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戦史の余白

カテゴリー:ドイツ

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 作品社
 著者の本は、どれも実によく調べてあって、いつも驚嘆しながら読み進めています。今回も知らなかったことがいくつもありました。
 まず、ロンメル将軍(ドイツ)です。北アフリカでロンメル将軍の率いるドイツ軍はイギリス軍と戦闘し、結局、最終的にはドイツ軍は敗退しますが、途中までドイツ軍がイギリス軍を圧倒していました。1941年から1942年にかけてのことです。
 このとき、ロンメル将軍は驚くべきことに194年6月22日からソ連へ侵攻する「バルバロッサ」作戦のことを知らされていなかったというのです。そんな重大なことを知らないので、ロンメル将軍は北アフリカ戦線にもっと兵力を増強してくれと国防軍本部へ要求し、拒否されていたのでした。だから、イギリス軍との戦闘は、国防軍本部の了解なしのロンメル将軍の独断専行ですすめられました。それでも途中まで大きな成果をあげたので、その限りでヒットラーから賞讃されたのでした。
 次は、ヒトラー・ドイツによるコーカサス石油獲得作戦です。
 ドイツはイギリスから海上封鎖されて石油の確保に苦労していました。そこで、ヒットラーはソ連領のコーカサス油田を狙ったのです。この油田を制圧したら、ソ連は石油不足になり、ドイツは有利になると考えました。そこで、戦闘軍団(A軍集団)に技術者集団を随伴させたのです。
 ところが、ソ連は焦土作戦を敢行して、ドイツ側の技術者の活躍を封じ込めてしまいました。ドイツ軍がわずかに石油基地を確保したとしても、パルチザンの攻撃と破壊工作にさらされ、ほとんどモノにはならなかったのでした。ヒトラーの石油の夢は実現しなかったのです。
 ドイツの国防軍のトップとヒットラーがそりがあわなかったことは、ヒトラー暗殺計画(ワルキューレ計画)があったことでも明らかです。この暗殺計画が失敗したあとヒトラーは、国防軍幹部を親ヒトラーで固めることに成功しました。
 ところが、この本によると、ヒトラーの面前で「ドイツ式敬礼」(右手を高々と掲げ、「ハイル・ヒトラー」と呼ぶこと)をしなかった将軍がいて、しかもヒトラーの軍事上の指示を受け入れなかったというのです。それでも何の処罰も受けなかったといいます。信じられません。
 このザウケン将軍はヒトラー免官されることもなく、装甲兵大将に進級し、第2軍司令官に就任しました。そして、ドイツ降伏後はソ連軍の捕虜となり、10年間の抑留生活のあと、ドイツ・ミュンヘンに居をかまえて画家となって、1980年に88歳で亡くなったのでした。いわば天寿をまっとうしたわけです。
 歴史については複眼的視点が必要だと、いつも思っていますが、この本を読むと、もっともっと事実を知り、また想像力を働かせる必要があるようです。
 いろいろ面白い裏話が満載の戦史の余白でした。
(2024年2月刊。2200円)

キツネのせかい

カテゴリー:生物

(霧山昴)
著者 塚田 英晴 、 出版 緑書房
 野生のタヌキは我が家の近くをウロウロしているのを見たことがあります。でも、野生のキツネを家の近くで見たことは残念ながらありません。北海道を旅行したときにキタキツネは遠くに見ましたが…。
 この本を読んで、キツネのことを大いに知ることができました。この本を読んで驚いたことは、いくつもありますが、とりあえず二つ。
 その一は、キツネは夫婦で子育てをし、母親が不幸にして事故などで亡くなったら父親だけで子どもを育てあげることがあるということです。まあ、そうは言ってもメスのキツネはこっそり浮気をしているそうです。なんだか人間社会とそっくりですね。
 その二は、生まれたキツネが10頭いたとして、そのうちの8~9頭は1歳の誕生日を迎えられずに死んでしまうというのです。キツネは子だくさんで、たくさんの赤ちゃんを産むが、子ども同士はライバル関係にある。そして、野生のキツネは6~7歳までに100頭生まれたうちの99頭は死んでしまうということです。これではキツネがネズミ算式に増えていくことはありえませんよね。
 キツネはイヌ科。野生のイヌの一種。キツネは犬と同じで、爪の出し入れは出来ない(ネコは出来る)。
 キツネは長い足のおかげで走るのが得意。全速力で走ると時速72キロにもなる。
 キツネは人と違って、夜でも目がきく。目の内側に「タペタム」という特殊な細胞をもっていて、この細胞が目に入ってきた光を反射させて光を増幅することができるので、暗闇でも、ものを見分けることができる。
 キツネの聴覚もとても優れている。
 キツネは雑食性。そして好き嫌いがある。ネズミはキツネの好物だが、アカネズミは食べないし、トガリネズミやモグラなども食べたがらない。
 キツネの家族では、社会的順位の高い、一番強い夫婦だけがこどもを産むことができるという決まり(掟)がある。だから、順位の低いメスは結婚して子どもを産めず、姉として子どもの面倒をみるしかない。
 イノシシには子別れの儀式があるというのは聞いたことがあります。ウリ坊たちが大きくなると、母イノシシに体をこすりつけて別れ去っていくそうです。キツネにもあるようです。子どもが一定大きくなると、ある日突然、母キツネが鬼と化して子ギツネを追いかけまわすというのです。でも、実際にその現場を見た人はとても少ないとのことです。
 映画「キタキツネ物語」は昔見たような気もしますが、キツネのことを本当に知らなかったと思いました。
(2024年2月刊。2200円+税)

「地中の星」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 門井 慶喜 、 出版 新潮社
 私の亡父・茂は17歳のとき、大川市から単身上京して、逓信省で臨時雇員として働きはじめました。1927(昭和2)年3月のことです。
 同じ年の12月末、東京で初めての地下鉄が営業を開始しました。浅野と上野を結ぶ路線です。2キロあまりを5分間ほど走りました。運賃は10銭です。当時、コーヒー1杯が10銭でした。イギリス・ロンドンの地下鉄のほうが断然早いのですが、ロンドンは蒸気機関車でしたから排煙に悩まされていたそうです。日本は初めから電気で動きました。
 この本は、渋沢栄一などの援助を受けながら、東京の地下に電車を走らせることに命をかけた早川徳次(のりつぐ)と技術者たちの苦闘の日々を生き生きと描いています。
12月29日には開業式ではなく、開通披露式がとり行われました。
 改札には、自動改札機があり、10銭硬貨を投入する。これまた日本初のこと。線路は複線で、車両は1両だけ。
 翌12月30日に一般向けの営業を開始すると、初めての地下鉄に乗りたい人々が殺到し、大変な行列をつくった。午前中だけで4万人の市民が乗車した。
 そして、それは年が明けて新年になっても続き、むしろ日曜祝祭日のほうが地下鉄は混みあった。もちろん、このころ亡父も地下鉄に乗ったと思います。18歳の好奇心あふれる青年が乗らなかったはずはありません。
 やがて地下鉄の線路は延伸し、神田駅が出来た。すると、省線(今の山手線)との接続が乗客にとって便利になる。それは利用者の増加につながった。そして、次は三越デパートと直結し、「三越前」駅が誕生した。
 東京市の人口200万人のうちの半分近い98万人が3日間の地下鉄祭で乗車した。
 次は、関連して、地下鉄ではなく地上を走る市電の女性車掌の話です。東京の路面電車は今も細々と残っていますが、かつては縦横無尽に走っていました。そして、その電車には車掌がいて、車内で切符を売っていました。すると、混雑したときには間違いがあり、また、たまに車掌の着服事件が起きたりして、女性車掌が導入されたのです。しかし、女性車掌だと、更衣室の整備が必要だったり、夜間には働かすことができないということで、いったん廃止されました。
 ところが、男性がどんどん兵士として出征していったので、再び1934年に女性車掌が復活したのです。
 しかし、これには男性車掌側から反発もありました。男性車掌の賃金が1円7銭であるのに対して女性車掌の賃金は90銭でしかなかったからです。こんな低賃金で働く女性が増えると男性の仕事が奪われるという意見です。それをストライキの理由とした争議まであったのでした。
 昭和のはじめの日本の状況は調べるほど、面白い世界です。
(2021年8月刊。1800円+税)

『国家試験』

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 国家試験編集部 、 出版 育成洞
 私の亡父は法政大学法文学部法律学科の学生のころ、高等文官司法科試験を1回だけ受験しました(残念ながら不合格)。1933(昭和8)年6月のことです。このときの合格者には川島武宜教授(民法)がいます。
 いま、亡父の足取りを調べていますので、このころの司法科試験は何月に、どこで、どんな問題が出題されていたのか、口述試験はあったのか、知りたかったのです。
受験雑誌があったらしいことを知って、ネットで検索してみました。すると、出てきたのが、この雑誌です。今は、国立国会図書館にわざわざ行かなくても、いながらにしてコピーサービスを注文して利用することができます。本当に便利な世の中になりました。
今度、NHKの朝ドラの主人公になる三淵嘉子の伝記によると、当時の試験会場として貴族院も使われていたというのですが、1933年の試験会場は今のところは判明していません。それでも、6月末ころ、1日2科目の4日間ということは分かりました。試験科目は私のとき(1972年5~9月)とほぼ同じです。憲・民・刑に商法、民訴か刑訴、そして選択科目2科目(私は社会政策と労働法でした)。
論文式はどうやら事例式ではなく、抽象的な一問を論じる形式のものだったようです。
論文式を無事にパス(合格)したら、口述試験です。これも私のときと同じです。この受験雑誌には口述試験の状況を再現した合格体験記も載せられています。私のときには『受験新報』が花盛りでしたが、この雑誌にも詳細な口述試験の問答が紹介されています。
このころの試験官といえば、末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一、鳩山秀夫など、そうそうたるメンバーです。
合格するために必要な精神状態についても、先に合格した先輩が次のように書いています。
あせらず、あわてず、粛々と堅実な歩みをすすめていくしかない。
そして、試験に合格したいという希望が必要、意思が堅固でなければいけない。私のころ、そして今でも通用する心がまえが求められています。
亡父は司法科試験のために猛勉強しすぎて神経衰弱になったとこぼしていました。私もちょっぴり、そうなりました(ほとんど1日、寝て、なんとか回復しました)。
有名な伊藤塾の塾長(伊藤真弁護士)に、戦前も受験雑誌があり、口述試験の問答が詳しく再現されていると話したことがあります。さすがの伊藤弁護士も知らなかったとのことでした。調べてはみるものなんですよね…。
(非売品、国会図書館コピーサービス)

女子鉄道院と日本近代

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 青弓社
 いま、昭和はじめの東京の状況を調べていますので、この本を読んでみました。
 東京市電(東京都ではなく、東京市でした)の女性車掌は、1925年に始まりましたが、1927年には廃止されました。ところが、1934年3月に復活しています。いったん廃止されたのは終車まで勤務させられないのと、更衣室が必要だからというのです。復活した理由は「経費の圧縮」。つまり、女性のほうが安上がりだという理由です。どれくらい安いかというと、男性なら日給1円7銭のところ、女性は90銭でした。
 そして、男性は運賃の着服横領が多いけれど、女性はそんなことしないだろうという事情もありました。このころは、車掌が車内で運賃を乗客から徴収していたのです。すると、乗客が満杯のときなど、料金の過不足が出てくるのは避けられません。それが全部、車掌の責任にさせられていました。そして、当局は、ときに密偵を車内に送り込んで車掌を監視していました。弁償させられていたのです。
 乗客のなかには今でいう「カスハラ」をするのもいて、女性だとなおさら泣かされたようです。そして、女性が働くと、女性をつけ上がらせるという世間の冷たい眼にもさらされました。
 1933(昭和8)年2月2日、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の労働者は始発からストに突入した。解雇撤回、手当を減額するな、そして、女性を採用するな、でした。低賃金の女性が採用されると、男性の職場が荒されるというのです。
 鉄道が走り出したころ、踏切番の仕事は女性が担っていた。鉄道に雇われている夫の妻として踏切番の仕事をした。ところが、この仕事は危険だった。というのは、まだ鉄道の怖さを知らないので、子どもたちまで平気で線路内に立ち入る。それで子どもを助けようとして、踏切番が犠牲になることも少なくなかった。
 踏切番として働く女性の賃金は4円。これは男性が9円81銭もらっているので、その半額以下。
 国鉄に女性の車掌が登場したのは1944(昭和19)年のこと。戦時下にあったからとされている。男性が兵役にとられて、いなかったのです。
 かつてバスには女性の車掌がいて、バスの車内で切符を売ったり、パンチを入れたりしていました。戦後まもなく生まれた私の記憶でもあります。それが、いつのまにか車掌はなくなり、ワンマンバスになってしまいました。
 鉄道とバスをめぐる、昔のことがよく分かりました。
(2023年12月刊。2400円+税)
 庭のチューリップが一気に咲きはじめました。今年はなぜか紅いチューリップが多いようです。もちろん、黄色も白もありますが…。白いスノードロップもあちこち咲いてくれています。
 雨戸を開けると、チューリップの群舞に出会えます。春を実感させる一瞬です。
 2月に植えたジャガイモが少し芽を出してくれました。こちらも楽しみです。
 春は心が浮き浮きしてきます。何かいいことがあったらいいですね。殺伐としたニュースばかりでは心が休まりません。春はやっぱりチューリップです。

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