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奄美でハブを40年研究してきました

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 服部 正策 、 出版 新潮社
 ハブ捕り名人がいるそうですし、1匹4000円(今は3000円)でハブを地方自治体が買い取ってくれるそうですから、今やハブは絶滅危惧種の一つだと勝手に思い込んでいました。
 ところが、なんと奄美にハブは7万匹、徳之島にも4万匹はいるそうです。奄美大島の人口6万人弱よりも多いのです。なあんだ、絶滅を心配する必要なんてないのですね。
 ちなみに、奄美のマングース退治は成功し、ほぼ絶滅状態になったそうです。
それでも、今でもハブに咬まれる人が年に30~50人はいるとのこと。かつては年に300人以上だったそうですから、減ってはいます。
 そして、ハブに咬まれて死ぬ人は、明治時代は2割ほどだったが、今では10年ぶりに1人亡くなったという程度。
 ハブに咬まれたら、ともかく患部を吸い出したらいいそうです。そして、ハブ毒は飲み込んでも、それで死ぬことはないとのこと。
 ハブは神経質で臆病な生き物なので、人間を恐れている。ハブがいきなり襲ってくることはまずない。
 といっても、家の中に侵入してきて、就寝中にハブに咬まれる人がいるそうです。ともかく、油断しないこと、油断した人が、どんなにベテランであってもハブに咬まれるそうです。楽天的で大雑把な人ほどハブに咬まれる。
 ハブの毒は、ヤマカガシやマムシより弱い。ええーっ、そ、そうなんですか…。これも、イメージと違いますね。
 わが家の庭にも昔からヘビが棲みついていますが、マムシではなく、ヤマカガシではないかと心配しているのです。黒っぽい身体に毒々しい黄色なのです…。
 ハブに咬まれたら、体を温めて、すぐに病行に行くこと。咬まれたところを切開し、毒を洗い出し(吸い出し)、血清を注射すれば、まず生命は助かる。
 ハブは7月に産卵し、8月から9月にかけて孵化(ふか)する。
子ハブも大きいハブも木の上にいることが多い。ハブの寿命は最長30年ほど。
 ハブは寝たふりをして人間をやり過ごすことが基本だが、産卵後だけはピリピリしていて攻撃的。
ハブは気まぐれで、人に飼われてもなつかない。ハブは飛ばない(飛べない)し、いきなり飛びかかってくることもない。
 著者は、今では島根の山あいの田舎で農業をしているそうです。お元気にお過ごしください。面白い本でした。
(2024年3月刊。1600円+税)

謎の平安前期

カテゴリー:日本史(平安)

(霧山昴)
著者 榎村 寛之 、 出版 中公新書
 平安時代は400年間続いた(794年から1192年まで…)。この本は、前半の200年は何事も起きていない平穏・無事な世の中だったという世間の強い誤解を払拭しようとする意欲にあふれています。
 藤原道長や紫式部が生きた、『光る君』の時代は、平安時代の後半の200年間。その前の200年間の実相を明らかにする本なのです。としても刺激的な内容でした。
 平安前期の200年間は、「巨大な転換期」であり、「面白く変化に富んだ時代」だというのが著者の考えです。
 墾田永年私財法は、崩壊寸前だった民政に民活を導入し、地域の再生を図る「雇用の創出」だった。
 地方に赴任した国守(こくしゅ)を受領(ずりょう)といい、受領は、五位程度の下級貴族にとってのもうけ口だった。
平安京をつくった桓武天皇は律令国家の王としては、変わった天皇だった。その生母は、倭新笠(やまとのにいがさ)、つまり渡来系氏族の出身だった。
桓武天皇は、天皇になれる皇族の条件をほとんどクリアにしていないまま即位した。奈良時代以前なら、天皇には、まずなれなかった。
 桓武天皇は、大学で教える漢語の発音を、伝統的な呉音(長江周辺の発音)から、漢音(長安周辺の発音であり、唐の標準発音)に切り替えた。
 日本でも、中国の科挙システムにならった、官人登用試験は8世紀以来やられていた。
 ただし、対象は大学を修了した者に限られる。大学は国家による教育機関。
8世紀から9世紀にかけて行われていた高等文官試験は、重箱の隅をつくような試験ではなく、現場の課題を解決するために必要な秀才を確保するという性格を明確にもっていた。
たとえば、その設問は、「新羅(しらぎ)に対する軍事行動の是非について、戦わずに服属させる方向で意見を述べなさい」というもの。これって、北朝鮮と戦争しないで平和共存する方策を述べよといわんばかりの設問ではありませんか…。
 平安時代前期には、一介の庶民が天皇や皇太子に学問を教えるまでに成り上がることを可能としていた。秀才たちをストックするのが「博士職」だった。うむむ、これはすごいことです。学者が優遇されていたわけですね。
 9世紀の前半までは、女官の身分は高く、自立性が高かった。
8世紀の日本は、貴族も庶民も、好きになれば婚姻し、飽きたら自然に切れる(離婚)というもの。実に規制のゆるい時代だった。なので、不倫を働くという観念自体がなかったのでしょう。『源氏物語』も、言ってみれば、「不倫」が不倫として非難されていませんよね。
 奈良時代には、宮廷に勤める男女は奔放に恋をしていた。その実例が何人もあげられています。
平安時代には社交界というものがなかったとしています。宮廷で仕事をしていない限り、貴族の男女が公的に出会う機会はなかった。歌会などは社交界じゃないかと勝手にイメージしていたのですが…。
 以上のことをしっかり認識するだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。弁護士を50年してきた私の実感でもあります。日本人は古来、性におおらかなのです。
 統一協会に汚染された自民党政治家の主張の誤りは明白です。
(2024年2月刊。1100円)

武士の衣服から歴史を読む

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 佐多 芳彦 、 出版 吉川弘文館
 武士の衣服は、絵画に図像化されているので、その図像をイラストにもしたうえで解説している本です。
 有名な『信貴山(しきざん)緑起絵巻』『伴大納言絵巻』『男衾(おぶすま)三郎絵詞(えことば)』『一遍上人(いっぺんしょうにん)絵伝』などに描かれた武士の衣服を対象として解説されています。
 「直垂」は「ひたたれ」と読みます。武家の代表的な衣服です。鎌倉時代に武家の幕府出仕の服となり、近世は侍従以上の礼服とされ、風折(かざおり)烏帽子(えぼし)や長袴(ながばかま)とともに着用されました。
 袖細(そでほそ)直垂は、袖が現在の和服のような袂(たもと)をもたず、細めの筒状のもの。袖は、現代人の洋服のように細い。
 鎌倉時代、武士相互のヒエラルキーの視覚指標化が進んだ。
 鎌倉時代の直垂は、絹製のものと布製のものが使い分けられた。
 室町時代は、直垂といえば絹製の裏地のある袷(あわせ)の仕立てのものをさす。そして、これが礼装として、武家服制の頂点にすえられた。直垂が礼装に格上げされたことから、本来の日常着・労働者の面、そして平時の正装を担う大紋や素襖が生まれた。
 足利将軍の家礼を貴族が武士の身なりをして勤めた。
江戸時代には、利便性を優先した肩衣(かたぎぬ)や武士個人の自由な選択が保証された胴服のような衣服が生み出された。
 江戸幕府の服制は、鎌倉幕府以来の武家服制、室町幕府末期から戦国期の衣服と服装習慣を一つにまとめ、そこに朝廷遺族社会の身分秩序である位階制度を組み合わせた。武家の官位の目的や意図を服制を用いて視覚化したのだ。
 木綿(もめん)が日本に伝わったのは、中世の、応仁年間(1467~69)の頃のこと。つまり戦国時代に広まった。したがって、その前の中世前半期にはまだ木綿は存在していなかった。
 『蒙古襲来絵巻』をみると、鎌倉時代の武家社会では、上位者は直垂、下位者は袖細というヒエラルキ
ーが見てとれる。
 源頼朝は、威儀を正す必要のあるときは、必ず水干(すいかん)を着た。鎌倉幕府の家人たちの射芸のおりの正装は水干だった。鎌倉幕府の実権を握っていた執権たちも水干を着た。頼朝は公的な場では水干を好んで着たが、日常生活や通常の政務などでは、狩衣や布衣(ほい)を着たり、ときに直垂を着ていた。
 たくさんの図があり、解説されていますが、残念なことに私には違いがよく分かりませんでした。でも、それなりに分かったこともありましたので、ここに紹介します。
(2023年10月刊。2200円+税)

洞窟壁画考

カテゴリー:フランス

(霧山昴)
著者 五十嵐 ジャンヌ 、 出版 青土社
 フランスには久しく行っていませんが、それでも何回も行きました。残念なことにラスコー洞窟には行っていません。といっても、現物は現地でも見れないようです。
 洞窟壁画を保存するのは大変難しいようで、人間(見物客)を近づけないのが一番らしいです。まあ、仕方ありません。それにしても素晴らしい絵ですよね。カラー図版が見事です。
 いったい、誰がいつごろ、どうやって何のために、洞窟の奥(天井など)にこんな絵を描いたのでしょうか…。著者はその謎に挑みます。
 著者は1990年代から2020年まで、フランスとスペインで60ヶ所以上の壁画遺跡を訪れ、のべ150回は調査・見学したという経験を持っています。たいしたものです。
 洞窟壁画で描かれている最多動物はウマ。次がバイソン。
 洞窟からトナカイの骨が多く出土しているので、当時の人はトナカイをよく食べていたのだろう。
 洞窟にはサカナの姿も描かれていて、人間の手形もある。
彩色画は赤と黒がほとんど。赤は赤鉄鉱や酸化鉄を含む粘土であるオーカー、黒は酸化マンガン鉄物か木炭。
 ラスコー洞窟だけでランプが130点も発見されている。その明かりをたよりにして即興で描いたのではなく、かなりの準備をしてから、調合ずみの絵具を持って、足場なども準備して洞窟に入って描いたのだろう。
なぜ、なんのために壁画を描いたのかについては、いろんな説があり、まだ定説はない。必ずしも一つの動機からではないのではないか…。
 たとえば、ラスコー洞窟には7つの空間があり、洞窟空間は同質ではない。空間ごとに描かれる動物、描き方、技法が異なっている。
 いつ描いたかは、炭を放射性炭素年代測定法で調べてみるとか、ウラン系列法とか最新研究を生かしている。すると、従来の定説が間違っていたりしている。
 壁画を描いたのは、現生人類の先祖であって、ネアンデルタール人は描いていないとされてきました。でも、今ではネアンデルタール人も壁画を描いたのではないかと著者はみています。
 洞窟壁画について466頁もの大作をまとめた著者に敬意を表します。それにしても1万年以上も、よく消滅することなく、よくぞ絵画が暗い洞窟内に残っていたものです。
(2023年11月刊。4500円+税)

考える粘菌

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 中垣 俊之 、 出版 ヤマケイ文庫
 タンパク質分子は、ブラウン運動によって常に激しく小刻みに揺れ動いていて、細胞の端(はし)から端まで数十秒ほどかけて移動する。これは、小ホールの中に満たされたおびただしい数のグリーンピースがすべて振動しながら、数十秒で端から端まで移動する様子を思い浮かべる、そんなイメージ。いやあ、そんなイメージはちょっと出来ませんよね…。
 単細胞には脳がない。だからどうやって情報処理をしているのか…。一般に、生物の情報処理は自律分散的。
 この本のテーマは粘菌。粘菌は数百種類もいる。アメーバには性がある。そして接合する。ところが、性は2つ以上ある。うぬぬ、性が2つ以上あるとは、一体、どういうこと…??
 粘菌にオートミールを餌(えさ)として与えたとき、絶食させたあとと満腹してからでは、食いつき方がまるで違う。なので、単細胞だって人間と同じ生き物だということが分かる。
 そして、粘菌にも歴然とした好みがある。最も好むのは、有機栽培の、オーガニックのもの。タバコの煙も好まない。
 粘菌は紫外線を浴びると危ないので、すぐに逃げ出す。
 生きものの賢さの根源的な性質を調べるためには、粘菌という生物は、またとない、すぐれたモデル生物。
粘菌を迷路実験すると、粘菌には迷路の最短経路を求める能力のあることが判明する。
 人間の脳のなかにも司令官のようなものは存在しない。誰かが全体を見張っていて、それぞれの管に指令を出しているわけではない。
 粘菌は、決して人のようには考えていないにもかかわらず、結果だけ見れば、あたかも考えたかのように見える。考えていないのに、粘菌は考えている、と言える。うむむ、なんだか分かったようで、分からない表現です。
 いやはや、生物の世界も不思議に満ちていますね…。
(2024年1月刊。880円)

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