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白日夢、素行調査官2

カテゴリー:社会

著者 笹本 稜平、   光文社 出版 
 
 このコーナーでは久しぶりに紹介する警察小説です。潜入捜査員が自死を選ぶ場面から始まります。ええーっ、このあと、どんな展開になるのだろうという大いなる期待を込めて序幕が上がります。
 警察という役所は、実は隠れた利権の巣密だ。うしろ暗いことをやっている連中は警察が握っている情報が気になるから、それが手に入るなら、いくらでも金を払う。マル暴(暴力団)からみの部署ともなれば、得意先の業界とは持ちつ持たれつだ。便宜を供与すれば見返りがある。暴対法が施行され、理屈から言えば広域暴力団は壊滅していいはずなのに、大半が今も立派に生き残っているのをみれば、その癒着のほどは想像がつく。なーるほど、そうなんですねー。警察の裏金づくりは、いつのまにか曖昧になってしまいました。マスコミが報道しなくなったのは、警察の裏金作りをスクープとして連載した北海道新聞が警察の仕返しに負けたからだという人がいます。きっとそうなんでしょうね・・・・。
 パチンコ機やパチスロ機の検定を委託されている協会(保通協)は警察トップの天下りの受け皿で、前会長は元警察庁長官、元会長は前警視総監だ。そこがパチンコ業界の首根っこを押さえているわけだから、OB、現役を問わず、この役所の官僚たちが業界から甘い汁を吸っているのは間違いない。警察庁が指定したパチンコやパチスロの用のROMを扱う業者、プリペイドカードの業者も警察官僚の天下りの受け皿だ。たとえ正義感や使命感に燃えて入庁しても、その後の出世競争が人の性格を変えていく。それ以外のことが眼中にないほど集中しないと、あっという間にふるい落とされる。官僚としての職務より出世競争が優先する。それだけシビアな競争社会だ。いくつかある派閥のどこに属するかその選択を一つ誤れば、一生、冷え飯を食わされることになりかねない。
警察を取り締まる警察はないんだ。人事の監察といえども警察内部の一部署に過ぎない。自分たちこそ警察のなかの警察だと見得を切ったところで、警察機構の巨大なピラミッドのなかで発揮できる職権は高が知れている。そのことを思い知らされた。
こんなセリフが登場します。ふむふむ、恐ろしい現実ですね。
 キャリア警察官の腐敗が追及すべき一つのテーマとなっている本でした。
(2010年10月刊。1700円+税)

聖灰の暗号

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 帚木 蓮生、   出版 新潮社
 いやはや、なんと・・・。すごいんですよ、巻来の主要参考文献はフランス語の原書のオンパレードです。さすが仏文科卒だけはあります。私もフランス語を長らくかじっていますが、残念ながら日常会話に毛のはえた程度のレベルでしかありません。著者はフランス語で書かれたカタリ派についての専門書を読み尽くして、この本を書きあげたようです。
 主人公はフランス語だけでなく、方言のオクシタン語まで読み書き、そして話せる日本人です。著者もひょっとしてオクシタン語までできるのでしょうか・・・。
 14世紀のフランス。スペインに近い南フランスにはカタリ派が流行していました。宗教的権威をひけらかすローマ・カトリック教会に楯ついたため、大弾圧を受けることになります。
 私が3年前に行った南仏のツールーズやアルビなどがカタリ派の拠点となっていました。今も原型をそっくり残っているカルカッソンヌ城もカタリ派の拠点でした。ロートレックの生地であり、立派な美術館のあるアルビでもカタリ派が繁栄していました。カトリック教会が形式に流れていたのを、信仰の原点に立ち戻って信仰していた人々がいたわけです。
 この本は、日本人の研究者がカタリ派の弾圧を目撃した修道士の手記を偶然に発見して学会で発表したところ、そんなことは隠しておきたいカトリック教会側から迫害を受けるというストーリーです。 さすがに、生々しい迫力があるタッチで展開していきます。次はどうなるのか、手に汗を握る場面の連続です。1年に1作という著者の小説づくりは、いつ読んでも驚嘆するばかりの見事さです。
 カタリ派の興亡は、天草の乱、そして日本の隠れ切支丹を連想させるものがあります。
 我が身がどんなに拷問されても、神のもとに近づけると思って喜んで死んでいくという点では、まったくうりふたつです。
 上下巻2冊を、時間を惜しんで読みふけってしまいました。
 
(2007年7月刊。1500円+税)

龍馬史

カテゴリー:日本史(江戸)

著者  磯田 道史、  文芸春秋  出版 
 
 坂本龍馬が暗殺されるにいたった幕末の情勢がきわめて明快に語られています。なるほど、そうだったのかと、私は何回となく膝を叩いたため、膝が痛くなったほどです。
坂本龍馬の生家は、高知県城下でも有数の富商である才谷(さいたに)屋から分家した、郷士(武士身分)の家柄だった。
 才谷屋は、高知のトップ銀行に匹敵する実力を持っていた。豪商・才谷屋は、6代目八郎兵衛直益のときに郷士株を手に入れ、長男が分家して郷士坂本家が誕生した。坂本家の屋敷は500坪の広さがあった。これは、500石クラスの上級藩士の武家屋敷に匹敵する広さだった。
江戸時代、武士でないものが武士になるのは、それほど難しいことではなかった。郷士の養子となるか、藩に御用金を献上して郷士株を入手する。後者のルートで郷士となったものを献金郷士と呼んだ。
坂本龍馬は、上士に比べれば差別的扱いをうける郷士の出身だったが、その分、お金には不自由しない富裕層だった。なーるほど、だから亀山社中という商社の発想がありえたのですね。
 城下にいる兵農分離された武士は、おとなしく明治新政府の方針に従ったが、兵農分離していない、みずから土地経営をしていた郷士たちは、自分たちの特権や土地経営がなくなるという危機感から激しく抵抗した。
 龍馬は、家督を継げない次男だったので剣術で名をあげようと考えた。だから、江戸で剣術道場に入門したのですね。
坂本龍馬は、誰よりも早く海軍の重要性を理解し、しかも実際に海軍を創設してみずから船を動かして実戦をたたかった。この点が、むしろ過小評価されている。
龍馬は志士として活動するときには才谷姓を名乗った。龍馬は、薩摩藩の要望にこたえたて、独自の海軍をたちあげるために、1865年(慶応元年)、長崎に亀山社中という商社をおこした。亀山社中の経営者は龍馬であり、そのオーナーは薩摩藩だった。
後藤像二郎は土佐勤王党を弾圧した側だったが、龍馬と意気投合して、脱藩の罪を許して、土佐藩支配下の海援隊の隊長に任命した。
寺田屋事件で龍馬は危うく幕府役人に捕縛されそうになった。最近、そのときの報告文書が発見され、幕府は薩摩と聴衆の同盟を仲介していた龍馬を要注意人物とみていたことが判明した。
 龍馬暗殺の下手人は京都の見廻組であって、新撰組ではない。見廻組は旗本や御家人の子弟を中心とする組織であり、浪士の集まりである新撰組より地位が高かった。
 見廻組は変装された密偵を龍馬の下宿に張り付かせていた。龍馬に致命傷を追わせたあと、さらに34ヶ所も滅多突き突多斬りの状態にした。そして、襲撃犯たちは追撃戦を恐れて、一かたまりとなって帰っていった。この見廻組に命令したのは京都守護職の松平容保(会津藩主)である。そして、会津藩公用人の手代木勝任(てしろぎかっとう)が手配していた。幕府にとって龍馬はいかにも危険な存在だから、抹殺してしまおうということだった。なるほど、なるほど、そうだったのですね。
龍馬の人間としてのスケールの大きさを実感できる本でもありました。とても面白い本です。一読をおすすめします。
(2010年9月刊。1333円+税)

毛沢東(下)

カテゴリー:中国

著者 フィリップ・ショート、   白水社 出版 
 
 1941年、国共合作は緊張関係にあった。1940年秋の百団大戦によって日本兵2万6千が死傷し、抗日戦争で共産党軍は大きな成果をあげた。そのため蒋介石は共産党を警戒し、国民党軍に共産党新四軍を奇襲攻撃させた。しかし、この窮地にあっても、共産党は統一戦線策は放棄できなかった。そのおかげで、紅軍(共産党軍)は5万人から
50万人へと発展していった。
1943年から44年にかけて、周恩来は辛い状況に置かれていた。毛沢東は周恩来に対して実績と信念の欠落、権力ある集団に振りまわされやすいことを激しく批判した。
 1946年から1950年にかけて、紅軍(人民解放軍)は国民党の軍勢に押されて後退を強いられた。しかし、1947年2月には、毛の戦略によって国民党軍218旅団のうち50以上が戦闘力を失い、投降した国民党兵のほとんどは共産党軍に吸収され、人民解放軍の新たな人的資源となっていた。
 国民党軍の司令部には共産党のスパイが入りこんでいた。副参謀長も、戦時計画委員会の責任もそうだった。ここが中国共産党のすごいところですね。ベトナムでも、南ベトナム軍の中枢に「北」のスパイが潜入していました。激烈な戦争は隠れた英雄を生み出すものなのですね。
 1949年10月1日、北京の天安門広場で、毛沢東は中華人民共和国の設立を宣言し国家主席に就任した。ところで、その前、スターリンは毛沢東に対して、長江を渡らないこと、中国の北半分を掌握したら満足するように言っていた。アメリカを刺激しないためにはそれが賢明だと説明した。しかし、中国が分裂するのはロシアの利益のためだと毛沢東には分かっていた。
 1950年に始まった朝鮮戦争は、毛沢東の歓迎したものだった。金日成とは相互に不信感があった。
毛沢東は中南海にいて、身辺警固のため警衛兵が三重に円を描くように配置されていた。食材は指定された安全な農園から提供され、毛の口に入る前に毒味されていた。お抱え医師がいて、移動するときには、事前の十分な偵察なくしてはありえなかった。装甲を施した専用列車で旅行し、飛行機には滅多に乗らなかった。台湾の国民党軍の破壊工作や砲撃を恐れていたからである。
 1959年、大躍進政策の誤りを批判した彭徳懐が失脚した。しかし、毛沢東にしても、朝鮮戦争の英雄でもある彭徳懐を切り捨てるのは容易なことではなかった。
1965年、毛沢東は巻き返しを図りはじめた。正面からの攻撃はできないので、お得意のゲリラ戦術でいった。毛沢東が共産党そのものに対して大衆をけしかけようと決めていたなど、あまりに荒唐無稽であり、政治局の誰一人として信じられなかった。そうなんですね、そのまさかが自分たちの災難になって降りかかったわけです。
 紅衛兵の指導者たちがやったことは、毛沢東自身がAB団の粛清をしたときと同じことだった。
 1967年、中央政治局は機能を停止した。毛沢東は多人数が団結して毛沢東の敵にまわってしまう危険を避けたかった。そこで政治局のかわりに常務委員会や周恩来が率いることになった文革小組の拡大会議を開くことにした。
 林彪が中国人民解放軍を完全に掌握することはついになかった。500万人という規模があり、指揮系統と昔からの忠誠をそれぞれに備えたさまざまな根拠地からの成り立ちのせいで、毛沢東以外の誰にも中国軍をコントロールすることは出来なかった。
毛沢東は強い不信感のせいで、絶えず取り巻きグループの忠誠を確かめないと気がすまなかった。周恩来が生き残ったのは、毛沢東の信頼を保つためなら誰でも裏切ったからだ。毛沢東は周恩来に親愛の情を抱いたことは一度もなかったし、周の死に対しても心動かされた様子を示していない。中南海の職員に対して黒い喪章を腕につけることを禁じた。 
毛沢東の実際にかなり迫っている本だと思いました。
(2010年7月刊。3000円+税)

ノモンハン戦車戦

カテゴリー:日本史

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 1939年5月から9月にかけて、モンゴルとの国境付近で日本軍(関東軍)がソ連軍(赤軍)と正面から戦って惨敗したのがノモンハン事件です。この本は、その地上戦における戦車部隊を中心として戦争の推移を追っています。この本とは別に、『ノモンハン航空戦』という本も出ていますので、追ってご紹介します。
 モンゴル人民共和国と満州国とのあいだの国境はきわめてあいまいだった。全長40キロの国境には、国境標識がわずか35個しかなかった。自然境界もハルハ河とボイル湖を除いてはなく、水域に関する合意もなかった。双方ともお互いに譲らず、外交的な解決は望んでいなかった。ノモンハン戦の原因は満蒙国境の曖昧さと双方が交渉を望まなかったことにある。
 5月の時点では、制空権は完全に日本軍航空隊が握っていた。ソ連軍のパイロットたちの訓練度は低く、中国戦線で経験を積んだパイロットが多い日本軍航空部隊に立ち向かうことはできなかった。
 5月の戦闘は、ソ連軍部隊の訓練に深刻な欠点のあることを暴露した。それは、何より偵察と部隊の指揮統制・通信の面で顕著だった。各種部隊間の相互連携もうまく組織されていなかった。
 1939年6月、ジューコフが第57特別軍団長に就任した。それまでのジューコフには戦闘経験はなかった。ところがジューコフは、前任の軍団幹部らをスパイと決めつめ、「人民の敵」として一掃した。過去に戦闘経験のないジューコフはいきなり砂漠と草原という特殊な条件下で人的・物的損害を惜しまない物量戦を展開した。それは前線の将兵に不評だった。
 日本軍の戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連の兵器は性能が優れており、敵は機敏で粘り強く、士気も高い。敵の資質は予想よりはるかに高いことを悟った。ソ連軍の砲撃はあまりに強力かつ効果的で、日本軍が中国で経験したことのないほどのものだった。7月の戦闘を総括して玉田大佐はソ連軍に高い評価を与えた。
「敵の戦意を見くびるべきではない。彼らは組織、物質、戦力において明らかに我が方を上回っている。白兵戦になっても退却しようとせず、一部には手榴弾で自爆する者もいた」
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。
 停戦協定が結ばれたあと、関東軍代表団は遺体をどれだけ回収したいか、その数字をあげたがらなかった。それが公式に認める損害となることを嫌ったからである。10日間の痛い回収作業によって、日本軍は6281人の遺体を収容し、38人のソ連軍将兵の遺体をソ連側に引き渡した。
ノモンハン戦の地上における戦いの様子の一端を多くの写真とともに明らかにした冊子です。
 
(2007年9月刊。2500円+税)

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