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犬になれなかった裁判官~司法官僚統制に抗して36年~

カテゴリー:人間

安倍晴彦、 NHK出版、 2001年5月25日
最近テレビで山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」の映画版を見た。そういえば同じような話がわが司法界にもあったな、と思って、本書を読んでみた。
著者は、家裁勤務が長く、家裁の仕事に熱心であり、登山を趣味とし、山野の草花を愛する裁判官である。その姿は、毛利甚八さんの「家栽の人」の桑田義雄判事と重なり合う。著者は、「当事者のいうことをよく聞く」と「裁判は隣人の助言である」と基本理念とし、実に誠実に家裁の職務に取り組んだ。その時の苦労話とも笑い話ともつかぬエピソードが綴られている。著者は、「裁判官がする仕事の中では、もっとも人間的な仕事、環境であることがわかり、すっかり気に入ってしまったのである」とも言いきる。その熱意には敬服するばかりである。
しかし、ご存じのとおり、著者にはもう一つの顔がある。それは青法協裁判官部会に所属し、それを貫き通した裁判官としての顔である。もう古い話なのかもしれないが、かつての司法反動の時期、著者は家裁の支部から支部への支部めぐりの不遇な人事を強いられた。このような人事を詠んだ川柳として「渋々と支部から支部へ支部めぐり、四分の虫にも五分の魂」というものが知られている。著者を取り囲む上司、同僚の言葉が生々しい。
「君の場合、今後も、任地についても待遇についても、貴意に添えない。退官して弁護士として活躍したらどうか」
「あなたの処遇を、全国の裁判官が息を潜めて注目しているのです」
「君は合議不適だから、どの高裁の裁判長も君を受け入れるのを拒否するから無駄だ」
最近は、現職の裁判官がマスメディアでよく意見を表明する。「判決に全てを書き尽くし、決して言い訳をしない」という伝統的な裁判官の気風に変化があるようにも見えるし、組織の風通しがよくなったようにも見える。しかし、本当にそうなのか?裁判所の外にいる私にはわからないが、いや古い話ではなく、いつの時代にもなくならない普遍の話なのかもしれない、とかつて大きな組織に所属した私は、その組織に関する最近の出来事に接して思うのである。法と証拠に基づいて正義を実現するという、われわれ法律家の仕事は、その依って立つ社会の在り方との緊張関係の外にあって、超然と成り立つものではないな、と強く感じるこのごろである。

革命とナショナリズム

カテゴリー:中国

著者  石川 禎浩、  出版 岩波新書
 本のタイトルからは何のことやら分かりませんが、中国近現代史の本です。国民党と共産党の二つを同じく主人公としていますので、これまでの共産党のみを主人公とする本より、事態の推移がより多面的かつ深く認識できる本になっています。
 1924年、国共合作(こっきょうがっさく)が始まった。この時点で、共産党員は500人にすぎず、国民党員の100分の1でしかなかった。 国民党は幹部が相対的に高い比率を占めていた。だから国民党に加入した共産党員は国民党の基層において大きな役割を果たしていた。この国共合作は共産党の党勢発展に大いに寄与した。国民党の傘のもとで「職業革命家」を維持できたことの意義は決して小さくなかった。
1924年に500人だった党員は1925年には300人になった。1924年の共産党の財政の95%はモスクワからの資金援助に伝存していた。予算の90%以上をコミンテルンからの援助に頼るという財政構造は1920年代を通じて、ほぼ変わらなかった。
 しかし、資金援助の点では国民党がソ連から得ていた軍事援助などの物質的援助は、共産党へのものより二桁も上回るものがあった。たとえば、1925年に国民党へは半年で150万元、共産党へは年に3万元を援助していた。ところが、日本は中国の段稘瑞政権に対して1億5000万元もの援助をしていたから、それに比べるとソ連の援助など微々たるものでしかない。
 幹部中心の政党である国民党は、その上層部が複雑な派閥に分かれていたので、多数派を占める蒋介石派も正規の党組織に依拠するだけでは盤石の支配体制を築くことは難しかった。そこで、蒋は腹心の陣果夫・陣立夫兄弟の組織した秘密党内組織CC団や力行社・籃衣社や中華民族復興社といった、蒋個人に直属する諜報秘密結社を拡大していった。これらの非正規組織は、黄埔(こうほ)軍校卒業生の統率する軍と並んで蒋の独裁体制の基盤となっていた。
 1930年代はじめ、コミンテルンの指導を背景とした中国共産党の「党中央」の権威は、地方の指導者が容易に否定することができないものだった。
 共産党の中央組織は、1930年代初めまで、上海の現界の中に置かれていた。
 都市部の共産党組織は1930年代半ばまでには、壊滅するか、活動停止に追い込まれるかのどちらかであった。だが、それにもかかわらず共産党は影響力をもっていた。共産党の勢力は、常に実態よりもはるかに大きく見積もられた。それは、共産党のもつ宣伝工作重視の政治文化による。
近世・近代日本の農村に比べて、中国農民の結合力は格段に弱かった。あとで中国共産党の指導者になる入党者の多くが、旧郷紳層・富裕層の子弟であった。当初、紅軍の有力な構成員であった土着のアウトローたちは、粛清などを通じて次第に紅軍から排除され、それに代わって土地革命の恩恵を受けた若き農民たちが大きな役割を占めていくようになった。
1934年10月に始まった「長征」も、中央根拠地の軍事的な窮地を打開するための「戦略的転進」として始まったもので、具体的な目的地を設定して開始されたものではなかった。
孫文の妻だった宋慶齢は共産党にひそかに入党を申していた。張学良は入党を申し入れたが、中国共産党はコミンテルンの拒否を受けて、これを認めなかった。ソ連とコシンテルンは蒋介石の統治能力を高く評価し、張学良はあくまで「軍閥」としてしかみていなかった。
ソ連・コミンテルンは西安事変の直後から、張学良の行動に疑念を抱き、「プラウダ」などを通じて、蒋の安全の保障、事態の平和的解決を望むという論評を発表し続けていた。
1940年の夏から秋にかけて、八路軍は100あまりの団(日本の連隊に相当する)20万人の兵力を動員した百団(ひゃくだん)大戦を始動した。日本軍は、八路軍に大攻勢をかけるだけの力があるとは思っていなかった。八路軍の力量に衝撃を受けた日本軍は、ただちに報復戦にかかった。それが悪名高い三光作戦である。
中国史の裏側にまでかなり踏み込んだ力作だと思いました。
 
(2010年10月刊。820円+税)

クマチカ昆虫記

カテゴリー:生物

著者 熊田 千佳慕 、 求龍堂  出版 
 
絵本ファーブル昆虫記のための勉強帖というサブ・タイトルのついた楽しい昆虫記です。地道な虫の勉強が支えた驚異的な細密画だと紹介されていましが、単に細かいところまで描けているというのではありません。生命力を感じさせる躍動感が絵から見事に感じ取れるのです。ぜひぜひ、実物を手にとって眺めてみてください。
 それにしても、ここに紹介されている昆虫のさまざまな生態もまた驚異的です。大自然のなせる技は、神秘的としか言いようがありません。それを観察し、文章にした著者も、普ファーブル同様、偉いものです。
 ミツカドセンチコガネ(糞虫)は、春のはじめか秋の終わりころ、メスが場所をえらんで巣づくりをはじめる。ある程度まで巣穴が掘れたころ、オスが訪ねてくる。二匹も三匹も。メスは、その中からオスをえらぶ。そして長いあいだ共に生活する。
 キンイロオサムシは、結婚が終わると、メスがオスを食べる。メスはオスより少し大きい。オスは抵抗もしないでメスに食べられる。ええーっ、なんということでしょう。カマキリのオスはなんとか逃げ出しているようなのですが・・・・。
 ベッコウバチは、クモ狩りがとてもうまい。はじめにクモを怒らせて、その前足をあげさせ、ひらいた毒のキバとキバのあいだにさっと飛び込み、毒針を刺して相手をしとめる。このやり方で、自分の何倍もあるクモをしとめる。いやはや、すごい狩りですね。
 ミツバチハナスガリの母バチは、自分の食事としてはミツバチを殺し、そのミツを吸いとってしまい、ミツバチは捨てる。タマゴは死んだミツバチの胸に産みつける。ミツは幼虫にとって生命とりになる。だから母バチは狩りのとき、ミツバチからミツを全部抜きとってしまう。ハチの仲間はみな花のミツを舐めて生きているが、このハチは、自分の食事のために生き餌を漁る。ミツも舐めるが、生き血も吸う。なんとなんと、こんなところまで観察して明らかにしているとは・・・・。その観察力には脱帽、いえ降参です。
(2010年11月刊。1800円+税)

田舎の日曜日

カテゴリー:人間

著者  佐々木 幹郎、   みすず書房 出版 
 
 浅間山の麓に山小屋を作って週末ごとに生活している著者が、ツリーハウスをこしらえるという話です。森の中の自然あふれる生活が情趣豊かに描かれています。時間(とき)がゆったりと流れていく感じがよく伝わってきて、読んでると、なんとなく心の安まる思いのする本です。
 どんな人が書いた本なのか巻末を見てみると、なんと私と同世代の詩人でした。もっと年長の高齢者だとばかり思って読んでいたのです。東京芸大の音楽研究科で教えているというのですから、私なんかとは違って芸術的センスが大いにあるようで、うらやましい限りです。道理で文章にもゆったりした詩的なリズムが感じられます。
ツリーハウスというから、どんなものかと思うと、要するに、子どものころ木の上につくった秘密基地をもっともらしくしたようなものです。そこで生活できるというわけでもありません。そうなると、こういうものは、結果よりも、つくっていく過程自体が楽しみなのですよね。この本も、つくり上げていく過程がたくさん紹介されていて、そこがまた興味をそそられるのです。
 歌手の小室等が来てギターをひいて歌ってくれるのですが、ほかには、それといった大事件が起きるわけではありません。いえ、宮崎の新燃岳ではありませんが、浅間山が噴火することはありました。そして、可愛らしいムササビが登場します。
 山小屋生活も、たまにならいいのかもしれないと思わせる本でした。でも、一年中そこで生活するとなると、本当は大変なんなんじゃないでしょうか・・・・。いえ、別にケチをつけているわけではありません。こんな環境で週末のんびり骨休みできるなんて、うらやましいと言っているだけです。
(2010年11月刊。2700円+税)
 火曜日、日比谷公園に行ってきました。3月の陽気でしたが、園内にはほとんど花が咲いていません。梅もハナモモもまだつぼみ状態です。
 わが家の庭の梅も今年は咲くのが遅れています。両隣の梅は咲いているのに、うちはツボミばかりです。紅梅のほうはいくらか花を咲かせています。
 夕方6時くらいまでは明るく、庭仕事に精を出しことができるようになりました。それでも、春は花粉症の季節でもあります。ときどき反応して、目から涙、鼻水が出て、くしゃみを連発することがあります。ひどくならなければいいのですが・・・。

戦争と広告

カテゴリー:日本史

著者  馬場マコト、  白水社  出版 
 
 広告クリエーター、山名文夫(やまなあやお)の物語です。
 資生堂の広告をかいていた山名は、戦争に突入してからは、「産業技術は、その技量を今こそ国家のために動員し、民衆を指導し、啓発し、説得し、昂揚させるために、大東亜戦争のもとに集結せよ」と説くことになった。
 山名文夫は、自分の持つ商業美術の技量を総動員し、民衆を緊張させ、結集させ、行進させた。「おねがいです。隊長殿、あの旗を討たせて下さいッ!」という山名のついたポスターは、兵士からの参加性の視点が、きわめてユニークなものにして、衆目を集めた。
 資生堂は、創業以来、商売よりも美を優先してきた。その「百年史」には、メーカーなら第一に語られる商品、流通の歴史よりも、広告の歴史が主体となっている。日本の社史のなかでも珍しい。意匠広告部の社員の入社・退職が細かく記され、広告・商品デザインの担当者の名前をクレジットし、こだわりを見せる。 
資生堂は、陸軍から大量のセッケンを受注し、これをきっかけとして、第二次大戦の軍需に支えられるようになった。女偏の会社が、戦偏の会社に変わったのだ。
 広告というビジネスは、いつも時代におべっかを使いながら、自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいかな、自分の思想も何もあったものではない。そうやって、自分が生まれてきた時代を生きてきた。しかし、時代と併走しつづけるのも、これでなかなか大変なのだ。時代の変化を習慣的に読みとり、自分の感性と肉体を反射的に変容させなくてはいけない。時代はなかなかの暴れ馬で、ちょっと油断すると振り落とされてしまう。 
戦争は嫌だと高言している著者です。広告の恐ろしさをまざまざと感じさせる本です。なんといっても、私たちは、あの「小泉劇場」の怖さを体験していますよね。
 どんな世の中になっても、戦争を起こさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかないと著者は強調しています。まったく同感です。日本も核武装しろなんて声が多いというのを聞くと、身震いしてしまいます。核兵器をもて遊んではいけません。核戦争になったら、全地球、全人類が破滅するのですよ・・・。勇ましい掛け声は無責任そのものです。
(2010年9月刊。2400円+税)

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