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カテゴリー: 朝鮮・韓国

日韓・歴史問題をどう解くか

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  和田 春樹・金 泳鎬 ほか 、 出版  岩波書店
 1965年の日韓条約には、批判されるべき重大な欠陥があった。日本側に植民地支配に対する反省がなく、それがもたらした損害と苦痛に対する謝罪がなく、補償をおこなう考えがなかったことである。
 日韓条約は、歴史認識の対立をそのままにして、併合条約の無効に関する条約第2条を日韓が都合のいいように訳し、解釈することを認めることで成立した。
残されている、解決を必要とする問題は四つある。第一に、強制された併合条約は当初から無効であったと解釈すること、第二に、日本側は自発的に、道義的に追加的な償いの行動を補完的にとること。第三に、日韓請求権協定で解決されていない深刻な問題があること、たとえば慰安婦問題や在韓被爆者への援護問題、サハリン残留韓国人の帰国問題などについて、日韓首脳会談で協議すること、第四に、独島・竹島問題についての合意。
 なーるほど、いろいろの問題がまだまだ未解決のまま残っているのですね・・・。
 併合条約の有効性の問題を政治家や官僚たちにまかせることはできない。そうではなく、市民社会が乗り出すべき問題である。これは、過去からの要請というより、未来からの要請なのである。
 韓国併合条約には、形式上も手続き上も、重大な欠陥が認められる。大韓帝国の宝印奪取、皇帝の署名偽造、公表勅諭の捏造など。そして、韓国では、国内手続を経ておらず、皇帝が裁可することもなかった。
 したがって、韓国併合条約は、「締結されてもいなかった」のである。
日本の敗色が濃くなっていた1944年12月、朝鮮・台湾の居住者への参政権付与案が検討され、翌45年4月に、選挙法が改正された。しかし、朝鮮の衆議院定数はわずか23人。有権者も直接国税15円以上納付に限定された。
 それまで、朝鮮人は立法にも予算の審議にも関与できなかった。
 「韓国併合」100年を記念して日韓知識人の共同声明が出された(2010年5月10日)。翌11日の韓国各紙は、この共同声明を大きく報道した。ところが、日本では、朝日、東京そして共同通信のみが報道するだけ、しかも小さな記事でしかなかった。
 2010年8月10日、菅直人首相は、談話を発表した。
 「日韓併合条約が締結され、・・・・植民地支配が始まった」
 「政治的・軍事的背景の下、当時の韓国の人々は、その意に反しておこなわれた植民地支配によって、国と文化を奪われた」
 いま、本屋の店頭には、韓国と韓国人をバカにするような本が平積みになって大々的に宣伝され、売られているようです。まさしく「ヘイト・スピーチ」が公然と大手を振って、まかりとおっています。恐ろしいことです。隣国とは、たとえ意見の違いが大きくても、仲良くしなければいけません。「敵」ではないのです。
 先日、私は娘の結婚式のためにソウルに初めて行ってきました。みんな平和に生きています。それが、私たちの願いです。戦争に駆り立てて金もうけしようなんている連中に乗せられてはいけません。
 植民地になって朝鮮はかえって良かったとか反映していたと主張する日本人がいます。残念でなりません。自由と独立のないところで、どうして「繁栄」があるというのでしょうか。日本人は開き直ってはいけないと私は思います。
 反省すべきところは反省し、償うべきは、きちんと償うべきなのです。それが未来への道を切りひらいていくことになります。
(2013年12月刊。2900円+税)

北朝鮮経済のカラクリ

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  山口 真典 、 出版  日系プレミアシリーズ
 北朝鮮が日本にとって不気味な国であるのは間違いありません。ところが、安倍首相は、そんな日本国民の心理を利用して、北朝鮮にミサイルを先制攻撃できるようにしようというのです。それは戦争です。恐ろしいことです。北朝鮮が反撃として、日本に50以上ある原発にミサイルを撃ち込んだら、たちまち日本は破滅してしまいます。やめてください。安倍首相の危険な「火遊び」につきあわされて、日本という国が消滅するのを指をくわえて眺めているわけにはいきません。
この本は、北朝鮮経済のいびつな構造に迫っています。
 金正恩は、2012年4月に朝鮮労働党第一書記に就任し、主要な最高権力ポストをすべて引き継いだ。
 金正日の「遺言状」のなかには、海外銀行の資金は金正恩が管理しろ、原子力発電所を少なくとも3個は建設しろ、というのがあるそうです。前者は既に実現しているのでしょうが、後者はどうなのでしょうか・・・。
 父親の金正日の哲学は、権力を持つ第二人者(ナンバーツー)の台頭は絶対に許さないことにあった。頂点に立つのは、最高指導者ただ一人だけで、残りの側近は、全員を水平的に配置して、互いに牽制させた。自らを脅かす勢力が台頭してくる前にその芽を摘む。
 金正恩が、先日、張成沢を銃殺してしまったのも、その哲学を実践したということですね。
北朝鮮には、国の公式経済とは別に、予算数字に計上されない非公式の経済が存在する。軍需経済と王室経済だ。軍需経済は、労働党の中央軍事委員会と軍需工業部が統括し、第2経済委員会が傘下の武器工場や商社、金融機関などを通じて執行する。
 王室経済は、単に金正日ファミリーがぜいたくするためだけの資金ではない。自らの体制を支えてくれる幹部の忠誠心をつなぎとめる目的のための仕組みだ。この秘密資金を管理するのが労働党39号室だ。ところが、近年、北朝鮮では指導部の把握できない「ヤミ経済」がどんどん膨らんでいる、蔓延する「賄賂文化」もヤミ経済の一部だ。
 北朝鮮の社会は、出身成分でも将来が決まる。成分は大きく分けて三つ。核心階層、動揺階層、敵対階層。日本からの帰国者は敵対階層という低い成分に分類され、日常生活でもいろいろな制約を受ける。
どんなに庶民が貧しくても、平壌に住む幹部の生活さえ保障していれば、体制が揺らぐことはないとされる。
 平壌市民250万人のうち、十分な食料品や生活用品の確保など、手厚い庇護を受けている党や郡の幹部が50万人いる。なかでも2万人の高級幹部は、優遇されている。
 エリートたちの忠誠をたもつためには、現金や物資にあわせて年に10億ドルが必要だ。
 北朝鮮の全人口は2400万人。核心階層と労働党員が300万人いる。
北朝鮮の庶民が沈黙している理由の一つは、徹底した相互監視システムにある。
収容所にも二つある。生涯出所できない「完全統制区域」と、比較的罪の軽い政治犯で出所の可能性がある「革命化区域」。
 北朝鮮で軍のクーデターが起こる可能性は、まずない。その根拠は、ローヤルファミリーを警護する護衛司令部の存在。護衛司令部は、陸海空あわせて5~6師団の10万人。これは人民軍から切り離して、軍よりも最新鋭の武器や装備を供給した。
 軍は、クーデターを防ぐため、陸・海・空軍の指揮命令系統を別々にしている。
 平壌付近には、大規模な兵力を配置していない。軍の部隊が決定を下す際は、3人の指揮官全員の合意が必要だ。
 金正日の外交術には一定のパターンがあった。緊張を高めたあとで、少しだけ譲歩し、最大限の見返りを得る。日米韓の連携を揺さぶる。
 金正日の統治は、絶対に自分から指示しないことが特徴だった。失政の責任は全部を部下が負う。最高指導者の決定に間違いはありえないのだ。
 北朝鮮は、武器輸出で年に1~4億ドルの外貨を稼いでいる。アヘンや覚醒剤の生産もしていた。アメリカ・ドルの偽造もしていた。ニセ・タバコもつくっていた。
 北朝鮮は海外出稼ぎ大国である。世界40ヶ国に5万人の労働者を派遣し、年間3億ドルを稼いでいる。
北朝鮮人民軍は117万人。予備役は740万人をあわせると、全人口2400万人の4割が軍人となる。男性人口の1割は軍人だ。
 北朝鮮兵士の平均身長は韓国兵に比べて15~20センチも低い。これは栄養状態の違いによる。
北朝鮮という国が、いつまでもつのか分かりませんが、本当に異常な状況だと思います。そして、韓国も中国も、そして日本もアメリカも、すぐに国(金正恩体制)が崩壊しないように支えているというのが現実なのではないでしょうか・・・。
 そして、脅威だけはあおって、安倍首相のように利用しているのです。
(2013年12月刊。850円+税)
 月曜日に東京に行ってきました。日比谷公園の桜が見事に満開でした。しだれ桜もありましたが、これもソメイヨシノなのでしょうか。奈良から来ていた弁護士が、うちは5分咲きと言っていました。大阪は、なぜか東京より遅いのですよね。
 3年近くつとめていた日弁連の委員長職から解放されました。重責で肩の重味がとれて、ほっとしています。
 わが家の庭のチューリップも満開です。庭のあちこちに500本のチューリップの花が咲いて、春到来をまさしく実感させてくれます。
 紫色の豆粒のような、ハナズオウの花も咲いています。

検証・朝鮮戦争

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  白 宗元 、 出版  三一書房
 この本は1950年6月25日、韓国軍が攻撃を開始し北進したのが朝鮮戦争の始まりだとしています。明らかに歴史的事実に反します。ただ、そのことを除けば、朝鮮戦争の前夜の状況を詳しく紹介していて、なるほどと思わせます。
 そして、この本は日本が朝鮮戦争といかに関わり、利益を得たかを明らかにしています。
 日本における特需景気は頂点に達した。特需は陣地戦に必要な土のう用麻袋、有刺鉄線、野戦携帯食糧、毛布など、広範囲にわたった。とくにナパーム弾や砲弾などの需要が激増した。52年だけで、大阪機工は迫撃砲528門を生産している。小松製作所は81ミリ迫撃砲弾を32万5000発、同4.2インチ砲弾を63万3000発、大阪金属は同じく30万発など、大量受注している。
 まさしく、日本は死の商人としてもうけ、そのおかげで日本経済は立て直しにつながったのでした。
満州にいた日本軍の引部隊の幹部だった北野政次は、GHQの命令で朝鮮戦線に派遣され、「4ヵ月のあいだ滞在しながら流行性出血熱ウイルスの確保」に従事していた。
 細菌兵器として、野ネズミが埼玉県内の農家で大量飼育されていた。
731部隊の元軍医中佐であった「ミドリ十字」の創始者は、朝鮮戦争当時、アメリカ軍兵士の輸血用血液を大量に供給する必要があったため、この会社をおこしたのだった。
 朝鮮戦争における仁川上陸、掃海作戦には、多くの日本人が参加した。
 朝鮮戦争が始まると、日本政府は特別調達庁を積極的に運用した。アメリカ軍の作戦にあたって必要なあらゆる調達の要求を直ちに対応する中央機関であった。
 1950年から55年までのアメリカの軍需発注は、武器弾薬の調達と役務をふくめて18億ドル近く、軍人・軍属による軍需品買付が17億ドルあって、朝鮮特需は合計35億ドルをこえるものがあった。1952年から55年までの砲弾特需は総計400億円にのぼり、そのうち小松製作所が160億円で、4割を占めた。
 トヨタは、1000大もの米軍用トラックを受注したことが発展の基礎となった。トヨタは倒産寸前にあったのが、これで息を吹きかえした。
 仁川上陸に成功したあと、マッカーサーは元山上陸作戦を立て、そのため機雷掃海を日本政府に命じた。日本政府は、25隻の掃海艇、巡視船からなる「特別掃海隊」を編成し、旧日本海軍軍人1200人を動員して1950年10月12日から12月12日まで、元山、海州、仁川、群山、南浦で機雷の掃海に出動させた。
 そのなかで10月17日、掃海艇1隻が触雷して沈没し、19人の死傷者を出した。
朝鮮戦争はまだ休戦状態にあり、終わっていません。そして、この戦争に日本も深くかかわっていたことを忘れるわけにはいきません。
 北朝鮮の金正恩の暴走は心配ですが、日本人も考えるべきことは多々あります。決して他人事(ひとごと)ではありません。
(2013年6月刊。2500円+税)

戦争記憶の政治学

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  伊藤 正子 、 出版  平凡社
 ベトナム戦争は、私が物心ついたときには既に進行中でした。大学生時代には、ベトナム反戦デモに何回も参加しました。
 「アメリカのベトナム侵略戦争に反対するぞ」
 こんなシュプレヒコールを何度も何度も叫びました。深夜に、東京・銀座の大通りいっぱいを埋めるフランスデモをしたときには、気分も爽快でした。
 そのベトナム侵略戦争には、韓国軍も加担していました。
 1965年から1973年までの9年あまり、韓国軍の青龍(海兵第二旅団)・白馬(第九師団)・猛虎部隊(首都師団)など、31万人あまりがベトナムに行き、5000人ほどの戦死者を出した。
 この9年あまりのあいだに、韓国軍は1170回の大隊級以上の大規模作戦と55万6000回もの小規模部隊単位作戦を遂行した。そして、韓国軍は4万1400人の「敵」を射殺した。韓国では、ベトナム戦争への参戦は「武勇伝」として語られてきた。
 1999年からハンギョレ新聞はその実情を知らせるキャンペーンを展開し、大反響を呼んだ。
 2000年6月、ハンギョレ新聞社はベトナム参戦軍人2400人に包囲され、パソコンを破壊され、幹部が監禁された。
 ところが、これに対するベトナムの反応は複雑だったのです。
「反韓」感情が国民のなかで強くなり、ひいては外交・経済交流に悪影響を及ぼすような事態になることを懸念して、ベトナム国家はこの問題が全国的に継続的に報道されることを許さなかった。その結果、ベトナム戦争の終結後に生まれた世代が7割を占めるようになったベトナムでは、戦争中に韓国軍が引き起こした事件は当該地域以外であまり知られていない。
 ベトナム戦争によって、ベトナムでは30万人が亡くなり、450万人が身障者になり、200万人の枯葉剤被害者が発生した。でも、アメリカがベトナムに与えた苦痛に比べたら韓国軍の誤りはとても小さいと言える。
 ベトナム戦争に参戦した韓国側のNGOは、「負の歴史を刻んで未来の平和に生かそう」というスローガンで活動している。ところが、ベトナム国家は、それとは逆の「過去にフタをして未来へ向かおう」というスローガンを掲げている。過去に多くの国家から侵略を受けてきたベトナムは、グローバル化する21世紀を生きていくうえで、どの国家とも良好な政治・経済関係を維持・発展させていくために、この方針をとっている。
 2009年、韓国の国会で審議中の法律の条文に「ベトナム参戦勇士は世界平和の維持に貢献した」とあるのに、ベトナム政府が抗議した。
 金大中(キム・テジュン)大統領は、非常に明瞭な形でベトナムに謝罪の言葉を述べた。その後、ODAによるベトナム中部地域への韓国からの投資が増大した。
 しかし、金大中大統領の謝罪は、自分たちの尊厳を冒瀆したとみなすベトナム参戦軍人たちが反撃に出た。「中途半端」な村の虐殺事件の記憶は、経済発展に慢心することこそが至上命題の現在のベトナム国家にとって、掘り起こしても何の得もない「歴史」にすぎない。
 ベトナム戦争をめぐる公定記憶は、人々の苦しいながらも国家に貢献した誇らしい記憶である。しかし、「輝かしい勝利」になんら貢献していない、生き残りの人たちが語る「ハミ村の虐殺」は、ベトナム国家の公定記憶になりえないのだ。つまり、韓国軍による虐殺の記憶は、ベトナムでは、ナショナリズムと結びついた記憶にはならない。結びつけようとした時点で、ナショナリズムがほころびてしまう。この点が、日韓や日中の関係ともっとも異なるところである。
 私が韓国軍のベトナム参戦とその問題点を知ったのは、1989年に『武器の影』(岩波書店)、1993年に『ホワイト・バッジ』(光文社)を読んでからのことです。それが今、ベトナムが経済成長優先策のもとで難しい局面を迎えているのを知り、複雑な気分になりました。
(2013年10月刊。2800円+税)

近代朝鮮と日本

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  趙 景達 、 出版  岩波新書
両班(ヤンバン)とは、本来、東班=文官と西班=武官の総称であり、文部官僚を意味する言葉であった。両班とは官僚を意味したが、いつしかその意味が拡散し、長きにわたって官僚を輩出していない家門のものであっても、在地社会では両班と認知されることがあった。
 両班とは、一貫して、法制的な手続を通じて認定された階層ではなく、社会慣習的に形成された階層であり、両班がそうでないかの基準は非常に相対的で主観的なものであり続けた。両班には、大きく京班(在京両班)と郷班(在地両班)があったが、在地両班の場合には、ある地方では両班と認められても、他の地方に行けば両班と認定されないこともあった。
 地方官志願者は多数存在し、それを勝ち抜くには賄賂が必要であり、地方官は君子然としてばかりいてはなれるものではなかった。また、胥吏(しょり)は役務であったために俸給がなく、給与の自己調達=行政手数料のようなものとして、勢い民衆収奪するしかなかった。民衆の側も、納得できる範囲であれば、権力の側の収奪を必ずしも不正とは考えなかった。救難事には、守令は確かに賑恤(しんじゅつ)を行おうとした。胥吏も、凶作時には収奪をゆるめて徴税に手心を加えた。
 民衆は、儒教的民本主義に訴えて、賑恤を正当な権利として要求した。治者と民衆との間には、奇妙な共生関係=秩序が成り立っていた。
 朝鮮社会にあって、氏族と農民は村々で共生した。民衆の両班観は、愛憎相反ばするアンビバレントなものであった。やがて、両班に士族とは何かが問われはじめていった。士とは朝鮮の固有語ゾンビに対応する漢語であり、本来、身分を超越して学徳を備えた人格者を指称する語である。
 朱子学にもとづく仁政イデオロギーは、朝鮮でも日本でも確かに機能したが、朝鮮では統治の原理そのものであった。日本では統治の手段であった。原理をもった社会というのは、そうたやすく自らを変えることができない。
 民衆をもっとも不安にさせたのは、何よりも飢餓の恐怖だった。民衆はもはや真人の出現を待つ余裕をなくしていた。
 東学は、人間平等の論理をはらんでいた。
 近代日本の膨張主義のうえで重要な人物は吉田松陰である。松陰は、将来ロシアに奪われるであろう富の代償として、朝鮮を手はじめとする大陸への侵攻を構想した。松陰にあっては、朝鮮は日本の下位に位置づけられ、古来、日本に朝貢すべき国として認識されていた。兵威をもって朝鮮を屈服させるべきだとけしかけたのは、松陰の弟子・木戸孝允だった。木戸孝允は、朝鮮が天皇に朝貢してこないときには、侵略すべしと岩倉具視に提言していた。明治維新は、その初めから侵略思想を内包していた。
 大院君の改革は士族の反感を呼び起こしたが、民衆の大院君に対する人気は絶大だった。しかし、景福宮再建工事は、大院君失脚の大きな一因となった。
 1987年5月の辛未(しんぴ)洋擾では、朝鮮軍はアメリカ艦隊に敗北はしたが、大変な激戦だった。これはアメリカの公使や指揮官にとって意外なことだった。崇文の国だと自負する朝鮮が、武威の国だと自負する日本以上に頑強に抵抗したのであった。
高宗の妃である閔氏は戚族と組んで、大院君の失脚を企んだ。そして、ついに失脚させることに成功した。1873年12月のこと。
 1876年2月、黒田清隆全権大使は、軍艦6隻を率いて江華島に現れ、兵員4000名と号した。ペリーの故知に倣うような威圧外交である。朝鮮側は、日本の威圧外交に憤慨はしたが、御前会議では開国やむなしが大勢を占めた。そして、江華島条約が結ばれ、日本の治外法権が認められ、朝鮮の関税自立権も否定された。しかし、治外法権は、倭館外交対馬藩に認めていたこともあって、不平等条約という認識は朝鮮側にはなかった。
 1882年7月、壬午軍乱によって大院君は政権に帰り咲いた。しかし、翌月、中国軍が大院君を拉致して、大院君の反乱は終息した。
 1884年12月、甲申政変が起きた。開化派は信頼していた日本にも裏切られた。
日清戦争直後の1895年10月、日本軍は、朝鮮王宮に侵入し、閔妃を殺害して死体を焼き払った。閔妃虐殺事件である。一国の公使が赴任国の王妃をほぼ公然と虐殺するというのは、世界史に類例をみない驚天動地の事件である。しかも、事件の背後には大本営が控えていた。首相の伊藤博文も同意していた。
 日清戦争後、日本人は朝鮮各地に入り込んで高利貸しを行い、朝鮮人の名義で土地を入手しはじめた。日本は朝鮮半島を丸ごと軍事占領しようとした。これが日露戦争につながった。
 韓国併合に先立って、朝鮮は実質的に日本の植民地になっていた。
日本と朝鮮との密接なかかわりを改めて知り、考えさせられました。
(2012年11月刊。840円+税)

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