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カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸の岡場所

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 憲司 、 出版 星海社新書
 幕府に公認された吉原とは違って、江戸市中に60ヶ所以上もあった「岡場所」は、その始まりから終わりまで、非公認の売買春地域だった。
 盛り場、寺社の門前、宿場の至るところに岡場所は根を張っていて、その風俗や流行は江戸市民に吉原以上の甚大な影響を与えた。岡場所ナンバーワンの深川は、吉原の2倍の売上金を計上していた。
 岡場所は、庶民とりわけ町人階級の法に背(そむ)く自立的覚悟の上に成り立っていた。
 吉原を遊里文化のメインカルチャーだとすると、岡場所はサブカルチャーだった。
 明治以前、江戸時代まで、公娼・私娼という言い方は使われていない。
「岡場所」というコトバは平賀源内も使っている(1763年)ので、18世紀中ころ、非公認の遊里として世間一般の人々から認知されたということと考えられる。
 初め、岡場所は黙認されるだけの時期があった。次に、岡場所禁圧の時代が到来した。江戸時代、遊女町を城下町に置くのは、多くの地域で禁止されていた。
多くの日本人女性がキリシタン商人によって奴隷として海外に流出していった。キリシタン貿易は、人身売買をしていたという疑いがある。
年季(ねんき)によって、郭(かく)の中に女性たちを閉じ込めたのだった。それは中国の遊郭にも前例がないもの。
 初期の岡場所の主役は「湯女(ゆな)」と呼ばれた。湯女を抱えた風呂屋は、昼夜の営業だった。まるで、現代日本のコンビニですね…。
 遊女の細見(カタログ)には15歳から18歳が多いけれど、なかには12歳の例もある。最高齢は42歳だった。
 岡場所では、年季・外出も自由だった。岡場所は宝暦(1751~1764年)の時代に最盛期を迎えた。品川宿全体で500人もの飯盛女が幕府の公認を得た。
 吉原では客のほうから遊女屋に出かけ、深川では、芸者や遊女を料理屋に呼んだ。遊女は、吉原に2000人、深川には600~700人いた。
 
 品川の客には、「侍」のように「にんべん」のある「侍」と、人偏のない寺が多かった。品川の貸座敷というのは、名を変えた遊郭のこと。
京都で辻君、大阪で惣嫁(そうか)、江戸は夜鷹と呼んだ。また、江戸では夜発(やはつ)とも言った。夜鷹は、独立的流れ仕事の売春ではなく、組織に組み込まれた売買営業だった。
 吉原が凋落の一途をたどったのは享保期から。
 慶応3(1867)年、吉原の売上金額は8万8両。深川は、その2倍の15万両もあった。岡場所の代表・深川のほうが吉原を完全に凌駕(りょうが)した。
 江戸時代の貴重な一断面を知ることができました。
(2023年3月刊。1400円+税)

江戸の絵本読解マニュアル

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 叢の会 、 出版 文学通信
 江戸時代については、それなりに知っているつもりでしたが、草双子(くさぞうし)は聞いたことがあるくらいで、詳しいことは知りませんでした。この本によって、草双子の魅力をたっぷり味わうことができました。
 京都・大坂の上方(かみがた)を追いかけ、文化を発展させてきた江戸は、上方とは異なる独自の性格をもつ「絵本」をつくり出した。それが草双子。
 草双子は版本(はんぽん)。1枚の桜の木の板に文字と絵を掘りつけた版木(はんぎ)を使って刷り、製本する。作者が文章を書き、画工が絵を書き、それを彫師が板に彫って版木をつくる。その版木に墨を付けて和紙に刷るのが刷師。刷り上がった紙を半分に折って丁合を取り、表紙と裏表紙を付けて和綴じ、袋綴じをする。こうした一連の作業をプロデュースしているのが版元。
 江戸時代前期には、近世文学の仮名草紙と浮世双子が絵入り本、上方絵本と武者絵本は全ページに絵が入る絵草紙として出版された。少し遅れて江戸時代の中期初めころ、江戸で草双子が出版されはじめた。
 赤小本、赤本、墨本、青本と、表紙の色で区別されて呼ばれている。やがて安永期に黄表紙群が登場し、草双子は転換期を迎えた。
 たとえば「桃太郎」の話。江戸時代にもよく知られた昔話だった。そして草双子では、桃太郎のライバルとして柿太郎を登場させ、両者は鬼退治を競う。柿太郎のほうが一足先に鬼退治に向かうが、鬼にやっつけられてその子分となり、やってきた桃太郎と戦う。桃太郎にはかなわず、桃太郎が鬼を退治すると、柿太郎は桃太郎の家来になった。
 草双紙では、登場人物が誰なのか、顔立ちや着物の紋様で描き分けるか、袖や着物の裾に文字を書き込んで人物を示す手法も多用される。これは分かりやすいですよね。
 江戸中期、初期の草双紙に登場する化物(ばけもの)たちは、子どもから大人まで親しみやすい存在、「愛されキャラ」の化物だった。
 普段から身の回りで使用している器物に手足をつけ、顔を描いたりもしている。化物を擬人化して、当時の風習や流行を取り入れ、紹介している。続く黄表紙の時代では、化物の世界を面白おかしく想像し、ユーモアたっぷりの笑いのタネとして、化物のパロディーが描かれた。
 坂田金平(きんぴら)や鎌田又八は、当時の歌舞伎でも演じられる人気の勇者であり、こうした人気ヒーローが巨大な化物を退治していく話が草双紙で人気を呼んだ。これは最近の「鬼滅の刃」と同じようなものだ。
 草双紙には、読者の旅行への「お出かけ心」をくすぐる仕掛けがしつらえられているものが少なくなかった。日本人は昔から旅行が大好きなんですよね…。
 江戸時代は、人々が古典文学に出会い、求めた時代だった。それまで貴族や学者など、一部の人々のあいだで書き写され伝えられてきた作品が、出版文化が花開いたことから、広く人々が手に取れるようになった。
 『源氏物語』は、その代表作であり、リメイクやパロディーものなど、二次創作も盛んで、原作同様に楽しまれた。福岡の小林洋二弁護士も『源氏物語』オタクのようです。
 中国の『三国志』も江戸で大人気の作品でした。
 江戸時代の人々の豊かな活字文化の一端を知ることができました。
(2023年4月刊。2100円+税)

江戸の実用書

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 近衛 典子 ・ 福田 安典 ・ 宮本 裕規子 、 出版 ペリカン社
 江戸時代は寺子屋が繁盛していたことで知られるように識字率はとても高かった。なので、人々はたくさんの本を読んでいた(買う人より借りて読む人のほうが多かった)。
江戸時代を代表する百科辞典は『和漢三才図会(さんさいずえ)』(寺島吉安、1712年)。中国の『三才図会』にならって漢文の解説文で図解されていて、105巻もある。
江戸時代の国語辞書は『節用集』といい、室町時代に成立したものが、増補されていった。日常語を「いろは」に分け、さらに部門別に言葉を配列し、用字や語義、由来を説明している。
驚くべきことに、江戸時代はパロディ本がブームだったのです。「仁勢物語」(伊勢物語)、「尤之双紙(もっとものそうし)」(枕草子)、「偽紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」(源氏物語)が有名…。
江戸時代はガーデニング(園芸)が大人気でした。なかでも朝顔は、3回もピークを迎えるほど人気を博しました。その朝顔は、変化(へんげ)朝顔を主としています。花や葉や蔓(つる)が変化したものです。今や、まったく見かけません。私も毎年、朝顔のタネを店で買ってきて、植えています(夏の日の毎朝の楽しみです)。でも、昔ながらの鮮やかな赤い朝顔が一番です。
 浮世絵にも、変化朝顔が描かれています。たとえば、1本の苗から赤色と青色の花が咲いているというものです。
 江戸時代の男子が身につけるべき教養として、読み書き学問は当然として、謡(うたい)、漢詩、和歌、連歌、俳諧、茶の湯、生け花、囲碁将棋があった。茶の湯や生け花は、江戸時代には、しかるべき家柄の男性に求められた必須の教養だった。
 江戸時代の女性が使用する文字と男性の使用する文字は異なっていた。女性は大部分が「かな」で、一部に漢字が混ざった「和文体」を用いる。男性は主に漢字による「準漢文体」を使用した。なので、往来物には女性を対象とした女子用往来物がある。
世の中には、いかに知らないことが多いものか…。呆れるほどです。
(2023年7月刊。3300円)

山本周五郎・ユーモア小説集

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 山本 周五郎 、 出版 本の泉社
 私が山本周五郎を読むようになったのは、司法試験に合格したあと、司法修習生として横浜で実務修習していたとき、仲間の修習生(石巻市の庄司捷彦氏)から勧められたからです。読みはじめて、たちまちトリコになって、たて続けに周五郎ワールドに浸りました。今でも、書庫には「ちいさこべ」「五弁の椿」「つゆのひぬま」など10冊ほどが並んでいます。なぜか「さぶ」が見あたりません。もちろん映画にもなった「赤ひげ診療譚(たん)」もあります。貧乏な病人はタダで診てやった医者の話です。
 次に、弁護士になってから藤沢周平を読みました。これもしっとり味わい深かいものがありました。山田洋二監督の映画や「たそがれ清兵衛」は良かったですよね。そして、葉室麟と続きます。
 山本周五郎の時代小説は、重厚感があり、人情の細やかなぎびんに触れて、その江戸情緒たっぷりのワールドについつい惹かれ、ひきずり込まれていきます。ところが、この本は、ユーモアをテーマとして集めたものです。ユーモアといっても、なかなか味わい深いものがあります。
 「堪忍(かんにん)袋」の話は、重苦しく始まります。乱暴者の主人公が、ともかく堪忍袋を胸中に沈め、あらゆる扱いにひたすら我慢する。ところが、ある日、水面にうつった顔は、まるで自分のものとは思えないものだった。自分が自分でなくなったのだ。それに気がついたとき、堪忍袋のひもが切れた音を聞いた。そして、それまで馬鹿にしていた男たち皆に対して、翌朝、出てくるように申し入れて歩いた。ところが、翌朝、その場所に誰も来なかった・・・。堪忍袋のひもが切れた音を聞いただなんて、よくぞ思いついたものです・・・。
 解説を読むと、これは戦前に書かれ、戦後に発表されたもの。戦前は厳しい言論統制があり、戦後もマッカーサー指令の下、自由な言論は保障されていなかった。そんな状況を踏まえて、この堪忍袋の話を読むと、どうなるか・・・。深読みできる話の展開なのです。
 「ひとごろし」は、臆病者という評判がすっかり定着している男(独身の下級武士)が、手だれの武芸者を上意討ちするのに名乗りをあげ、武芸者を追いかける。でも、尋常に勝負を挑んだら、それこそ返り討ちにあってしまうのは確実。そこで「臆病者」は考えた。武芸者の行く先々につきまとい、少し離れた、安全なところから武芸者に向かって「人殺し」と呼び続ける。すると、そのため武芸者は食事がとれず、宿をとるのも難しくなった。ついに疲労困憊した武芸者は根負けして、切腹すると言い出す。「臆病者」は、そのとき、何と答えたか・・・。
 弱いことは恥ずかしいことではない。知力を働かせれば、強敵を打ち負かすことはできる。恥ずかしいのは、それをせずに自分を大きく強く見せることばかりに腐心することだ。
 「核抑止論」とか「敵基地攻撃能力の保有必要」とかいうのが、この恥ずかしいことにぴったりあてはまります。そこにはユーモアのかけらもありません。残念です。
 お盆休みのお昼に、美味しいランチをいただきながら、読了して心豊かな気分でした。
(2023年3月刊。1300円+税)

大津絵

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 クリストフ・マルケ 、 出版 角川ソフィア文庫
 大津絵って、聞いたことがありませんでした。江戸時代の庶民に人気があった絵です。そのころ、浮世絵ほどの人気があったのに、今やすっかり忘れられてしまいました。でも、今でも滋賀県には大津絵を扱う店があるそうです。いかにも素朴な絵です。鬼まで可愛らしく描かれています。
 東海道最大の宿場であった大津、その西端の追分や大谷で旅人に対して大津絵は土産品として売られていた。
 大津絵は、神仏画、世俗画、戯画など、画題は120種以上。量産するため略画化され、型紙で彩色もされた。
 大津絵は土産品として、浮世絵と同じく手軽に買い求められ、庶民の日常生活に浸透していた。また、護符としても身近なものだった。
 大津絵は江戸時代の初期、寛永年間に始まった。大津絵の普及には、江戸時代に盛んだった伊勢参りも背景としてあげられている。
 大津絵に登場してくる鬼は悪い怪物ではなく、人間の善行に触発され、罪をあがなおうとしている。
 著者は、浮世絵ファンは世界中に多いが、同じ江戸時代の代表的な庶民絵画である大津絵について、ほとんど知られていないことを残念に思っています。カラー図版をみたら、なるほど、その思いがよく理解できます。
(2016年7月刊。1400円+税)

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