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カテゴリー: 朝鮮・韓国

朝鮮戦争(下)

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋
 アメリカからすると、ソ連と中国は一枚岩のように見えた。しかし、スターリンは実際には、毛沢東を信用していなかった。それで、中国とアメリカとの緊張が最大限になることを願った。両者が敵対しあう戦争はスターリンに有利に働くはずだった。
 1948年末、毛沢東は何回にもわたって、モスクワでの会談を求めたが、スターリンはその都度ためらいを見せた。毛沢東はスターリンが自分に疑いを抱いていることを十分承知していた。1949年12月、毛沢東はついにモスクワを訪れた。スターリンはすぐに毛沢東と会おうとせず、何日も待たせた。毛沢東の訪問によって得られたソ連からの経済・軍事援助は、わずかなものでしかなかった。
 毛沢東は、あとで「虎の口から肉を取るようなものだった」と言った。ソ連の対応は、本質的には侮辱にほかならなかった。
 1950年10月、毛沢東は朝鮮戦争への参戦を決めた。中国軍部隊を義勇軍としたのは、アメリカとの全面戦争を防ぐための選択だった。中国軍部隊が派遣されるのは、単に 朝鮮を救うためだけではなく、より大きな世界革命、とりわけアジアの革命を促すためだった。
 金日成は、中国が中国軍の指揮を自分に任せるものと思っていた。しかし、中国が軽蔑しきっている金日成に中国軍部隊を任せることなど、ありえなかった。むしろ金日成には再教育が必要だと考えていた。冒険主義以外の何物でもない。軍の統制も子ども並み。このように中国軍を指揮する彭徳懐は言った。
 20世紀のアメリカ軍の誤算の中で突出しているのは、マッカーサーが鴨緑江にまでアメリカ軍部隊を北上させたこと。中国軍は高い山の中にこもって、アメリカ軍の北上を見守っていた。このあと、アメリカ軍を徹底的に叩いた。不意打ちだった。
マッカーサーの職業的な罪の中の最大のものは、敵を完全に過小評価したこと。
 マッカーサーは、アジアを知らず、敵について驚くほど無関心だった。
ウィロビーは陰謀好きだった。ウィロビーは総司令部内のニューディール系リベラルを共産党シンパないし共産党員そのものだと見なして一掃しようとした。
 現場で戦うものたちにとって、ウィロビーの存在は危険なまでに悪に近いものだった。ウィロビーは、戦闘部隊レベルの情報機関がきわめて重要な最高の情報を在韓司令部に送るのを阻止しただけでなく、他の情報源も封鎖した。ウィロビーは共産主義と中国の危険について喚き散らしながら、最後には国連軍部隊が大規模な待ち伏せ攻撃のえじきになるように仕組んでやり、共産主義者たちの仕事をずっと簡単にしてやったのである。
 司令官の至上任務は、兵士の恐怖を抑えることである。偉大な司令官は恐怖を逆手にとり、それが常にあると言う認識を強みに変えることもできる。弱い司令官は兵士の恐怖を昂じさせる。ある司令官の下で勇敢に戦う兵士が、自分の恐怖を投影するような司令官の下では逃げ出してしまう。
 偉大な司令官とは、賢明な戦術的動きが出来るだけでなく、兵士に自信をあたえ、それをやることができる。その日に戦うのは、自分たちの義務であり、特権であると感じさせるような人物である。
 中国軍においては、普通の兵士でも、政治委員の講義を通じて戦闘命令について非常に多くのことを知っている。
 中国軍が初期にえたアメリカ軍との戦闘における異例の成功は、彭徳懐の重荷になった。毛沢東の決めた目標が中国軍の能力を上回りがちとなった。毛沢東が勝利に酔ってしまった。中国軍の重火器用弾薬が明らかに不足していた。
 中国軍の命令構造の硬直性は大きな弱点だった。上から下に伝わるだけで、下の水準にはほとんど融通性がなく、個人的な創意の余地も皆無に近かった。それは勇敢かつ頑丈で、信じられないほど責任感の強い歩兵を生み出した。だが、彼らを統率する中間レベルの指揮官は、戦闘の最中に戦場の変化に応じて重要な決定を下すべき権限も通信能力ももっていなかった。
 これはアメリカ軍とは対照的な違いだった。アメリカ軍では有能な下士官の創意が評価され、戦闘の展開に応じて調整していく能力が重要な長所となった。
 中国軍はせいぜい3日間は強烈に戦うことができた。しかし、弾薬、食糧、医療支援、そして純然たる肉体的持久力の限界、それに巨大なアメリカ空軍力のために、有利な条件や局面突破があっても、有効に活用できず、挫折や敗北が増幅された。どの戦闘でも、3日目になると、すべてのものが不足し、はじめ、敵との接触を断つことが必要になってしまう。
 マッカーサーが解任されてアメリカに帰国したとき、アメリカ市民は熱狂的に迎えた。しかしその熱狂はマッカーサーの政策に対する支持を意味するものではなかった。つまり、アジアでの戦争拡大を支持するものではなかった。マッカーサーへの熱狂的な歓迎は、その政策への支持とは、まったく別物だった。
 マッカーサーに長年接してきた人たちを苦しめた大きな問題の一つは、マッカーサーが必ずしも真実を語らないことだった。自分に都合のよいときには真実を利用したが、邪魔になると、すぐに真実から離れた。
マッカーサーは、議会の演説で恥知らずな嘘をついた。
 マッカーサーは、ペンタゴン(国防総省)で、ほとんど支持を得ていなかった。マッカーサーの命令無視、中国軍参戦についての責任を認めないこと、軍に対する文民統制を故意に無視したことにペンタゴンの士官たちは激怒していた。朝鮮戦争の前線で死傷したのは、多くの場合に、若手士官の同期生や友人たちだった。マッカーサーは、ペンタゴンのいたるところで多くの若手士官たちから嫌われ、憎まれていた。彼らは、上院議員たちにマッカーサー攻撃の論拠を与えていた。
 朝鮮戦争を中国軍の内情、そしてアメリカ内の政治状況と結びつけながらとらえた、最新の研究を踏まえた傑作です。
(2009年12月刊。1900円+税)

戦争の記憶、記憶の戦争

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 金 賢娥、 出版 三元社
 アメリカのベトナム侵略戦争に韓国軍が加担して兵を送り、ベトナム人を大量に虐殺していた事実は知っていましたが、最近、改めてベトナム現地に訪問して、このことを確認した韓国人団体の活動記録です。
 1965年から1973年までの9年間に韓国軍のべ32万人がベトナムで戦争に従事し、5千人以上がなくなった。
 1965年、アメリカは25ヶ国に参戦を要求したが、それに応じたのは韓国を含めて7ヶ国だけだった。しかも、韓国のほかは砲兵隊や工兵隊など、実際の戦闘とは関係のない部隊を派遣した。イギリスに至っては、わずか6人の儀仗隊を派遣しただけで、名目的な参戦でしかなかった。それだけ名分のない戦争だった。そのとき韓国軍は、のべ32万人もの兵を派遣し、実際に戦闘行為をすすめた。
 この本を読んで、なぜ韓国軍がベトナムに送られたか認識することができました。要するに、当時の韓国の朴正煕政権が、アメリカの支援に政権の存亡をかけていたのです。
 朴政権は、ベトナムへの軍事支援によるベトナム特需という経済的効果と、派兵の対価としての援助を獲得するという目的を設定した。当時の韓国は、外貨不足と物価高による経済的危機が蔓延している状態だった。そのなかで、朴正煕に対する12回もの逆クーデターの試みがあり、しかもクーデター指導者間の内部軋轢が朴政権を脅かしていた。朴正煕は、ベトナム派兵を一つの政治的突破口と考えた。つまり、アメリカから経済的軍事的援助を得て、ベトナムで外貨を獲得しようとした。結果として韓国はベトナム戦争で10億ドルを稼ぎ、おかげで韓進などが大企業に成長することができた。
 朴正煕が32万人もの兵力をベトナムに派遣できたのは、韓国人の協力と黙認があってのこと。メディアと知識人は、政権維持のために韓国民の生命を担保とした朴正煕と暗黙の共謀をしたことになる。ベトナム戦争は、危機に瀕していた朴政権を盤石なものにした。ベトナム戦争で政権の基礎を固めた朴正煕は、長期政権の道を歩み、暗うつな暴圧政治が始まった。この暴圧政治の実現には、大多数の韓国民の手助けがあった。朴正煕の三選のための改憲と維新憲法による暴圧政治の基礎を作ったのが、まさにベトナム戦争だった。
 たとえば、1966年1月にヒシディン省で1200人のベトナム民間人が殺され、同年11月にもクアンガイ省ソンティン県で青龍部隊がベトコン掃討作戦を行い、多くの民間人を虐殺した。韓国軍には現地のベトナム人がみなベトコンに見えた。根絶やしするしかないと考えたのです。恐ろしいことです。
 朝鮮戦争を経て、韓国軍兵士にはアカは殺してもいい、いや殺さねばならないという意識が染みついていたこともその背景にあった。
 非武装の民間人が虐殺されたのです。これは、やりきれなく悲しい。どちらからも認められない死だから。遊撃隊員の死だと、ベトナム政府から烈士補助金が支給されるのに……。
 忘れてはならない戦争の記憶を掘り起こした貴重な本です。『武器の影』(岩波書店)も、小説ですが、同じテーマを扱っていて、大変重たい本でした。
 
 左膝を痛めて、いろいろな治療を受けました。まず湿布です。ホッカイロで温めてみましたが、痛みは止まりませんでした。整体師に見て貰ったところ、鯨飲不明と言われてしまいました。外科医で痛み止めと湿布をもらいましたが、あまり効き目がありませんでした。別の外科医に行って膝にヒアルロン酸の注射を打ってもらい、強力な痛み止めの薬を飲み始めたところ、かなり痛みは和らぎました。もう一回注射してもらおうと思ったところ、知人から注射はよしたほうがいい、それよりカイロプラティックに行って整骨・整体してもらったらどうかとアドバイスされたので行ってみました。1時間ほどの整体を受け、翌日からすっかり痛みがなくなりました。人体の自然治癒力を高めるのが整骨・整体だということで、そのおかげだったのでしょうか。それにしても、足をひきずってしか歩けないため、バリアフリーの必要性を痛感しました。階段の上り下りが大変なのです。エレベーターのないところでは泣きたいほどでした。わが身になって自覚したわけです。
(2009年11月刊。2700円+税)

朝鮮戦争(上)

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋
 かつては朝鮮動乱とも呼ばれていましたが、今では朝鮮戦争という呼び方が日本では定着しています。
 1950年6月25日、北朝鮮軍の精鋭およそ7個師団が、南朝鮮との軍事境界線である38度線を突破した。兵士の多くは中国の国共内戦で共産軍側についてたたかった者たちで、3週間で朝鮮半島南半分を征圧する目論見だった。
 たしかに、当初、金日成の号令一下、怒涛のように朝鮮半島を一気に征圧してしまう勢いでしたが、やがて釜山の手前で立ち止まり、ついにはマッカーサーによる仁川上陸作戦で形勢が大逆転してしまいました。
 朝鮮戦争については、かつてアメリカ軍が挑発して、北朝鮮がやむなく反撃して侵攻したのだと言われたことがありましたが、今では金日成がスターリンと毛沢東の了解を取り付けて、無謀にも武力による全土統一を企て南部へ侵攻したことが明らかとなっています。
 この本は、アメリカが朝鮮半島をいかに軽視し、手抜きしていたか、アメリカの内部資料によって余すところなく明らかにしている点に大きな意義があります。北朝鮮軍が攻めてきた当時のアメリカ軍の哀れな状態を知って、朝鮮に送られてきた多くの将兵が憤った。定員も訓練も足りない部隊。欠陥だらけの旧式装備。驚くばかりに低水準の指揮官層。
 戦車への依存度の高いアメリカ軍にとって、朝鮮半島は最悪の地勢だった。
 山岳地帯は、装甲車両の優位性を損ない、逆に敵には洞窟その他の隠れ家を提供した。朝鮮戦争によるアメリカ軍の死者は、3万3千人。負傷者10万5千人。韓国軍の死者41万5千人。負傷者42万9千人。これに対して、中国・北朝鮮の死者は公表されていないが、150万人と推計されている。
 マッカーサーは、韓国に関心がなかった。朝鮮はアメリカ人の心をひきつけず、関心さえ引かなかった。初代アメリカ軍司令官のホッジ将軍は、韓国も韓国人も好きではなく、「日本人と同じ穴のむじな」と書いている。アメリカ軍の韓国駐留はおざなりそのものだった。
 金日成はカリスマである必要はなかった。スターリンにとって衛星国にカリスマ的人物は不要だった。ユーゴのチトー、中国の毛沢東のような人物では、かえって危険だと考えていた。
 なーるほど、そういうことだったんですね。それで、まだ若くて、ソ連軍に入って行動していた金日成が選ばれたというわけなんですか……。
 金日成が登場してきたとき、集会での初めての演説において、スターリンとソ連へのお追従を言って、朝鮮の人々をがっかりさせたが、それは理由のあることだった。
 金日成が6月25日に南へ侵攻したのを知ったとき、アメリカ当局の反応が面白いのです。
 アチソンは、韓国への侵攻は見せかけで、次に来るのはソ連の支援を受けた中国軍による台湾の蒋介石攻撃、あるいは、同じように危険なのは、蒋による挑発の後の共産側の反撃だと考えた。トルーマン大統領は、そうではなく、次の矛先はイランと予想した。マッカーサーも同じ意見だった。
 なるほど、これではアメリカの反撃が後手に回ったのも当然ですよね。
 上巻だけで500頁にのぼる本です。アメリカ内部の動きとあわせて、最前線での戦闘の様子が活写されています。さすがとしか言いようがありません。
 
(2009年10月刊。1900円+税)

平壌で過ごした12年の日々

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 佐藤 知也、 出版 光陽出版社
 戦前、4歳のときに朝鮮にわたり、戦後、16歳のときに日本に帰国した日本人が、最近77歳になって過去を振り返った本です。しみじみとした口調で朝鮮における少年・青年記の生活が語られています。
 日本の敗戦後、朝鮮の求めに応じて、1000人もの日本人技術者が北朝鮮に残留していた。彼らは真面目に北朝鮮の産業復興につとめ、技術協力した。しかし、アメリカ軍と対峙して緊張をつのらせていたソ連占領軍から睨まれ、ついには反ソ運動を名目として幹部が逮捕された。
著者は、朝鮮にいて、日本の敗戦まで、ほとんど朝鮮人と交流することはなかったと言います。そして、敗戦後の朝鮮に突如として気高く気品ある美女があちこちにみられたことに腰を抜かさんばかりに驚くのでした。日本人少年は、朝鮮人に対して根拠のない差別意識、優越感に浸っていたわけです。
 終戦までの朝鮮における生活の日々そして敗戦後の大変な生活の様子が淡々と描かれていて、状況がよく理解できました。
 玉名市であっている「しょうぶ祭り」を見てきました。玉名を流れる大きな高瀬側の北側に、細い流れがあって、そのそばがしょうぶ園のようになっています。川面に板で歩道ができていますし、古い石橋など大変風情があります。
 肥後しょうぶは江戸時代、武士たちが丹精こめてつくり上げたものだと聞いています。薄紫色の花が多いのですが、白に薄紫色の筋が入った花など気品あふれる美しさです。
 しっかり堪能してきました。
 
(2009年2月刊。1524円+税)

将軍様の錬金術

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 金 賛汀、 出版 新潮新書
 大学生のころ、朝鮮大学校の学生との交流会に参加したことがありました。彼らの発言がとても自覚的というか、目的意識が鮮明であったことに衝撃を覚えました。その知的レベルの高さにも圧倒されてしまいました。
 この本の著者も、世代は少し上ですが、朝鮮大学校の卒業生です。朝鮮総連の活動家でもあったようです。私も弁護士になってから、総連の地域活動家の方々とは接触する機会がありました。民団の役員さんよりは多かったように思います。いつも、すごいなあと感心してしまいました。今では、民団の人とも接触はありませんが、総連だと名乗る人と会うことは久しくありません。まったく様変わりしてしまいました。この本を読んで、それもなるほどだと思いました。
 朝銀のなかに、学習組(がくしゅうそ)という秘密組織がつくられ、朝銀を朝鮮総連に服従させるうえで大きな役割を果たしてきた。これは、建て前は、朝鮮労働党の政策学習会であるが、実態は朝鮮労働党の日本分局として機能していた。
 この学習組は、1980年ころまでに、総連活動家に対して金日成に忠誠を誓わせ、北朝鮮の政策に従わせる重要な役割をもった秘密組織としてつくられた。
 朝銀破たんの最大の要因は、総連が「学習組」を朝銀支配の道具としてつかい、人事権を振り回し、イエスマンを理事長に就任させ、融資を引き出す放漫経営と、その一部を北朝鮮に献金するという、歪んだ状況がもたらしたものである。
 そして、朝銀破たんの遠因の一つは、北朝鮮経済の破たんにあった。
 朝鮮総連中央は、北朝鮮の求めに応じて献金するため、直営のパチンコ店をはじめた。「財政委員会」直属の「インターナショナル企画」という商社がパチンコ店の運営にあたった。都心の、既に同胞のパチンコ店があるところに、45億円もかけた豪華なパチンコ店を1993年春、オープンさせた。ところが、パチンコ店はバブル崩壊とともに経営に行きづまった。
 もう一つ、地上げにも朝鮮総連中央は手を染めた。必要な資金を朝銀に出させようという地上げ屋と、地上げ屋を使って利益をあげ、北朝鮮に献金するお金を調達しようとする総連中央の思惑が一致し、地上げ屋が朝鮮総連の周辺で暗躍する状況を生み出した。
 名古屋では200億円の資金をつぎ込んで20億円の利益をあげ、大阪では60億円の投資で40億円の利益をあげた。しかし、北九州では完全な失敗に終わった。
 さらにゴルフ場開発計画でも100億円つぎ込んで失敗した。
 1997年に起きた朝銀大阪の破たんは、日本社会でそれほど大きな話題にはならなかった。その時点では、数年後に1兆数千億円もの公的資金投入の始まりになるとは誰も予測しなかったからだ。ところが、朝銀大阪が経営破たんしたとき、抱えていた不良債権は500億円を超えていた。このときには、朝銀再生に必要なものとして、公金3100億円が投入された。
 ところが1999年5月、13の朝銀が経営破たんした。朝銀東京は、総連中央に直結する不正融資の温床である。2002年4月、認可された4信組の理事長会員が総連の中核組織である学習組の組員であることが発覚した。そこで、総連中央は学習組の解散を通達した。ところが、いまでは「学習組」は名前を変えて復活し、総連組織の指導部に君臨している。
 朝銀に一兆4000億円もの公的資金が投入されて一番の被害者は、一般の在日朝鮮人であり、朝鮮総連と北朝鮮である。そして、もっとも利益を得たのは日本政府だ。朝鮮総連の力が大きく減退し、その脅威なるものは、ほとんど消滅した。日本政府は、このことで大いなる利益を得ている。というのも、朝銀を丸々買い取ったようなものだから。なーるほど、ですね。
 在日朝鮮人の大変な苦労が正当に報われていないことが大変気になる本でした。
ホタルが飛び交い始めました。昨日(19日)、我が家から歩いて5分のところにあるホタルの里に出かけました。竹林のそばに小さな川が流れていて、毎年ホタルが出てきます。
 5月連休が終わると、やがてホタルが飛び交うようになります。まだ数は多くないのですが、フワリフワリとホタルが明滅しながら飛んでいました。足もとの草むらにもホタルが光っていましたので、そっと手を差し伸べると、手のひらに2匹のってくれました。不思議なほどまったく重さを感じません。しばらく手のひらで明滅するホタルを眺めたあと、そっと息を吹きかけて飛ばしました。フワリフンワリと飛んでいきました。
 ホタルは初夏の風物詩として欠かせません。
 
(2009年3月刊。720円+税)

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