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グリーン・ゾーン

カテゴリー:アメリカ

著者 ラジブ・チャンドラセカラン、 出版 集英社インターナショナル
 グリーン・ゾーン内では、食べ物のすべて、ホットドック用のソーセージを茹でる水まで、イラク国外の指定業者から調達するべしというアメリカ政府の規則がある。
 そこでの料理は、みんなが故郷にいるような気持ちになれる者でないといけない。その故郷とは、アメリカ南部を指す。
 共和国宮殿の中ではワシントンの連邦政府庁舎と同じ規則が適用されている。誰もが身分証明書用のバッジをつけ、天井の高い大広間では行儀よくすることが求められている。
 グリーンゾーンの外に出るには、最低でも自動車を2台連ねなくてはならず、しかも、それぞれM16ライフルか、それ以上に強力な武器を携行することになっている。
 ブレマー総督がグリーンゾーンを出るときには、2台の多目的装甲車が先導する。片方の屋根には50口径の機関銃が据え付けられ、もう片方は手榴弾発射装置を載せている。それと同じ武装の装甲車のペアが後方を固めている。4台の装甲車のすべてに、M16ライフルと9ミリ拳銃で武装した兵士が4人ずつ乗っている。4台の装甲車に前後を挟まれて縦隊走行する3台のGMCサバーバンが厳重な警護という分厚い甲羅の、いわば「中身」だ。
 イヤホンを耳に挿し、M4自働ライフルを抱え、胴体を覆うケヴラー社製の防弾チョッキは、カラシニコフの銃弾も跳ね返すセラミック補強板入りである。彼らは全員、階軍特殊部隊SEALのOBで、民間警備会社ブラックウォーター社の職員だ。
 ブレマー総督の乗るサバーバンは、窓は2センチ近い暑さの防弾ガラスで、ドアはRPG弾の攻撃を受けても大丈夫のように鋼鉄の板で補強してある。CPA職員を集めるときには、ブッシュ大統領と共和党に対する忠誠心が重視された。
ブレマー総督を護衛する傭兵は、1日1000ドルの報酬を受け取る。
 バクダッド市内では何百台ものパトカーが盗まれ、個人タクシーに転用されていた。
 戦争終結直後、当時のバクダッドの恐怖と無秩序は、宝の山だった。
 イラクにおける医療サービスは、長いこと、すべて無料だった。
 イラクの原油埋蔵量は世界2位か3位だが、イラクの製油所の精製能力では、突然倍以上に増えた自動車すべてのガソリンタンクを満たすことはできなかった。
 CPAがイラクへの輸入車の関税をゼロにしたおかげで、ヨーロッパじゅうから安い中古車に流入した。渋滞が慢性化するのは当然だった。
 イラクで選挙を実施するうえで最大の障害は、長いこと国勢調査が実施されていないということ。国勢調査なしでは、各県の人口も把握できず、したがって、議席数の配分も決められないことになる。
 サドル師が指揮する暴動に直面して、イラク全土の警察や政府系の民兵組織があっけなく崩壊したことに、CPAは驚愕した。その数日後、ファルージャでの市街戦で、アメリカ海兵隊を支援するよう命じられた新生イラク軍の大隊が命令に従うどころか反乱を起こしたことに、CPAはまたしても驚いた。
 この2つの事件から、ブレマーによる1日イラク軍の解体命令のあと、新しい警察と軍隊をゼロから作り直すというCPAの戦略の根本的な欠陥が明らかになった。ちなみに大暴動が起きた時点で勤務していた警官9000人のうち、6500人が訓練を受けていなかった。また、警察にも民兵4万人の市民防衛隊にも十分な装備を支給していなかった。
 「ファルージャ旅団」と名付けられた旧イラク軍人部隊の投入は大失敗に終わった。彼らは、アメリカ海兵隊の配った砂漠戦用の迷彩服ではなく、旧イラク陸軍の戦闘服を着用した。そして、反乱軍と対決するどころか、元軍人たちは、ファルージャに向かう道の検問所に陣取るだけだった。いや、やがてそれもやめた。結局、海兵隊が「ファルージャ旅団」に渡したカラシニコフ機関銃800挺、ピックアップトラック27台、無線機50台は、いつのまにか反乱軍の手に渡っていた。
 アメリカによるイラク占領の実に寒々とした実体がこれでもか、これでもかと明らかにされています。侵略者アメリカはイラクからすごすごと退散していくしかなかったのです。
 といっても、2009年10月までにイラク駐留外国軍兵士の死者は4667人。そしてイラク人の死者は10万人から60万人にのぼるというのです。これは、9.11の死者3000人をはるかに上回る大変な数字です。事実を直視しなければいけません。
 私は、アメリカ映画『グリーン・ゾーン』も見ましたが、イラクに大量破壊兵器がないことを知りながらイラクへ侵攻させたアメリカ政府の責任はきわめて重大です。おかげで世界平和がまたまた遠のいたように思います。
(2010年2月刊。2000円+税)

一人の声が世界を変えた

カテゴリー:ヨーロッパ

伊藤 千尋  著 、新日本出版社
このタイトルは、ルーマニアのチャウシェスク大統領の独裁政権末期の集会における実話からとられています。
 1989年12月21日。東ヨーロッパ各国の政権が次々に覆るのを見た独裁者チャウシェスクは、ルーマニアだけは大丈夫だと考えていた。自分の基盤が強力であることを示すため、政権を支持する大規模な集会を開いてテレビで全国に流すことを考えた。忠実な党員を中心として市民1万人を集会に動員した。彼らを前に、チャウシェスクが演説しているとき、群集のなかから叫び声が起きた。
 「人殺し」
それを言ったのは、35歳の技師。拷問・処刑を覚悟して声を上げたのだった。一瞬、あたりは、しーんと静まりかえった。技師は、「自分の人生は終わった」と思った。しかし、その次の瞬間、別の人が「そうだ」と叫び、また「お前は嘘つきだ」という叫び声も上がった。会場はパニックになった。これをきっかけに、チャウシェスクを非難する大合唱が起きた。何が起きたのか理解できず、うつろな目をしたチャウシェスクは演説を中断したまま引っ込んだ。暴動や革命は技師の勇気ある一言から始まった。まもなく、チャウシェスク夫妻は即決裁判で銃殺された。
 世の中を動かした、すごい一言でした。それにしても、この革命直後にチェコから駆けつけてルーマニアを取材した著者の行動力と勇気というか大胆さには感嘆するばかりです。しかも、ルーマニア語を大学で学んでいて、話せたというのですから、驚きというより、開いた口がふさがりません。だって、著者は、私よりたった一歳下の、同じ団塊世代なのですよ。そんなときにルーマニア語を勉強しようという発想がどこから出たのでしょうか・・・・。及ばずながら私は、今もフランス語をしこしこと、毎日毎朝、勉強していますが、実はドイツ語も一念発起して勉強しようと思ったこともあったのでした。ところが、英語がダメで、フランス語もものにならないのにドイツ語なんて分不相応だと、たちまち深刻に悟って素早く撤退したのでした。
 ルーマニアのチャウシェスク大統領といえば、ひところは自主独立路線をとる骨のある人物としてきわめて好意的に紹介されていましたから、実は私もひそかに親近感を覚えていたのでした。ところが、その実態は、とんでもない独裁者だったようです。私も、イメージに踊らされていた一人なのでした・・・・。
すごい行動力をもって天下の朝日新聞記者として世界中を駆け巡ってきた著者も、団塊世代ですから、つい最近、定年退職したようです。
最後に、はじめに書かれている文章に心うたれましたので、紹介します。
人はだれでも、この世に生きる以上、自分の存在意義を感じたいと思うだろう。自分が満足して生きているという実感を得たいと思うのが人間ではないのか。私は、人生とは自分という芸術作品をつくる過程だと思う。人はだれでも芸術家であり、だれもが自分という人間を最高の芸術作品にしたてようと努力することにその人の価値があるのだと思う。死ぬ間際に、自分が満足できる人生を歩んだと実感できるなら、最高の人生ではないか。自分のためにも、もちろん他人のためにも、社会は平和でなくてはならない。そして、社会を平和にすることこそ、最大の社会貢献だと言えるだろう。
うむむ、なかなか味わい深い文章ですよね。よーく噛みしめたいものだと思いました。
 鳩山民主党政権の迷走ぶりに嘆いている人に、まやかしの「第三極」論に乗りたくないなと思っているあなたに読んで元気の出る本としてお勧めします。
(2010年1月刊。1500円+税)
 5月下旬、青森の友人に1年ぶりに再会しました。今回も原別から車で5分ほどの山麓に陶芸アトリエを構えている福地さんから大変ごちそうしていただきました。まずは青森産の生ホタテです。大きくプリプリしていて、甘みがあります。山菜の小針も美味です。庭からとってきたタラの芽のテンプラはこんなに美味しいものだったのかと見直してしまいました。その日にわざわざ打っていただいた手打ちソバは、青森産のソバ粉をつかった本物の味です。赤ワインもいただきながら、野趣にあふれた素敵な皿に盛りつけられた料理をたっぷりといただき、満腹満足の昼食でした。
 すぐ近くの山道に一人静かなど、たくさんの山野草が咲いていました。青森はまだ寒さを感じるほどで、まだ山桜が満開でした。

我が家にミツバチがやって来た

カテゴリー:生物

著者  久志 富士男   、 高文研 出版 
 
 とても面白くて、次の裁判を待つあいだに読みはじめたのですが、その裁判を延期にしてもらって読みふけりたい気分になったほどでした。
 なぜって、たとえばミツバチたちがヒマになったら、押しくらまんじゅうをしたり、隠れんぼをして遊ぶというんですよ。これにはさすがの私も驚きましたね。カラスがすべり台ですべって遊ぶというのは知っていましたが、ミツバチも遊ぶんですよ・・・・。
ニホンミツバチは不快なことがあると近くの人間に当たり散らす。たとえば、顔に体当たりする。また、砂糖水はまずいので、最後の非常食としてしか利用しない。なんていう話が満載なんです。セイヨウミツバチではなく、ニホンミツバチの話です。野生のミツバチたちのたくましさには、感嘆してしまいます。
これまでの蜂の巣からさる(分蜂)かどうかは、外勤蜂の過半数の意向で決まる。女王蜂が決めるわけではない。そして、個々のハチは行くのか残るのか、自分の意思で決めている。一度は出ると決めても、あとでやっぱり残ると思い直して戻ってくるハチもいる。うへーっ、これって、いかにも人間的ですね・・・・。
 最近では、田園地帯ではハチは生息できなくなっている。農薬のせいである。稲田や果樹園、それにゴルフ場の近くは避けなければいけない。大規模農場だと、100メートルくらい離れていても、ハチは1年以内に死滅する。
 風下で突然に農薬に襲われると、ハチたちは巣門に出て必死に扇いで農薬を押し返そうとがんばるが、力尽き、巣箱の内外でもがきながら次々に死んでいく。
巣の中にいる雄バチを居候として捕まえて殺すと、働き蜂の機嫌が悪くなり、そのあと人を警戒するようになる。ニホンミツバチは全体の繁殖を考えると、オス蜂も大事にすべきだ。
セイタカアワダチソウは年に2回、花を咲かせ、ミツバチに多大の貢献をしている。
 ミツバチはミツを取られても怒らないが、子どもを傷められると怒る。
人に慣れていても怒る。ミツは切り傷や火傷にすごく効く。外勤ハチは仕事がなくなると、お互いにダニ取りの羽づくろいをしたり、昆虫のくせに押しくらまんじゅうや隠れん坊をして遊ぶようになる。
 近くに強い勢力のハチ集団がいると、力の弱いハチ集団は、そのうちに戦い疲れて防戦しなくなり、女王蜂が殺され、自分たちは相手方に合流してしまう。
 雑木がなくなるとニホンミツバチは死滅し、ニホンミツバチが消滅すると農業は衰退する。この連鎖が見えないまま針葉樹の造林がすすめられてきた。
 ニホンミツバチは力ずくで従わせることはできない。本来は臆病な生き物である。とくに人が近くにいると、警戒を怠らない。ニホンミツバチと付き合うには、優しく接することである。そうすると、必ず信頼関係が生まれてくる。ニホンミツバチに近づくときには、挨拶を忘れてはいけない。
人間が巣箱の存在を忘れていても、ハチはいつも人間の存在を意識している。ときどき、指を番兵ハチに近づけたり、番兵ハチの脇腹をくすぐったりのスキンシップをしてやる。
ハチの羽音は、常に、そのときの気持ちを表現している。羽音が聞こえるときは、ハチは何かを言っている。繁殖期は、うれしいのか、羽音は朗らかで、温和だ。花蜜が豊富なとき、ミツが十分に貯まっているときも同じだ。
女王蜂が老齢で産卵が停止されると、王国に存亡の危機が迫り、どんな群れも荒くなる。これは女王が3年目に入る前後に起こりがちである。
ニホンミツバチは、オオスズメバチに襲われると、人に助けを求める。子どもがシクシク泣くような、か細い羽音で人の胸元をジグザグに飛んだり、人に止まったりする。「あいつらを追っ払ってください」と言っているようである。ま、まさか・・・・と思いました。
ニホンミツバチは、ミツの味がセイヨウミツバチと比べものにならないほど良い。ニホンミツバチは病気にかからず、ダニにもやられない。放任しても
元気に育つ。
 いやはや、もとは高校で英語の教師だった人のニホンミツバチを飼った体験にもとづく面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年4月刊。2000円+税)

月のかぐや

カテゴリー:宇宙

著者:JAXA、出版社:新潮社
 いやはや、すごい月の素顔です。これらの写真を見ないと損をしますよ。
 2009年6月、使命を果たして落下した月周回衛星「かぐや」。そこに搭載されていた各種のカメラが撮影した月の写真集です。
直径84キロメーターのクレーター(ティコ)の写真があります。すごいのは、上から見た写真だけでなく、横から見た写真まであることです。このクレーターは、今から1億年前に隕石が月面に衝突して出来たものです。ところが、表面はまるで新しいのです。地球のような大気がないからなのでした。
 「かぐや」は、1000万点以上のデータによる月の詳細地図をつくった。「かぐや」と地球をつなぐためリレー衛星「おきな」も活躍した。
 月世界は、昼と夜が2週間ずつ続く。赤道付近で昼はプラス120度。夜はマイナス  200度。苛酷な温度環境である。
 「かぐや」は月を周回しているため、少しでも重力(物質の引力)が異なる月面上空を通ると、高さが変動する。逆に、ふらつくと、その地点の重力が平均値よりも強いのか弱いのかが、はっきりしてくる。この場所ごとの重力の違いを「重力異常」と呼ぶ。
 月世界についてのたくさんの貴重な写真があって、ちっとばかり月を知った気になりました。やっぱりウサギが住むのは無理なのかな・・・。
(2009年12月刊。1300円+税)

宮本常一が撮った昭和の情景(上・下)

カテゴリー:社会

著者:宮本常一、出版社:毎日新聞社
 昭和30年(1955年)から昭和55年(1980年)まで、宮本常一が日本全国を駆けめぐって撮った写真の数々です。宮本常一の撮った写真10万枚には、相手を不快にし、怒らせるに違いない、一歩も二歩も踏み込まないと撮れないようなカットは1枚もない。
 旅に出るときの注意4ヶ条。
第1。汽車に乗ったら、窓から外をよく見る。田や畑に何が植えられているか、育ちは良いか。家は大きいか小さいか。瓦屋根か草葺きか。駅に着いたら、人の服装に注意せよ。駅には、どんな荷物が置かれているか。
第2。新しく訪ねた土地では、必ず高い所に上がって、方向を知り、目立つものを見よ。そして、目立つものを見つけたら、そこへ行って見ること。
第3。お金があったら、その土地の名物や料理は食べてみよ。暮らしが分かる。
第4。時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみること。
これを読んで、私は昨年5月に秋田県能代に行ったことを思い出しました。歩いて海岸近くの林に行き、そこにある散歩コースを歩いてみました。そして、夜は侘びしい町の居酒屋で食事をして、少しだけ能代の町の素顔を知った気分になりました。たしかに自分の足で歩いてみると、車で通過するだけでは見えないものが見えてきます。
不思議な魅力のある写真集だ。ほっとする温かさ。以前に眺めた気のする懐かしさ。この町、この村なら、行ってみたい。住んでみたいと思わせる落ち着き、静けさ、佇まい、このように感じる人が多いだろう。
まことにそのとおりです。昭和30年というと、私が小学校に上がる前のころです。近くに大きな炭鉱社宅がありました。大勢の子どもたちが群れをなしてメンコ(私はパチと呼んでいました)遊びをしていました。
父の郷里の農村地帯(大川市内)にいくと、大きな黒光りのするカマドがあり、混浴の共同浴場がありました。家は、どこもカヤぶきです。父の実家には白亜の土蔵も2つありました。昔は小屋で馬を飼っていたようです。
昔なつかしい写真のオンパレードです。幸いにして、私は父母たちの写真集を引き継いでいますので、少し整理してコンパクトな写真集にまとめてみようという気になりました。
(2009年6月刊。各2800円+税)

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