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カテゴリー: 日本史(鎌倉)

日本史のなぞ

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者  大澤 真幸 、 出版  朝日新書
 著者は日本の歴史上ただ一人の革命家は、信長でもなければ龍馬でもなく、北条泰時だと主張しています。
日本社会の歴史のなかで、天皇や朝廷に全面的に反抗して、なお成功したものは承久の乱のときの北条泰時のみ。それ以外には一人もいない。
そもそも、天皇に真っ向から完全に対決した者は非常に少ない。
承久の乱のあと、鎌倉幕府は、ときの仲恭天皇を廃し、三人いた上皇を、隠岐、佐渡そして土佐に流した(流罪)。非皇室関係から皇室関係者が一方的に断罪されたのは、これが初めてで、その後もない。
承久の乱(1221年)のとき、鎌倉幕府が執権北条得宗家を中心にしてまとまったのは、承久の乱を戦うことを通じてだった。この戦いのなかで武士たちは連帯した。鎌倉幕府は、京都からの軍を鎌倉で迎撃するのではなくて、積極的な攻撃に出た。
北条泰時は、地方の武士を連合させて中央の政争に介入して皇室軍に勝利した。
そして、日本列島全域に及ぶ権力を獲得し、独自の法(御成敗式目)を公布した。これによって「武者の世」が本格的に始まり、明治時代の幕開けまで続いた。泰時のなし遂げた革命とは、このことである。
北条泰時は、執権として関東御成敗式目(ごせいばいしきもく)を定めた。この法では裁判の公正性がもっとも重要だった。この御成敗式目は、中国の法律を受け継いだというものではなく、日本史上初めての体系的な固有法である。
北条泰時は、日本社会の歴史のなかで唯一の成功した革命家である。北条泰時は日本社会に初めて体系的な固有法をもたらし、この法は広く深く日本人の生活に浸透し、定着した。
北条泰時は、院宣に反して幕府軍を率いて天皇軍を打ち負かした。そして、天皇の一陪臣の身でありながら、三人の上皇を配流した。だから天皇制支持者から罵詈雑言をあびせられても不思議ではない。ところが、逆に天皇を熱烈に支持する学者からも激賞されている。
なるほど、こういう見方も出来るんだと、驚嘆しました。
(2017年1月刊。720円+税)

南朝研究の最前線

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 呉座 勇一 、 出版  洋泉社歴史新書y
日本に二つの朝廷が併存していた時期が60年近くも続いたことがありました。鎌倉時代末期の南北朝時代です。後醍醐天皇が吉野に南朝を樹立したのが始まりです。
戦前は、この南朝が正統とされ、楠木正成や新田義貞が忠臣で、足利尊氏は逆賊とされていた。戦後になって、それが逆転してしまった。楠木正成は、むしろ「悪党」とされた。
この本は、最新の研究成果をふまえて、従来の通説をいくつもの点で覆しています。
後醍醐政権(南朝)には、旧幕府の武家官僚が多く参加し、その政権が崩壊すると、次に室町幕府に活躍の場を求めた。したがって、鎌倉幕府~建武政権~室町幕府のあいだには、スタッフの連続性が認められる。後醍醐天皇の人事は、良く言えば堅実、悪く言えば平凡なものだった。
朝廷の政治は、政権を担当する院・天皇と評定衆(議定衆)とが協力して進められていた。政権を勝ちとるために有効な方法と考えられていたのが訴訟制度の充実だった。
訴訟を扱う記録所に訴訟当事者が口頭弁論をする「庭中(ていちゅう)」と呼ばれる法廷を設けた。さらには、院への取り次ぎ役である伝奏(でんそう)を訴訟処理の中枢に起用することで、より早く裁許が出せるよう改善した。
どの政権も、徳政に取り組んでいることをアピールするため、訴訟制度の整備に心血を注いでいた。
日本人は昔から裁判を嫌っていたという俗説が一般化していますが、弁護士を40年以上している私は、決してそんなことはないと日々、実感しています。むしろ、日本人は、文章を書けることがあたりまえだったので、昔から裁判で決着をつけようと考えている人のほうが多かったのです。
鎌倉時代の後期、荘園社会の動揺などから、朝廷に持ち込まれる訴訟が増えていて、それを裁決する治天の君が果たす役割が大きくなっていた。
朝廷の公家たちにとって、多くの先例をうち破った後醍醐の斬新で意欲的な政治姿勢など、狂気の政道にすぎなかった。
天皇は、記録神話によると、最高の祭祀者として神聖視される存在であった。そのため、天皇は、退位して上皇になることで初めて、仏教に積極的に関わることが認められた。
南北朝の対立・抗争事件の実情をよく知ることのできる意欲的な新書です。
(2016年7月刊。1000円+税)

忍性

カテゴリー:日本史(鎌倉)

(霧山昴)
著者 松尾 剛次 、 出版  ミネルヴァ書房
鎌倉時代に、ハンセン病患者に挺身していた高僧がいたのですね。ちっとも知りませんでした。良観房忍性(にんしょう)という僧です。ハンセン病患者の患部に自ら薬を付けるなど、直接的な看護を目指していたというのです。すごいですね。
忍性たちの教団はその時代に10万人近くの信者を獲得し、1500の末寺を保有していた。鎌倉時代、最大の信者数を誇る新興教団だった。その規模は、当時の日本で最大の人口を有していた平安京が12万人ほどと推測されていることからも想像できる。
忍性の生きた時代、すなわち13世紀の後期・末期から14世紀初頭の鎌倉時代は、日蓮や一遍といった鎌倉新仏教僧が活躍した時代であり、また蒙古襲来という未曾有の危機に見舞われた時代でもあった。
忍性は、奈良や鎌倉で精力的にハンセン病患者の救済活動をすすめた。
当時、ハンセン病患者は、人間に非ざる存在(非人)とされ、筆舌に尽くしがたい差別を受けた。前世あるいは現世における悪業によって仏罰を受けた存在だと認識されていた。それは、ハンセン病患者の救済に従事した叡尊らも例外ではなかった。
ハンセン病患者たちは、もっとけがれた存在だと考えられていて、非人と呼ばれ、人々との交際も拒否されていた。そうした彼らに忍性らは救済の手をさしのべた。こうした慈善救済事業と戒律護持の態度などから、忍性は北条時頼、重時、実時ら鎌倉幕府の幕閣たちの尊敬をも集めた。
当時、僧侶の妻帯は一般化していたし、僧兵という、僧侶でありながら武芸を誇る者が多数いた。忍性は戒律を重視し、その護持を誓い、他者にもその護持を求める律僧であるとともに、密教僧でもあった。このころ僧侶の破戒は一般的だった。戒律復興を叫び、戒律護持を勧めた叡尊、忍性らが注目されたこと自体が、そのことを逆説的に証明している。
中世において、僧侶には、官僧と遁世僧という二つのタイプがあった。叡尊らは、不治の病とされたハンセン病患者救済をはじめ、橋・港湾の整備、寺社の修造、尼寺の創出など、さまざまな社会救済事業を行った。その結果、叡尊の教団は、10万をこえる信者を擁する鎌倉時代最大の仏教勢力の一つとなった。
叡尊や忍性らは行基の活動をモデルとしていた。彼らは行基信仰をもっていた。
忍性をライバル視し、激しく批判したのが日蓮だった。忍性と日蓮は、宿敵と思えるほど激しく対立した。その背景には、都市鎌倉での信者をめぐる獲得競争があった。
忍性は、1303年(嘉元元年)7月12日に87歳で亡くなった。
鎌倉時代の社会の実相を再認識させられる本でした。
長年の友人である裁判官からすすめられて読みました。いい本をすすめていただき、ありがとうございました。
(2004年11月刊。2400円+税)

蒙古襲来

カテゴリー:日本史(鎌倉)

                                 (霧山昴)
著者  服部 英雄 、 出版  山川出版社
 蒙古襲来絵詞は有名です。残念ながら、私はその実物を拝見していません。竹崎李長は九州は熊本の武士です。この蒙古合戦での自分の活躍ぶりを絵にして鎌倉まで出かけて褒賞を得ようとしたのです。ですから、この蒙古襲来絵詞も、竹崎李長のコマーシャル、ペーパー(宣伝物)として、いくらか割引いて考える必要があります。それにしても、よく描けていますよね。合戦から10年たって、専門の絵師に書かせたのです。
 もちろん、頼まれた絵師たちが合戦の現場にいたわけはなく、その状況を見てもいません。竹崎李長の注文どおりに、それまでの絵と実物をもとに想像して再現図を描いていったのでしょう。
 竹崎李長の出身は、菊池川の河口にある玉名郡竹崎であって、益城郡竹崎ではない。蒙古軍(東路の高麗軍)は、志賀島を基地・陣営とし、博多湾岸に夜襲を繰り返した。さらには、長門(下関)へ上陸する部隊もいた。そして、遅れて西方に新規の江南軍(旧南宋軍)があらわれ、鷹島に碇泊して、博多湾へ出撃した。当時の軍事行動は、夜戦が多かった。
 7月1日の「神風」は、蒙古軍だけでなく、日本側の船にも多大の被害を与えた。この台風より前に、日本軍の将兵は疲労の限界にあった。しかし、7月5日、志賀島の海上戦に日本軍は勝ち、7月7日にも鷹島で勝利し、蒙古側は敗れた。捕虜は御家人に預けられ、戦後になって高麗は捕虜を厚遇したことについて感謝する国書を日本へ送ってきた。
 蒙古襲来は、近代以前に日本が経験した国内において戦われた最大規模の外国戦争である。当時、中国(宋)は、世界で最高最新の科学の国だった。元のフビライ皇帝は、日本の硫黄以外にも金や米、水銀、真珠、材木などに関心を寄せていて、交易を積極的に推進し、外交も求めたが、鎌倉幕府が反抗する以上は、武力制圧が不可欠だと考えていた。
日本の地方に「トウボウ」とあるのは、チャイナタウンたる唐房・唐坊のことであり、古代中世の日本には、いくつもあった。これまで、九州に14ケ所・山口県に7ケ所ほどの「トウボウ」地名が分かっている。
 この当時は、日本の通貨は宋銭(中国銭)だった。日本は独自の銭貨をつくらずに、中国の銭貨を用いた。
 蒙古軍(高麗軍)は、大宰府の陥落を目標とし、7日間ほど合戦を続けたが、7月1日に「嵐」があり、それを契機として7月末、北風が弱まったあいだに撤退し、帰国した。
 蒙古襲来が撃退されたのは、台風が来たこともあるが、御家人たちが必死の抵抗をしたことによる。蒙古軍は台風によって全滅したのではない。全軍を率いる司令官が早々に日本へ引き揚げたことは大きい。また、日本軍が置ち、負けた蒙古軍をなで切りにしたものでもないだろう。
 『八幡愚童訓』は創作であり、これを史学に使ってはならない。
蒙古襲来絵詞で使われた絵具は部外秘のものである。
馬については、1日に15リットルの水を飲ませて、家分を落ち着かせた。対馬について、高麗や朝鮮は両属域・無境界を認識しながら、意思疎通ができることが必要だった。
 蒙古襲来絵詞の高い評価をもつ所以をしっかり認識することができました。今から700年以上も前の話しではありますが、貴重な体験をした日本は、以降は力に頼る政治がずっと続いていきます。とても残念です。
 
(2014年12月刊。2400円+税)

蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡

カテゴリー:日本史(鎌倉)

著者  湯浅 治久 、 出版  吉川弘文館
ムクリ、コクリという言葉が、私の脳裡にかすかな記憶として残っています。恐ろしいものという意味です。つまり、ムクリ、コクリに襲われたら大変だということです。
 ムクリとは、モンゴル(蒙古)、コクリとは(高麗)。つまり、蒙古襲来の悪夢が現代日本人にも微かに伝わっていたということです。
 この本を読んで、西方の中国そして朝鮮半島から中国・モンゴル軍が来襲してきたとき、実は北方からも日本を襲う動きがあったことを知りました。
 蒙古は、同じころサハリンのアイヌを改め、20年後に元が再びサハリンのアイヌを攻撃した。蒙古からの攻撃がアイヌの反乱と連動していた可能性は高い。
 鎌倉幕府は、弘安の蒙古合戦に大勝したことで気を良くして、高麗派兵を企図した。そして、元のフビライは、日本遠征をあきらめず、戦艦の建造をすすめた。フビライが永仁2年(1294年)に死ぬまで、蒙古襲来の危険は続いていた。
 フビライが高麗や日本への軍事行動を始めたのも、実は南宋を孤立させるための布石であった。
 文永11年(1274年)10月、第一次蒙古合戦が始まった。来襲した兵員は、蒙古軍と高麗軍を併せて3万余人。兵船は900艘に達した。
 10月20日、蒙古軍は、百道原や今津から上陸して、日本の武士と激戦を繰り広げた。蒙古軍は、この日、筥崎宮を焼き払った。そして、混成軍の統制がとれず、思わぬ日本武士の抵抗に気後れした蒙古軍が撤退する途中に暴風に遭遇した。合浦に帰還した蒙古軍は1万3000人あまりを失っていた。
 この合戦の状況が有名な「蒙古襲来絵詞」に描かれている。
 弘安4年(1281年)、蒙古人・漢軍・高麗軍の計4万人が日本に襲来した。別に江南軍は10万人、船舶3500艘。しかも、江南軍は、鋤・鍬を所持し、日本へ移住して、大地と人民を支配することをもくろんでいた。
 この14万人の集団が平戸近くの鹿島になぜか1ヵ月も滞留していたとき、折からの台風によって壊滅的な打撃を受けた。
 蒙古との合戦直後、北条時宗が34歳で急死した。
鎌倉幕府の内部状況は目まぐるしく変遷していきます。人臭いドラマの連続です。
(2012年11月刊。2800円+税)

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