法律相談センター検索 弁護士検索

警察庁長官を撃った男

カテゴリー:警察

著者:鹿島圭介、出版社:新潮社
 国松孝次・警察庁長官が暗殺されようとした事件が、ついに時効を迎え、迷宮入りが確定してしまいました。日本警察の完敗です。
 この本は、捜査にあたっていたのが警視庁公安部であったから犯人検挙ができなかったのだと口をきわめて再三再四、厳しく弾劾しています。
 先ごろ、日曜日、マンションに日本共産党の赤旗新聞号外を配布した人(公務員でした)を強引に検挙して、あげくの果てに無罪になった事件がありましたが、その事件の主役も同じ警視庁公安部でした。マンションへのビラ配布事件では。1ヶ月ほどもその人を尾行していて、ビデオで撮影していたと言います。よほど警視庁公安部ってヒマなんですね。とても犯罪にならないような事件を何十人もの公安係の刑事が尾行していたというのです。全部、これって税金でまかなわれる公務なんですよね。ひどいムダづかいです。ところが、自分のボス(親玉)の暗殺未遂事件では犯人検挙ができなかったというわけです。警視庁公安部って、どっか狂っている感じですね。
 時効が完成したあと、やっぱりオウムが疑わしいんだという報告書を警視庁公安部が主体の捜査本部が発表してマスコミから叩かれていましたが、その批判はもっともだと思います。強力な権力を握っていながら、立件もできなかったのに、あいつは疑わしかったんだ、なんて犬の遠吠えみたいな言い草はないと思います。
 この本の恐るべきところは、暗殺(未遂)犯を実名であげ、その背景と経過を明らかにしたうえ、なぜ立件されなかったのかを追及しているところです。
 結局、警視庁公安部がオウムを犯人に仕立てあげるのに固執していたため、すべては狂ってしまった。このように著者は言いたいのです。
 警察庁長官狙撃事件で犯人とされていたのは、オウム真理教の現役信者であった元巡査長でした。この人は、なんと3回も警視庁公安部から取り調べを受けたのです。これは、たしかに異例すぎます。
 この異例の大失敗を重ねた責任者は、2010年1月に警視総監を勇退した米村敏明氏だと、著者は厳しく弾劾しています。この本を読むと、それもなるほどと思わせます。米村氏の弁明を聞いてみたいと思いました。
 警察庁長官狙撃事件が発生したのは1995年3月30日のことです。その10日前の3月20日にオウム真理教による地下鉄サリン事件が発生しています。
 そのころ私は弁護士会の役員をしていましたから、上京することも多く、地下鉄の霞ヶ関駅にもよく行っていました。事件にぶつからなかったのは運が良かったとしか言いようがありません。
 国松長官が住んでいたマンションは、超高級マンションであり、国家公務員の給料だけで買えるはずはないという指摘もされていました。私も、そうだと思います。県警本部長を退任すると巨額の餞別金をもらえる。また、警察の裏金の支給もある。こんなお金で、この超高級マンションを購入したのではないか・・・。この疑問のほうも解明されないまま、事件は時効を迎えてしまい、本当に残念です。
 日本の警察よ、もっとしっかりしてくださいね。お願いしますよ。
(2010年4月刊。1500円+税)

日本のモノづくりイノベーション

カテゴリー:社会

著者:山田伸顯、出版社:日刊工業新聞社
 日本は世界に冠たる貿易立国として、国際収支の黒字を続けている。輸出の大きなウェイトを占めるのが製造業で生み出した財で、そのうち機械金属の工業製品が76%を占める。
 そのモノづくりの地位が低下しつつある。さあ、どうするか・・・。
 東京都大田区にある中小零細企業が日本のモノづくりを支えていること、まだまだ日本も捨てたものじゃないことがよく分かり、門外漢が読んでも元気が出てきて、大いに応援したくなってくる本です。
 量産体制を成り立たせるには、それを支える技術(支持産業)が必要である。次々と変化する時代の先端的産業を担う特殊技術や製産分野の中間技術を下支えする底辺の技術で、この基礎的技術が、産業技術全般の発展には不可欠である。これが不十分だと、その国の産業の自立的発展が困難となる。この技術を基盤技術という。
 日本の産業が国際競争において圧倒的に優位だったのは、この基盤技術がしっかりしていたから。ところが、現在、この基盤技術が揺らいでいる。この習得には時間と根気を要する熟練技能そのものであるが、苦労して技能を受け継ごうとする若者が少なくなっていることにもよる。
 大田区の工場は、1983年がピークで、9190、2003年に5040、2005年には4778になった。20年間で4000以上の工場が消滅してしまった。
 海外進出しても、生産技術の生まれる生産拠点を日本国内に温存し、国内を空洞化させないことが日本の企業にとって重要な経営戦略である。
 高校生に工場に入って現場で実戦させる教育がすすんでいることに感嘆しました。そうですよね、これが必要ですよ。
 1年は2週間のインターンシップを年に3回、2年生は2ヶ月の長期就業訓練、3年生も2ヶ月だけど、希望によりさらに2ヶ月の訓練を受けられる。
 職場体験学習が広まることにより、子どもが社会に対する認識をもち、生きることの目的を考えるようになる。受け入れる企業の側では、未熟な若者に教える経験を通して、工程を見直して分かりやすくするなど改善し、社内に新たな刺激をもたらしている。
 そうなんですね。未熟の若者に教えるのは企業にとっても、単なるボランティアだけでなく、それなりのプラス面もあるわけです。
 特許についても、小さな町工場が超大企業と対等の立場で契約したり、見える理論部分だけ特許をとって他の人には分からない電子回路についてはあえて特許を取らないという工夫が紹介されています。町工場が生き抜いていく知恵ですね。
 町工場のいろんな工夫が盛りだくさんに紹介されている面白い本です。
(2009年1月刊。1800円+税)

地雷処理という仕事

カテゴリー:アラブ

著者:高山良二、出版社:ちくまプリマー新書
 こんな危険な仕事を自らすすんでやっている日本人がいるなんて素晴らしいことです。しかも、私と同世代の人です。自衛隊を定年退職したあと、一度派遣されて行ったカンボジアに再び渡って地雷処理の仕事をしているのです。
 自衛隊の人も、戦争大好きだという人ばかりでないのを知って、とてもうれしく思います。人を殺すより、人を助けるのに生き甲斐を見いだすって、本当に素敵ですよね。
 英語もカンボジア語もよく出来ないのに、おじさん(現地では、おじいさん、ターと呼ばれています)が現地にとびこむのです。なんという勇気でしょうか。しかも、日本に妻子を置いての単身赴任です。すごいですね・・・。
 地雷除去の作業は、まず2人で1組、1人が地雷探知員となり、幅1.5メートル、奥行き40センチの範囲の雑木や草を地面ギリギリまで取り除き、金属探知機を操作できるようにする。うしろで待機している地雷探知員は金属探知機で、その場所を探知する。金属反応がなければ、さらに40センチ前に前進する。この作業を繰り返し進めていく。
 金属反応があったときには、その場所を地雷探知棒や小さなショベルで磁石などをつかって、金属が何であるかを慎重に調べる。このときが大変危険な作業であり、地雷を作動させてしまう部分に触れないように細心の集中力を要する。
 寸刻みで土を取り除き、再び探知機で探知しながら、金属の正体が分かるまで繰り返す。
 地雷原が戦闘地域であったことから、小さな鉄片や小銃弾ということも多い。40センチを進むのに1時間以上を要することがある。
 地雷が発見されたら、その場所に地雷標識を立て、午前中の終わりころか、午後の終わりころにTNT爆薬で爆破処理する。この爆破にあたるのは、地雷探知員ではなく、爆破作業の訓練を受けた隊員が行う。専門家がそれを確認する。
 無金属の地雷はない。72A型対人地雷のように、9割以上がプラスチック製であっても、撃針など一部はどうしても金属を使わないといけない。
 また、地雷や不発弾には、必ず爆薬が使われている。爆薬の有無の確認には、地雷探知犬が使われている。ここでは、83頭の地雷探知犬が活動している。
 地雷探知員(デマイナー)は、33人で一個小隊、ひとつのグループをつくる。99人、3個小隊で地雷処理作業にあたる。平均年齢24歳。半分近くが女性。40度をこす厳しい天候なので、30分作業して、10分休む。
 地雷処理という危険な仕事をするときに大事なことは、基本的な動作を慎重にやること。怖いと常に思うことが大切。怖くなくなったら、デマイナーはしないほうがいい。怖くなくなったときに事故が起きる可能性が高くなる。
 うひゃあ、そういうことなんですね。慣れは、この場合、よくないのですね。なにしろ生命がもろにかかった仕事ですから、そういうことなんでしょう・・・。
 カンボジア全土に埋められている地雷は400~600万個。これをデマイナーが手作業で取り除いている。年間に処理する地雷は1万個。
 地雷処理車を使ったらと思うかもしれないが、現地には手作業しかできないところも多いので、仕方のないこと。
 そして、著者たちが除去している地雷は、実は、なんと村人自身が埋めたものだったのです。村人は元クメール・ルージュの一員だったのでした。なんということでしょうか・・・。ポルポト軍に命令され、やむなく埋めた地雷を今、生命がけで除去しているというのです。
 すごく分かりやすい、いい本でした。
(2010年3月。780円+税)

在日米軍最前線

カテゴリー:社会

著者  斉藤 光政  、 新人物文庫 
 日本とアメリカによる3年かかりの壮大なガラガラポンの果てに姿を現したのは、アメリカ軍によるさらなる基地強化、つまり日本列島の前線化にほかならなかった。それは、戦略展開拠点ニッポンの現実だった。
 「世界の警察」を自認し、世界中のどこにでも即時に出撃することを前提としているアメリカ軍は150万人の大兵力を世界の5つの地域に分けて展開している。この統合軍で最大規模を誇るのが、ハワイに司令部を置く太平洋軍だ。
 太平洋軍の総兵力は30万人。在日アメリカ軍は、陸軍2千人、海軍5千人、空軍1万4千人、海兵隊1万8千人の計3万9千人。このほか、太平洋艦隊第7艦隊1万2千人がいるので、太平洋軍の6分の1、5万人が日本列島を拠点に活動している。
 私は、近く(5月末に)青森の三沢に出かける予定です。この三沢にはアメリカ軍の第35戦闘航空団が常駐しています。
 三沢基地には、戦闘機F16Cファイティングファルコン40機が配備されている。この航空団は、敵防空網の制圧と制空権の確保が目的であり、全軍の露払いを使命とする。
 三沢基地には、「ゾウのおり」と形容される巨大な円形アンテナと、14基の大型パラボラアンテナが林立するパラボラアンテナのうち4基は秘密通信傍受システム「エシュロン」に使われていて、軍事スパイ網の要となっている。
 アメリカは、青森県を「友好的で、アメリカ軍基地に対する抵抗感が強くなく、機密保持に適した場所」とみている。三沢基地には、アメリカ軍がF16を2個飛行隊かかえ、自衛隊がF2を2個飛行隊かかえる。つまり、80機の攻撃飛行隊が集結する。こんな基地は世界でもまれだ。このように三沢基地は、対地攻撃に特化した一大拠点になろうとしている。
1960年代、三沢のアメリカ軍基地では、1年間に2000発以上の核模擬弾を消費していた。三沢は「核漬け」の状態にあった。1961年9月から1963年8月までの2年間に、6機ものF100戦闘爆撃機が訓練ルートで墜落した。これらの事故の多くは公にされることはなかった。
 核攻撃任務を与えられていたのは三沢基地だけではない。埼玉県の入間、福岡県の板付、愛知県の小牧、沖縄県の嘉手納も同じである。
 嘉手納の核貯蔵庫から、三沢、入間、小牧、板付に核弾頭が搬出されていた。嘉手納には、予備もふくめて最低200個、通常400個ほどの核弾頭が配備されていた。今、これがゼロだとはとうてい思えませんが・・・・それはともかく、日本がアメリカ軍の最前線基地になっているなんて、とんでもないことです。
 ところが、多くの日本人は今なお、アメリカ軍が日本を守るために日本にある基地を構えているかのように錯覚しています。アメリカが日本を守ってくれるなんて、ありえないことです。むしろ、アメリカの戦争に日本が巻き込まれてしまう危険のほうがよほど大きいと思います。
 そんなことを実感させてくれる絶好のレポートです。小さな文庫本ですが、内容はずっくりと重たいものです。どうか、ぜひ読んでみてください。
 
(2010年3月刊。667円+税)

北朝鮮帰国事業

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:菊池嘉晃、出版社:中公新書
 戦後、日本にいた朝鮮人が北朝鮮へ帰国していった。1959年12月から1984年7月まで、9万3340人。
 「地上の楽園」と前宣伝されていた北朝鮮にたどり着いたあとに待ち受けていたのは、あまりに苛酷な現実だった。そのうち日本に再び「帰還」できたのは、わずか200人ほど。9万人をこす「帰国者」のうちには、日本人妻など日本国籍をもつ人が6800人いた。しかし、彼らも日本への「里帰り」は例外を除いて認められなかった。
 北朝鮮からの手紙に次のように書いてきた帰国者がいた。
 「あなたの子どもたちは、みんな今、府中の別荘に入っている。この国自体も、大きな別荘だ」
 ここで、府中の別荘とは、刑務所を意味している。しかし、この手紙を受けとった人は、にわかに信じられなかった。
 終戦時の日本に在日コリアンは200万人いた。1946年3月までの7ヶ月間に  130万人が帰国した。しかし、その後は、1950年5月までの4年あまりに10万人しか帰国しなかった。
 それは朝鮮南部における就職難と生活費の高さに帰国者が直面したからである。在日コリアンの97%が「南」の出身だった。1948年4月の済州島4.3事件は、在日コリアンに衝撃を与えた。李承晩政権やアメリカへの強い不信感を植え付けた。
 日本の外務省は、厄介払い願望をもちつつ、北朝鮮への追放政策は実行できないことを認識していた。
 在日朝鮮人の集団は、日本当局の悩みの種であった。
 日本政府は、数万人に及ぶ朝鮮人が、非常に貧しく、また大部分がコミュニストである彼らを厄介払いしたがっていた。帰国事業は公安と財政の問題を同時に解決することになるものだった。
 日本からの帰国者を出迎えた北朝鮮の人々は、びっくり仰天した。みすぼらしい服で日本から帰ってくるものだと思っていると、北朝鮮では想像もつかないくらい立派な服装だった。天女が下りてきたようだと思い、何度もその服に触った。逆に帰国者は、出迎えた2000人のみすぼらしい姿に、驚き、ぽかんとした。「これはウソだ」「まいったな」と、つぶやいた。
 帰国者の歓迎会で、北朝鮮人民と同じ綿入れ服を贈ろうと用意していたが、取りやめた。日朝間の生活格差を知ることなく、「地上の楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者と、「日本で虐げられた貧しい在日コリアンを受け入れよう」という当局の呼びかけだけを聞かされてきた北朝鮮の人々。双方の不幸な関係は、帰国船が着いた瞬間から始まっていた。
 日本の生活に慣れ、「楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者にとって、日本より生活水準の低かった北朝鮮で「優遇」されても、ありがたく感じた人々はほとんどいなかった。
 平壌に住めた帰国者は全体の5%だけ。
 北朝鮮当局に歓迎された帰国者は、工業部門の技術者、化学者、医師。逆に敬遠されたのは、政治・経済・法律専攻志願者、次いで病人、日本人妻、老人であった。
 北朝鮮への帰国事業は在日コリアン9万人あまりを悲劇に陥れてしまいましたが、それは北朝鮮当局と朝鮮総連のみでなく、また社会党や共産党などの左翼の責任は大きいものの、日本政府もまた小さくない責任を負うべき問題だと思いました。
 それにしても、北朝鮮を「地上の楽園」だなんて、よくも大きな嘘をまき散らしたものですね。信じられません。国自体が強制収容所だというのは、まさに、そのとおりですよね。50年たった今でもそうなのですから、世の中、信じられないことが多過ぎます。
(2009年11月刊。800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.