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犬として育てられた少年

カテゴリー:司法

著者:ブルース・D・ペリー、出版社:紀伊國屋書店
 アメリカの子どもの40%は18歳までにトラウマになりうる経験を一度はする。
 2004年、アメリカ政府の児童保護機関に児童虐待あるいはネグレクトが300万件報告された。そのうち90万件近くが事実だと確認されている。17歳未満の子どもの8人に1人が過去1年内に大人からなんらかの深刻な虐待を受けていて、27%の女性、 16%の男性が子ども時代に大人から性的虐待を受けている。
 アメリカでは、1000万人の子どもが家庭内暴力のある環境にいて、毎年15歳未満の子どもの4%が親を亡くしている。毎年80万人の子どもが里親のもとで暮らしている。虐待を受けた子どもの3分の1は、それが原因で明らかな精神的な問題を抱えている。
 人間は学ばなければ人間的にはなれない。すべての人間が人間的な心を持っているわけではない。
 彼女は、とても幼い時期に性的虐待を受けたせいで、脳のシナプスが非常に不幸な形につながりを作ってしまった。彼女のごく幼いときに関わった男性たちと、加害者の少年が、男性とはどういうものかという概念と、異性への対処法を決めてしまった。幼いころ周囲にいた人々によって、人間の世界観は形づくられてしまう。
 男が自宅に入ってきて母親を強姦殺人し、そばにいた3歳の女の子まで殺そうとしたが、奇跡的に子どもは助かった。その子はいったいどうなるのか・・・。
 ノドを切り裂かれた3歳の子どもは、泣きながら手足をしばられ冷たくなっている血まみれの母親の死体を元気づけようとし、自分も慰めを得ようとしていた。どれほど心細く混乱し、恐ろしかったことだろう。だから、医師の質問を無視したり、隠れたり、特定のものを怖がったりするという症状は、トラウマを寄せつけないために彼女の脳が築き上げた防衛手段なのである。このような子どもを治療するには、この防衛手段を理解することがとても重要だ。
 呼び鈴、そう呼び鈴からすべてが始まった。呼び鈴の音が殺人者の到着を告げたのだ。日常的にありふれたものが、彼女を終わることのない恐怖に陥れる記憶を呼び起こす合図に変わってしまった・・・。
 脳は、おびただしい量の情報を処理するため、世の中がどういうものかを予期するため、パターンに頼らざるを得ないのだ。
 脳は、いつも、現在はいってくるパターンを、過去に貯蔵されたひな型やつながりと比較している。この比較のプロセスは、最初、脳の最下部のもっとも単純な部分、危険に反応する神経系の始まりの部分で行われる。情報が処理の最初の段階から上がっていくとき、脳は、このデータをもう一度見直し、より複合的に検討と統合を行う。けれど、最初に脳が知りたいのは、今入ってきているこのデータには危険の可能性があるのか、ということだけだ。その経験が安全だと分かっているなじみのあるものだったら、脳のストレスシステムは活性化しない。しかし、入ってきた情報がとりあえずなじみがなく、初めてあるいはよく知らない体験だったとき、脳はすぐにストレス反応を始める。このストレスシステムがどこまで活性化するかは、その状況がどれだけ危険に見えるかによる。重要なことは、何もない状態では受け入れるのではなく、疑うのが基本だということだ。少なくとも、新しい、未知のパターンの活性に直面したときには、さらに警戒する。この時点での脳の目的は、より多くの情報を得て、状況を検討し、どれだけ危険かを判断することだけ。人間が出会う、もっとも危険な動物は常に人間なので、声や表情や身ぶりなど言葉以外の部分に悪意が感じられないかをじっと観察する。
 落ち着いた状態なら、人は脳の皮質部分だけで楽々と生きていける。脳の最高の能力をつかって、抽象的なことを考えたり、計画を立てたり、将来の夢を考えたり、読書したりできる。しかし、何かに注意をひかれ、思考を破られたとき、人間は警戒し、現実的になり、脳の活動の中心を大脳皮質より下の領域に移し、危険を察知するために知覚を鋭敏にしようとする。刺激に反応しつづけ、やがて恐怖を感じるようになると、脳の下部のもっとすばやい反応をする領域に頼らざるを得なくなる。たとえば、完全なパニック状態になっているときに起こる反応は反射的なものであり、事実上、意識ではコントロールできない。恐怖は、文字どおり、人間の頭を鈍らせる。これは、短いあいだ、すばやく反応し、その場を生きのびるための性質だ。
 幼い脳には適応力があり、愛情や言葉をすばやく学ぶことができるが、不幸なことに、そのせいでネガティブな経験の影響も受けやすい。3歳児までの、脳の重要な社会的回路が発達する時期にネグレクトされていたので、誰かを喜ばせたり、ほめられたりすることの喜びが本当には理解できない。教師や友だちを怒らせて、拒否されても、それが辛いという気持ちにならなかった。正常な発達をしておらず、人間関係を喜びに感じることができないので、他人の思いどおりにしなければならないという必要性を感じなかったし、人々を喜ばせてもうれしくなかったし、他人が傷つこうと傷つくまいと気にならなかった。
 社会病質者が他人に共感できないのは、他者の感情を感じとれないのと同時に、他者への同情心がない。つまり、他人の気持ちがまったく分からないというだけでなく、他人を傷つけても気にしない、あるいは、積極的に傷つけたいと思うのだ。
 虐待やネグレクトでトラウマを受けた子どもに対して何かを強制したり、威圧したりするのは逆効果で、さらにトラウマを与えるだけ。
 いやはや、とんでもないケースが世の中にはあるものですよね。子どもたちの心の闇が、大きくなって手のつけられないほど肥大化して社会に対して復讐する。そんなことにならないよう、温かい目で子どもたちをしっかり受けとめ、抱きしめてやりたいものだと、つくづく思いました。とても勉強になる本なのですが、こんな残酷な現実があるなんて信じられない、信じたくないという気になったのも事実です。でも、とりわけ弁護士にとって必読の本だと思います。
(2010年2月刊。1800円+税)

朝鮮戦争の社会史

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:金 東椿、出版社:平凡社
 朝鮮戦争を戦争史ではなく、人々の経験から見直した労作です。なるほど、そういうことだったのかと思い至ったところが多々ありました。しっかり読みごたえのある500頁に近い大作です。
 韓国人にとっての朝鮮戦争は、仲むつまじく過ごしてきた隣人が突如として悪魔に変身した経験であり、自らの生命と財産を守るはずの政府と公権力のエージェントが生命と財産を奪う存在に急変した地獄の体験であった。
 そうなんですね。「敵」は攻めてきた北朝鮮軍だけではなかったのでした。その実情が詳しく紹介されています。
 アメリカは、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んでいる。アメリカにおいて、朝鮮戦争は、第二次世界大戦やベトナム戦争に比較して研究書などがきわめて少ない。
 ある日、突然に北が戦争を敢行して、平和だった南の社会を悲劇に陥れたという韓国の公式解釈は、6.25以前の政治社会の葛藤と李承晩政権の北朝鮮に対する好戦的な姿勢はもちろん、戦争以後、韓国の政治社会が新たに構造化され、軍部勢力が北朝鮮の脅威を名分に表舞台に登場して30年あまりのあいだ、権力の蜜を吸い、軍部エリートたちが社会のエリートとなって膨大な特権を享受してきたという社会的事実を隠蔽する。
 1950年6月25日、大韓民国はまったく戦争に備えていなかった。6月24日夜は、軍の首脳部は盛大なパーティーをしていて、陸軍参謀総長は明け方まで酒を飲み、朝まで酔いが覚めない状態だった。
 李承晩も韓国軍も、最小限の努力すらしなかった。これはアメリカの援助なくして可能なことすらしなかったという意味である。
 李承晩は何の準備もなく戦争を迎えた。自分の身が危うく、国家が崩壊するかもしれないという絶体絶命の危機の前で驚いたり、当惑することはなかった。
 アメリカの北朝鮮の戦争準備、しかも開戦日時まで知っていたことは明らかである。
 李承晩も、韓国政府も、越南者や共匪討伐過程で逮捕したパルチザンを通じて、北の戦争準備を正確に把握していた。韓国の権力中枢は、北の戦争準備と具体的な戦争開始日まで、知りうる者はみな知っていた。
 戦争勃発の当日である6月25日の李承晩の驚くべき落ち着きぶり、それはきわめて重要な、誰にとっても謎にみちたミステリーなのである。
 李承晩は、1949年末から、機会あるごとに「北進論」を主張してきた。というのも5.30選挙以後、李承晩は政治的窮地に追いつめられていた。5.30選挙で、与党は11%の支持しか得られなく、執権2年の李承晩政権は失脚寸前の状態だった。戦争が始まらなかったら、その失脚は時間の問題だった。だから、アメリカの堅固な後援のもとで勝利する可能性のある戦争を自らの権力維持のための一種のチャンスとして認識する十分な理由が李承晩にはあった。
 なるほど、なるほど、うむむ。そういうことだったのですか。いやはや、ちっとも知りませんでした。
 1949年から1950年初めまでの大討伐作戦で、南にいた北のパルチザンは、ほぼ壊滅状態だった。北が南侵してきても、南の人々が蜂起することはなかった。
 5.30選挙では、無所属が大量当選し、李承晩の手先はのきなみ落選した。当局による激しい選挙干渉があったなかでの結果であるから、李承晩政権に対する支持がほとんどなかったことを意味する。
 ところが、北朝鮮が「祖国解放」を名分にして戦争を起こし、南朝鮮の民衆が李承晩政権から解放される機会を得ることになったにもかかわらず、彼らがそのまま静かに人民軍を受け入れたのを見ると、数年間の左右対立と双方からの忠誠の要求に民衆も極度に疲れ萎縮していたのではないかと思われる。とくにパルチザン活動地域内に暮らしていた農民は、事実上、生存のために、昼は大韓民国の軍と警察に、夜はパルチザンにそれぞれ協力しないわけにはいかなかった。
 険しい世の中の荒波を経験した彼らが得た知恵は強い者の側に立つことだった。住民に生の哲学があったとすれば、唯一、どちらの側からも処罰されず生き残らなくてはならないというものであり、それは社会主義や資本主義という理念よりもいっそう重要であった。
こうした理由から住民は、人民軍がやって来たときは人民軍に、韓国軍がやって来たときには韓国軍に協力する準備ができていた。
 ソウルが陥落の危機に瀕した状況において、李承晩は自らの避難に対してアメリカの大使と相談しただけで、国会議員には相談しなかった。そして非常国会が開かれていた真っ最中の27日の明け方に、国会の要人たちにも知らせず、アメリカ大使にも通報しないままソウルを離れた。銀行券もそのままにし、政府の重要文書も片づけず、数万人の軍人たちを漢江以北に置いたまま・・・。
 李承晩にとって、大韓民国の安全保障について実質的な責任を負うアメリカだけが主要な対話の相手だったのである。
 アメリカは、6月28日、2500人にのぼるアメリカ人を全員安全に日本へ対比させた。李承晩政権は、国家の救出を掲げながら、国家の構成員である国民の生命は無視していた。
 「国家不在」の状況で、人々は人民軍と韓国軍のどちらに徴収されたとしても誇らしいことではないと考えた。ただひたすら逃げて一身の生を守ることが賢明と考えた。
 朝鮮戦争の全期間にわたり、人民軍の南下を避けて避難した政治的避難よりも、アメリカ軍の爆撃から逃れるために避難した場合がはるかに多かった。
 アメリカ空軍の無差別的な爆撃は、朝鮮人を恐怖に陥れた、もっともむごい出来事だった。とくに38度線以北に対する爆撃は想像を絶するほどだった。当時の平凡な国民の目には、李承晩だけが自分だけ生きのびようとした存在として映ったということが重要である。
 李承晩は、国家や民族よりは自らの生存と権力維持をまず第1に考慮する人物であった。
 李承晩の生涯には驚くほど一貫した原則があった。権力欲が、まさにその原則であった。
 マッカーサーは李承晩に韓国の安保をアメリカが守ると約束していた。李は情報員を通じて北朝鮮の侵攻を十分に予想していたし、北の侵略に南が対処しえないこと、そのまま放置すると朝鮮半島は内戦に突入することもはっきり認識していた。李は核を保有した世界最強のアメリカが頼もしい存在と考えており、アメリカは韓国を見捨てないと信頼していた。
 李承晩は、アメリカとソ連という超大国が主導する冷戦対立のなかでは、「無定形」な国民の支持や支援よりも、アメリカの軍事的・経済的支援がより重要だと知っていた。大韓民国防衛の責任は自分ではなくアメリカにあるという政治的判断をすべての前提としていた。
 「反共を国是として掲げた」韓国の歴代政府が、人民軍が後退しながら犯した左翼側の虐殺を本格的に調査したことがないのは不思議である。しかし、それは、それまで共産党の蛮行と思われていた事件が、実は、右翼側による民間人虐殺事件であったと判明することを恐れてではないかと考えられる。たとえば、共産党の反乱あるいは良民虐殺事件と考えられてきた済州島四・三事件や麗順事件において、今では犠牲者の大部分は反乱軍ではなく韓国軍・警察・右翼による虐殺だと推定されている。「アカは殺してもいい」という原理は、実際に、今日の資本主義的経済秩序と法秩序、社会秩序に内在化し、再生産されている。それはファシズムの民族浄化の論理と本質的に同一である。「アカ狩り」という権力行使の欲求を抑制できる程度に民主主義は発展したが、現在の韓国の民主主義と人権の水準・市民社会の道徳性の水準は、一介の新聞社が過去の「国家機構」に代わって個人の思想的純粋性を審査し、追放を扇動できるという事実に集約されている。
 500頁に近い大変な力作です。朝鮮戦争に関心のある人には必読の基本的文献だと思います。
(2008年10月刊。4800円+税)

リクルート事件、江副浩正の真実

カテゴリー:司法

著者:江副浩正、出版社:中央公論新社
 今は昔の事件となってしまいました。リクルート事件です。
 1988年、51歳の著者は30年ほどつとめた社長をやめてリクルート会長に就任。このとき、グループ売上1兆円、経常利益1000億円。そして、リクルート事件が「始まった」のは1988年6月18日の朝日新聞。川崎市助役の川崎テクノピアビル建設疑惑から。この助役は、結局、起訴されなかった。
 著者は、映像の力は強い。新聞を読むよりテレビをみる方が辛かったと言います。
 私は日ごろ、テレビを全然みませんが、それはテレビ映像の生々しさが嫌だからでもあります。事故や事件の生々しい映像は私の心にグサリと突き刺さってしまい、映像のインパクトが強烈すぎて、何ごとも考えられなくなるのです。
 著者を病院で取り調べたのは今の検事総長(樋渡利秋検事)でした。
 当時のリクルートグループは500億円の利益をあげていた。その1%の5億円なら、寄付は非課税になる。その枠内で政治家のパーティー券を購入していた。
 つまり、現体制を維持することにリクルートは利益があると考えていたわけです。そのこと自体についての反省は、この本にはまったくありません。残念です。
この本には、検察官の取り調べ状況が「再現」されています。
「特捜の捜査がどんなものか見せてやる。捜査を長引かせているのは、おまえだ」
「バカヤロー!検察官に対して何たる態度だ。検察官をバカにするのもいいかげんにしろ!おまえの態度は、あまりにも自分本位で、傲慢だ!」
 「実に不愉快だ。これまで、キミに好意をもっていたが、憎しみと変わった。憎しみが倍加した。なぜ素直に罪を認め、調書に署名しないんだ!」
 「実に不愉快だ。罪名拒否の調書は裁判で不利になるぞ!今日は、もう調べをやめる。帰れ!」
 拘置所の接見室における弁護士との面会について、本当は秘密は保持されていないのではないのかと著者は指摘しています。
 極小カメラ分野で、日本は世界一の先端技術の国である。取調室内の天井ボードの穴に極小電子カメラを組み込んだビスのようなものを貼って、そこから髪の毛ほどの細い高速デジタル回線か、マイクロウェーブで映像を本庁へ送信する。マイクは小型の1センチ四方、2~3ミリの厚みで、接見室のテーブルや椅子の下に設置し、無線で音声を送る。本庁では、隠しカメラやマイクで取調室の様子をモニターしている。
 以上は想像だという断りがついてます。本当だとしたら、恐ろしいことですね・・・。
 検事が机を持ち上げる。積み上げられた書類がドーンと音を立てて落ちる。
 「立てーっ!横をむけーっ!前へ歩け!左向け左!」
 壁のコーナーぎりぎりのところに立たされ、すぐそばで検事が怒鳴る。
「壁にもっと寄れ!もっと前だ」
鼻と口が壁にふれるかどうかのところまで追い詰められる。目をつぶると、近寄ってきて、耳元で
 「目をつぶるな!バカヤロー!!オレを馬鹿にするな!オレをバカにするな!俺を馬鹿にすることは、国民を馬鹿にすることだ。このバカ!」
 鼓膜が破れるのではないかと思うような大声で怒鳴られた。鼻が触れるほど壁が近いので、目を開けているのは非常につらい。検事は次のようなことも言った。
 「そのような態度だと、弁護士の接見を禁止する。弁護士の逮捕も考える」
 「おまえは嘘をついていた」
 検事は、たたみかけるように、怒鳴った。
 「立て、窓際に移れ!」
 「オレに向かって土下座しろ」
 新聞が書くことは世論。新聞が書いているのに立件しないと捜査の権威が失墜してしまう。
特捜の人員は、たかだか30数名、新聞、テレビ、新聞やテレビなどの記者は、我々の数十倍いる。こっちは手が足りない。
 特捜は、疑惑があると報道されたなかから、あげられそうな立派なものを選ぶ。
 それにしても、検事の自白強要はいつもながらのやり方なのに驚いてしまいます。
(2009年10月刊。1500円+税)

ホソカタムシの誘惑

カテゴリー:生物

著者 青木 淳一、 出版 東海大学出版会
 70歳で無職となって昆虫少年に戻った著者の、心躍る採集日記です。読んでる方まで楽しくなります。虫とりカゴを持って野山を駆ける昆虫少年を思い浮かべました。
 ホソカタムシは、大きさが5ミリほどしかない小さな昆虫です。しかも、地味な色合いをしていて、動きも緩慢なので、野外で見つけるのは難しい昆虫です。しかし、昆虫少年たちはそれを難なく見つけます。そこはもう、意気込みが違うのですよ……。
 ホソカタムシは生きている樹木にはおらず、枯れ木に住みついている。枯れ木の菌類か甲虫の幼虫を食べる。生きた樹木は食べないので、害虫にはならない。
 身体はガッチリと固く、光沢はなくても複雑な彫刻が施されていて、触角の先が玉になって膨らんでいて、身体は細く、両側が平行な虫である。
 ホソカタムシは、人間に見つかっても、あわてず騒がず、ゆっくりのっそりと落ち着いて、マイペースで歩いていく。その動きは、まことに優雅で気品に満ちている。
 この本には、ホソカタムシの写真と著者自身のペンで描いた精密画の2つで紹介されていますから、その生態がよく分かります。とりわけ、生態画のほうは、いかにも昆虫少年らしく丹念にペンで描かれていて、ほとほと感心・感嘆します。
 著者はホソカタムシを求めて、熊本、徳之島、石垣島、北大東島、種子島、そして小笠原諸島まではるばると出かけます。沖縄ではハブの出現を心配しながら森の中へ分け入っていくのです。いやはや、さすがに昆虫少年の心を持っていないとできませんね、こんなことは……。
ただ、その地で夜は美味しい料理を食べて、お酒を飲むわけですから、本当に豊かな老後を過ごしておられると、羨ましく思ったものでした。
 細密画の中では、ノコギリホソカタムシが印象に残りました。ギザギザ、コブコブの突起物に覆われた姿は、アニメ漫画に出てくる怪獣のようだと紹介されていますが、まったくそのとおりです。
 東北以南の日本全国どこにでもいるホソカタムシです。でも、これも3~5ミリと小さいので、目立たないんですよね。
 大変な貴重な労作だと思いました。
(2009年2月刊。1600円+税)
 いま、我が家の庭はアイリス、ジャーマンアイリス、ショウブ、アヤメの花盛りです。みんな背が高く、姿も形もとりどり艶やかなので、まさに花園です。アイリスは黄色、ショウブはキショウブ、アヤメは薄紫色です。そしてジャーマンアイリスは青紫色が多いのですが、濃茶色の花のほか純白の花もあります。華麗で会って清楚なたたずまいの真っ白さに、えもいわれぬ気高さを感じます。
 私の個人ブログに花園を公開中です。一度ぜひご覧ください。

北畠親房

カテゴリー:日本史(中世)

著者 岡野 友彦、 出版 ミネルヴァ書房
 鎌倉時代末期(13世紀)、公家社会は、親幕府的傾向を持つ持明院統よりのグループと、反幕府的傾向を持つ大覚寺統よりのグループに大きく分かれていた。公家社会にとって最大の感心事は、自家の存続であり、いずれかのグループに旗幟を鮮明にしてしまうことは、きわめて大きなリスクを追いかねない。そこで、ほとんどの公卿層は、いずれの勢力にもある程度のコンタクトを持ちつつ、周囲の情勢をうかがっていた。そのなかで、あえて大覚寺統よりであることをいち早く鮮明にしたのが北畠家の人々だった。
 北畠家の盛衰は、とりもなおさず大覚寺統の盛衰を反映したものにほかならなかった。親房は、北畠家の嫡男として生まれた時点で、大覚寺統派の公卿として活躍すべき運命が初めから定められていた。
 中世社会の平均寿命は、およそ50歳。後醍醐天皇52歳。足利尊氏54歳、新田義貞は39歳で亡くなった。当時の人々は、40歳を一定の定年と考えていた。当時の人々にとって出家とは、今日の定年退職にほかならない。40歳をすぎてからの人生は、いわば第二の人生であった。親房は、38歳で出家したが、父も38歳で、祖父は46歳で出家していた。
 北畠親房は、出家した後、陸奥、伊勢、そして常陸へと下向し、その地の実情を目の当たりにして、その地の人々と交流するなかで、40歳を超えてから人間として大きく成長を遂げた。
 親房は、むやみに尊氏を厚遇しておきながら、安易にまたこれを破棄しようとしている後醍醐天皇の朝令暮改ぶりに対して、このままでは世論の信頼を失う可能性があると諫言したかったに違いない。
 奈良時代以来、壬申の乱の記憶なるものは、天皇家にとって、常に立ち直ってもっとも輝かしい過去であった。うひょう、そ、そうなんですか……。ちっとも知りませんでした。
 大日本は神国なり。この書き出しに始まる『神皇正統記』のなかで、親房は、不徳の天皇は廃位されて当然としている。この本は、幼少の後村上天皇を訓育・啓蒙するために書かれた本である。
 「南北朝」対立の本質は、あくまでも公卿中心の政治を目ざす南朝と、武家中心の政治を目ざす足利政権との争いであった。これが武家政権によって巧妙に「君と君との御争い」に持ち込まれてしまったのである。
 北畠親房を保守反動の象徴的人物とみるのは必ずしもあたっていないという本書の指摘は、大いにうなずけるところがありました。
 中世日本における公卿と武士の関係を考え直させてくれる面白い本でした。
 
(2009年10月刊。3000円+税)

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