌手のテイコ・キワ(喜波貞子)の大ファンとなった女性がナチス・ドイツに捕まり、獄中で可愛らしい日本人形をつくり、今もそれが残っているというのです。不思議ですね。
 実は、この女性はナチスに対するレジスタンス運動に加わっていました。レジスタンス組織は後にワルシャワ蜂起に立ちあがったのです。
 獄中で親切な女性看守がいて、日本人形をつくるのを援助し、身内に届けてくれました。その看守もレジスタンスの一員でした。あとでつかまりましたが、戦後まで生き抜きました。
 ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人は、1943年4月、3000人の兵士に指令を出して蜂起した。ナチスに包囲攻撃されたからである。1ヶ月後、鎮圧されてしまった。
 そして1年後の1944年8月、今度はゲットーの壁の外でワルシャワ市民がドイツ占領軍に対する武力闘争に立ち上がった。ワルシャワ蜂起である。2ヶ月あまりの戦闘の末、蜂起軍は降伏した。ソ連軍は対岸まで進出していにもかかわらず、何の援助もしなかった。
ワルシャワ・ゲットーには、かの有名なコルチャック先生も子どもたちと一緒に生活していた。ゲットー内には14歳未満の子どもが10万人(住民の4分の1)いた。
 1942年8月6日朝、ナチスは「孤児たちの家」に押しかけてきて、子どもたちの移送が始まった。200人の子どもはコルチャック先生を先頭にして行進を始めた。
 この日、4000人の子どもたちがトレブリンカ絶滅収容所に移送されたのである。
 コルチャック先生はナチスによる特赦をはねつけ、子どもたちと運命をともにした。
 ワルシャワ蜂起には、大勢の若者そして子どもたちが少年レジスタンス兵として参加した。そのなかに孤児部隊という別名を持つ特別蜂起部隊イエジキがあった。部隊長となったイェジは、当時29歳の青年である。イェジはロシア領内のキエフスに生まれ、シベリアで孤児となった。ポーランド人孤児を救済する組織がつくられ、日本赤十字の協力で375人の子どもたちが日本にやってきた(1920~1921年)。そして、翌年までにアメリカ経由でポーランドに戻っていった。さらに、1922年にも同じように390人の孤児が日本にやってきて、健康を回復してポーランドに戻って行った。そのなかに先ほどのイェジがいた。イェジは、ポーランドに戻ってから日本の交流を目的とした「極東青年会」をつくった(1928年)。
 イェジは、失敗したワルシャワ蜂起を生きのび、1991年5月に亡くなるまで、日本の歌を覚えていたそうです。ワルシャワ蜂起と日本とのつながりを、こんな形で知ることができました。
 
(2009年9月刊。740円+税)

寂しい写楽

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 宇江佐 真理、 出版 小学館
 東洲斎写楽とは、いったい何者なのか。江戸時代、寛政の世に忽然と現れ、わずか10ヶ月で消えてしまった写楽をめぐって、さまざまな推理がなされています。この本は斉藤十郎兵衛を写楽だとしています。
 老中松平定信の行った寛政の改革は、芝居とも無縁ではなかった。市村座、森田座、中村座の座元と関係者が北町奉行所に呼ばれ、芝居興行における厳しい通達を受けた。要するに役者の衣装などを質素にしろということだった。それに反した役者は奉行所に連行され、派手な着衣を没収されたうえ、5貫文の罰金刑を受けた。
 また、芝居は午後四時(夕七つ)までとし、明かりを灯しての興業は禁じられた。
 東洲斎写楽の本業は能役者だった。名前は出版社である蔦屋の主人がつけた。
刷りは二百枚単位。版木には耐久性が求められる。人物の型紙を置き、にかわにスミと雲母を混ぜた絵具を刷毛で塗る。雲母(キラ)摺りは、絵具が渇くに従い、独特の光を放つ。
 9種類にもおよぶ工程は、摺師が長い間に創意工夫をこらしたものである。
 滝沢馬琴、山東享伝、歌川豊国など、よく知った人たちが登場してきます。
 斉藤十郎兵衛。斎藤をひっくり返せばとうさいとなり、その間に十郎兵衛の「十」を入れると、まぎれもなく東洲斎となる。
 乙粋(おついき)という言葉が登場します。初めて聞く言葉でした。写楽の役者絵は乙粋だったが、商売にならなかった。このように語られています。
 江戸の文化の香りが、そこはかとなく伝わってくる本です。
 
(2009年7月刊。1500円+税)

「二十歳の戦争」

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ミケル・シグアン、 出版 沖積舎
 ある知識人のスペイン内戦回想録というサブ・タイトルのついた本です。
 私は20歳のとき、東大闘争の渦中にいて、いわゆるゲバルトの最前線に立っていたことがあります。もっとも、相手も私もせいぜい角材しか持っていませんでした(なかには鉄パイプとか、釘のついた角材を手にしていた人もいましたが、幸いなことに私は見かけただけで、直接むかいあうことはありませんでした)。はじめはヘルメットもかぶっていませんでした。飛んできた小石が頭に当たり、真っ赤な血が出て白いワイシャツをダメにしたことがあります。しばらく頭に包帯を巻いていましたので、過激派学生と間違えられていやでした。
 この本を読むと、私たちの学園闘争があまりにも子供じみた牧歌的なものであることを自覚させられ、苦笑せざるをえませんでした。それでも、当時、私たちは真剣でしたし、闘争の渦中に過労のため身近なクラスメイトが急性白血病で亡くなったり、精神のバランスを喪って入院したりということは起きていました。
 東大闘争では、ともかく学生に死者を出すなということが至上命題だったことをあとで知りました。東大を舞台とした内ゲバ(全共闘内部のセクトの武力抗争)でも、幸いにして東大では死者は出ませんでした。ただし、あとで内ゲバによって多数の死者が出たのはご承知のとおりです。
 この本は、学園紛争どころではなく、スペイン内戦です。ナチス・ドイツの後押しを受けたフランコ軍と、ソ連の後押しも受けた共和国政府軍が戦争したのです。戦争ですから、当然のことながら双方大量の兵士が戦死しています。
 スペイン内戦は特異な戦争だった。スペイン人がスペイン人を相手に戦った内戦であり、敵味方の陣営が、それぞれ簡単には説明しきれないほど複雑な構成になっていた。
 一方の陣営は反乱を起こした軍人たちで、王制にとってかわった共和制政府に対してクーデターを仕掛けた。それを支持したのがカトリック教会や伝統的な保守勢力。そして、当時台頭しつつあったファシスト勢力のファランヘ党であった。
 もう一方の陣営は、共和国の合法性を擁護する勢力と社会革命を標榜する勢力だった。その中には、無政府主義者もソ連流の共産主義者もいた。そのほか、カタルーニャとバスクの自治を求める勢力も一員だった。
 20歳の著者は、大学生として共和国軍に身を投じた。1937年12月のこと。軍隊に一兵卒として入隊した。著者は学生のとき、カタルーニャ学生連盟の書記長だった。そして、コミュニスト・グループと戦った。しかし、アナキストは知らなかった。マドリッドから敗退してきた共和国軍がテルエルの戦いで激戦のあげくに敗れてしまった。
そのあとの戦線膠着状況で過ごす日々が淡々と描かれています。兵士の辛さが良く分かります。
 そして、テルエルの戦いで敗れたけれど激戦を戦い抜いた兵士たちが後方で休息しているとき、直ちに前線復帰命令が出され、それを拒否した兵士50人が銃殺されたという話が紹介されています。指揮官の命令違反は死刑だというわけです。戦争とはこんなにむごいものなのですね。勇敢な兵士を仲間が処刑してしまうというのはやりきれません。
スペイン内戦の内情を20歳の一兵士の目を通して知ることのできる貴重な本です。
 著者は今年91歳で、今なお、お元気のようです。
(2009年9月刊。3500円+税)

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