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サラの鍵

カテゴリー:ヨーロッパ

 著者 タチアナ・ドロネ、 新潮クレスト・ブックス 出版 
 
 久しぶりに、読んでいる途中から涙が止まらなくなりました。沖縄からの飛行機のなかで読んでいましたが、隣の男性を気にせずハンカチで涙をしきりに拭いてしまいました。
 大変なストーリー・テラーだと驚嘆しました。あなたにも強く一読をおすすめします。
 第二次世界大戦が始まって4年目、1942年7月16日の早朝、パリ市内外のユダヤ人1万3152人が一斉に検挙され、パリ市内にあったヴェロドーム、ディヴェール(冬の自転車競技施設。屋内競技場)に連行され、押し込められた。そこには4115人の子どもたちも含まれていた。トイレも使えず、満足な食事も与えられないまま、6日間、この競技場に留め置かれたあと、彼らのほぼ全員がアウシュヴィッツに送られ、殺された。戦後、生還できたものは400人足らずでしかなかった。大人と違って、子どもたちは選別されることもなく、死に直行させられたのでした。
 誰が、この一斉検挙を企画し、実行したか。当時、パリはナチス・ドイツ軍に占領されていた。フランスのヴィシー政権は、ユダヤ人身分法を成立させるなど、ユダヤ人を迫害していた。この一斉検挙も、フランス警察が立案し、実行したのだった。
1995年7月16日、シラク大統領(当時)は、この事件について国家として正式に謝罪した。53年前に450人のフランス警官がユダヤ人の一斉検挙を行い、彼らを無残な死に追いやったことをはっきり認め、それを謝罪した。
 シラク大統領の演説を聞いて、この事件をはじめて知ったというフランス人も少なくなかった。1961年生まれの著者(当時34歳)もその一人だった。学校では教えられなかったこの事件を聞いてショックを受けた彼女は、もっと事件のことを知りたいと思い、調べはじめた。子どもたちのたどった悲惨な運命を決して埋もれさせてはいけないという使命感が膨らんでいった。そして、単なる歴史書ではなく、その悲劇を現代に生きる我々の胸によみがえらせ、我々のドラマとして共有しようと思った。その思いが見事に結実した小説です。
 この日、警官に連行される直前、10歳の少女サラは弟のミシェルを姉弟だけの秘密の納戸に隠し、鍵をかけた。「あとで戻ってきて、出してあげる。絶対に」と言って。しかし、サラは訳も分からないうちに強制収容所に入れられ、両親とも離れ離れにさせられた。パリの自宅に戻るどころではない。しかし、奇跡的にも脱走に成功し、ついにパリの自宅に戻ることが出来た。そして例の網戸を開けたときにサラが見たものは・・・・。 
 ユダヤ人一家を追い出したあと、「何も知らない」フランス人の家族がそこに移り住んでいます。そして、元の所有者であるユダヤ人の娘が登場したときに・・・・。
 過去の忌まわしい出来事を今さらほじくり返して何になるのか、そんなことは忘れ去ったほうがいいだけだ・・・・。
 フランス人の夫をもつアメリカ人ジャーナリストである主人公が事件を調べはじめると、そんな非難がごうごうと夫の家族から湧きあがってきます。それでも調査をすすめていと・・・・。いくつもの意外な展開があり、予断を許しません。次の展開を知りたくて、頁をめくる手がもどかしくなります。
 自分の親が若いときに何をしていたのか。これって、自分とはどういう存在なのか、それを考えるうえで欠かせないものではないでしょうか。10代のころの私は、恥ずかしながら、まったく親を凡愚の典型としか見ていませんでした。今思うと、顔から冷や汗が噴き出しそうです。30代になって、少しは親を見直しました。40代になったとき、親の生きざまをインタビューしはじめ(録音もしました)、その裏付け調査をして、生い立ちとして文章化していくなかで、日本の現代史が私にとって身近なものになりました。親を人生の先輩として評価することもできました。
 父の場合は、朝鮮半島から徴用労働者を日本へ連行するという、日韓・日朝関係では避けて通れない蛮行に、三井の「労務」担当として従事していたのでした。
 母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は第一次大戦中に青島(中国)にあったドイツの要塞攻撃に参加して手柄をあげ、かの有名な秋山好古(日露戦争のとき、騎兵を率いてロシア軍を撃破)の副官にもなり、終戦時には第112師団の師団長(中将)として満州で愛用の拳銃をもって自決したことまで分かりました。偕行社に調査を依頼して判明したのです。
 日本人は戦争被害者であると同時に加害者でもある。このことを親のことを調べていくうちに実感させられました。いずれも簡単な小冊子にまとめたところ、これを読んだ甥が感動したと言ってきました。
 父の弟は応召して中国大陸に渡り、終戦後は、八路軍に技術者として何年間か協力させられました。国共内戦のなか、満州を八路軍とともに転戦したのです。このことを調べるなかで、百団大戦とか国共内戦の実情などが身近なものになりました。
 日本は、歴史的事実に対して今なお率直に認めず、中国や朝鮮、韓国に対してきちんと謝罪していないと私は思います。むしろ、開き直ってさえいます。自虐史観とかいって事実直視を非難するのはあたりません。事実は事実として認め、過去の事実から現代に生きる我々は何を教訓として学び、今日に生かすべきか、もっと冷静な議論が必要に思います。
 あなたは、自分の親がその若いころ、何をしていたか、どんなことを考えていたか、ご存知ですか? それを知りたいと思いませんか。
ちなみに、私の亡父は大学生のころ法政大学騒動の渦中にいたようです。三木清がいたころのことです。私も東大「紛争」のとき、大学2年生でした(私は当事者の一人として、紛争とは呼びたくありません)。じっくり読んで、人生を考えてみるのに絶好な本です。
 
(2010年5月刊。2300円+税)

偽金づくりと明治維新

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:徳永和喜、出版社:新人物往来社
 幕末の薩摩藩が倒幕の資金源として大々的に「ニセガネ」をつくっていたという説の真偽を追及した本です。どうやら本当のようですが、著者は通説の誤りもただしています。
 ニセガネづくりには家老の調所広郷(ずしょひろさと)は関与しておらず、実際に関わったのは小松帯刀(たてわき)と大久保利通だった。
 薩摩藩は、幕府の許可を得て「琉球通宝」を鋳造した。そして、文字を変えた「天保通宝」を鋳造し、さらに二分金のニセガネを鋳造した。この二分金は純粋の金貨ではなく、金メッキした銀という意味で通称「天ぷら金」と呼ばれた。
 これを推進したのは島津斉彬(なりあきら)であった。斉彬の死亡後に、安田轍蔵(てつぞう)が経済通の能力を生かして登用された。琉球通宝が幕府から許されたのは安田の小栗忠順などとの人脈を生かした尽力による。
 安田は、琉球通宝を鋳造し、その後に天保通宝を鋳造・流通させ、その資金をもって洋銀を購入し、さらには洋銀から国内流通の一分銀・一朱銀を鋳造するという壮大な構想をもっていた。これは、実体経済を知悉していた安田が開通場での洋銀精算に着目し、国内金銀貨幣と洋銀との交換比率から生じる差益を利用するという考えによるものであった。
 安田の考えによれば、1日に4000両をつくると、年の利益が64万両が確保できる。4年で256万両の利益を生む。これによって、領内海防のために沖瀬を築造し、大砲の備えも可能となる。
 ところが、この安田は途中で追放・島流しにあった。
 ニセガネ天保通宝の鋳造高は高められ、ついに一日に4000~5000両を鋳造し、一ヶ月に12万両をこえてつくり出し、藩財政を補填した。
 イギリス艦隊に鹿児島湾を占拠され敗北したあと、ニセガネづくりはかえって盛大な事業展開となり、1日4000人の職工が従事し、およそ8000両が鋳造された。
 安田が再登用され、薩摩藩は三井八郎右衛門と結んで琉球通宝を活用していった。
 琉球通宝は三井組で換金する仕組みであった。
 三井は幕末期に薩摩と組んでいたのですね・・・。さすが政商です。
 もちろん、明治新政府はこんな 地方のニセガネづくりを許すわけにはいきません。しかし、大久保利通は薩摩藩で自らニセガネつくりに関わっていたのですから、早く止めろと必死で薩摩藩を説得したようです。
 そんなことも知れる興味深い内容の本でした。
(2010年3月刊。2200円+税)

西南の役・山鹿口の戦い

カテゴリー:日本史(明治)

著者・発行 山鹿市地域振興公社  
 
西南の役における田原坂の戦いは有名ですが、田原坂は植木町にあります。実は、山鹿市でも激戦があったのです。この本は、山鹿市での戦いを紹介しています。
 明治10年2月、小倉第14連隊が南下を開始する。この隊長は乃木希典少佐。3個大隊全部で2034人。銃をエンピール銃からスナイダー銃へ切り換え、一度に南下するのではなく、順次、南下する。
 官軍は2月26日、熊本県の南関町に本営を設置した。博多にあった裁判所機能も南関に持ってきた。有栖川宮も南関へやって来る。
 山鹿市内は薩軍が支配していた。2月27日から3月20日までは平穏だった。
 その前、肥後藩の細川護久知事は減税を実施した。一般民衆は、明治維新になって生まれた、もっとも理想的で典型的な姿を熊本に見た。大減税をするし、その他いろんなことを刷新した。肥後藩は、明治3年から6年にかけてのたった3年間とはいえ、いい時期を送っていた。そして、明治10年、山鹿にコミューン自治政府が誕生した。普通選挙法で人民総代を選び、協同隊の隊長も、みんなで選んだ。民権派がコミューンをつくった。
なんと、なんと、山鹿は、日本最初の民権政治を実施したのです。
熊本の協同隊は薩軍とともに山鹿を支援すると、かねて抱懐する民権政治を実現せんとして、山鹿に民政を布いた。野満長太郎は選ばれて民政長官となった。長太郎は、薩軍とともに各地へ転戦したが、8月17日、降伏し投獄された。2年あまりのあと、放免され、それ以来、郷党の指導者として尊敬された。
熊本の協同隊は、ルソーの民約論に刺激されて集まった自由民権論者のグループだった。山鹿は日本最初の民主政治発祥の地と言える。
 うむむ、なんということでしょう。日本にもパリ・コミューンのようなものがあったとは・・・・。
 
(2002年2月刊。2000円+税)

キンドルの衝撃

カテゴリー:社会

著者:石川幸憲、出版社:毎日新聞社
 キンドルは今、アメリカで大ヒット商品になっている。2009年に200万台を売り切ったという。
 アマゾンは売り上げ実績を公表していないが、2010年には350万台と予想されている。キンドル関連の売上は14億ドル、アマゾンの総売上の4%になる。
 キンドルのモノクロ画面は紙と同じ反射型の表示なので、目に優しく、直射日光や暗い室内でも見やすい。一度表示されると電力を必要としない。LCD(液晶画面)に比べて電力消費が10分の1ですむ。キンドルは1週間の充電で2週間つかえる。
 キンドルは359ドルだったのを259ドルまで値下げした(2万6千円)。
 1000万人のアメリカ人が既にキンドルを持っているか、買おうと思っているという。
 アマゾンは、急成長したが、一時は6ドル以下にまで暴落したことがある。しかし、今では株価は134ドル、時価総額は581億ドルになる世界的企業となった。従業員も2万人をこえる。
 私は、本はやっぱり紙に印刷されたものを読みたい派です。この難点は、書庫が必要となることですが、それも楽しみでもあるのです。子どもたちがいなくなった子ども部屋を書庫につくり変えましたが、そこにジャンルごとに本を並べて、ときどき手にとってみるのは悦楽のひとときです。
 キンドル経由の新聞購読者の半分は、今まで新聞を購読したことのない人たちで、4分の1が紙の新聞をキャンセルしてキンドルに乗りかえ、残る4分の1は紙とキンドル版の両方を購読している。つまり、キンドルのおかげで新聞の購読者層は拡大しているのだ。
 したがって、紙がペーパーレスかという二者択一ではなく、紙もペーパーレスもともに共存する時代がしばらく続くと考えることが現実的である。
 私は断固として紙の新聞をよみたいと思っています。テレビを見ない私にとって、毎朝、郵便受けに入っている新聞を手にとって、その一面の大見出しによって、世間の動向を実感することができるのです。そんな私でも、いずれキンドルも利用することになるのでしょうか・・・。でも、そのとき年間500冊も読めるのか心配になります。
(2010年2月刊。1500円+税)

誰かが行かねば、道はできない

カテゴリー:社会

著者:木村大作・金澤 誠、出版社:キネマ旬報社
 私は映画大好き人間です。月に1本はみたいと思いますが、実際には3ヶ月に1本くらいなので、残念です。私の同期の大阪の弁護士(坂和章平弁護士)は、月に2本から3本は映画をみて、その感想文を何十冊もの本にまとめています。私は、そこまではしたくありません。別に映画評論家になろうという気はないのです。みたい映画だけをみて、素直に感動したいということなんです。
 この本は、『劔岳、点の記』という映画をみて感動したので、その監督についても少し知りたくなって読んだのでした。いやはや、芸術家というのは、大変な人種なんですね。弁護士にも変わりものは多いのですが、それに何倍も輪をかけています。
 木村さんの本職はキャメラマン。木村さんの考える撮影とは、決してファインダーをのぞいて映像をとることだけではない。木村さんは、よく、一番大事なのはセッティングなんだという。俳優がカメラの前に立って芝居をするとき、もっともいい状態を、その場にセッティングすることさえできれば、キャメラマンは本番で素直に撮ればいい。そのセッティングをするために、木村さんは、あらゆることを口に出す。ロケ地の選定、キャメラアングルと撮影の狙いに即した美術セットの建て込み、俳優が画的に映える衣裳の見たて、さらにはもっとも効率的な予算の使い方に至るまで、映画づくりのすべてに自分のエネルギーを投入する。
 黒澤明監督は、建物の影を地面に墨汁で描き出した。そうやって影を濃くすると、曇りのときでも晴れに見える。写ったものは、影が出ていれば晴れというイメージが見るほうにインプットされているから、晴れて見える。あとは、ライティングの工夫をすればよい。
 若いときには自分から何かをやっていかないと、のし上がれない。監督の言うままに、「はい、分かりました。アップですか」と撮っていたのでは、そのキャメラマン独自の価値観が見えてこない。
 現場は生きているんだから、言葉じゃ、どうしようもない。まずやってみせること。それと、曲げずに貫き通すこと。
 自然を撮るときには、あきらめたら負け。自分の勘を頼りに、忍耐力をもって、あとは神が我々の望む自然を恵んでくれることをひたすら待つしかない。
 黒澤明監督は、何かを表現しようと思ったら、その10倍描けばいい。そうすると、観客は、伝えたいことを認識してくれる。
 高倉健の革ジャンは70万円のもの。衣裳は本人が決める。背広の色はチャコールグレイ。ジャンパーはバラクーダ社のものと決まっている。
 すごい人がいるものですね。感嘆するばかりです。人間としての情熱を感じました。
(2009年6月刊。2400円+税)

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