法律相談センター検索 弁護士検索

江戸のエロスは血の香り

カテゴリー:日本史(江戸)

著者: 氏家 幹人、  出版: 朝日新聞出版 
 
巻末に主な参考文献・引用史料がたくさん紹介されています。これを見ると、江戸時代について書かれた本を相当よんだつもりになっている私ですが、学者に比べると赤子のようなものです。ちっとも読んでいません。だいいち、原典にあたっていないところが致命的な相違点です。
江戸時代、長崎に滞在していたある中国人は、日本人について、礼儀正しいが貞操を守らないと評した(『甲子夜話』)。江戸時代から今日に至るまで、日本人は老若男女の別なくかなりエッチなのである。
 江戸時代、武士の妻が貞節だったというのは幻想でしかない。文政7年(1824年)、吉原遊郭が炎上し、仮宅での営業が許された。すると、この仮宅を訪れた見物人の8割は女性で、しかも武家屋敷の女性が多かった。
 江戸時代の性の倫理は、過酷な刑が定められた一方で、思いのほか緩やかだった。泰平の世が続くにつれ、その傾向はさらに顕著になった。妻の不倫が発覚しても、処刑や流血沙汰に至るケースは稀になり、通常は間男(不倫相手)から寝取られた亭主に「首代」(くびだい)と呼ばれるお金が支払われて示談が成立した。「首代」は7両2分とされたが、大阪では5両。間男が貧しければ、さらに小さい額で示談が成立し、なかには夫が妻の髪を切るだけで事済みになった例もある。
 不義密通は武士の世界でも庶民の世界でも、日常茶飯化していた。皇族の男女だって駆け落ちしたくらいなので、大名や旗本の妻女駆け落ちも稀ではなかった。
 幕府や藩の役人は心中事件の処理に手心を加えていた。幕府自身が心中未遂で死にそこなった男女の扱いについて、幕府の定めた法を曲げるように勧めていた。心中未遂で晒し者となり非人の配下になっても、親族が非人頭にお金を払って身柄を引き取って、なんのことはない、二人はめでたく結ばれることがあった。そんな魂胆から、狂言心中を企む男女も少なくはなかった。うひゃあ、ここまでくると、驚きですね・・・。
 「茶呑男」という言葉を初めて知りました。正式な夫は持たないが、熟年の性欲を適度に満たしてくれる男友だちのこと。お一人様の老後を、「茶呑男」をこしらえて乗り切ろうという小金もちの女隠居がいた。
 江戸時代の本を読むと、現代の性風俗かと思うばかりです。日本人って、本当に変わらないのですね・・・・。
 
(2010年11月刊。1500円+税)

関東戦国史と御館の乱

カテゴリー:日本史(戦国)

著者   伊東 潤、乃至 政彦、 出版   洋泉社歴史新書
 
 戦国時代のことがすっごくよく分かる面白い本です。なるほど、なるほど、戦国時代の武将たちはこんな考えで、こんなふうに行動していたのかと、感嘆・驚嘆しながら読みすすめていきました。
 御館(おたて)の乱を扱っています。NHKの大河ドラマ『天地人』で有名になりました。
上杉謙信の死によって大正6年(1578年)に勃発した御館の乱こそ、関ヶ原にも匹敵するほどの戦国史上の大事件だった。
 御館の乱をやっとの思いで勝ち抜いた上杉景勝は織田信長勢に押されていたが、天正10年6月に「本能寺の変」が起こって、景勝の苦境は一掃された。その後は、秀吉の忠実な傘下大名として生き永らえた。
 武田勝頼が北条氏政との同盟を死守する気持ちが少しでもあったら、御館の乱は景虎が制し、甲相越三国のあいだには、強固な同盟関係が築けたはず。そうなれば織田信長とて、おいそれとは武田家に手が出せず、日本史は現在あるのとは違った様相を呈したであろう。それは、関ヶ原の勝敗が逆となったときよりも劇的な違いだったはずだ。
 しかし、上杉景虎は景勝に敗れた。それを間接要因として武田家も滅んだ。そして、それが北条家の滅亡をも招き、日本は統一国家の道をひた走ることになった。
父信虎の方針を否定して家督を奪取した武田信玄であったが、結局、その領国拡大策は変わらなかった。否、いっそう積極的になった感さえある。それは甲斐国のかかえる根本的問題に起因していた。つまり、信玄にも外征による領国拡大策以外に甲斐の国内問題、すなわち飢饉と飢餓を解決する術がなかった。
天文22年(1553年)9月、武田信玄と上杉謙信との間に第一次川中島合戦が勃発した。信玄が決戦を避けたので、謙信は撤退した。同年11月、謙信は初めての上洛を果たし、後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を授かるという栄誉に浴する。これを契機として謙信の勤皇熱が高まった。
天文23年(1554年)、信濃国領有に成功した信玄と、関東領有を目ざす北条氏康のあいだに利害対立はなくなり、さらに西進策をとっていた今川義元もまじえて三国間に同盟締結の機運が盛りあがった。この年に締結された甲相駿三国同盟は相互不可侵と攻守同盟を基本としていた。この同盟の特徴として三国間の婚姻による同盟の補強があげられる。すなわち、信玄が嫡男義信に今川義元の娘を迎え、今川義元が嫡男氏真に氏康の娘を迎え、氏康が嫡男氏政に信玄の娘を迎えることで、三国同盟をより堅固なものとした。この同盟は永禄11年(1568年)まで15年あまりも続いた。
上杉謙信は1556年、27歳のとき出家得度し、すべてを投げ出して高野山に出奔した。若き信玄は戦国大名という職業に嫌気が差してしまった。
上杉謙信には二人の養子がいた。三郎景虎と喜手次景勝である。景虎は北条三郎と名乗っていた。景勝は、かつて謙信に敵対していた上田長尾政景の次男であった。
景虎も景勝もともに、かつて謙信と敵対した勢力を出身する養子だったが、二人とも謙信から実子に優るとも劣らない待遇を受けた。そして、謙信は、景虎の政治基盤を解体せずに景勝の権威昇格を試みた。謙信初名の「景虎」と由来の曖昧な「景勝」では、どう考えても景勝が上位とは言い難い。つまり、謙信は、自らの官途名を譲ることで景勝を引き立てつつも、そこに歯止めをかける存在として、景虎を残したと考えられる。北条方と再び対立した謙信は、またもや反北条の旗頭として、国内や関東の諸士を連れ回し、対北条作戦を継続させねばならなくなった。しかし、北条を実家とする景虎が後継候補では、家中の結束は固まり難く、関東諸士の参戦も危ぶまれた。北条方の矢面に立たされる関東諸士としては、謙信に従って戦うことが北条氏政の実弟である景虎を益することにもつながるというジレンマを抱えることになった。そして、謙信は、北条方との戦いを再開するにあたり、何をおいても景虎を後継とする体制を見直す必要があった。
謙信の祖先は代々、越後守護職・上杉家の家宰として越後国の統治を代行する一族であり、あくまで守護上杉家の補佐役としての権限しか持っていなかった。信玄との川中島合戦において、謙信は正式には主従関係になり国内領主たちを動員してつかい回すのに「勝手に帰国しないこと」という陣中法度があるように苦労していた。このように未熟な権力であったからこそ、謙信は京都の伝統権威に接近した。
うひゃあ、謙信政権の内実って、それほど堅固なものではなかったのですね・・・。まったくイメージが違っていました。
謙信の死は天正6年(1578年)3月のこと。その死から2ヶ月もたって、御館の乱が始まった。以下、御館の乱の推移が詳しく紹介されています。それを読むと、当時の武将たちが気骨のある一城の主(あるじ)だったことがよく分かります。戦国時代の様子を知る絶好の書物です。
(2011年2月刊。860円+税)

和解する脳

カテゴリー:人間

著者  池谷 裕二・鈴木 仁志、    出版  講談社
 
 若手(と言ったら失礼にあたるでしょうね。中堅と言うべきですね)弁護士が高名な若手(同じく)と対談した本です。大変面白い話が満載でした。
 人間の遺伝子は10万と推測されていたが、実は2万台だった。神経細胞は100億という人もいるが、最近では1000億という説が有力。
 遺伝子と脳は、親子の関係というより、むしろ対立関係にある。遺伝子の本来の進化のあり方に対して、脳が違う動きを始めた。脳幹が大脳皮質をコントロールしていたけれど、人間では大脳皮質が脳幹をコントロールするという立場の逆転が起きている。
 再起のないものは言語ではない。サルが言葉を覚えても、文法はできない。無限という概念が分かるのは、再起のできる人間だけ。無限が分かると、無限ではない有限が分かる。
 3歳児は、かくれんぼが出来ない。自分から相手が見えなければ、相手も自分が見えないと思っている。つまり、他者視点でものが見えていない。3歳児は再起がまだ出来ない。
 言語活動の訓練を通じて十分に脳を成熟させてあげないと、他人との関係性をよく認識できない大人になってしまいかねない。
 紛争のない社会のほうが気持ち悪い。かなり人為的に意思統一させられない限り、争いが起こるのは当然のこと。
日本の裁判では偽証が構行している。はっきり言って、そのとおりだと思います。しかし、かと言って、何が真実なのかを見抜くのは実に容易なことではありません。ですから「偽証」の立証は至難に業なのです。
 脳は思いこみをする。裁判官のなかには、この事件はこうじゃないかと心証を形成すると、それ以降、その流れをサポートする証拠ばかり見ようとする。大脳皮質は作話を始める。そのとき、本人には嘘をついている自覚がない。心から自分の発言を信じている。嘘をついているときは前頭葉が活動している。本当のことを話しているときは、脳の後の方が活動している。うへーっ、そうなんですか・・・。
 カウンセリングの基本は、聞くこと。誰か一人でも受け入れてあげる。受容してあげることが大切。反感をもっているときに聞いても、それは受け容れない。和解するときの究極の目標は、相対的な快感をつくり出すことに尽きる。裁判官は、提出された論理構成のなかで、「落ち着き」のいい結論にたどり着くのに一番つかいやすい論理を用いる。
 和解をすすめるときにも、弁護士が決めたように思わせないようにもっていくのが重要。情報を置いておいたら、それを見た当事者が自分で決めたという形にすると、自分で将来を切り開ける。このとき、本人の納得度は高い。
 これは弁護士にとって大切な指摘です。ところが、本人の納得度をあまり重視しすぎると、まとまる話もまとまりません。そのかねあいは実に難しいところです。
 人間は、互恵性のシステムを遺伝的にもつ生物である。そのシステムを維持することが最終的に自分のためになる。不公正感は、もともと人間の持っている互恵的利他性から出てくる感情だと思う。
 和解のもつ意義を考え直させてくれる本でもありました。
(2010年11月刊。1600円+税)

鉄砲を手放さなかった百姓たち

カテゴリー:日本史(江戸)

著者 武井 弘一、   出版 朝日新聞出版 
 
 江戸時代の百姓は、意外にもたくさんの鉄砲を持っていたようです。害獣退治に鉄砲は欠かせなかったのでした。そして、百姓一揆には鉄砲を使わないという不文律があったといいます。これって、日本社会の不思議ですよね。
 百姓一揆のとき、鉄砲がヒトに向けて発射された例はない。武器ではなく、音をたてる鳴物として使用された。領主の側でも鉄砲は使わなかった。百姓へ向けて発砲してしまえば、たちまち支配の正当性を失ってしまうからだ。領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。うむむ、本当でしょうか、なんだか信じられない、そんな原則ですよね。
下野(しもつけ)国壬生(みぶ)藩は軍役で鉄砲80挺を出すのが決まりだったが、藩内の村から104挺もの隠し鉄砲が摘発された。軍役規定の1.3倍も鉄砲を百姓たちが不法所持していた。このように刀狩りによって日本人は丸腰になったという考えは間違っている。実際には、村々には、なお大量の武器がそのまま残されていた。刀狩の真の狙いは、百姓の帯刀を原則として禁じて身分を明確にすることにあった。そうなんですか・・・。
 鷹を数えるときは、「羽」ではなく「居」(もと)を使う。むひゃあ、ちっとも知りませんでした。こんな単位の呼び方があったんですね・・・・。
 鉄砲改めとは、幕府が村に広まっている鉄砲そのものを登録することを言う。つまり、鉄砲所持を禁止するのではない。鉄砲改めの狙いは、盗賊人が持つような、治安の悪化にもつながるような鉄砲を没収することだった。
 島原の乱のあと200年ほどは弓も鉄砲も不要になっていたと、水戸藩主の徳川斉昭が幕末のころに書いている。幕末になると、アウトローたちは、長脇差とヤリ・鉄砲をもって徘徊していた。
人宿(ひとやど)に、まだ死人でないヒトが捨てられていた。重病人を遺棄することがあたり前になっていた社会に徳川綱吉は、ヒトもふくめた生き物すべての生命を大切にすることを教諭しようとした。これが生類憐みの令なのである。また、野犬をどうするのかが、社会的な課題となっていた時代でもあった。うむむ、そういう見方もあるのですか。
 関東の耕地面積は、(20万町20万ヘクタール)から、江戸中期に70万町まで3.5倍も飛躍的に増えた。そして、鳥獣害に百姓は悩まされていた。
 享保2年から、幕府はあらゆる鳥を独占するため、鉄砲を取り締まっている。鳥が激減していた。幕府が鉄砲改めをおこなったのは、鷹場を維持・管理するため、不足していた鳥を確保することに狙いがあった。
 日本人にとっての鉄砲の意味を考え直させる本です。
(2010年6月刊。1300円+税)

僧兵=祈りと暴力の力

カテゴリー:日本史(中世)

著者 衣川 仁 、  講談社選書メチエ 
 
この本を読むと、中世のお寺というのは、そこで僧侶が静かに修行していただけというものではなく、社会的な権力体であり、ときに集団的な暴力沙汰も辞さない物騒な存在であったことが分ります。何ごとも固定観念で、とらえてはいけないものなのですね。
比叡山延暦寺など、寺院は社会的な権力体として、最大級の権力基盤をそなえていた。その勢力は、寺領荘園という経済的基盤と、俗人も含みこんだかたちで拡大していた寺僧の集団によって支えられていた。
大衆は、だいしゅと読む。寺院の勢力を担う僧侶集団をさす。ときに何千人もの規模を誇っていた。
世俗的な要素を色濃くもつ中世の寺院では、ときに熾烈な内部抗争があり、延暦寺の根本中堂でも大きな騒乱が発生したことがある。
平安時代。八世紀、千人をこえる大衆が京都へ入浴し、強訴を敢行した。このうち6百人が大般若経を、2百人が仁王教を1巻ずつ持参し、残る2百人は武装していた。
大衆が行う僉議(せんぎ)では、聴衆を魅了する弁舌をそなえたリーダーシップが必要だった。 中世の寺院の意思は、座主でも僧綱でもなく、大衆の名のもとに形成されていた。
近年、僧侶になる者は、1年に2,3百人おり、その半数以上は、「邪濫の輩」(じゃらんのともがら)である。諸国の百姓(ひゃくせい。一般の人民)が、税負担を逃れようと自ら剃髪し、勝手に法服を着ている。それが年々増加し、今では人民の3分の2が僧の姿をしている。彼らの家には妻子がいて、平気で肉を食べている。うむむ、なんとなく分かりますね。
戒牒(かいちょう。受戒したことを証明する文書)を、税逃れの根拠としている。
天皇が「現神」(あきつかみ)であることのみで権威を保ち得た時代は過ぎ去り、諸神との相互関係のうちに権威を高める新たな段階にいたった。
中世寺院は、10世紀公判以降、寺院の意思として集団的に武力を行使するようになった。中世において、仏法は、他の時代に対して、恐るべき力をもっていた。
神人(じにん)、寄人(よりうど)とは、国司への負担を免除されるかわりに寺院・神社に従属した民のこと。中世の寺院や神社は、荘園住民を神人・寄人として組織することにより、その経済基盤と支配領域を拡大していった。
神人がその宗教的脅威を利用したのは、借金の取り立てだけではなかった。彼らは、都や在地社会において、大衆の手先となって神威をふるっていた。ときに都において神人がみせた神威のもっとも先鋭的なかたちが神輿(しんよ)動座である。そして、それは大衆の強訴(ごうそ)として採用された。神輿動座をともなった強訴は、11世紀末以降、頻発した。この強訴には暴力性をともなっていた。強訴では、視覚・聴覚に訴える要素が重要であった。
こうやってみてくると、平安時代って、琴の音とともに静かな時代というイメージなんか吹っ飛んでしまいますよね。それどころか、むき出しの暴力までもが横行する、荒々しい社会だったのではないかという気がしてきます。
古い寺院も、その視点で改めてのぞんでみてみましょう。
                   (2010年11月刊。1500円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.