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カテゴリー: 朝鮮・韓国

民衆の北朝鮮

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:アンドレイ・ランコフ、出版社:花伝社
 知られざる隣人、北朝鮮の実情を教えてくれる貴重な本です。
 著者はロシア人ですが、金日成総合大学に学んだことがあり、北朝鮮の内情を実によく知っています。2段組みで400頁ほどの本です。とても奥深い内容となっています。一読を強くおすすめします。
 とりわけ、北朝鮮の侵攻に脅威を感じている人には、ぴったりの本です。とてもとても、それどころではないという、この国の実情が明らかにされています。
 著者が初めて北朝鮮に行ったのは1984年9月のこと。金日成総合大学に留学生として出かけたのです。
 北朝鮮は、非効率、残忍さ、とりわけ抑圧的独裁国家を具現化したものであった。
 もっとも抑圧的な社会政治的な状況であっても、大多数の人々は普通の生活をよくしようとし、一般的にはそうやっていけるという単純な真実を理解した。
 北朝鮮は、人口2330万人、一人あたりのGDPは1800ドル。モザンビークの人口は2090万人、一人あたりのGDPは1500ドル。小さくて、ひどく遅れた独裁国家であり、モザンビークに近い。
 北朝鮮が奇妙にも目立つのは、2つの理由がある。一つは、北朝鮮の外交官が並外れた手腕で演じている核の脅迫のゲーム。二つ目は、北朝鮮が世界の最後の頑固な共産主義(スターリン主義)政権として生き残っていること。
 金王朝は、北朝鮮を60年以上も支配してきた。少なくとも二世代が、完全なスターリン主義社会の中で成長した。
 北朝鮮の人々は、12歳になると、金日成バッジを外出するときには必ず着用しなければならない。北朝鮮の人々は、毎日、2~4時間も、生活総括と呼ぶ自己批判集会に参加しなければならない。
 朝鮮労働党の党員は400万人。北朝鮮にも、最近は、中国から大量のラジオが持ちこまれている。そして、ラジオでは韓国の放送が広く聴かれてる。北朝鮮には有線ラジオがある。多くの家では、このラジオ番組だけが娯楽の源になっている。
 テレビは、まだ普及しておらず、200万台があるのみ。白黒テレビでも、年収の5年分に匹敵する。そして、北には3つのチャンネルしかない。平均的な北朝鮮の人は、映画を年に21回も見に行く。北朝鮮の暮らしでは、映画の代わりになるものは、たくさんはない。
 普通の北朝鮮の人々は、社会的な出世のチャンスについて、ほとんど幻想を抱いていない。不平等を嫌悪している。エリートの子どもたちは、つつましい庶民とはまったく異なる世界で生涯を過ごす。エリートは、大衆の苦しみにはまったく無関心である。
 北朝鮮では、平壌にある少数の最高級のアパートだけが、個人の風呂場がついている。そうしたぜいたくな住居はエリートだけのもの。庶民は、家でタンクのお湯をつかって体をふくか、公衆浴場に行くか、職場単位の小さな入浴施設を使うかしかない。
 北朝鮮の治安は良くない。暴力的な路上犯罪は南より多い。若者の非行集団は日常生活の一部となっている。というのも、北朝鮮の若者は、未来について心配する必要がないからだ。
 北朝鮮には電話番号簿がない。ケータイも解禁されたあと、2004年に再び当局が没収してしまった。
 1996年、北朝鮮の配給制度は崩壊した。数百万人の北朝鮮の人々が食料を求めて国中を動きまわった。
 北朝鮮には全国各地に収容所がある。人口の3~5%が収容所を体験している。
 朝鮮人民軍は120万人の兵力を有している。これはインドの軍隊にほぼ等しい。
 北朝鮮は、政府をあげて密貿易に従事している。偽ドル札、不法な覚せい剤、禁止されている象牙の販売など・・・。
 北朝鮮の兵士は降参しない。それは家族がいるから。家族連帯、責任制は驚くほど効果がある。
 脱北者は、2002年以降、年に1000~1500人だった。2005年に南に住む脱北者は6700人いた。2009年6月には1万600人になった。
 脱北者は南ではうまく生活できず、犯罪率は全国平均より1.7人も多い。
 現在、亡命はそれほど困難ではない。北を抜け出すより、南(韓国)に入るほうが、ずっと難しい。韓国政府は暗黙のうち、脱北をやめさせようとしている。韓国のエリートは、ドイツ統一の教訓に脅えて、韓国のために、北朝鮮を破綻させないように援助することを選んだ。
 現在の状況では、北朝鮮の人々は死んでも、反乱を起こすことはない。
 北朝鮮という、変てこな国の実相を知ることができました。
(2009年12月刊。2400円+税)

北朝鮮帰国事業

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:菊池嘉晃、出版社:中公新書
 戦後、日本にいた朝鮮人が北朝鮮へ帰国していった。1959年12月から1984年7月まで、9万3340人。
 「地上の楽園」と前宣伝されていた北朝鮮にたどり着いたあとに待ち受けていたのは、あまりに苛酷な現実だった。そのうち日本に再び「帰還」できたのは、わずか200人ほど。9万人をこす「帰国者」のうちには、日本人妻など日本国籍をもつ人が6800人いた。しかし、彼らも日本への「里帰り」は例外を除いて認められなかった。
 北朝鮮からの手紙に次のように書いてきた帰国者がいた。
 「あなたの子どもたちは、みんな今、府中の別荘に入っている。この国自体も、大きな別荘だ」
 ここで、府中の別荘とは、刑務所を意味している。しかし、この手紙を受けとった人は、にわかに信じられなかった。
 終戦時の日本に在日コリアンは200万人いた。1946年3月までの7ヶ月間に  130万人が帰国した。しかし、その後は、1950年5月までの4年あまりに10万人しか帰国しなかった。
 それは朝鮮南部における就職難と生活費の高さに帰国者が直面したからである。在日コリアンの97%が「南」の出身だった。1948年4月の済州島4.3事件は、在日コリアンに衝撃を与えた。李承晩政権やアメリカへの強い不信感を植え付けた。
 日本の外務省は、厄介払い願望をもちつつ、北朝鮮への追放政策は実行できないことを認識していた。
 在日朝鮮人の集団は、日本当局の悩みの種であった。
 日本政府は、数万人に及ぶ朝鮮人が、非常に貧しく、また大部分がコミュニストである彼らを厄介払いしたがっていた。帰国事業は公安と財政の問題を同時に解決することになるものだった。
 日本からの帰国者を出迎えた北朝鮮の人々は、びっくり仰天した。みすぼらしい服で日本から帰ってくるものだと思っていると、北朝鮮では想像もつかないくらい立派な服装だった。天女が下りてきたようだと思い、何度もその服に触った。逆に帰国者は、出迎えた2000人のみすぼらしい姿に、驚き、ぽかんとした。「これはウソだ」「まいったな」と、つぶやいた。
 帰国者の歓迎会で、北朝鮮人民と同じ綿入れ服を贈ろうと用意していたが、取りやめた。日朝間の生活格差を知ることなく、「地上の楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者と、「日本で虐げられた貧しい在日コリアンを受け入れよう」という当局の呼びかけだけを聞かされてきた北朝鮮の人々。双方の不幸な関係は、帰国船が着いた瞬間から始まっていた。
 日本の生活に慣れ、「楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者にとって、日本より生活水準の低かった北朝鮮で「優遇」されても、ありがたく感じた人々はほとんどいなかった。
 平壌に住めた帰国者は全体の5%だけ。
 北朝鮮当局に歓迎された帰国者は、工業部門の技術者、化学者、医師。逆に敬遠されたのは、政治・経済・法律専攻志願者、次いで病人、日本人妻、老人であった。
 北朝鮮への帰国事業は在日コリアン9万人あまりを悲劇に陥れてしまいましたが、それは北朝鮮当局と朝鮮総連のみでなく、また社会党や共産党などの左翼の責任は大きいものの、日本政府もまた小さくない責任を負うべき問題だと思いました。
 それにしても、北朝鮮を「地上の楽園」だなんて、よくも大きな嘘をまき散らしたものですね。信じられません。国自体が強制収容所だというのは、まさに、そのとおりですよね。50年たった今でもそうなのですから、世の中、信じられないことが多過ぎます。
(2009年11月刊。800円+税)

朝鮮戦争の社会史

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:金 東椿、出版社:平凡社
 朝鮮戦争を戦争史ではなく、人々の経験から見直した労作です。なるほど、そういうことだったのかと思い至ったところが多々ありました。しっかり読みごたえのある500頁に近い大作です。
 韓国人にとっての朝鮮戦争は、仲むつまじく過ごしてきた隣人が突如として悪魔に変身した経験であり、自らの生命と財産を守るはずの政府と公権力のエージェントが生命と財産を奪う存在に急変した地獄の体験であった。
 そうなんですね。「敵」は攻めてきた北朝鮮軍だけではなかったのでした。その実情が詳しく紹介されています。
 アメリカは、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んでいる。アメリカにおいて、朝鮮戦争は、第二次世界大戦やベトナム戦争に比較して研究書などがきわめて少ない。
 ある日、突然に北が戦争を敢行して、平和だった南の社会を悲劇に陥れたという韓国の公式解釈は、6.25以前の政治社会の葛藤と李承晩政権の北朝鮮に対する好戦的な姿勢はもちろん、戦争以後、韓国の政治社会が新たに構造化され、軍部勢力が北朝鮮の脅威を名分に表舞台に登場して30年あまりのあいだ、権力の蜜を吸い、軍部エリートたちが社会のエリートとなって膨大な特権を享受してきたという社会的事実を隠蔽する。
 1950年6月25日、大韓民国はまったく戦争に備えていなかった。6月24日夜は、軍の首脳部は盛大なパーティーをしていて、陸軍参謀総長は明け方まで酒を飲み、朝まで酔いが覚めない状態だった。
 李承晩も韓国軍も、最小限の努力すらしなかった。これはアメリカの援助なくして可能なことすらしなかったという意味である。
 李承晩は何の準備もなく戦争を迎えた。自分の身が危うく、国家が崩壊するかもしれないという絶体絶命の危機の前で驚いたり、当惑することはなかった。
 アメリカの北朝鮮の戦争準備、しかも開戦日時まで知っていたことは明らかである。
 李承晩も、韓国政府も、越南者や共匪討伐過程で逮捕したパルチザンを通じて、北の戦争準備を正確に把握していた。韓国の権力中枢は、北の戦争準備と具体的な戦争開始日まで、知りうる者はみな知っていた。
 戦争勃発の当日である6月25日の李承晩の驚くべき落ち着きぶり、それはきわめて重要な、誰にとっても謎にみちたミステリーなのである。
 李承晩は、1949年末から、機会あるごとに「北進論」を主張してきた。というのも5.30選挙以後、李承晩は政治的窮地に追いつめられていた。5.30選挙で、与党は11%の支持しか得られなく、執権2年の李承晩政権は失脚寸前の状態だった。戦争が始まらなかったら、その失脚は時間の問題だった。だから、アメリカの堅固な後援のもとで勝利する可能性のある戦争を自らの権力維持のための一種のチャンスとして認識する十分な理由が李承晩にはあった。
 なるほど、なるほど、うむむ。そういうことだったのですか。いやはや、ちっとも知りませんでした。
 1949年から1950年初めまでの大討伐作戦で、南にいた北のパルチザンは、ほぼ壊滅状態だった。北が南侵してきても、南の人々が蜂起することはなかった。
 5.30選挙では、無所属が大量当選し、李承晩の手先はのきなみ落選した。当局による激しい選挙干渉があったなかでの結果であるから、李承晩政権に対する支持がほとんどなかったことを意味する。
 ところが、北朝鮮が「祖国解放」を名分にして戦争を起こし、南朝鮮の民衆が李承晩政権から解放される機会を得ることになったにもかかわらず、彼らがそのまま静かに人民軍を受け入れたのを見ると、数年間の左右対立と双方からの忠誠の要求に民衆も極度に疲れ萎縮していたのではないかと思われる。とくにパルチザン活動地域内に暮らしていた農民は、事実上、生存のために、昼は大韓民国の軍と警察に、夜はパルチザンにそれぞれ協力しないわけにはいかなかった。
 険しい世の中の荒波を経験した彼らが得た知恵は強い者の側に立つことだった。住民に生の哲学があったとすれば、唯一、どちらの側からも処罰されず生き残らなくてはならないというものであり、それは社会主義や資本主義という理念よりもいっそう重要であった。
こうした理由から住民は、人民軍がやって来たときは人民軍に、韓国軍がやって来たときには韓国軍に協力する準備ができていた。
 ソウルが陥落の危機に瀕した状況において、李承晩は自らの避難に対してアメリカの大使と相談しただけで、国会議員には相談しなかった。そして非常国会が開かれていた真っ最中の27日の明け方に、国会の要人たちにも知らせず、アメリカ大使にも通報しないままソウルを離れた。銀行券もそのままにし、政府の重要文書も片づけず、数万人の軍人たちを漢江以北に置いたまま・・・。
 李承晩にとって、大韓民国の安全保障について実質的な責任を負うアメリカだけが主要な対話の相手だったのである。
 アメリカは、6月28日、2500人にのぼるアメリカ人を全員安全に日本へ対比させた。李承晩政権は、国家の救出を掲げながら、国家の構成員である国民の生命は無視していた。
 「国家不在」の状況で、人々は人民軍と韓国軍のどちらに徴収されたとしても誇らしいことではないと考えた。ただひたすら逃げて一身の生を守ることが賢明と考えた。
 朝鮮戦争の全期間にわたり、人民軍の南下を避けて避難した政治的避難よりも、アメリカ軍の爆撃から逃れるために避難した場合がはるかに多かった。
 アメリカ空軍の無差別的な爆撃は、朝鮮人を恐怖に陥れた、もっともむごい出来事だった。とくに38度線以北に対する爆撃は想像を絶するほどだった。当時の平凡な国民の目には、李承晩だけが自分だけ生きのびようとした存在として映ったということが重要である。
 李承晩は、国家や民族よりは自らの生存と権力維持をまず第1に考慮する人物であった。
 李承晩の生涯には驚くほど一貫した原則があった。権力欲が、まさにその原則であった。
 マッカーサーは李承晩に韓国の安保をアメリカが守ると約束していた。李は情報員を通じて北朝鮮の侵攻を十分に予想していたし、北の侵略に南が対処しえないこと、そのまま放置すると朝鮮半島は内戦に突入することもはっきり認識していた。李は核を保有した世界最強のアメリカが頼もしい存在と考えており、アメリカは韓国を見捨てないと信頼していた。
 李承晩は、アメリカとソ連という超大国が主導する冷戦対立のなかでは、「無定形」な国民の支持や支援よりも、アメリカの軍事的・経済的支援がより重要だと知っていた。大韓民国防衛の責任は自分ではなくアメリカにあるという政治的判断をすべての前提としていた。
 「反共を国是として掲げた」韓国の歴代政府が、人民軍が後退しながら犯した左翼側の虐殺を本格的に調査したことがないのは不思議である。しかし、それは、それまで共産党の蛮行と思われていた事件が、実は、右翼側による民間人虐殺事件であったと判明することを恐れてではないかと考えられる。たとえば、共産党の反乱あるいは良民虐殺事件と考えられてきた済州島四・三事件や麗順事件において、今では犠牲者の大部分は反乱軍ではなく韓国軍・警察・右翼による虐殺だと推定されている。「アカは殺してもいい」という原理は、実際に、今日の資本主義的経済秩序と法秩序、社会秩序に内在化し、再生産されている。それはファシズムの民族浄化の論理と本質的に同一である。「アカ狩り」という権力行使の欲求を抑制できる程度に民主主義は発展したが、現在の韓国の民主主義と人権の水準・市民社会の道徳性の水準は、一介の新聞社が過去の「国家機構」に代わって個人の思想的純粋性を審査し、追放を扇動できるという事実に集約されている。
 500頁に近い大変な力作です。朝鮮戦争に関心のある人には必読の基本的文献だと思います。
(2008年10月刊。4800円+税)

収容所に生まれた僕は愛を知らない

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者:申東赫、出版社:KKベストセラーズ
 北朝鮮にある14号政治犯収容所完全統制区域出身の若者を見たとき、別の完全統制区域で警備隊員をしていた人(同じ脱北者です)が次のように述べています。
 幼いころからの苛酷な強制労働の結果、右側の肩は曲がってしまっている。腕と手は、厳しい力仕事のせいでサルの腕のように非常に長くなり、内側に湾曲している。その体は、物を運ぶのに便利なように変形してしまった。こんな外形状の身体の特徴は、収容所の中で幼齢から強制労働をしなければ出来あがらない。
 北朝鮮の強制収容所には、2つの種類がある。一つは、ある程度の期間収容されたあと、一般社会に復帰できる「革命化区域」。もう一つは、一度入ると一生そこから出られない完全統制区域。革命化区域は、15号管理所のみで、残りは、すべて完全統制区域である。だから、完全統制区域の情報が外部にもれることは絶対になく、その中で何が起きているか誰も知ることができない。ヒトラーのユダヤ人絶滅収容所のようなものなのでしょう。
 収容者の7割は、なぜここに入れられたか、その理由すら知らないだろう。管理所に入れられた瞬間から、身内の消息であっても知らされず、身分証も全財産も没収されてしまう。独身者は寄宿舎で生活する。結婚しても、男は寄宿舎生活を続け、女だけに家が与えられ、子どもと生活する。
 仕事は1ヶ月に1度、毎月1日が休み。土曜とか日曜に休むことはない。
 食料は配給。その日のうちにすべて消化しなければならず、食糧を貯めておくことはいけない。食糧難なので、ヘビやネズミも食べる。ネズミは焼いて食べる。頭まで、骨をかじって食べ尽くす。ヘビより栄養価は高い。
 この14号収容所に5万人は生活している。収容所内では、メガネをかけることもできない。塩を除いて、すべて自給自足である。
規則に反したとき、たとえば、脱走したとき、盗んだとき、男女間の承認なき身体接触があったときには、即時に銃殺される。公開処刑場があり、収容所から逃亡を図った母と兄が処刑されるのを少年であった著者も一番前で見せつけられたのでした・・・。
収容所内での結婚は、当局の指示による表彰結婚のみ。いやと言えば結婚は許されない。収容所内に学校はあるが、教えられるのは国語と算数と体育だけ。学校に本はない。歴史を教えられることもない。
ここでは、金日成、金正日を賛美する教育もなかったようです。不思議ですね・・・。
高等中学校に進んでも本はなく、生活総括のノートがあるだけ。カエルを捕ったり、ヘビをつかまえて食べたりしていた。
強制収容所の囚人が集団的な抵抗ができないのは、何よりも統制が厳しいこと、収容者が自分は罪を犯してここにいると思っていることにある。
罪を犯した自分は、ここの規則に従うのが当然で、一生、命令されるままにおとなしく暮らすものと考えている。そもそも抵抗意識などない。収容所では、基本的に、人々を食べ物で統制する。
巻末に著者が知らなかった言葉の一覧表があります。驚くべきリストです。
可愛らしい、友好的、善良、純粋、楽観的、心が広い、素朴、平和、楽しい、うっとりする、明朗、快活、幸せ、十分・・・・。
今の日本の若者にも実感のともなわない言葉になってはいないのかと、おじさんは少しばかり心配なんですが・・・。
5万人も暮らしていたという収容所生活の、あまりに苛酷な日常生活が紹介されています。目をそむけたくなる現実です。よくぞ、こんなところから脱出できたものです。
(2008年3月刊。1600円+税)

美しい家

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者 孫 錫春、 出版 東方出版
 戦前から戦後の朝鮮戦争を経て、金日成と金正日政権下を生き延びてきた北朝鮮の活動家の日記です。北朝鮮の「労働新聞」の記者として、晩年は活躍していました。
 日記は戦前、1938年4月に始まります。朝鮮が日本の植民地として支配されていたころの状況が描かれています。このころ、金三龍、朴憲永という著名な活動家とも親交を持っていました。著者は日本に渡り、東京で中央大学哲学科に編入します。
 1940年8月22日、メキシコで、スターリンの放った刺客によってトロツキーがピッケルで刺殺されたことが書かれています。私は、これを読んで、このころこんなに詳しく背景事情から何まで判明していたというのはおかしいと感じました。あまりにも出来すぎています。もちろん、今となっては真実のことですが、スターリン崇拝の熱が今では想像できないほど強かった戦前に、スターリンをこれほど客観的にとらえることのできた日本人や、朝鮮人の活動家がいたなんて、とても信じられません。私は、ここで、この「日記」の信ぴょう性を疑ってしまいました。
 日本の敗戦後の朝鮮半島で、金日成が朴憲永を追い落としていく過程が批判的に記述されています。
 常識を逸脱したとんでもない話だ。金日成同志に少々失望した。あまたの共産主義運動の先輩を押しのけ、弱冠33歳の金日成が革命の最高指導者になろうとしている野心を露骨にさらけ出している。
 どうでしょうか。こんな金日成批判を書いた手帳を、北朝鮮のなかで後生大事に隠し持っていたなどと考えることは、とてもできません。朝鮮戦争がはじまり、やがてアメリカ軍が仁川に上陸して、反転攻勢が開始します。
 目の前で愛する妻と子が爆死してしまうのです……。
 停戦後の北朝鮮の日々です。
 個人英雄主義として朴憲永同志が批判されている。しかし、それなら金日成首相のほうこそ……。
 ええーっ、たとえ日記であっても、ここまで書いて大丈夫なのかしらん……!
 今日の我が党の現実は、人民大衆中心の党ではない。党の中心には、人民大衆ではなく、首領がいる。首領中心の党である。うむむ、本当なんですか……
 朝鮮戦争は全面戦争への転換が不適切な時期に冒険的に起きてしまった。
 金日成同志は、朴憲永同志が南労党同志たちの決起が必ずあると誇張し騒ぎたてたとし、失敗の責任の矢を南労党の同志たちに向けている。しかし、もっとも重大な判断ミスは、老獪な米帝を相手に戦わなければならない事態になりうることを、まったく想定していなかったところにあるのではないか……。
 「日記」の最後の日付は1998年10月10日になっています。60年間にわたって北朝鮮内で活動家として生き抜いた人の日記が残っていたというわけです、私には、まったくのフィクション(小説)としか思えません。ただし、はじめから小説として読むと、朝鮮半島を取り巻く情勢、そのなかで生きていた人々の息吹を身近に感じることのできるものにはなっています。
 
(2009年7月刊。2500円+税)
 チューリップはほとんど全開となりました。横にアイリスが咲き始めてくれています。茎の高い、黄色と白色の気品のある貴婦人のように素敵な花です。毎年ほれぼれと見とれます。私のブログでちかく紹介します。

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