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オバマも救えないアメリカ

カテゴリー:アメリカ

著者   林 壮一 、 出版   新潮新書
 鳴り物入りで登場した変革のヒーロー、オバマ大統領も、人気は今ひとつですね。
 それにしても、アメリカの保守層がオバマ大統領を批判(非難)するとき、オバマは社会主義を目ざしているというのだそうですから驚き、かつ呆れてしまいます。
 国民皆保険がその典型です。アメリカで病気になったら、金持ちは世界最高水準の医療を受けられます。しかし、中間層より下は下手すると自己破産に追い込まれるという苛酷な社会です。ヨーロッパや日本のように国民皆保険を目ざすと、それだけでアカのレッテルを貼られて、社会的に葬り去られてしまうというのですから、とんでもない国です。なんでも自由競争にしてしまえ、なんていう国には絶対に住みたくありません。だから、私はTPPにも反対なのです。
テレビは中身のない薄っぺらな番組が圧倒的だ。哀しいかな、大衆はテレビの映像を容易に信じる傾向にある。だから、大統領選挙においては、いかにテレビの映像で己を演出して票を獲得するかがカギとなる。
 アメリカの内部デトロイトでは卒業証書を手にするのは4分の1にすぎない。全米50州のすべてが高校卒業までを義務教育としているのに・・・。
 デトロイトのホームレスは、住民50人に1人の割合に及ぶ。少なく見積もっても、
1万9000人が雨露を防ぐために廃屋を回って寝場所を探している。貧しさは犯罪を生む。デトロイトの殺人事件は全米平均の5.16倍。放火にいたっては、6.34倍。2007年のデータによると、米国全土のホームレスは74万4000人。ラスベガスでは1万2000人が街をさまよっている。
 貧富の差が拡大する一方のアメリカでは、多くの人々が貧困にあえいでいます。アメリカン・ドリームなんて、夢のまた夢。日本人は、こんなアメリカを手本にしてはいけませんよね。
(2011年6月刊。700円+税)

藤原仲麻呂

カテゴリー:日本史

著者   木本 好信 、 出版   ミネルヴァ書房
 奈良時代の中期に太政大臣になって権力を握ったものの、最期は琵琶湖そばで敗死してしまって、ながく賊臣とされてきた人物の実際が紹介された本です。
仲麻呂の政治は、儒教主義にもとづく唐風政策であった。
藤原仲麻呂の乱と一般に言われているが、実は、孝謙上皇側が乱を仕掛けた、つまり先に攻撃したものだというのが本書の結論です。
 孝謙上皇(太上天皇)は、国家の大事、賞罰、この二つは朕(自分)がすると宣言したものの、政治権力は依然として仲麻呂の手中にあって、主導権は握れなかった。それは、天皇の象徴である御璽と駅鈴を仲麻呂の仕える淳仁天皇が保持していたから。そこで孝謙上皇は、その奪取に出た。これは仲麻呂にとって想定外の、意表をつく先制攻撃だった。
 孝謙上皇は御璽を手に入れたことによって自信をもち、仲麻呂が反逆者であることを布告し、官位を奪い、藤原の姓から除くことを宣言した。この勅によって仲麻呂は謀反人とされた。
 仲麻呂を追討したあと、孝謙上皇は淳仁天皇を廃位した。そして、自ら再び称徳天皇と名を変えて再登場した。このあと、道鏡が権力をほしいままにする政治が行われた。
 藤原仲麻呂が実権を握っていたときの政治、そして日本社会の実情が明らかにされています。
 この本によると、仲麻呂は意欲的に政治に取り組み、一定の成果もあげていたようです。歴史は勝者側から一方的に悪く書かれることが多いことを意味しています。
(2011年7月刊。3500円+税)

狡猾の人

カテゴリー:社会

著者   森 功 、 出版   幻冬舎
 狡猾(こうかつ)って、ずるがしこいという意味ですよね。防衛省のトップの事務次官として4年間も居座り続け、ついには防衛省の天皇とまで呼ばれた高級官僚について書かれた本です。この本を読むと、防衛族なる国会議員、防衛省のトップそして自衛隊の高級将官が日本の国土と国民を守ると豪語しながら、実は、それは単なる口実であって、要するに自分とその家族を守ることにしか念頭にないことがよく分かります。こんな人たちに日本人は愛国心が足りないなんて言ってほしくありません。
 軍需産業が昔からボロもうけだったのは、まさにそこが競争のない世界だからです。定価なんてまるでありません。戦車1両が10億円とするとメーカーが言えば、防衛省は値切ることもなく、はい買いましょう、100両買いましょうなんて言って、惜しげもなく税金を注ぎ込むのです。もちろん、そこには中間に介在する人々へのもうけもしっかり保障されています。防衛省そして軍需産業のえげつなさが暴露され、お金のためには国すら売り渡してしまう人々が、表向きは愛国心を鼓舞していると言うことが分かって嫌になってしまいます。
 日本政府は1機100億円するE-ZCを13機購入した。1300億円だ。ところが、今度はAWACSを買うという。AWACSは550億円もする。このAWACSを3機も購入しようという。
日本って湯水のようにムダなところにお金をつかうのですね。だって、これって、日本の国土を守るというより、アメリカ軍のお先棒かつぎというだけなんですよ。
 自衛隊の装備の購入の7割が一般競争入札で随意契約は3割。ところが、これは件数の比率であって、金額のみでみると逆転する。7割が随意契約である。航空機や戦車などは主要なものは、みな随意契約。
 要するに軍需メーカーの言うとおりに国は買っているというわけです。
軍事装備は市場性がない。競争相手なんていないから、定価というものが考えられない。水増し請求は日常茶飯事である。防衛省には、メーカーの提示する価格を徹底的に検証する能力はない。だからメーカーの言い値どおり買うしかない。
仲介する商社の手数料は代金の1.4%と決まっているから、民間の取引場である10%の手数料にあわせるため、価格の水増しが起きる。
 守屋武昌元次官は自民党の防衛族として有名な石破茂元防衛庁長官を口舌(こうぜつ)の徒と評する。さらに、田母神俊雄・元航空幕僚長についても、ジョークが得意だけで、本来、幕僚長になるような器ではなかったと酷評する。
 アメリカは自動車産業は日本に負けたが、航空機と宇宙産業は手放さない。日本の参入を許さない。アメリカのものを買えと、露骨に要求し、日本政府はそれ唯々諾々と従っている。
 4年間も防衛庁の事務次官を務めた守屋武昌の退職金は6000万円だった。うひゃあ、これって、やっぱり高すぎますよね。防衛省って、そこにいる人たちの生活を防衛する、名ばかり官庁のようです。
(2011年12月刊。1400円+税)

昭和天皇伝

カテゴリー:日本史

著者   伊藤 之雄 、 出版   文芸春秋
 私にとって昭和天皇というのは、高校生までは「あっ、そう」としか言わない、よぼよぼの老人。大学生になってからは、日本を戦争に導いた最大の戦犯なのに、マッカーサーにこびへつらって戦犯になるのを免れた、こんなイメージでした。ですから、第二次大戦に至までの戦前、30代から40代という若さだったという感覚がまったくありませんでした。
 天皇の戦争責任について、日本では真正面から議論することがあまりに少ないと思います。戦後すぐには退位すべきではなかったかという意見も有力だったわけですが、今ではなんとなく昭和天皇は平和主義者であって、開戦は自分の意思ではなかったけれど、終戦のときは身を挺して戦争を終わらせたという雰囲気の論調です。だけど、昭和天皇が本当に根っからの平和主義者だったら、やはり日本が太平洋戦争に突入することはなかったと私は考えています。
 この本は、天皇が軍部との関係で絶えず緊張関係にあったことを明らかにしています。軍部は天皇を利用しようとしていたし、天皇は軍部が自分の言いなりにならないことから、妥協しつつ自己の意思をつらぬこうとしたようです。
 即位したばかりの若い昭和天皇は、陸軍将校とつながる平沼騏一郎などの右翼、倉富枢密院議長などの保守派からの不安の目で見られていた。
 張作霖爆殺事件のとき、昭和天皇は田中義一首相に異例の「問責」をしたが、このとき、若い天皇が右翼・保守派・軍部に対して威信を失ってしまい、軍部の統制を確立できない結果をもたらした。
ええっ、昭和天皇は若いから威信がなく、周囲から不安の目で見られていたのですね。つまりは、信用されていなかったということです。
 昭和天皇はフランス語は学んでいたが、英語は生涯自由に話せなかった。でしたら、イギリスを訪問したときは、フランス語で会話していたのでしょうか・・・?
 右翼は、天皇制を支持し、天皇親裁を唱えるが、彼らはあるべき天皇像を持っており、それと異なると、なかなか従おうとはしない。
つまり、右翼にとって、天皇は絶対的存在ではないのですね。自分に都合のよいときには、それを錦のみたてとしますが、気にくわなければ天皇を追放(代替わり)するのもいわないというわけです。
 昭和天皇は、若いころ歴史に非常に興味を持っていた。しかし、元老たちが「歴史は、かえってお悩みの種になる」と危惧し、次に好きな生物学を選ぶようにすすめた。なるほど、生物学は俗世間との結びつきがより少なくて、無難なものでしょうね。
 昭和天皇は、若いころは毎朝、何種類かの新聞に目を通していた。昭和天皇の言動について、宮中内部の有力者のなかに、細かいことに関わりすぎるという、その人格への不満や批判まで出てきた。
 田中義一首相が辞任することになって天皇批判が出てきた。このことは、自らの誠実さに対する国民の人気を信じ、はりきって政治との関わりを求めてきた若き昭和天皇にとって、大きなショックとなった。
満州事変のとき、軍部の独断専行について、昭和天皇は問責をあきらめた。このとき30歳の昭和天皇は、浮き足立ち、弱気になっていた。
5.15事件が起きたとき、31歳の天皇は何かをせずにはおれなかった。クーデターで首相が殺害され、陸軍が政党内閣の拒否を公言するという初めての異常事態に直面したのだった。
 昭和天皇は、一貫して美濃部達吉の天皇機関説を支持していた。しかし、公式に支持表明はしなかった。陸軍が機関説排撃に加わっているため、「公平な調停官」としてのイメージを傷つけないようにしたのだった。
 2.26事件(1936年)のとき、陸軍はクーデター部隊を容認する方向で動いていた。これに対して、昭和天皇は反乱部隊の鎮圧を督促した。ところが、速やかに鎮圧せよという天皇の意思は、10数時間ほども陸軍当局に無視された。昭和天皇は大元師の命に従わない陸軍への憤りと、大きなあせりと、恐怖を感じた。大元師としての自らの命令がさらに一日実行されないことに対し、陸軍への不信を強めていった。そして、3日後にようやく収拾することができた。これによって昭和天皇は、陸軍に対して強い不信感をもつとともに、陸軍統制の困難さを考えたはずだ。
 日米開戦が現実化することについて昭和天皇は大きな不安を抱き、ためらいがあった。もし天皇が開戦論を止めたなら、本当にクーデターが起きたかどうかは分からないが、2.26事件で陸軍が長時間、昭和天皇の命令を無視したことなどの経験から、昭和天皇がそう信じたことはありうる。昭和天皇は、米、英との開戦に最後まで躊躇していた。
昭和天皇は、太平洋戦争のころは40歳代の前半であり、身体にとくに悪いところはなかった。
 昭和天皇は1943年3月末の時点で戦争に勝てないと考えはじめた。ニューギニアで突破された1943年9月には勝利の見込みを失っていた。もっとも、昭和天皇は、完全に日本の敗北を確信していたのではなく、1945年5月に沖縄戦の敗戦が確定するまで、講和へのわずかな望みを抱いていたと思われる。そこで昭和天皇は、アメリカ軍に大打撃を与えて講和に持ち込むしかないと考えていた。
 1944年10月、神風特攻隊のことを知ると、昭和天皇は驚きつつも激励し、「もう一息だよ」と参謀総長を励ました。
 1945年4月からの沖縄戦でも、上陸したアメリカ軍の背後をついて日本軍が逆上陸するように参謀総長にすすめるなど、積極的な戦争指導は沖縄戦の敗北が確定するまで続いた。
 本土決戦を唱える陸軍主流をそれほど考慮することなく、昭和天皇が終戦に向けての行動を開始できたのは、ポツダム宣言が出され、広島への原爆投下とソ連参戦で、戦争終結に反発する陸軍の抵抗が弱まったからである。
 天皇が「聖断」を出しても、万一、軍部が受け入れなかったなら、「聖断」は効力がない。昭和天皇は、天皇制維持の確証があるという姿勢で日本を終戦に持っていこうとした。
 戦後、昭和天皇は沖縄についてアメリカが軍事占領することを希望すると表明した。これは象徴天皇として明らかに逸脱した行動であった。
 昭和天皇の実像を知るための貴重な労作だと思いました。560頁ほどもありましたが、読みやすく、なんとか読み通しました。
(2011年9月刊。2190円+税)

アフガン諜報戦争(下)

カテゴリー:アメリカ

著者  スティーブ・コール 、 出版  白水社
 アメリカがウサマ・ビンラディンを拘束・殺害する計画というのは、昔から、あの9.11より前からあったのですね。CIAの公式計画になっていたのです。それは、遅くとも1996年から始まっています。
 CIAは、1997年にはビンラディンがときおり滞在する住居を知っていた。それはオマル氏が用意したカンダハル市内外の屋敷だった。
 ワシントンは1998年、ビンラディンを捕獲する計画の構想を承認した。ビンラディンを捕まえたら、アフガン南部の洞窟内に3日間拘束する計画だった。カンダハル空港の近くにあるビンラディンの農場を襲撃する計画をCIAは立案した。ところが、実施直前、ぎりぎりのところで、クリントン政権はこの計画を放棄した。
 1998年8月、アフリカのケニア(ナイロビ)とタンザニア(グルエスラサーム)で自爆攻撃があり、アメリカ人を含めて数千人の死傷者を出した。この事件の背後にビンラディンがいる可能性は高いとCIAは分析した。
 CIAの任務はアメリカへの奇襲攻撃を防ぐことだった。そのために何千人もの分析官などが仕事をしていた。
 諜報の泥沼のなかに不気味なパターンが見えた。その一つは、ビンラディンの工作員たちが航空機に関心をもっていることだった。また、ビンラディンがアメリカ本土での攻撃を計画していることが次第に明らかになっていた。CIAが世界規模で活動を強化したにもかかわらず、盗聴からも取り調べからもハンブルクを拠点とする4人のアラブ人が密かにアフガニスタンを出入りしていたことはつかめなかった。
 数年間にわたる努力にもかかわらず、CIAはアルカイダの中核指導部に一人もスパイを獲得できなかった。
 ビンラディンは徹底的で実践的な安全対策をしていた。電話の使い方も用心深かった。身の回りの護衛にはアフガン人を入れず、旧知の信頼できるアラブ人だけを使っていた。絶えず移動ルートを変え、同じ場所に長く滞在せず、行動計画はないリンのアラブ人以外には誰にも明かさなかった。
 CIAの情報源とスパイは主にアフガン人で、ビンラディンの中核指導部にいる護衛と指導グループによって隅に追いやられていた。
 CIA工作員は、ビンラディンの保安上の弱点は、数人の妻たちにあると考えていた。
 ホワイトハウスが国防総省にビンラディンを攻撃し拘束する作戦立案を初めて依頼したのは1998年秋のこと。
 2001年春、CIAのビンラディンに関する脅威報告は、テロ対策センターがめったに見たことがないレベルにまで格上げされた。ビンラディンのチームがアメリカにカナダから爆発物の密輸を試みているという報告を得た。
 8月6日。「ビンラディン、アメリカ攻撃を決意」、これがブッシュ大統領に対する朝の報告の見出しだった。
「我々はもうすぐ攻撃されるだろう」国防総省のテロ対策会議での発言である。
 ハイジャック犯たちの資金は、アラブ首長国連邦に住むアルカイダ関係者から送金されていた。
 CIA最大の凡ミスは、テロ対策センターが2000年の前半にアメリカのビザを所持するアルカイダ支持者2人の存在を知りながら、監視対象者リストに乗せそこなったこと。
 9月9日、アフガニスタンでカメラマンに化けた暗殺者の自爆テロによってCIAと連絡していたマスードは殺された。
 この部厚い本を読むと、アメリカ(CIA)はビンラディンの住所を追い、その動きを一貫して警戒していながら、9.11を防ぐことが出来なかったというわけです。なんだかむなしくなります。テロ防止には武力(軍事力)だけではダメだということを改めて思い知ったような気がします。
(2011年9月刊。3200円+税)

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