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カテゴリー: 社会

あなたも作家になれる

カテゴリー:社会

著者:高橋一清、出版社:KKベストセラーズ
 タイトルに強く魅かれて即購入し、いの一番で最優先課題図書として、2回の昼食時に読みふけりました。だって、つい身近な先輩弁護士から、「あんたは、まったく文才がないねえ」と決めつけられてしまったのですよ。なんと失礼な、今にみていろ、ボクだって・・・。すごく反発したものでした。その怒りをバネに、これからもがんばってせっせと書いていきます。
 著者は長年、芥川賞と直木賞の選考委員会の受賞を知らせる仕事をしていました。正確には、財団法人日本文学振興会の理事・事務局長でした。1996年7月から2001年1月までのことです。
 土日に必死で書く「土日作家」ほど、生活のための正業にはちゃんと向かいあっているものだ。小説創作のために、正業の方は金曜まで何が何でも片付けでおかなければならない。副業で小説を書いているような人こそ、本業もたいへん充実していて、また、小説でも成功している例も多かった。
 だいたい1週間くらいで区切りをつけて繰り返すのが健康にかなっているようで、それが長続きさせるコツでもあった。
 松本清張は、1日に3時間、絶対に電話にでない時間をつくっていた。その間、読書をしていた。旺盛な執筆をしている作家ほど、読書をしていた。
 小学校・中学校の教師が作家になるのはごく少ない。高校の先生からやっと多くなっていく。「日常の授業でつかっている言葉と小説の言葉にあいだに、あまりにも差があるので、小説を書くのが辛い、難しい」と言う。
 新聞記事のように情感をこめた表現をしない仕事をずっとしていると、自分の情感をさらすような文芸作品には、なかなか入っていきづらくなる。
 小説では、「おおむね天気は良好だった」の「おおむね」を自分なりにどのように描写するのかが勝負となってくる。「おおむね」では非常に通りいっぺんの表現でしかない。
 具体的な言葉のもちあわせは作家の読書量と正比例する。私は、「ひよめき」という言葉を知りませんでした。赤ん坊の頭のてっぺんにある、息を吐き吸いするたびに、ひよひよと柔らかく揺れるあたりを指した言葉だそうです。いやあ、世の中、知らない言葉って、ホント多いんですよね。
 書いてもどうせ分からないから、と読者をなめ、作家まで貧弱になってしまってはいけない。うーん、そうなんですよね。
 もてる男の作品はつまらない。ただそこにいるだけでもてる男に、どうして面白い小説が書けようか。ふむふむ、なるほど、そうだったのか。私の書いたものがつまらないのは、もてる男だからなのか、とつい一人納得したことでした(ハハハ、しゅん)。
 作家にとって、世の中無駄なものは何ひとつない。小説は35歳からの仕事だ。
 エンタテイメント小説は、私の知らないことが書いてあると読者を喜ばせるのが仕事だ。芥川賞や純文学は、今日を生きている者の愛と苦悩を書き、まるで私のことが書いてあるみたいと読者を共感させ喜ばせてほしいジャンルだ。
 小説は感性に訴えて、読者を喜ばせ泣かせるものだ。
 多くの作家がペンネームを用いているのは、親がつけた名前とは違う名前を名乗ることによって、自分ではない何ものかになり、存分に筆をふるうためなのだ。いやあ、これは本当にそうなんです。私もこのブログをペンネームで書いていますが、実名では書きにくいことも気軽に書けるからです。また、現実の私を知る人でも、一瞬、抵抗なく読めるだろうという気配りでもあります。
 いろんな賞を選考する側の内情が紹介されています。たくさんの原稿をひたすら読み続けるのも大変だろうなと、つい同情してしまいました。どんな本でも出だしが大切だし、決して出し惜しみしてはいけないというのも肝に銘じました。
 明日死ぬかもしれないのに、これを書いたら自分は終わりだ。私のすべてだ。書き終わったら死んでもいい。明日がなくてもいい。それくらいの気持ちで取り組んでほしい。そのときに発生したものは、そのときに書いておかないと、次も出てこない。全部つかい切って器がカラになる。すると、また新しいものが器にたまる。そんなものだ。
 いえ、私も実際、いま書いているものについてはそんな思いに何度もかられました。これを書き終わってしまったら、自分はあと何もすることがないんじゃないかなって、・・・。でも、今は、そうは思っていません。書いたものを手直しして、もう一度、書き直し、今度は文庫本として世の中に送り出すことを夢見ています。もう少しストーリーを完全にしたいと思うのです。そんな夢をもっています。
 小説は書きこみ過ぎるより、少ないほうがいい。小説の読者は、想像する喜びを楽しんでいるのだ。
 一生懸命に生きていると、いろいろなことが見えてくる。要は、あなた自身がいかに日々を見つめているかだ。つまり、毎日を一生懸命に生きているかなのだ。
 自分のなかのもう一人の自分に気づいたとき、書ける材料が小説に生まれ変わる。
 もう一人の自分とは、かくありたい、こういう自分であってみたいという、今の自分をどこかで否定するような他者だ。今の自分はいつわりではないか、どこか違っているんじゃないか、そう感じてしまうところがあるのが作家だろう。
 できれば見ないほうがよかったもの、鈍感にやり過ごせばよかったもの、感じないほうがよかったもの、そういうものが日常の中には無数にある。それから逃げないことが、まず書きはじめるための条件だ。作家が小説や随想を書けるのは、絶えず関心をもって周囲の景色や出来事を見ているからだ。そういう心がけで暮らしていると、毎日が濃密で充実したものとなる。文章を書くことを覚えると、そういう生活ができる。
 うむむ、ますます私もモノカキから作家に昇格したいと思いました。
 自分が、私こそが全知全能の神だと信じて書くこと。世界でいちばん上手な小説書きは自分だ。このうぬぼれを支えにして書きすすめ、最後まで書き切ること。
 そうなんです。あんたはまるで文才がないなんて、とんでもない誹謗中傷です。そんなことを言う人間を気にすることなく、あとで見返してやればいいのです。
 いやはや、作家になるのがいかに大変な仕事なのか、つくづく分かりました。それでも私はモノカキ転じて作家になるのを目ざします。だって夢のない人生って、つまらないでしょ。
(2008年6月刊。1429円+税)

獣の奏者・闘蛇編

カテゴリー:社会

著者:上橋菜穂子、出版社:講談社
 「ハリー・ポッター」は映画は全部みましたが、本の方は途中、3巻まで読んで頓挫しています。でも、一巻目は、ともかくすごい衝撃を受けました。人間の想像力って、こんなにすごいのかと感嘆したのです。先日、最終巻である7巻が出ましたが、そこにたどり着くのはかなり先になりそうです。ところで、ファンタジーの分野では、この本もすごいという評判を聞いて、遅ればせながら読むことにしました。
 な、なるほど、すごいですね。思わず車中で読みふけってしまいました。
 「年少読者だけに読ませておくのはもったいない」とオビに書かれていますが、そのとおりです。我が家の子どもたちが幼いころ、斎藤隆介・滝平二郎の「花咲き山」とか「八郎」を何回となく読みきかせてやりました。そんな絵本の世界が、この本を読んでいるうちにまざまざとよみがえってきたのです。絵本は、子どもに読み聞かせしている大人にとっても面白いものです。何度よんでも面白く、飽きませんでした。もちろん、子どもたちにも大受けでした。登場人物になり切って、その声色を変えて、役者になったつもりで読みすすめていきました。
 ここでは、闘蛇というものが登場します。絵本ではありませんから、その姿形は読み手が想像するしかありません。それがまた、いいわけです。
 ファンタジーの筋を紹介するのは野暮そのものです。推理小説の謎ときをするなんて愚の骨頂でしょう。ファンタジーは、その文章であらわされている雰囲気を全身全霊で受けとめ、楽しみ浸るための物語です。主人公の少女エリンになり切って、母の死を悲しみ、また、闘蛇とともに飛び立ち躍動するのです。そこにこそ、ファンタジーの醍醐味があります。
 でもまあ、表紙のウラに書かれている粗筋を紹介するくらいなら許されるでしょう。
 獣の医術師の母と暮らす少女、エリン。ある日、戦闘用の獣である闘蛇が何頭も一度に死に、その責任を問われた母は、処刑されてしまう。孤児となったエリンは蜂飼いのジョウンに助けられて暮らすうちに、山中で天を翔ける王獣と出会う。その姿に魅了され、王獣の医術師になろうと結審するエリンだった。そのことが、やがて王国の運命を左右する立場にエリンを立たせることに・・・。
 そうなんです。このファンタジーは、子どもの世界だけでなく、大人のドロドロした政治もからまり、いくつもの伏線を張りながら複雑な展開をみせ、次を待ち遠しくさせるのです。すごい想像力に感嘆させられます。
 フランスに行ったとき、あちこちで日本のマンガが売られているのに改めて驚かされました。MANGAと書かれている大きなコーナーがあり、私の知らない作者のマンガがたくさん並んでいました。私もそのうちのひとつを買ってフランス語の勉強をしてみました。絵でストーリーが分かりますので、なかなか勉強になりました。
(2006年11月刊。1500円+税)

本を読む本

カテゴリー:社会

著者:M・J・アドラー、C・V・ドーレン、出版社:講談社学術文庫
 私は、なんといっても速読派です。だって、読みたい本がいつも目の前に山のようにありますし、少しでもたくさんの本を読みたいのです。もちろん、あたらないこともあります。でも、ときに大あたりする本に出会うこともあるのです。ですから速読・多読はやめられません、とまりません。
 読書には、情報を得るための読書と、理解を深めるための読書とがある。目的が二つあるのだから、読みかたにも当然二とおりあってもよい。
 私は、理解を深めるというより、その情緒にどっぷり浸って、心をいやす読書もあると思うのですが、いかがでしょうか。たとえば、絵本やファンタジーです。日常生活のわずらわしさから、ひととき脱出できるという効用は、きわめて大きいものがあります。
 小説は一気に読むもの。速く読み、作品に没入して読みふける。没入するとは、文学に身も心もゆだね、作品がはたらきかけるままにまかせること。自分が作中人物になりきって、どんな出来事も素直に受け入れてしまう。速く読まないと、物語の統一性が見失われやすい。集中して読まないと、細部が目に入らない。
 本を読むには規則がある。難解な本にはじめて取り組むときには、とにかく読み通すことだけをこころがける。すぐには理解できないところがあっても、考えこんだり、語句の調べに手間をかけず、ともかく前へ進んでいく。
 理想なのは、ただ速く読めるようになるだけでなく、さまざまな速度の読みかたが出来ること、場合に応じて違った速度で読めることだ。
 本に書きこみをすることは読書に欠かせない。行間に書くことをしないと、効果的な読書はのぞめない。私は、赤エンピツでアンダーラインをひきます。ですから、上着のポケットに赤エンピツは欠かせません。
 読書は著者と読者の対話でなければならい。本を読むというのは、一種の対話である。最後の判断を下すのは、実は読者である。本が読者に向かって語り、読者は本に語り返す。
 著者との対話から得る唯一の利益は、相手から何かを学ぶこと。読書の成功は、知識を得ることにある。
 物語を読むときは、物語が心に働きかけるにまかせ、またそれに応じて心が動かされるままにしておかなくてはいけない。つまり、作品に対して無防備で対するのだ。
 作品の好ききらいを言う前に、読者は、まずは作品を誠実に味わうよう努力しなければいけない。
 小説は人生のようなもの。実人生で起きる出来事が、すべて明瞭に理解できるとは、我々も思っていない。ただ、過去としてふり返ったとき、はじめて理解できる。
 楽に読める本ばかりを読んでいたのでは、読者は成長しない。自分の力以上に難解な本に取り組まなければならない。そんな本こそ読者の心を広く豊にしてくれる。心が豊かにならなければ、学んだとは言えない。
 人間の精神には一つの不思議なはたらきがある。それは、どこまでも成長しつづけること。肉体にはさまざまの限界がある。しかし、精神に限界はない。この精神もつかわないと萎縮してしまう。それは精神の死滅を意味する。自分のなかに精神的な貯えのない人は思考することをまったくやめ、やがて死が始まる。
 テレビやラジオなどの外からの刺激に反応していると、自分の精神も活動しているような錯覚に陥る。だが、外部からの刺激は麻薬と同じで、やがて効力を失い、人間の精神を麻痺させてしまう。私は映画はみますが、テレビは見ませんし、ラジオを聞くこともほとんどありません。世の中の情報は新聞・雑誌という活字からにしています。それで不自由を感じることはありません。
 すぐれた読書とは、我々を励まし、どこまでも成長させてくれるものである。
 いやあ、実にいいことを言っている本です。多読・乱読派の私が日ごろ思っていることをズバリと言い切ってくれた本に出会い、心地よいひとときを味わうことができました。
 久しぶりにサボテンを整理しました。しばらく留守にしていたあいだに親サボテンがいくつか枯れてしまいました。代替わりの時期でしたので仕方がありません。別の親サボテンにくっついていた子サボテンを火バサミでもぎとって地面におろしてやりました。我が家のサボテンは、もう10代以上になるのではないかと思います。手のひらサイズの可愛い姿です。これまであちこち知人にもらってもらいましたが、みんな無事に育っているかしらん。
(1997年10月刊。900円+税)

バカ親って言うな

カテゴリー:社会

著者:尾木直樹、出版社:角川ワンテーマ21新書
 いま問題のモンスターペアレントの謎に挑んだ問題提起の本です。
 小学校の教師が相次いで自殺する事件が起き、その背景にモンスターペアレントがいると指摘される社会の現実があります。いったい何が学校と家庭に起きているのか?
 モンスターペアレントとよばれる保護者が増えてきたのは古いことではなく、2000年代に入ってからのこと。かつては、クレーマー親とよばれていた。クレーマーについては、権利主張タイプと不正糾弾タイプの2つがあり、その主張には理解できるところがあった。ところが、いまや、ある保護者が何かのクレームをつけてきたときには、その正当性があるか否によらず、ほかの保護者がクレーマーの意見に同調して学校や教師を非難するケースが増えている。
 モンスターペアレントが学校や教師に突きつけてくる無理難題には想像を絶するものがあり、どんな場面で何を言い出すのか、まったく予想できない。
 モンスターペアレントの5つのタイプ。
1 我が子中心型
2 ネグレクト(育児放棄)型
3 ノーモラル型
  深夜でも早朝でも、教師に電話をかける。教師からお金を借りようとする。
4 学校依存型
  毎朝、子どもを起こしに家へ来てほしい。体操着は学校で洗ってほしい。こんなことを教師に要求する。
5 権利主張型
 このほか、なんでも「いじめ」にしたがるモンスター、お節介モンスター、子どもの言うことのみ信じるモンスター、文書でクレームをつけてくるモンスター、凶器で脅したり、暴力団をちらつかせてくる暴力・恐喝モンスター。そして、一見すると常識的な人が想像を絶する非常識な脅しをかけるケースが増えている。
 子どもの学力が世界一のフィンランドでは、自分のつきたい仕事に教師がずっと第一位を占めている。教員養成大学の倍率も10倍を切ったことがない。ところが、日本では 2000年度は4倍にまで下がった。うへーっ、これは困りましたね、今の大分の汚職事件は全国どこにでもあることで、氷山の一角にすぎないと思いますが、これでは日本という国の将来はありません。道路や橋など、ゼネコンと自民党政治家のための大型公共事業にばかりお金をつぎこみ、人材養成のお金を削ってきた日本政治の積年の誤りが今になって劇的な形であらわれています。
 格差社会の進行とモンスターペアレントの急増と見事に一致している。というのは、格差社会は地域の人々の連帯意識を破壊し、一人ひとりが地域の中で攻撃的な生活を営んでいるからである。今は、地域の人的なつながりのなかで大人として、親として成長していくことが困難になっている。
 学校を単なるサービス機関としてみる風潮が強まっている。保護者にとって、学校はデパートと変わらない存在になった。
 うひゃー、ま、まさか、と思いました。この指摘こそ、この本のなかで私がもっともショックを受けたところです。
 学校を「託児所」か「なんでも屋」のように考えている保護者がいる。「過剰サービス」を受けるのに慣れた人は、自分の要望はおよそ通るものだという感覚をもっている。そして、今の学校は、保護者にとって商品と変わらない存在になっている。
 そのうえ、マスコミの報道による「後押し」があって、教員はバッシングしていい存在だというムードがある。
 社会全体にストレスがみちみちているので、日頃からストレスをためている人間にとって、好き勝手な要望を押しつけられる相手がいたら、その絶好のはけ口となる。相手に言いたい放題いって、うさ晴らしができる。しかも、教師は基本的に反撃してこない人種だという安心感がある。最初の一歩さえ踏み出してしまうと、その後の攻撃は、とくに過激になりやすい。
 しかも、攻撃される教師をフォローしてくれる存在がいなくなった。校長や教頭は「穏便にすませるように」としか言わないように変質してしまった。
 親自身が幼い。大人として自立していない。
 モンスターペアレント問題は、単に学校内の問題ではなく、日本社会全体の危機を象徴する問題である。今や教育の世界は流動化し、見事に二極化しつつある。平和で安定し、みんな仲良く、みんな平等という、かつての学校理念から、階層化というもっとも激しい津波が押し寄せる流動的世界へと一変した。財力と学力によって、勝ち組にも負け組にもニートにもなれる時代である。
 日本の心であった相互扶助の精神や他者への優しいまなざし、思いやり、心づかいなど、モラルと品格そのものをメルトダウンさせてしまった。
 教育の市場化は、そのまま日本的品格やモラルの崩壊に直結している。競争と結果責任を取ることを突きつけられたら、誰でも他者にはかまっていられず、厳しい姿勢で生きるように変化してしまう。今や誰でもがモンスターペアレント化するような日本になってしまった。病んだ日本社会が生んだモンスターペアレントです。金もうけと経済効率最優先の御手洗・日本経団連ばりの政策を見直すときです。決して遅すぎることはありません。
 南フランスのエクサンプロヴァンスに行ってきました。ここは私がまだ40歳前半のころ、3週間滞在したことのある町です。外国人向けフランス語集中講座を受講したのでした。大学の寮に寝泊まりしながら、午前中は授業を受け、午後からはミラボー大通りをぶらぶら散策したり、映画をみたりしていました。ここからセザンヌのよく描いたサント・ヴィクトワール山がよく見えます。
(2008年4月刊。686円+税)

すてきな田舎、元気なふる里

カテゴリー:社会

著者:田中勝己、出版社:かもがわ出版
 読んでいると、なんだかふんわりあったかくなってきて、元気の出てくる本です。残念ながら、私は木曽町にまだ一度も行ったことがありません。この本によると、町おこしに成功した、なかなかいい町のようです。私も、ぜひ一度いってみたいと思います。
 木曽町は、日本で最も美しい村連合に加盟しています。この連合はフランスにあるものを日本に取りいれたものです。田舎だって、いえ、田舎にこそ美しい自然・文化風景はあると主張し、都会に住む人々にそれを再認識してもらおうという取り組みです。
 木曽町は音楽祭にも取り組んでいます。日本のトップレベルの演奏家が集まり、1週間のあいだ続きます。第1回は1975年ですから、もう33年にもなります。
 そして木曽馬の保存会があります。馬に乗って登山するという試みもなされているそうです。西欧から入ってきたサラブレッドではなく、日本古来の丈夫な馬です。馬というと、今の私たちは競馬場に登場するサラブレッドを思いますが、日本古来の馬は、日本人と同じで、ずんぐりむっくりの体型をしていたようです。
 そして、木曽は、あの木曾義仲と巴御前の出身地でもあります。義仲は31歳で亡くなったので、1年間のテレビ・ドラマは無理とのこと。いやあ、そういうことなんですね・・・。
 さらに、木曽福島町は世界のケータイの3割、そしてターボエンジンの9割を生産している町でもある。ひぇーっ、そ、そうなんですか・・・。
 著者は30歳のとき、木曽町の町会議員に当選(日本共産党)し、その後、30年間にわたって町議をつとめた。町長選に出馬することになったのも、他に適任者がいなかったことによる。運動期間が短かったのに、現職を負かしての当選だった。
 町長として、オウム真理教と生命をかけてたたかい、勝利しました。そして、町づくりに町民の知恵と力を吸い上げていく様子は、読んで、すがすがしさを覚えます。
 この本は、町長が職員向けに「町長ほんねとーく」を書いていたのをまとめたものです。大変よみやすい内容で、さらっと読めますが、同時に、大変こくのある内容でもあります。
 著者は、いま町長2期目、70歳を過ぎて元気にご活躍のようです。今後とも、さらに町づくりにがんばってくださいね。大いに期待しています。
 ニースからバスに乗って1時間かけてサン・ポールという町へ行きました。小さな丘全体がお城みたいに古い建物でぎっしり埋まっています。まるで古代の空中都市です。宮崎駿監督のアニメ映画でも見ている気分になりました。古い中世時代の建物がそっくり残っていて、それが観光客を誘引しているのです。日本でも、そういう発想がもっと大切にされたらいいと思いました。おじさん、おばさんの5人ほどが広場でペタンクに興じていました。カフェーでコーヒーを飲みながら、しばし眺めたことでした。
(2008年4月刊。1700円+税)

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