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カテゴリー: 朝鮮・韓国

済州島、四・三事件(第3巻)

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  済民日報四・三取材班 、 出版  新潮社
 1948年、済州島で発生した韓国現代史上最大の悲劇「四・三」の惨状は、米軍政下において韓民族がかかえていた矛盾が集中的に作用して引きおこされた事件だった。
 済州島において、米軍政と韓国政府側の討伐作戦が本格化していた5月13日、それに反抗する武装隊による逆襲事件が発生した。警察署が襲撃され、7人の警官が死んだ。また、武装隊が民家に放火し、百余戸が火災にあった。事態は「血の報復」の様相を呈しはじめた。
 当時は、山側(武装隊)のほうが力があるように見えた。情報も、山からのほうが早かった。警察は、毎日のように、避難嫌疑者の家族を署内に連れこんで拷問を加えた。
 住民にとって、応援警察隊は悪夢のような存在だった。応援警察隊が来ると聞くと、男も女も、年寄りも子どもも、みな身を隠すのに必死になった。法を守るべき警察官の存在によって、一帯は無法地帯と化した。討伐開始の1ヶ月間で、逮捕された「捕虜」が6000名に達した。これは、無差別逮捕を意味している。
 1948年5月20日、第九連隊所属の下士官11人をふくむ将兵41人が兵舎を抜けだし、武器・弾薬とともにゲリラ側に加担するという事件が発生した。米軍政は、この事件の後、第九連隊に不信感を抱いた。第九連隊は、全兵力の9割が済州島出身者で占められていた。
 警察と「西青」に反韓を抱く兵士が多かった。これらの将兵は「左翼思想」に染まっていたというより、警察と「西青」に対する反感が強かった。そして、このうち半数の20人は、2日後につかまり、射殺されてしまった。脱営そのものが緻密に計画された、組織的なものではなかった。
 1948年6月、ソウルに法曹人が済州島に入って現地調査をした。ソウルの検察官は、次のようにまとめた。
 「今回の事件の導火線は共産党系列の策動にあるとは言っても、その原因は警察官の済州島道民に対する誤った行動にあると断言することができる」
 彼らは、同じく済州島事態は、左翼系の扇動だけでなく、警察と「西青」、官公吏の蛮行と腐敗等が大きく作用していると指摘した。
 1948年6月18日、第11連隊において連隊長の朴珍景大佐が暗殺された。29歳だった。犯人ら4人の将兵は1948年9月に銃殺された。
 1948年8月、済州島道民保団が創設された。1949年4月には、この民保団は5万人を擁した。
 1948年8月、大韓民国が樹立し、韓米暫定軍事協定が締結された。
 駐韓米軍司令官は、韓国軍の指揮権とあわせて、米軍駐屯に必要な基地と施設の支配権を継続して確保した。
 「四・三」流血事態に、米軍指揮部が直接・間接に介入していた。
 10月20日以降、軍の行動が終了するまで、全島の海岸線から5キロメートル以外の地点と山岳地帯の無許可通行が禁止された。この布告に違反するものは、理由のいかんを問わず、暴徒とみなし、銃殺に処される。
 この中山間焦土作戦によって、6ヶ月間の内に少なくとも1万5000人以上の島民が虐殺された。
 「四・三」事件は、韓国社会にとって忘れることの出来ない歴史的汚点の一つだということがよく分かりました。
(1996年6月刊。4500円+税)

先進国・韓国の憂鬱

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  大西 裕 、 出版  中公新書
 日本と同じように、韓国も大きな矛盾を抱えている国だということがよく分かる本です。いずこも悩みは深いのです。
 2012年12月の韓国の大統領選挙で朴槿恵(パククネ)が勝利した。このときの投票率は2007年に李明博が当選したときの63%に比べて大幅にあがり、76%になった。
 街宣車による連呼が禁じられているため、静かな選挙戦だったが、有権者の動員は進んだのだ。朴槿恵も対立候補の文在寅(進歩派の隠健中道)も、新自由主義的改革で深刻となった経済格差を解消しなければならず、そのためには財閥改革と社会福祉の充実をしなければならないという点では一致していた。このように、政策的対立は乏しいけれども、深刻なイデオロギー対立が高い投票率につながった。
 文在寅は湖南地方と若年層の支持を得、朴槿恵は嶺南地方と高齢者の支持を得た。
 韓国経済の快進撃は財閥系企業による。そして、その利益の大半は、財閥とごく一部の社員が得ており、一般市民や中小零細企業は、その恩恵にあずかっていない。
 韓国が財閥中心の経済構造になったのには、二つの要因がある。その一つは、財閥が歴代政権によって特権的に保護されたこと。その二は、自由化がすすみ、弱肉強食の市場原理が働くなか、政権と強く結びついて強い立場にあった財閥の一人勝ちの状況になった。
 ジニ係数と相対貧困率をみる限り、韓国はOECD諸国のなかで、それほど平等性の低い国とは言えない。しかし。貧困層の困窮度合いは、かなり深刻である。相対的貧困層に属する人々は、数が多いだけでなく、平均してかなり貧しい。韓国は、OECD諸国のなかで65歳以上でみると、最悪に近い。すなわち、韓国の高齢者における不平等は深刻で、貧困層の厚さも、その困窮度合いも際立っている。それは、社会保障制度の整備が遅れたことによる。
 そして、韓国の若年層は就職がしにくい。ワーキングプア、高齢者、若年層などに着目すると、韓国の貧困の状況は、かなり深刻だ。そのうえ、政府の対策は量的に不十分である。弱肉強食の世界を招きかねない新自由主義的な改革を推進したのは、1998年から10年間続いた、金大中、盧武鉉という進歩派政権だった。なぜか・・・?
 1998年2月、金大中政権は、進歩派の人々から大きな期待を受けて登場した。ところが、この政権は、新自由主義的としか思えない経済改革を次々に断行していった。
 金大中政権は、進歩派からは裏切ったと思われ、保守派には不十分と評価された。金大中には、アカ(パルゲイン)のレッテルがついて回った。
 それでも、韓国は曲がりなりにも福祉国家を実現した。
 次の盧武鉉政権は、二つの新しい福祉圧力に直面した。その一つは、少子高齢化の進行。その二は、「新しい社会的リスク」への対応。
韓国の福祉政治で不思議なのは、市民団体や労働団体が政治過程に参加しているのに、福祉団体はあまり目につかないこと。そもそも福祉を推進する団体があまり存在しない。存在しても、福祉の拡大には、それほど積極的ではない。韓国の福祉団体は、地方自治体から行政指導を受けることも多いため、行政にきわめて依存的な存在である。韓国には、福祉に関心をもちながら保守的という特異な事情がある。
盧武鉉は、いわば地域の草の根保守に足もとをすくわれてしまった。
 盧武鉉は、アメリカとの交渉には成功したものの、国内での批准に失敗し、条約の発効にまで持ち込むことができなかった。
 三八六世代の台頭は、それまで親米反北朝鮮があたり前だった韓国世論を大きく変えた。三六八世代とは、1960年代に生まれ、80年代に学生生活を送った、2000年当時に30歳代の世代を指す。彼らには、韓国という国そのものへの拭い去れない疑惑があった。そこで、ナショナル・アイデンティティという争点が浮上した。
 韓国の新聞市場は、三代新聞社の寡占状態にあるので、新聞を読む限り、保守的な言説しか国民には伝われない。
 米韓FTAについて、保守派勢力が支持し、盧武鉉を支えた進歩派は勢力が反対した。盧武鉉は、彼の信念からすれば予想外だったろうが、進歩派からは背信者よばわりされた。
 盧武鉉は、低所得層にいる人々が、彼が従事している産業の低生産性ゆえに所得を得ることができないことに注目していた。所得の低い状態から抜け出すには、彼らに教育と訓練と機会を与えることが必要だと考えた。貿易自由化が福祉政策と重なれば、社会的弱者の生活の質につながると盧武鉉は考えたのだ。
 盧武鉉は、伝統的な進歩派の考えとは異なる発想のために支持者から批判を受けた。そして、不幸なことに、保守派からも支持されなかった。
金大中、盧武鉉と二代10年にわたる進歩派政権は、結果的に支持者を裏切るような経済改革を行ってしまった。福祉国家化には成功したものの、量的規模は小さく、新自由主義的な改革が進んだ。
 李明博は、強いリーダーシップを発揮することができなかった。彼は、大衆からも政治家からも任期のある大統領ではなかった。
 李明博は、進歩派の反対で挫折を余儀なくされた。大統領選挙と国会議員選挙で敗北したものの、進歩派は衰えてはいなかった。
 韓国政治の矛盾とダイナミズムを、生き生きと分析している画期的な名著だと思いました。
(2014年4月刊。840円+税)

順伊おばさん

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  玄 基榮 、 出版  新幹社
 「スニおばさん」と読みます。1948年済州島四・三事件を取りあげた小説です。
 「順伊ねえさんは、ほんとはその昔に死んだ人だ。畑を取りまいてからに、それこそ雷みたいに銃を撃ちまくったんだけども、順伊ねえさんだけは擦り傷ひとつ負わんでな、ほんとに不思議だった」
 「どうも、射撃の直前に気絶して倒れてしもうたようなんだ。気がついてみたら、自分の身体の上に死んだ人間が何人も折り重なっていたという」
 「その畑で死んだ人たちが、ぐにゃぐにゃに腐って、肥やしになって、それであくる年の芋はすごい豊作じゃった」
 夜は部落出身の共匪たちがあらわれて、入山しない者は反動だと竹槍で突き殺し、昼は巡警たちが幌付きのトラックでやって来て、「逃避者」の検束をするものだから、結局、村の若者たちは昼も夜も身を隠して過ごすしかない立場だった。
 大部分の男たちは村にそのまま踏みとどまっていたが、暴徒に追われ、軍警に追われて右往左往しながら、結局は、なすすべもなく、ハルラ山麓の牧場へあがっていき、川のそばの洞窟内に非難した。済州島は、もともと火山地帯なので、至るところに洞窟があり、暴徒と軍警の板挟みになった良民たちが、人知れずに身を隠すのには誂え向きだった。
 西北青年出身の巡警たちは、子どもたちに洋菓子を与え、父や兄の隠れ場所を教えてほしいと騙した。無邪気な子どもたちは、竹ヤブのなかや家の床下、馬小屋やわら積みの下を掘った穴に隠れている自分の父や兄を指さして教えた。
 暴徒も恐ろしく、軍警も恐ろしくて山へ避難した良民を、軍警は暴徒と見なした。
 入山者の家族まで釈放されたという噂が広がると、若者たちが続々と下山してきた。彼らは下山すると、いっていの帰順手続を踏んでから、宣撫工作隊に編入されて討伐隊の協力者となった。
 ときには、幹部級の入山者の切り取られた頭が名札をつけて展示されもした。
 朝鮮戦争が始まり、海兵隊が募集されると、帰順者たちは一人残らず入隊を志願した。アカの汚名を拭うことのできる絶好の機会だった。
 鬼神を捕まえる海兵隊として勇名をとどろかせた草創期の海兵隊は済州島出身の青年3万人を主軸にして成立した。
 以北の人間たちにやられたことを以北の人間たちに仕返してやるという感情が認められた。済州島の青年たちが6.25動乱のときに見せた戦史に輝く勇猛さは、一時、軍警側で島の住民といえば無条件に左翼視し、その獰猛なアカ狩りの対象にした単細胞的な思考方法が、どれだけ重大な誤解を犯したかを反証している。
 済州島四・三事件を一般住民の置かれた状況から考え直させてくれる本です。
(2014年4月刊。1600円+税)

済州島四・三事件(第2巻)

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  済民日報四・三事件取材班 、 出版  新幹社
 1948年に韓国の済州島で起きた事件を詳しく追跡した本です。
 1948年は私の生まれた年です。朝鮮戦争が始まったのは1950年6月のこと。その前夜の殺伐とした韓国内の状況が詳しく描かれています。
 1948年4月3日の早朝から、左翼武装隊が済州島内の11の警察署(支署)を一斉に襲った。このとき、武装隊の武器は九九式銃一挺の他は棍棒など、貧弱だった。
 この襲撃は北朝鮮がそそのかしたとか、南朝鮮労働党(南労党)中央の指令によるというものではなかった。四・三蜂起は、むしろ南労党の戦略的立場からは不都合なものだった。
米軍政検察総長は、官公吏の腐敗、警察の苛酷行為、西青(反共青年団)の蛮行などによってたまった膿(うみ)を左翼系が針でつついて噴出させたのが、済州島自体の真相だとした。別の検察官も、今回の事件の導火線は共産党系列の策動にあったとしても、その原因は警察官の済州島民に対する誤った行為にあると断言した。
 戦後の韓国警察の幹部は、戦前の親日警察官が主流であり、冷戦下の反共イデオロギーによって過去の薄汚れた経歴を覆い隠すことができるだけでなく、「新たな愛国者」に変身する道が開けたことから、それにしがみつき、あらゆることを反共の旗幟(きし)を高く掲げて処理しようとした。
 武装隊の武器は全体で小銃30挺ほどでしかなかった。それに対して、討伐軍警は米軍から常に新式の武器を供給されていた。
武装隊は、主力部隊が500人、同調加担者が1000人から3000人。しかし、四・三事件で殺害された済州島民は3万人以上。ゲリラと関係ない島民は「アカ」「暴徒」として殺されただけでなく、その遺族までが「アカ」の烙印を押され、連座制の鎖につながれて、言語を絶する苦しみをなめた。
 四・三蜂起の直接的な名分は「単独選挙・単独政府反対」だった。これについては、南労党などの左派勢力だけでなく、右派陣営まで同調・加勢していた。
 警察と警備隊(軍隊)は反目しあっていた。警備隊は、四・三事件の当時、第三者的立場に立っていた。それというのも、警察の苛酷な島民弾圧に対して不満をもって警備隊に入隊した済州島出身兵士が少なくなかったから。
 第九連隊の連隊長であった金益烈中佐(当時27歳)は、武装隊責任者の金達三(当時25歳)と4月28日、国民学校の校長室で会談をもった。そして、一応の和平協商が成立した。ところが、5月1日、放火事件が発生した。これは、警察の後援による西青・大青などの右翼青年団体によるものだった。
 4.28平和協商の翌日(4月29日)、米軍政長官ディーン少将が突然、済州島を事前連絡もなく非公式に視察した。
 4.28平和協商は「共産暴動」と言い、「早期鎮圧」を豪語していた警察幹部の面目を丸つぶれにするものだった。そして、ついに、ディーン少将の前で、警察幹部と連隊長が殴り合う自体となった。5月5日のことである。
 金連隊長を指さし、「そこに共産主義青年がいる」と趙炳玉警務部長が言った。金連隊長は「黙れ」と叫び、壇に駆け上り、襲いかかった。腹を殴りつけ、胸倉をつかんで警務部長を背負い投げで投げ飛ばそうとした。
 金連隊長は、翌日、解任された。これで、金連隊長の推進していた和平政策は頓挫した。
ディーン将軍は、金連隊長の後任となった朴珍景中佐に焦土作戦を命令した。これこそ、金連隊長と軍政長官マンスフィールドが反対してきた作戦だった。
 朴珍景は、済州島に赴任して1ヵ月後に討伐作戦の功労を認められて大佐へ特急昇進した。しかし、結局、部下たちに暗殺された。
 済州島四・三事件の殺戮作戦の過程で、それに反対して和平交渉を進めていた現地軍の連隊長がアメリカ軍のトップの面前で警察幹部と殴り合いまでしたというのは驚きでした。そして、アメリカ軍当局は和平派をおろして強硬派に鎮圧作戦を命じたというのです。四・三事件について、アメリカ軍の責任は重大だと痛感しました。
(1995年4月刊。4000円+税)
 夕食にマッシュド・ポテトを食べました。もちろん、素材は日曜日に我が家の庭で掘り上げたジャガイモです。牛乳ではなく、豆乳をつかったのですが、ツヤツヤして、のどごしも良く、本当に美味しく、やや小ぶりのジャガイモ6個からなるマッシュド・ポテトを全部たいらげて家人からとがめられてしまうほどでした。
 もちろん、完全無農薬の自家栽培ですから絶対安心です。地産地消の極みです。
 これこそ、田舎に棲む人間の究極のぜいたくです。

植民地朝鮮と日本

カテゴリー:朝鮮・韓国

著者  趙 景達 、 出版  岩波新書
 1910年8月、韓国併合条約が調印され、大韓帝国は滅亡し、日本帝国の一部となった。
 首都の漢城府が京城府と改められた。
 韓国統監が初代の朝鮮監督に就任した。総督は陸海軍大将から選任された。
 天皇に直隷する総督は、実際にも総理大臣の指揮を受けなかった。その地位は、各省大臣と同格のはずだったが、実は総理大臣と同格とも言える政治的地位にあった。
 朝鮮総督は、軍事はもとより司法・行政・立法の三権を掌握し、天皇直属のもと小天皇ごとき存在として朝鮮に君臨した。憲法上においても、朝鮮は、それを施行しない異邦域のごとく見なされた。
 朝鮮総督の政治的地位は、内閣の監督下に置かれた台湾総督とは異なるものだった。
 総督府は、1907年に竣工した、南山麓の倭城台にたつ総督府庁舎をそのまま庁舎とした。
 1912年3月、総督府は朝鮮笞刑令を交付した。犯罪即決令によって笞刑に処された数は、総刑罰の5割近くを占めた。日本人には、当然のことながら適用されなかった。
 同じく、1912年3月の朝鮮刑事令では、判事が証拠を示さずに判決を言い渡すことができた。これによって、政治犯を恣意的に裁くことができた。
 朝鮮には、日本国籍法が適用されなかった。これは、台湾や樺太とは違っている。朝鮮人から国籍離脱の権利を奪い、第三国への帰化を認めなかった。
 帝国憲法が施行されなかったため、朝鮮半島にいる朝鮮人、そして日本人にも参政権が認められなかった。
 総督府の諮問機関として中枢院があったが、会議が開かれない時期もあり、議長は政務総監だった。
 1919年1月、高宗皇帝が亡くなった。高宗の国葬にあわせて、朝鮮独立運動の示威行動が企画された。それは、当初、3月3日を予定した。
 3月1日、パコダ公園には数十万人の市民が集まり、独立万歳を高唱した。
 当時、京城の人口は25万人ほどだったが、3月3日には、全国から50万人が京城に結集した。
 この3.1運動のなかで、16歳の女子学生、柳寛順が逮捕され、獄死した。
 3.1運動は、アメリカのウィルソン大統領が揚げた民族自決主義への期待を契機として展開された。しかし、アメリカ国務省は正式に朝鮮独立の要求を退けた。
 3.1運動に理解を示したのは、日本の大正デモクラシーの中心人物であった吉野作造だった。このころ、日本の社会主義者は大逆事件(1910年)のあと、「冬の時代」にあった。
 独立派の一部は日本支配層へテロ行為に走りました。
 1932年1月、桜田門外で天皇暗殺未遂事件が起こり、同年4月には上海で白川・陸軍大将が爆殺され、日本公使も重傷を負った。
 1925年12月、新しい総督府庁舎が景福宮の前に竣工した。光化門は移築された。
 939年11月、朝鮮民事令が交付され、創氏改名が決められた。創氏は義務(強制)であり、改名は「任意」とされた。それでも、20%の朝鮮人は創氏しなかった。
朝鮮人の労働動員は計画では86万人だったが、実際には70万人以下だった。
朝鮮人慰安婦は、数万人と考えられている。戦地で「性奴隷」とされた。
 日本帝国が支配していた植民地朝鮮の実情の一端を知ることのできる貴重な通史です。
(2013年12月刊。820円+税)

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