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センゴク兄弟

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 東郷 隆、 出版 講談社
 ときは戦国時代。信長、秀吉につかえて、四国讃岐10万石の領主となった。失態があって浪人。後に戦功をたてて信州小諸5万石の主に返り咲いた。江戸時代になって兵庫県出石5万8千石の領主になるも、江戸末期に仙石騒動という有名な家督争いがあって、3万石に減封された。
 青年漫画誌ヤングマガジン掲載の、「センゴク」シリーズの原作本です。
 よく出来ています。よく調べています。感嘆しながら、どんどん読み進めました。
 越前の一乗谷が出てきます。私も一度だけ行ったことがあります。古い小京都といった趣があります。織田信長がまだ天下を取る前の時代です。美濃には、斉藤道三ががんばっていました。
 仙石兄弟が初陣に出かけるとき、旗持ち1人、長柄が6人、弓2人。兵糧運びの軍夫3人、馬上の武者2人。長柄は軍役規程によって2間半が4本、1間半の短槍2本。いずれも穂の長い直槍で、持ち手は自前の具足を身につけているものの、その形は鎧の袖がなかったり、脛当てがなかったりだった……。
 桔梗一揆。これは武士団の団結した姿を示すもの。
 着到(ちゃくとう)。国主からの催促状を差し出して名簿に記入すること。炭鉱で坑内に入る(下がる)前に点呼を受けるのも、同じく着到と呼んでいました。
 詞戦(ことばいくさ)は、慣れたものでなければつとまらない。少しでも言葉に詰まれば、敵味方の笑いものとなり、二度と立ち直れないほどの恥辱となる。これは、単なる悪口合戦ではなく、言葉によって相手を屈服させる呪詛(じゅそ)なのだ。
江戸期と異なり、戦国時代の百姓身分は帯刀が許されていた。
 物揃え(ものぞろえ)。軍役ほどおおげさなものではないが、近隣で不意の小競り合いがあったときに備えての予備動員のこと。
 懸銭(かけぜに)とは、畑に対する賦課額。
 秋成(あきなり)とは、秋の収穫高。
巻数(かんじゅ)とは、年末の特別な祈祷札のこと。
 公界人(くがいにん)とは、乞食のこと。浮浪者が多かった。公界人は神の子。これを守るのは神仏を尊ぶものの務めである。
 御発(ごはっこう)は出陣。山入りでは大事な家財を村の城に運び込んでいた。
 戦国時代について、よくよくイメージの湧いてくる本でした。ところが、参考文献に『武功夜話』が紹介されていますが、これは偽作だと私も思っています。ですから、引用するときには、せめて偽作とも指摘されているくらいのことは触れるべきでしょう。
 
(2009年12月刊。1600円+税)

親鸞(上・下)

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者  五木寛之 、 出版 講談社
  
 浄土真宗の開祖、親鸞の青年時代の状況が活写されています。作家の想像力のすごさには感嘆するばかりです。こんなストーリーをどうやって思いつくのでしょうか…。モノカキ志向の私は見習いたいと切実に願います。
六波羅ワッパ。ロッパラワッパ。六波羅(ろくはら)という土地は、平家一族の集い住むところであり、平清盛公の邸(やしき)を中心にして出来あがった軍事と政治の本当の舞台である。
六波羅殿といえば、平氏一門を意味し、また平清盛公その人をさす言葉でもあった。
 その平清盛公が、みずから京の町に放った手の者たちが、六波羅童(ろっぱらわっぱ)である。すべて14歳から16歳までの少年たちである。その全員に赤い垂直(ひたたれ)を着せ、髪を禿(かぶろ)に切りそろえさせ、手に鞭(むち)をもたせた。総勢300人ほどの数らしい。このロッパラワッパが活躍する京の町で若き親鸞は修行していきます。誘惑も大きい都です。
牛飼童(うしかいわらわ)、神人(じにん)、悪僧。盗人(ぬすっと)、放免(ほうめん)、船頭、車借(しゃしゃく)、狩人(かりうど)、武者(むさ)など、不善の輩(やから)をあつめて、隻六博打(すごろくばくち)を開帳している人間も登場します。
後白河法皇が異例の大法会を催す仏前の大歌合わせである。
表白(ひょうびゃく)願文(がんもん)、讃嘆(さんたん)、読経(どくきょう)、梵唄(ぼんばい)、和讃(わさん)、唱導、教化(きょうげ)、そのほか、あらゆるうたいものをうたい競わせようというもの。
 身分の高い僧には、僧網(そうごう)と有識(うしき)とがある。僧網には、僧正、僧都、律師などの位があり、さらに、法印、法眼(ほうげん)、法橋(ほっきょう)などの官職もある。
また、有識のほうには、己講(いこう)、内供(ないじ)、阿闍梨(あじゃり)の職がある。
 その他の僧は、凡僧(ぼんそう)と呼ばれていた。
このほか学生(がくしょう)、堂衆、堂僧のほか、稚児(ちご)、童子、寺人(じにん)、商人、傭兵、落人(おちうど)、職人、芸人など、雑学な人々がお山にむらがり住んでいた。したがって、比叡山は、ただの聖域ではない。
親鸞の師であった法然上人が登場します。
本願ぼこりとは、どのような悪人であろうとも、必ず阿弥陀仏は救ってくださるという、おどろくべき考えから生まれてきた異端の信心である。
悪人なおもて救われるという親鸞の教えは、なかなか意味深いものがあります。私は高校生のころにこのフレーズを聞いて、驚き、疑いました。
(2010年1月刊。 1500円+税)

城と隠物の戦国誌

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 藤木 久志、 出版 朝日新聞出版
 和田竜『のぼうの城』(小学館)は大変面白い小説でしたが、その素材となった「忍城戦記」が紹介されています。「忍城戦記」は『埼玉叢書』(国書刊行会)にのっているそうです。それによると、忍城に領域の村人がやって来て籠城した様子が、次のように紹介されています。
 長野口持ち 足軽30人 農人300人
 北谷口持ち 足軽30人 農人200人
 佐久間口持ち 足軽40人 農人・商夫430人
 忍口持ち  足軽100人 町人670人
 行田口持ち 足軽420人 百姓・町人500人
 皿尾口持ち 足軽25人 百姓・町人150人
 持田口持ち 足軽420人 百姓・町人2627人
 15歳以下の童部など1113人、男女都合3740人立て籠るなり。
 忍城に緊急避難した周辺の人々のうち、75%ほどの百姓・町人が戦闘要員として諸口に配置された。
 そして、石田三成側の水責め工事の土木労働に雇われた周辺民衆の動向についても書かれている。このとき、石田三成は、土木工事の労働の報酬として、賃金(米銭)を「昼の労働には一人当たり永楽銭60文と米一升」「夜の労働には、永楽銭100文と米一升」と、かなりの高額を公約したので、「近隣・近国」の村や町は、ほとんど築堤ラッシュの状況を引き起こした。このころは、一日に米4升が相場たった。水責め工事が1週間で完成したのはそのせいである。
 落城したあと、秀吉が石田三成に対して、「避難民を殺したら、隣郷がみな荒廃するだろう。だから助けてやれ」と指示していた。
 戦国時代のお城と民衆とのさまざまな関係を実証的に究明している、面白い本でした。
(2009年12月刊。1300円+税)

灘校

カテゴリー:社会

著者 橘木 俊昭、 出版 光文社新書
 日本の現代貧困を分析する第一人者である著者がかの灘高校出身とは……。そして、灘高校を卒業して東大に入らなかった人は人生の落後者ではないのか、という疑問にこたえるのが、本書です。灘高校を出て東大に入らなかった自らの体験もふまえていますので、ともかく実証的ですし、説得力があります。
 私の中学の同級生にも一人だけ、灘高校に入った男がいました(石田君は、いま、どうしているかな…?京都大学に入ったことまでは知っていますが…)。
 1968年、私が大学2年生のときです、灘校はそれまでナンバーワンだった日比谷高校(都立校)を抜いて、東大合格者132人と、全国1位になった。これは、絶対数でも全国1位になったというのですから、すごいものです。
 灘校では、1年生の時から成績順にクラスを編成する。これは毎年変わることになる。徹底した競争主義を実践することで、生徒に努力を喚起するのだ。
 教師の配置も、上位のA・B組には優秀な教師の授業を多く、C・D組にはそれなりの教師を配置し、教材や進度にも変化をつける。
 成績に応じて差を設けるのには、メリットとデメリットがある。メリットは、一部の優秀者と努力家の学業成績がますます上昇すること。デメリットは、差別的な教育を嫌う生徒からやる気を次第に失わせ、勉強をしなくなっていくこと。遠藤周作は、その落ちこぼれ組だった。教師は、ずっと生徒と一緒に持ち上がる。これは、先生のあいだで、学年をグループとした競争意識を生み出す。
 良い生徒がいれば、良い先生も集まる。灘の教師は、出来のいい子を邪魔しないことが責務である。
 灘校の東大合格者の8割は現役生だった。ある学年では、220人ほどの卒業生のうち、東大へ進んだのが150人を超した。7割の生徒が東大に合格するというのは、驚異的な数字である。しかし、多数派の150人と少数派の70人という2組の間に溝があるのでは……?
 勉強ができると言うレッテルを貼られた生徒は、学校生活でも活発だが、できないというレッテルが貼られると、ずっとおとなしくしている。
 灘校には、入試科目に社会がない。無味乾燥な暗記科目は不要だというわけだ。そこで、灘校の生徒の7割強は理科系である。
 灘校の卒業生は、大半が大企業に勤めていて、社長・重役・部長に就いている。卒業生に官僚は意外に少ない。国会議員も少なく、2010年時点で6人しかいない。
 ところが、医師は多い。これは、学生の親の4割が医師ということにもよる。東大理Ⅲ(医学部)90人(1学年)のうち、20人ほどが灘校出身。1962年から2009年までの灘校出身の累計は588人。2位のラ・サール校の292人の2倍という断トツの1位。
 中高一貫校は、良いことづくめなのか?
高校の時から入ってくる新高生のなかに、潜在能力・学力の高くない生徒が入学してくる。そのため、新高生の募集を停止したところがある。その一方、中学校から入った生徒のなかに伸び悩む生徒が少なからずいる。小学生のときに塾などで過度に受験勉強をやりすぎて、燃え尽きてしまったということである。
 そして、中高一貫校に入ってしまうと、生徒の育った家庭環境も生徒もかなり均質であるため、世の中の現実を知る機会が限定される。世の中には、貧乏人や勉強の不得手な人など、いわゆる弱者がいる。それらの人の存在を知る機会がなくて大人になると、偏った人生観をもつ危険がある。
 いろいろなことを深く考えさせる、良い本でした。私は市立中学、県立高校の出身ですが、とりわけ市立中学での経験は、今となっては得難いものだと考えています。殺傷事件を起こして少年院に入った同級生がいて、勉強より歌唱力を伸ばすのに必死の同級生がいました。1クラス50人以上で1学年に13クラスもありましたので、騒然とした雰囲気でした。すぐ隣にある中学校の生徒との番長同士の対決も身近なものであり、暴力事件は日常茶飯事だったのです。世の中の荒波に少しはもまれていたのかな、と今は思うのです。
 そして、それは弁護士になってから、世の中にはさまざまな生き方、考えの人がいることを多少なりとも受け容れることにつながっていて、役に立っています。
 
(2010年3月刊。760円+税)

鳥羽伏見の戦い

カテゴリー:日本史(明治)

著者 野口 武彦、 出版 中公新書
 幕末に起きた戦争のうち、禁門の変というのは少し知っていましたが、鳥羽伏見の戦いについては、その実相をまったく知らなかったことを、この本を読んでほとほと実感させられました。
 この本は、「幕府の命運を決した4日間」というサブタイトルをつけて、激戦だった鳥羽伏見の戦いを忠実に再現しようとした画期的な労作です。
 幕府軍は決して一方的に敗退していったのではなかったのです。フランスからヨーロッパ最新式の銃を大量に仕入れていて、それが戦場で大活躍したのでした。そして、両軍は白兵戦の前に大砲で撃ち合い、銃を活用して戦ったのです。
 幕府軍が決定的に敗北したのは、何より将軍慶喜の日和見にありました。やはり、戦争では司令官の姿勢はきわめて大きく、選挙区を左右するのですね。
 明治になってからも長生きした最後の将軍慶喜に対して酷評が加えられています。しかし、それも考えようによっては、それだからこそ、明治維新が早まったといえるのです。ただ、それは、上からの革命を推進してしまったことにつながっているから、下からの民衆主体の革命にならなかったという弱点をともなったという著者の指摘は鋭いと思いました。
 慶応4年(1868年)1月3日から6日までの4日間、京都市南部の鳥羽と伏見で、薩摩軍を中心とする新政府軍と徳川慶喜を擁する幕府軍が激戦を交えた。両軍合わせて2万人の兵士が激突する。戦死者は幕府軍290人、新政府軍100人。戦闘は、武力討幕派の圧勝に終わった。幕府軍にはフランス伝習兵と呼ばれる最新装備の部隊がいた。伝習隊には2大隊があり、1大隊800人として、1600人が訓練されていた。そして、シャスポー銃という元込式の最新式をもっていた。
 大政奉還は、将軍職を差し出すのと引き換えに、徳川家の実験を残しておこうという捨て身の業だった。
 シャスポー銃は、1866年にフランスで制式歩兵銃に採用され、1870年の普仏戦争で活躍した。敗戦後のパリ・コミューンで反乱兵鎮圧に使われた悪名高い銃である。射程距離600メートル、充填は速く、1分間に6回発射できました。
 鳥羽伏見の戦いで幕府軍が負けたのは銃砲の性能が悪かったからというのは、間違った俗説である。著者は、しきりにこの点を強調していますが、なるほど、と思いました。
 戦いの当初、徳川慶喜の脳裏には、先発勢が優勢な兵員数で薩摩藩を威圧しつつ二条城に入り、下地を整えたところで自分がおもむろに上京すると言うイメージがあった。その幻想がもろくも崩れてしまった。
 戦局の大勢を決したのは、大砲である。戦場の主役は、大砲対大砲の砲戦になっていた。
弾丸が命中して倒れた兵士は、たいがい短刀で自決した。この時代は、腹に銃創を受けるとまず助からない。たとえ即死しなくても、腹膜炎を発して苦しんだ末に絶命する。なまじ苦痛を長引かせるよりはと潔く自刃するのである。沼へ飛び込んでノドを突く姿は悲壮だった。
 徳川慶喜には、頭脳明晰、言語明瞭、音吐朗々と三拍子そろっていながら、惜しむらくはただ一つ、肉体的勇気が欠けていた。一陣の臆病風が歴史の流向を変えてしまった。
 慶喜がいなくなったと知った大坂城は、上を下への大混乱に陥った。それは260年ものあいだ、維持されてきた徳川家の権威が超スピードで消散していく数時間であり、とうに形骸化していた政治権力が屋体崩しのように自己解体していく光景でもあった。置き去りにされた将兵を支配した感情は、怒りでも悲しみでもなく、集団的なシラケだった。自分たちは、こんな主君のために我が身の血を流していたのか、という何ともやりきれない徒労感だった。
 徳川慶喜は大阪湾から船に乗って江戸に向かった。このとき、まずはアメリカの軍艦に乗り込んでいるが、これもあらかじめ用意されていた。つまり、徳川慶喜はアメリカの庇護のもとに逃亡したのだった。うへーっ、今も昔もアメリカ頼みなんですか……。
 そして、日本の軍艦「開陽」に乗り込んだあと、徳川慶喜は「自分は江戸に戻ったら抗戦せずに恭順するつもりだ」と初めて引き連れていた重臣たちに本心を明かした。
 そしてこのとき徳川慶喜は愛人まで連れて船に乗り込んでいたのです……。
 江戸に着いても、徳川慶喜はすぐには江戸城に乗り込まなかった。なぜなら、将軍になってから一度も江戸城に入ったことがなかったので、旗本たちの気心が分からず、不安だった。身辺の安全を確保できると慎重に見極めをつけてから入城した。
 なんとなんと、自分の身の安全しか考えていなかったというわけです……。いやはや、大した徳川将軍ですね。
 徳川慶喜は、12月16日に、英・仏・蘭・米・プロシア・伊の6国代表と謁見し、外交権は手放していなかった。そして、旧幕府から国体を引き継つぐのを忘れていた新政府は無一文であり、徳川慶喜に泣きついて5万両を引き出した。
 明治維新の成り立ちを知るうえでは、欠かせない本だと思いました。一読をおすすめします。
 
(2010年1月刊。860円+税)

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