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なぜ東大は男だらけなのか

カテゴリー:社会

(霧山昴)
著者 矢口 祐人 、 出版 集英社新書
 私が57年前に東大に入学したとき、私のクラス(50人)の女性は2人でした。ちなみに、司法修習生になったときも、女性はクラス2人しかいませんでした。
 2年生のとき、東大闘争が始まり、クラス討論をするなかで2人の女性の志向が判明しました。1人は全共闘支持、もう1人は民青(共産党)支持でした。どちらも都内出身だったような気がします。民青支持の女性とは一緒に行動することも多くて会話もしましたが、全共闘支持の女性とは、ほとんど会話した覚えがありません。大学を卒業して30年ほどしてのクラス同窓会に全共闘支持だった女性は出席していました。東京都庁に就職して、それなりのポストを歴任したのだと思います(なかなかのやり手だったという印象が残っています)。
 東大の女子学生の比率は2割。しかし、東大だけではなく、京都大学も同じ。国立大学の女性比率はどこも4割に達していない。学部でみると、女性の比率がもっとも高いのは教育学部で45%。文学部は28%で、法学部は23%。
 昔も今も東大に入るのにはお金がかかる。天性の才能だけではなかなか合格できない。テストに向き合う技術、それに関連する情報へのアクセス、両親と教師の理解と支援、それらを支える資金が必要。東大入学の上位高校には中高一貫が多い。そこは年間100万円ほどの学費、このほか寄付金を求められる。
 東大は女性の入学を1946年まで認めていなかった。NHK朝ドラの「寅子(ともこ)」が明治大学に入学できたのは昭和のはじめでしたね…。
 そして、今、東大は学費を年10万円も値上げしようとしています。とんでもないことです。これは東大がけしからんという前に、国の文教政策が間違っていることによるものです。軍事予算のほうには何兆円も惜し気もなく、湯水のように使うのに、肝心な人間の育成には「お金がない」と称して出し惜しみするから、こうなるのです。
 大学生の授業料は無料にし、むしろ生活費を支給(貸与ではなく)すべきなのです。
 これは夢物語でもなんでもありません。ヨーロッパでは国の発展のために必要な投資としてやっていることです。いわゆる「人材育成」は自己負担とし、何の役にも立たない軍事予算には権限なくムダづかいする。こんな支出構造は変える必要があります。
 それにしても、東大生の政党支持率のトップが自民党だと聞いて、耳を疑いました。なんで、あんなデタラメ放題の政権党を若い人たちが支持するのか、信じられません。
ともかく、東大に限らず、大学ではもっと自由に伸び伸びと研究できる環境を早急につくり上げないと、日本という国の将来は真っ暗ですよ。多様性の確保こそ発展の保障なのです。
(2024年2月刊。1089円)

中国農村の現在

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 田原 文起 、 出版 中公新書
 これは面白い本でした。中国については相当数の本も読み、何回か行ったこともありますので、それなりに分かったつもりでいましたが、実はまったく分かっていないことをこの本を読んで、よくよく自覚しました。
 韓国の、かの有名な「爆弾酒」ほどではありませんが、中国の宴会には酔いつぶれるまで乾杯を繰り返す儀式があります。私はそんなことはしたくありませんので、そんなときは、全然飲めないことにして逃げます。実は少しは飲みたくても、ガマンするのです。
 中国官界の宴会には、表向きの賑(にぎ)やかさの裏に、言外に秘められた意味がある。村幹部を含め、現代の「官場」に生きる人々は腹芸に長(た)けた役者であり、タヌキでもある。つまり派手な宴会にしておいて形式的に歓迎を表明しておくと、相手の本意を察した客人は気持ちよく引き上げてくれるだろうということ。だから、そんな腹芸を知らない、うぶな日本人は宴会の翌日、みんなが歓迎してくれていると思っていると、あわわ、まだここにいたの…という反応に出会うというのです。こんなこと、日本では考えられませんよね…。
 農村地帯に住む人々は、大都市の住民と自分たちを比べることはしない。あくまで身近な村人とのあいだで比べて競争する。なので、4階建の家が村のあちこちに次々に建つ。1階は物置きにして、2階に住む。3階と4階は、子どもたちが戻ってきたら、そこに住まわせる。それまでは内装せず、コンクリート打ち放しのまま。
 家は巨大であり、勇壮であり、豪華なものでなければいけない。周囲が4階建の家なのに、自分のところは3階建てというのは「面子(めんつ)を失う」ことになる。こうやって、村から大勢の人々が都会に出稼ぎに出ているところでは、次々に4階建の家が立ち並んでいく。
 中国で分家になるのは、日本と違って、本家が優位に立つことはない。あくまで兄弟間の徹底的な平等の関係が前提であり、兄弟は親の財産を公平に分配する。
 中国では古い古い昔から戦乱の時代が続いたため、非常に流動性の高い社会であった。ここが、日本社会と決定的に違います。日本には地縁的なムラ社会が古くからありましたが、戦乱に明け暮れた中国には、そんなものはありません。では何があるかというと、血縁。安全保障の最後のよりどころは血縁だったのです。すると、どうなるのかというと、血族の中の誰かが出世すると、その人は一族を援助する「道徳的義務」を負うのです。
 もちろん、これは日本にもないわけではありません。でも、韓国や中国ほど一族(血縁関係)に尽くすということはないように思います(私個人もそうですし、私の周囲にも見当たりません)。
 若い農村出身者にとって、大都市は憧れの対象ではあっても、自身との「引き比べ」の対象ではない。都市は働くだけの場所でしかない。
 伝統的な中国の農村には「村八分」はなかった。血縁にもとづく実力関係のほうが大事であり、地縁的な共同体が存在しなかったので、「村八分」というのは村民の行動を制御する力にはなりえなかった。
自分に関係のない人間と付きあうのは面倒くさい。これが家族主義者である中国村民の心情を的確に代弁している。
 中国の農村地帯に入り込んで聴き取りすることの難しさがひしひしと伝わってくる本でもありました。
(2024年2月刊。960円+税)

チャップリンとアヴァンギャルド

カテゴリー:人間

(霧山昴)
著者 大野 裕之 、 出版 青土社
 さすがチャップリン研究最高峰の著者だけあります。知識の広さと分析の深さについ、うなり声をあげてしまいました。とても面白く興味深い本です。チャップリンに関心のある人には欠かせない本だと思います。
 チャップリンのもっている杖、あのよくしなる杖は日本の竹なんですね…。チャップリンの杖は、滋賀県の根竹。体を支えるためのものではなく、いろんなものの代用品となる。
 チャップリンの傑作の一つ、「街の灯」は、戦前の日本で新作の歌舞伎として演じられ、またチャップリンの遺族の了解を得て、最近、再演されたそうです。「街の灯」を歌舞伎で演じるなんて、想像もできませんでした。
映画「街の灯」が日本で初上映されたのは1934(昭和9)年のこと。アメリカでは1931年1月30日に上映された。ところが、日本ではなんとなんと、映画より3年も早く1931年8月に歌舞伎座で上演されたというのです。ただし、タイトルは「蝙蝠(こうもり)の安さん」。
 しかも、それより早く、1931年5月には東京の新歌舞伎座で辰巳柳太郎主演の「チャップリン」なる演劇が新国劇として上演されていたのでした。いやあ、すごいです。
 映画「移民」に出てくる揺れる船のシーン。実は、カメラに振り子をつけて画面のほうを揺らして撮影したというのです。つまり、船の甲板は水平のままなので、滑ることはない。そこで、チャップリンは、片足で立ったまま小刻みに足を動かして移動して、揺れる甲板の上を滑っているように見せている。いやあ、まいりましたね、そんなことまでチャップリンは出来たし、したのですね。身体能力の高さの極致です。
 チャップリンは1932年5月に日本に来ています。危く五・一五事件に巻き込まれそうになったのでした。このとき、チャップリンは歌舞伎座を訪れ、初代の中村吉右衛門とも話しています。チャップリンには日本人秘書(高野虎市)もいて、大の日本びいきでした。
 チャップリンは日本では、インテリ層には芸術哲学者として、一般庶民にはドタバタ喜劇の人気スターコメディアンとして幅広い層から圧倒的な人気・支持を受けていたのです。なにしろ、チャップリンが東京駅に来ると分かって、日本人が4万人も押し寄せたというのです。東京駅の入場券がこの日だけで8千枚も売れたというのですから、恐ろしい。
そして、2019年12月、再び国立劇場で『蝙蝠の安さん』が88年ぶりに再演された。それをチャップリンの息子が鑑賞して絶賛したというのです。うれしいことですね。
 チャップリンのトレードマークであるよちよち歩きは、両足のかかとをつけたまま、左右の爪先を外側に開いた状態で歩いていくもの。これはバレエの足の形で「1番」のポジションで動いているということ。しかも、歩くとき、上半身を決して左右に揺らさない。体幹をまっすぐに保ったまま歩く。これはバレエに通じるもの。というのも、チャップリンは俳優である前に、9歳のときから舞台に立ったダンサーだった。すごいですよね。
 チャップリンの「独裁者」が世界中でヒットしてから、ヒトラーは、大勢の群衆の前での演説をやらなくなった。チャップリンに笑い物にされたことで、ヒトラーの最大の武器が奪われた。いやはや、言葉の力は、スクリーン上の表現とあわせて、かくも偉大なんですね。
 チャップリンは反共の嵐の中、アメリカから追い立てられるようにして立ち去ります。その前にチャップリンが言ったコトバは、「私は共産主義者ではありません。平和の扇動者です」というものでした。チャップリンの究極の目的は世界中の人を笑わせること。
私は40年近く、毎年、市民向けの法律講座を開いていますが、初めのころはチャップリンの短編映画を毎回上映していました。ドタバタ喜劇ではありますが、単なるナンセンスものというのでもなく、少しホロリとさせたりして、一味ちがっています。
 チャップリンの天才ぶりを改めて認識させられました。
(2024年1月刊。2400円+税)

大インダス世界への旅

カテゴリー:アジア

(霧山昴)
著者 船尾 修 、 出版 彩流社
 世界各地を自由気ままに旅行し、写真を撮ってまわっている著者の旅行体験記です。
 カン・リンポチェは、日本人はカイラス山と呼び、チベット人仏教徒にとっては、一生に一度は巡礼したいと願う、聖なる山。
 今では、チベット旅行は自由には出来なくなっている。寺院の周囲を時計まわりにぐるぐる歩いて巡礼することをコルラという。
 チベットの飲むバター茶。バター茶は、バターとタンチャという茶葉を固めたものに熱湯を加えて撹拌(かくはん)した飲みもので、お茶というよりはスープ。初めはそんなにうまいとは思えず、飲み干すのに苦労する。ところが、慣れてくると、こんなにうまい飲みものはないと思うようになる。チベット人は、これを1日に何十杯も飲む。チベットは内陸の高原なため、空気がすごく乾燥している。だから、肌がすぐにガサガサになる。それで、バター茶を飲むことによって、皮膚を保湿する効果がある。そして、栄養価も高い。
 チベット人は日本のことを「ニホン」と呼ぶ。「ジャパン」ではなく、「ニホン」と呼ぶのは、世界中、チベット人だけ。
 チベット人の数字の読み方は、日本によく似ている。チィ、ニィ、スン、シ、ンゴ、ルック、ドゥン、ゲェ、ク、ヂュウ。いやあ、たしかにこれはよく似ていそうです。
 五体投地の方法でカン・リンチュを一周するには3~4週間かかる。
 うひゃひゃ、ですよね。とてもそんな気の遠くなるようなことは出来ません。
アルプスでの登山ポーターは割りのいい仕事だ。10日間から14日間ほどの行程で、1万ルピー(万6000円)ほどの収入になる。物価は日本に比べて大変安い。
(2022年11月刊。2700円+税)

関白秀吉の九州一統

カテゴリー:日本史(戦国)

(霧山昴)
著者 中野 等 、 出版 吉川弘文館
 織田信長が本能寺の変で倒れたあと、天下人となった秀吉はその実力(軍事力)だけで全国を統一したのではなかったことがよく分かる本でした。
 九州における戦闘を止めるように秀吉が促すとき、それは「叡慮(えいりょ)」、つまり天皇の意向だからとするのです。
秀吉は、くどいほど天皇の存在に言及する。関白となった羽柴秀吉は、天皇の権威に依拠しつつ、国内静謐(せいひつ)を実現しようとした。
 秀吉は、九州において頑強に抵抗する薩摩の島津勢に対して自らが総大将となって九州にやってきて、ついに島津義久の降伏によって、「九州平定」を達した。ところが、これで「九州仕置き」が完了したのではなかった。肥後や日向そして肥前などで反乱や内紛が起きて、それを片付けるのにも苦労した。
そのうえ、秀吉は、その前から「唐(から)入り」を宣言していて、対馬藩を通じて朝鮮国王に服従を迫っていた。国内では、「伴天連追放令」を発し、また、「刀狩り」も発している。
この本では、「九州統一」ではなく「九州一統」となっています。「統一」というと、どこかの国に一つにまとめられたというイメージですが、強固な島津勢がいる一方で、それに反対する大友などの勢力もいるわけなので、「統一」というのはふさわしくないのでしょうね…。
 秀吉による「九州平定」作戦が遂行されていくときに見落とせないのが、イエズス会の軍事力と、九州各地のキリシタン大名の動きです。イエズス会は、長崎港と茂木港を大村純忠(バルトロメオ)から寄進を受けました。そして、この二つの港を軍事要塞化していったのです。
 この本によると、秀吉は石川数正の調略(引き込み)に成功したあと、家康討伐を決意したとのこと。たしかに、徳川家康にとって、長年の忠臣が突然、秀吉のほうに寝返りするなんて、とても信じられない思いだったと思います。自らの手の内が全部、「敵」に筒抜けになるという恐怖はきわめて大きかったことでしょう。
 ところが、秀吉が家康討伐を決意した直後の天正14年11月29日夜、大地震が発生して、それどころではなくなって、信長と家康の激突は避けられたのです。
 秀吉は文書を発行するとき、「判物」と「朱印状」とを使い分けている。判物は、大友義統や龍造寺政家そして、上杉景勝や徳川家康など…。そうでない人々は、朱印状ではなく、花押をすえた判物を発給している。私には、この使い分けの意味が理解できませんでした。
 秀吉が島津勢を討伐するために九州に大軍を率いて実際にやってきたのを「九州御動座」と呼ぶのですね…。
 秀吉は島津勢の領域としては、川内(せんだい)の泰平寺までで、それ以上は南下しませんでした。
 秀吉の「伴天連」追放令は、伴天連による仏法・排撃を禁じたもので、無条件に退去せよというものではなかった。
 秀吉から肥後をまかされた佐々成政は結局、切腹させられた。
 島津勢といっても、決して一枚岩ではなく、秀吉に屈服しないとして抵抗を続けた勢力もいたのです。島津にとっても領国運営は大変だったのです。大変勉強になる本でした。
(2024年3月刊。2500円+税)

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