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カテゴリー: 日本史(江戸)

百姓の力

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:渡辺尚志、出版社:柏書房
 現代日本人の代表的な行動特性に、狭い人間関係のなかでの評価には非常に敏感で、過剰なほどまわりに気をつかうというものがある。会社や学校などの小さな社会のなかで、自分の本心を隠してでも周囲から浮かないことを心がけ、場の空気を読んで行動し、集団の和を重視する。ところが、その世間を一歩出ると、とたんに周囲には無頓着となる。タバコのポイ捨て、電車内での携帯電話、人前での化粧など、何とも思わなくなる。こうした日本人の行動パターンは、狭い村が世間そのものであり、そこから排除されるとたちまち生活基盤の崩壊につながった江戸時代の村人の暮らしから生まれた。このように、現代日本社会は、江戸時代の社会の延長線上にある。ふむふむ、このように言われると、なるほどと思ってしまいますね。
 江戸時代における全国の村の数は、元禄10年(1697年)に6万3000ほど。平均的な村は、人口4000人ほどだった。
 江戸時代に庶民の識字率は上昇した。明治8年(1875年)の学齢人口(6〜11歳)の就学率は男子54%、女子19%。全国の寺子屋は明治8年までに1万5500校あった。19世紀には、1軒の寺子屋に平均して男43人、女17人の子どもが在籍していた。
 村には文書を保管するための専用倉庫(郷蔵)が建てられた。半紙に一行かかれただけの短い文書であっても、千金にかえがたい貴重な価値があるとされた。
 1600年ころの日本の総人口は1500〜1600万人、耕地面積は163万5000町歩。享保6年(1721年)には人口3128万人、297町歩へ急増した。人口は2倍、耕地面積は1.8倍に増えた。人口爆発と大開発は17世紀を特徴づけるものだった。
 日本人の多くが江戸時代、古くても戦国時代までしか先祖をたどれない。これは記録がないからではなく、それ以前には、百姓の家そのものが成立していなかったことを意味する。うむむ、そういうことだったのですね。安定的な「家」なるものは、中世前にはなかったわけなのですか・・・。私も祖先のルーツを少し調べてみましたが、私の家では江戸時代にまでさかのぼるのがやっとでした。お寺の過去帳までは調べることができなかったのです。知人に100回忌を永年営んでいるという人がいます。私はそれを聞いて驚きました。古くからのお寺が存続しているから、そんなことができるのです。
 近代になる前の社会では、土地の所有権は一元化されず、一つの土地に複数の所有者がいる状態が、むしろ普通だった。百姓と武士とが、それぞれ権利の内容を異にしながら、ともに所有者として一つの土地に関係していた。領主の所有権は国家の領有権に近い性格をもっており、百姓の所持権とは位相が異なっていた。そして、注目すべきは、村も所有者として土地に関係していたということ。
 割地(わりち)とは、村が主体となって定期的に農地を割り替えること。何人かに一度、くじ引きなどによって、村人たちが所持地を交換していた。年貢負担の不平等をなくすためである。割地がなされていた村では、村人は割地から次の割地の間だけ、その土地の耕作権を保障されていた。村の耕地は、全体として、村の管理下にあった。
 土地を質入れして、流れてしまっても、元金を返済しさえすれば、何年たとうと戻せるという慣行が広く存在していた。無年季的質地請戻し慣行だ。これは村の掟だった。村の土地は村のものであり、個々の百姓の土地所有権は村によって管理・規制されていたという事情がある。
 そして、村人は村を出ていくときには、その所有地を無償で村に返した。その所持地は、村に住み、村の一員として耕作に従事し、領主に年貢などをきちんと納めている限りにおいて、その所有と認められていたのである。村の成員の資格を失ったら、土地を自由に処分することはできないものであった。そういうことなのですか、知りませんでした。
 零細錯圃制(れいさいさくほせい)という言葉を初めて知りました。個々の百姓の所持地は、屋敷地の周囲など1ヶ所に固まっていることは少なく、村内のあちこちに少しずつ分散しているのが一般的だった。自然災害などの危険を分散できる利点があった。なーるほど、ですね。江戸時代、子どもは村の未来を担う宝であり、その成長には村も責任を負っていた。子どもは「家の子」として育てられると同時に、「村の子」としても育てられるべき存在だった。
 江戸時代には、「7歳までは神のうち」という言葉があった。乳幼児の死亡率が高かったということです。
 7歳をすぎた子どもは「子供組」という集団をつくった。15歳になったら一人前の村人と認められ、男は「若者組」、女は「娘組」に属し、集団の規律を学んだ。
 若者たちは、村役人の監督下に、青年にふさわしい役割を果たしつつ、村のルールを身につけていた。若者組も娘組も、村のなかの一組織であり、村の教育機関としての役割をもっていた。
 現代日本人は訴訟を敬遠しがちだが、江戸時代の百姓は頻繁に訴訟を起こしていた。江戸時代は健訴社会だった。19世紀になると、百姓たちの訴訟技術は向上し、百姓のなかに公事師的存在が増えた。ときに、偽の証拠や証言まででっち上げた。百姓は一面において、したたかで狡猾だった。
 いやあ、これってまさに現代日本人そのものではありませんか。まこと、江戸時代の日本人は今の日本人と変わらない存在なのですね。
(2008年5月刊。2200円+税)

江戸の高利貸

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:北原 進、出版社:吉川弘文館
 1985年に『江戸の札差』として出版されたものが復刊されたものです。したがって、江戸時代の札差の実態が主要なテーマです。
 札差というのは、旗本に代わって、切米手形(札)を差し、俸禄米を受領して、ついでに米問屋に売却するまでの面倒な手間一切を請け負った商人のこと。その前身は蔵前の米問屋であった者が多く、米問屋との関係は深い。
 札差は蔵米支給日が近づくと、得意先の旗本・御家人の屋敷をまわって、それぞれの手形を預かっておき、御蔵から米が渡されると、当日の米相場で現金化し、手数料を差し引いて、現金を各屋敷に届けてやる。札差が旗本に蔵米を担保として金融するときの利子率は年利25%とか20%であった。
 大岡越前守忠相によって、109人の札差仲間が公許された。8代将軍徳川吉宗の享保改革が進行中のときである。このとき利率は15%から18%となった。しかし、この公定された利子率と蔵米受領・販売の手数料のほかに、札差がもうけの大きな拠りどころとしたものがあった。
 奥印金(おくいんきん)。これは、架空の名前の金主をつくり、自分が金元の仲立ちをしてやり、保証印まで押してやったことを恩に着せて、札金をとる。これは、通常、貸金額の1割だった。そして、証文を書き替えるときに、1ヶ月ぶんの利子を2重に取るのである。これを月踊りという。
 札差が直に蔵米を受取ることを直差(じきさし)とか直取(じきとり)という。
 そこに、わずかな手数料をとって直取の世話をする浪人者などが寄生した。直差の世話人には、多くの浪人ややくざのような不良が、小遣稼ぎにおこなっていたらしい。
 旗本は、腕の立つ浪人とかやくざ者を、一時的に家来として雇い、これを札差の家にさし向けて強引に金を借り出そうとする。この札差ゆすり専門家を、蔵宿師(くらやどし)または単に宿師と称した。
 札差は、腕っぷしの強い、いさみ肌の若者をやとって蔵宿師に対抗させる。これを対談方(たいだんかた)という。対談方の年間給与は、支配人の一段下か同じ程度に遇されていた。対談方は、弁舌さわやかに相手を丸めこみ、かんじんなときには商人らしい物腰など二の次にして、大立ち廻りを演じなければならなかった。つまり、旗本や御家人は蔵宿師を使って無理談判を試み、札差は対談方にその対応をさせたというわけです。
 札差の繁栄は宝暦から天明(1751〜88年)に頂点に達し、派手な消費生活を旗本や御家人に誇示した。すると、幕府は札差株仲間に対する取り締まりを強化した。
 当時、江戸には18人の代表的な通人といわれる者がいた。称して、「十八大通(だいつう)」という。そのほとんどを浅草蔵前の札差が占めていた。
 将軍徳川家治の治下、宝暦10年(1760年)から天明6年(1786年)までの26年間に、不良旗本と御家人の処罰が76件あった。1年に平均して3件である。たとえば、自分の居宅でいつも博奕(ばくち)をしていた者もいた。
 天明6年に大凶作となり、江戸で打ちこわしが始まった。それに参加した困窮民は24組5000人もいたが、非常に規律があり、火の元に用心し、目的の家のみを打ちこわして隣家に及ばぬようにし、米や雑穀を引きちらかしても、誰一人盗もうとしなかった。「誠に丁寧、礼儀正しく狼藉」したという記録が残っている。
 金銀貸借の相対済し令(あいたいすましれい)とは、返済が滞っている借金について、貸借の当事者が話し合いで返済法などを決めるのを原則とし、たとえ紛争が起きても、訴訟を受けつけないとするもの。武士を相手とする町人の経験的事実は、相対済しが債権者の立場を不利にしたことは間違いない。
 松平定信の寛政の改革のとき棄捐令(きえんれい)が出された。これは、6年前までの貸付金は新古の区別なく、すべて帳消しとする。5年以内の分は、利子をそれまでの3分の1に下げて永年賦とするというもの。まさに借金の棒引きである。
 この棄捐令は札差に大打撃を与えた。その結果、旗本・御家人に対する締め貸しとなって返ってくる。要するに、旗本・御家人は札差から借金できないわけである。
 ところが、札差は、これによって息の根をとめられたわけではなく、幕末・明治維新期まで、旗本・御家人の俸禄制度が存続しているあいだは、しぶとく生き続けた。
 水野忠邦の天保改革のとき、札差は半数以上が閉店した。旗本・御家人は金策の相手を半分以上も失ってしまったわけである。困ったのは、札差からの借金なしには一日も暮らしていけない旗本・御家人たちであった。幕府はあわてて札差に2万両の資金貸下げをしたが、札差は容易に乗らなかった。
 武士に対する金貸し(札差)の実情を知ることができました。江戸時代にも激しい借金取りがあっていたようです。なんだか、現代日本と似ているなあと、つい思ってしまいました。
(2008年3月刊。1700円+税)

日本人登場

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:三原 文、出版社:松柏社
 江戸時代の末期から日本人の軽業見世物一座がアメリカやヨーロッパに渡って、大変な人気を集めていたなんて、知りませんでした。子どものころは、よくサーカス一座が私の住んでいた田舎町までやって来ました。親に連れられて見に行くことがありました。最近はサーカスの巡行というのはほとんど見かけません。その代わりに大がかりのマジックショーを見ることがあります。春にハウステンボスで見たのは、大きなゾウが一頭まるまる目の前から消えるマジックでした。あれれ、いったいどういう仕掛けなのか、今もって不思議でなりません。昔はやったスプーン曲げや、時計を止めるというマジックはインチキであったり、偶然と確率を利用したりだということは、頭ではそれなりに理解しているのですが・・・。ロシアのボリショイ・サーカスを見たのもずい分と前のことです。
 日本の見世物は、西洋の人々の好奇心をみたした。日本人一座の芸は並外れて優れていた。サンフランシスコにある石造りの豪華大劇場で、3000人もの観客を日本人一座の演技は高く評価された。
 慶応2年から3年にかけて、アメリカへ出かけた一座は少なくとも6座はあった。女性芸人も子ども役者もいた。
 江戸末期に活躍した軽業名人日本一は、早竹虎吉である。その虎吉の名前が刻まれた墓石と線香立が大阪市内に今も残っている。この虎吉は、不運にもニューヨークで客死している。
 この本には、日本人一座の活躍を報じるアメリカの新聞記事や写真などが紹介されています。曲芸中心の舞台は、アメリカ人の大評判を呼び、連日連夜、超満員の観客の目を楽しませた。
 すごいですね。日本人は、この分野でも幕末期にすでに世界的興行をうっていたのですね。昔の日本人は偉いものです。それにしてもよく資料を発掘しましたね。
(2008年3月刊。3500円+税)

遊女(ゆめ)のあと

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:諸田玲子、出版社:新潮社
 いやあ、まことに作家の想像力というのは想像を絶するものがあります。ロマンあふれる時代小説、これはオビに書かれたキャッチフレーズですが、まさしく、そのとおりです。
 全国各地で大飢饉に見舞われ、財政難にあえいでいた幕府は八代将軍吉宗のもとで、倹約に次ぐ倹約で財政を立て直そうとしていた。ところが、尾張名古屋だけは違った。尾張徳川家七代宗春(むねはる)を藩主とあおぐ名古屋には、飢饉もなければ貧困もない。重税もなければ圧政もない。死罪もなければ諍(いかさ)いもない。大道に商店がひしめき、各地から押し寄せた商人の威勢のいい売り声が飛びかう。老若男女が愉(たの)し気に行きかい、城下は活気にみちている。不夜城のごとき遊郭からは、華やいだ嬌声や音曲が流れ、雨後の筍のごとく出現した芝居小屋の幟(のぼり)で、道の両側は埋め尽くされている。
 藩主宗春が江戸からお国入りしたときは、黒装束に縁がくるりと巻きあがった鼈甲(べっこう)の丸笠という奇抜ないでたちで、人々の度肝をぬいた。
 そんな名古屋の地へ、女2人、旅立った。ひとりは博多から。もうひとりは江戸から。
 宗春は正室をもたない。これも幕府への反発のあらわれだった。正室は人質として江戸に住まわせるという定めがある。それはよいが、御三家まで従えというのは、がまんがならない。
 宗春のしなやかな細身の体にまとっているのは、派手な青海波(せいがいは)文様の絹小袖、ゆるめにしめた細帯は黒びろうどで、髪は江戸で大流行の文金風。髷(まげ)の根を一気に上げて前へ折り曲げるこの髪型は、宗春の音曲の師匠でもある浄瑠璃語り、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)の発案だった。
 宗春は鮮やかな紅の小袖と羽織袴をつけ、緋縮緬のくくり頭巾を被っていた。くくり頭巾とは、頭をすっぽり覆う丸頭巾の先端が縫い閉じられている。白牛ではなく、この日は駕籠(かご)に乗っていた。駕籠には天井がない。左右の簾も巻き上げてあるから、沿道の人々には宗春の姿がはっきりと見える。もとより、見せるために趣向を凝らしている。
 「ひゃあ、目が醒めるようやわァ」
 これが江戸時代の藩主の服装なんですよ。いやあ、すごいものです。
 真夏の陽射しを浴びて、紅と緋が禍々しい(まがまがしい)ほどの光彩を放っている。
 初夏の陽射しが降りそそいでいる。南天、芍薬、梔(くちなし)・・・。御下屋敷の北東の一画を占める薬草園では、草木の緑が萌え立ち、花々が妍(けん)を競っていた。
 鉄線とはクレマチスのことです。昔からあったんですね。今とまったく同じものなんでしょうか。私はクレマチスの花も大好きです。牡丹は私の庭にも2株、もらったものがあります。地植えにしています。毎年、見事な花を咲かせてくれます。その豪勢さには、つい見とれてしまいます。芍薬は、なぜか今年は花を咲かせてくれませんでした。枯れてしまったわけではなく、あとになって緑々した葉だけを茂らせてくれました。
 江戸情緒たっぷりのロマンあふれるお話でした。さすが、プロの書き手は読ませます。
(2008年4月刊。1900円+税)

そろそろ旅に

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:松井今朝子、出版社:講談社
 やじさん、きたさんで有名な『東海道中膝栗毛』の作者が十返舎一九というのは江戸時代や日本史に詳しくなくても、誰だって知っていることでしょう。初めの題は『浮世道中膝栗毛』というものでした。主人公は神田八丁堀あたりに住む独身男の弥次郎兵衛と居候の北八。ところが、シリーズの最後には、やじさんは弥二郎兵衛、きたさんは喜多八と表記が変わり、この二人はかつて男色の契りをかわしていたという設定になってしまった。
 ひえーっ、驚きですね。
 それはともかく、このコンビは、江戸を発って東海道を上りながら、出会った女を手あたりしだいにくどいてまわり、隙あらば他人に悪さを仕掛け、あげく失敗を重ねて箱根までの滑稽な珍道中をくり広げた。
 街道のかごかき、馬士(まご)のおかしな言葉づかいに、旅籠(はたご)の様子、名物の食べ物などにはやたらに詳しい本である。駅々風土の佳勝、山川の秀異なるは諸家の道中記に詳しいので、ここでは省略する、こんな宣言をし、風景描写は皆無にひとしい。実に特異な旅行記であった。ところが、思いのほか好評のうちに迎えられ、翌年の第2編で大井川まで、さらに第3編、第4編と延びてゆき、ついには、第6、7編で京都、第8編で大坂の町を書きあげた。これで終わりかと思うと、出版元が許さない。なんと、20年にも及ぶ長旅になってしまった。
 すごい、すごい。すごーい、ですよね。私も写真入りの旅行記を自費出版でたくさん出していますが、残念なことに、これほどの反響はありませんでした。
 十返舎一九は、もともとは武士の身。同じように、武士出身で当時、活躍していたのが、山東京伝、滝沢馬琴、式亭三馬(浮世風呂)。そして、この本は、江戸時代の文化を支えていた、これらの文人たちの生きざまを彷彿とさせる楽しい読み物です。
 実は、初めのころはあまり面白くないなあと思って読み飛ばしていたのです。ところが、中盤あたりから急に面白く思い、あとは一気呵成に読みすすめていきました。
 十返舎一九が作家になるまでの苦労といいますか、遊里通いで放蕩する場面、そして、その心境が、ちょっとあまりにもデカダンス(頽廃)すぎて、ついていけなかったということもあります。
 先日、チャップリンについて書かれた本を読んでいますと、「女たらし」とか「女性の敵」とか批判されているときのチャップリンのほうが芸術的には優れたものを生み出している。逆に、品行方正になったときのチャップリンの作品には面白みに欠けるという評価がなされていました。人間の才能というのは、ことほどさように評価が難しいものなのですね。
 それにしても、この本は、江戸の文化、文政時代の雰囲気、つまりは、田沼時代のあと、松平定信の寛政の改革と、その後の社会の様子をよくぞ再現していると感心しながら、後半は一気に読了しました。さすがはプロの物書きです。
(2008年3月刊。1800円+税)

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