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「大学のエスノグラフィティ」

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著者:船曳建夫、出版社;有斐閣
 いまの大学生には五月病というのはないそうです。そのかわり小児病が広がっています。大学に入ってすぐにオリクラ(オリエンテーションクラス合宿)があり、講義が始まるまえからシケ長(試験対策の長)が決まり、彼(女)を中心にして講義毎にシケタイ(試験対策委員)を決め、シケプリ(試験対策プリント)を用意する慣行が確立しています。講義はたくさんありますから、クラス員のほとんどが何かのシケタイになります。シケタイになると、その講義には必ず出席して、シケプリをつくらなければなりません。
 もちろん、私の学生のころにはそんなシステムはありませんでした。そもそも、2年生の6月まで授業があったあとは翌年3月まで授業がありませんでした。それまでだって私はサークル(セツルメント)活動に忙しくて、語学の授業以外はまともに大学の授業には出ていなかったのです。ゼミなるものにも一度として出たことがありません。だから、大学教授というのははるか彼方に仰ぎ見て、マイクを通して声を聞く存在でしかありませんでした。肉声で身近に教授の声を聞いて議論するなんて、考えたこともありませんでした。そのかわりセツルメント活動にうちこんでいましたから、そこで大学の何たるかは精一杯学んだと思っています。といっても、今となっては、もう少し真面目に勉強しておけばよかったかなという後悔もチョッピリしています。その反省が今の読書意欲のバネにもなっているのです。
 船曳ゼミに入るのはなかなか難しそうです。応募者が50人くらいもいて、試験をしたあと面接をして12人ほどに絞るのです。ここで手抜きをすると、あとでひどい目にあうという反省の弁を著者は語っています。ストーカーがうまれたりするのです。
 船曳ゼミでは、学生にレポートを用意させて自分で朗読させるという方法もとられています。人前で堂々とスピーチするという訓練にもなるというのです。なるほど、と思いました。読みあわせというのは非能率的なようで、案外な効果があるというのは私も実感します。読みとばせないことから、しっかりと脳が働き、思考もまとまってきます。夏目漱石の小説は朗読するのに適した文章だということです。私も一度チャレンジしたいと思います。
 東大教授の一日がこまごまと紹介されています。学生の身の上相談、進路相談、成績証明書づくりなど、実にさまざまな雑務が押し寄せてくることが手にとるようによく分かります。東大教授の生態とふくめて、教授であることの意義が淡々とありのまま、何のてらいもなく語られますので、読み手の頭にすっと入ってきます。本当に素直な文章です。
 著者は私と入学年が同じです。著者は東大闘争(東大紛争とは、私も当事者の一人ですから呼びたくありません)のときは何をしていたのか、まさかノンポリではないだろうけど・・・。そう思って読んでいくうちに、著者は全共闘の活動家だったことが分かりました。当時、教授会にも乱入したことがあるようです。大学の知識人である教師を「お前はー」と罵倒したことがあると書かれています。
 私は著者とは反対側で活動していました(もちろん、いわゆるぺーぺーの一兵卒です)。この本は全体的に何の違和感もなく共感したり、なるほどと感心したり読みすすめていったのですが、ただ一点だけは、そうかなー、といささか異和感がありました。すなわち、大学教授なるものは社会を導く警告者であるというのはまったくの幻想にすぎないという著者の認識です。実際、なるほどそうかもしれません。しかし、やはり大学の外にいる私には、ぜひ社会に対して声をあげて警告する役割を大学教授とりわけ東大教授には果たしてほしいと切に願います。自分の現場ではないところにでも名前を貸す種類の抗議声明発表のプロは効力を失い、自己満足でしかないと著者は言っていますが、私は言い過ぎではないかと思います。まだ、それだけの効果は東大教授の肩書きにはあります。大学と専門分野の狭い枠にとどまってほしくはありません。日弁連という「抗議声明発表のプロ」にいる身として、この点は強調しておきたいと思います。
 東大教授の肩書きにあこがれる人が多い現実があります。それは勲章がほしくなるのと同じことでしょう。私も年齢をとりましたから、そのように思う人の気持ちがよく分かるようになりました。それでも、20歳のころに議論していたことをどこかでなんとか忘れないようにしたい。そういう思いも強くあります。それが、私に1968年の駒場の状況を再現する小説をライフワークとして長年にわたってとりくませる原動力(エネルギー)にもなっています。

正義のリーダーシップ

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著者:本間長世、出版社:NTT出版
 エイブラハム・リンカンは56歳のときに暗殺されました。いまの私と同じ年齢です。リンカンは暗殺された当日も、激戦だった南北戦争が終わった直後ですから、早朝から忙しく、昼食はリンゴひとつたべたきりでした。こんなとき大勢の人がいるなかへ出るのは危ないという注意も受けたようですが、リンカンはフォード劇場で大評判の喜劇を夫人と一緒に見に出かけました。喜劇を楽しんでいる最中、ハンサムな若いアイドル俳優(ジョン・ウィルクス・ブース、26歳)に背後から懐中ピストルで頭部を撃たれ、ほとんど即死状態でした。爆笑と大きな拍手の音が響いた瞬間だったそうです。暗殺犯は足首を骨折しながらも劇場から逃げきり、のちにヴァージニアで取り囲まれ、射殺されました。そのころまでゴリラとかヒヒというアダ名がついていたリンカンは、たちまちのうちにアメリカ建国の神様のような存在になっていきます。私も訪れたことがありますが、ワシントンのリンカン記念堂内にある巨大なリンカン座像には神々しいほどの威厳が感じられます。
 著者はリンカンについて、衆に抜きんでて大きなことを達成しようという強烈な野心の持ち主だったことを強調しています。単に謙虚な弁護士がたまたまの偶然で政治家になり、大統領の席に坐ったというのではないのです。
 リンカンは開拓者の出身でありながら、そのことを誇りにしていたのでもなく、肉体労働も好んではいませんでした。当時、台頭しつつあった会社企業界の利益のもっとも強力なもののために仕事をする弁護士として卓越した手腕を発揮し、成功をおさめたのです。
 リンカンの父親は開拓地の農民で大工でした。両親ともに字が読めず、父親はやっと自分の名前が書ける程度でした。
 リンカンは奴隷制廃止論者というより、黒人をアフリカに送り返す運動に熱心でした。リンカンの生まれ育った周囲に黒人はあまりいなかったからでもあります。リンカンは南北戦争が始まってから、ようやく元奴隷の黒人たちを北軍の兵士とすることを認めました。このとき、リンカンは黒人をアメリカからアフリカに送り返すプランを放棄したということになります。結局、19万人ほどの黒人兵士が北軍に加わりました。
 「アンクル・トム」がアメリカ国内で200万部以上売れるという大ベストセラーになったのはリンカンが大統領のときのことです。著者のストウ夫人はリンカン大統領と面談していますが、リンカンはお得意のジョークを連発して、ストウ夫人とその娘を死にそうなほど笑わせたそうです。
 当時の大統領選挙の立会演説会の様子が紹介されています。現代の私たちにはとてもの想像できないほどのすごさです。最初に話す者が1時間語り、そのあと相手が1時間半話す。それから先に話した者が30分間語るというのです。これを7回やりました。人口9千人の町に1万人の聴衆が詰めかけました。第1回目はリンカンは押されっ放しでタジタジとなってしまいました。リンカンは作戦を変えて、2回目は挽回します。聴衆は、もっとも少ないときで1200人、一番多いときには2万人の聴衆でした。いったい、マイクもない時代に、2万人の人にどうやって声を届かせたのでしょうか。それにしても3時間の演説を2万人の聴衆が立ったまま聞いていたとは・・・。
 南北戦争は、ザ・シヴィル・ウォーと通常いわれますが、ウォー・ビトウィーン・ザ・ステイツという呼び方もあるそうです。この戦争による戦死者は60万人をこえています。南部連合は26万人、北部ユニオンは36万人の戦死者を出しています。大変な人数と比率です。歴史上きわめて有名なゲティズ・バーグ演説はわずか272語でしかありません。しかし、リンカンが想いを凝らし、文章を練り上げてまとめたものです。リンカンは、息子が病気にかかって妻が心細がっているのを振り切って前日のうちに出かけました。ゲティズ・バーグに到着し、それから演説内容を練りに練ったのです。ラテン語系の語よりもアングロ・サクソン系の簡潔な語を多く使い、ギリシャ以来の修辞学の骨法にかなった名文を、ラテン語もギリシャ語も学んだことのないリンカンがつくりあげました。それが、あの有名な、人民の、人民による、人民のための政治です。
 リンカンは、高い、よく通る声で演説したようですが、強いケンタッキーなまりを感じとった聴衆がいたそうです。アメリカ民主主義の原点を知るためには、リンカンをよく知らなければいけないと改めて思いました。

王の墓と奉仕する人びと

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著者:国立歴史民俗博物館、出版社:山川出版社
 いくつか面白いことを知りました。
 古代エジプトの王は犬をペットとして飼っていて、飼い犬が死んだら犬の名前の石碑をたてたお墓を自分のお墓のそばにつくっていた。
 エジプトでは、死者の心臓と真理の女神マアトとを天秤(はかり)にかけるが、心臓が重いか軽いかは問題ではなかった。真理とのバランスがとれるかどうかが重要だった。これがつりあってはじめて、生前、不正な行為をしていなかったことが証明される。それによって死者は再生・復活できる。もし、釣り合いがとれていないと怪物に心臓を食べられ、死者は再生・復活できない。
 奈良県明日香村のあたりには、村人が亡くなると、各戸から女性が1人でて、死者を出した家へ泣きに行く習俗がある。韓国や中国で「哭き女」と呼ばれる女性のいることは知っていましたが、日本にも同じような習俗が今もあるとは・・・。驚きました。奈良に渡来人が多かったことの名残でしょうか・・・。
 卑弥呼について、当時の中国は当初、まさか女性だとは知らなかったのではないかと指摘されています。だから、中国からの使節を卑弥呼に会わせなかったというのです。
 古代には女性天皇が何人もいますが、そのころは男も女も同じ衣服を着ていた。ところが、820年に男性天皇だけが中国ナイズされた衣服を着るようになった。このようにも指摘されています。うーん、そうだったのか・・・。

虫を食べる文化誌

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著者:梅谷献二、出版社:創森社
 オオツチグモを食べるカンボジアの少女の写真があります。うえっー、という感じです。でも、日本人も昔から虫を食べてきました。長野の弁護士からザザムシの缶詰をプレゼントされたことがあります。川虫をつくだ煮にしたものです。美味しいものではありませんが、まずいとも思いませんでした。イナゴのつくだ煮も食べたことがあります。ハチノコは美味しいと思いました。なにしろミツバチなのですから・・・。
 アリを食べるのはアリクイもいますし、分かります。でも、ゴキブリを食べるとは・・・。だけど、ゴキブリはシロアリと祖先を共有するそうです。イギリスでも、中国でもタイでも食べていた(いる)というのです。そして、イギリスには、ゴキブリを家の守護神として大切に扱い、引っ越しのときには何匹か連れていく地方もあるそうです。本当でしょうか・・・?
 ロシアでは養鶏場で生じる大量の排泄物でイエバエを増殖し、それをニワトリのエサに還元する一連のプラントを完成したそうです。ここまでくると、なるほどと思います。
 小さい虫では、針の穴を抜けられるほど小さいのに、ちゃんと飛ぶことができるのがいます。アザミウマタマゴバチといいます。虫の世界は奥が深いのです。

塔と仏堂の旅

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著者:山岸常人、出版社:朝日新聞社
 瀬高の清水寺には立派な五重の塔があります。奈良の法隆寺の五重塔は8世紀にたてられたものですが、心柱(しんばしら)は地面から塔の頂上まで1本で突き抜けています。ところが、12世紀に建てられた京都府加茂町の浄瑠璃寺の三重塔は1階部分には心柱がありません。
 この本には、塔内部の構造が写真とともに図解されていますので、素人なりによく分かります。よくぞ複雑な構造物をコンピューターもない時代に建てたものだと感服します。
 10世紀に建てられた京都・山科の醍醐寺の五重塔もまことに優美な姿です。安定した荘重なプロポーションだと紹介されていますが、まったくそのとおりです。見ているだけで、心がなごみ、うたれます。
 16世紀に建てられた奈良の根来寺大塔(多宝塔)は、四角い建物のなかに円筒形の建物がはさまれた感じです。はじめて、こんな形の塔があるのを見ました。100年ほどもかけてつくられたというので、私は二度びっくりしてしまいました。日本の建築は、時間をかけてつくるのが本来の姿だったというのです。うーん、そうなのか・・・。そう言えば、知人がたてた1億円の豪邸を見学しに行ったことがあります。そこは一人の大工さんが1年半ほどかけ、材料選びからじっくりコツコツとつくりあげていったという説明でした。そうなんですねー・・・。
 会津若松市にあるさざえ堂という建物の奇抜さにも驚かされました。内部に螺旋状の階段があって、上りながら2周すると最上階に至るというのです。
 堂塔の構造が部品の名称とともに解説されています。いろんな工夫がなされていることがよく分かります。京都や奈良をゆっくり散策してみたくなりました。ご一緒にいかがですか・・・。

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