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カテゴリー: 日本史(江戸)

大名行列の秘密

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 安藤 優一郎、 NHK生活新書 出版 
 
 加賀百万石の前田家の大名行列はなんと4000人が参加していたというのです。信じられませんよね。駕籠に乗った殿様も優雅な旅を楽しんでいたというより、難行苦行だったようです。薄い蒲団しか敷かれていないので腰も足も痛い。朝から夕方まで乗り通しの火が何日も続くと、殿様の苦痛も並大抵ではなかった。
 殿様は、食事の好き嫌いを口に出すことは許されなかった。そして、出された食事は規定どおりの量を残さず食べなければならなかった。そうしないと、料理人の責任問題が派生する。
ええーっ、殿様って、わがまま放題かと思っていました・・・・。違うんですねっ。
大名行列の大半は、150人から300人くらい。江戸に入るときには、江戸屋敷結の家臣や江戸で雇用した人足たちが行列の半分以上を占めていた。これって、今の不正規雇用労働者ですね。
大名行列は一日に平均32~36キロは歩いた。盛岡藩南部家の記録によると、平均して一日に43~46キロ歩いた。ときに50キロも歩いた日がある。うへーっ、これってす、すごいことですよね。
 殿様専用の風呂桶を運び、また、携帯用トイレまで運んでいた。そして、とまりの本陣の殿様の寝床の下には、持参した鉄の延べ板を敷いた。床下に刺客が忍び込んでも殿様は守れるというわけだ。
飲料水も、江戸から国元までの道中で必要な分を持ち運んでいた。
前田家の場合、参勤に擁する日数は12泊13日というのが多かった。暮れ六ツ泊まり七ツ立ち。暮れ六ツ(午後6時)に旅宿に到着し、翌朝七ツ時(午前4時)には出発する。当時は左側通行が基本だった。
 京都は大名行列が立ち入ってはならないところだった。幕府が禁じていた。朝廷と諸大名とが結びつくことを幕府は警戒した。
昔から日本人が旅行好きだったことも明らかにされています。江戸時代の一端を楽しく知ることができました。 
(2010年3月刊。700円+税)

日本神判史

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 清水 克行、 中公新書 出版 
 
 室町時代、火傷の具合で有罪か無罪かを判定する湯起請(ゆぎしょう)と呼ばれる熱湯裁判が行われていた。湯起請は古くからのものではなく、15世紀の室町時代の100年間のみに集中的に出現する流行現象だった。著者は、87件の湯起請の事例を確認している。盟神探湯は、くがたちと読みます。湯起請のようなものでしょうね。
 もう一つの鉄火裁判は、戦国時代から江戸初期(16世紀後半~17世紀前半)の数十年間にだけ集中的に確認される現象であり、決して古代・中世の昔からずっと続いてきたものではない。著者は鉄火裁判について45件を確認している。そして、この鉄火裁判は、決して遠い昔の狂信的な暗黒裁判ではなく、今でも地域の誇るべき歴史として真摯に語り伝えられている。
 中世の人々は起請文(きしょうもん)と呼ばれる一種の誓約書をよく書いた。当時の人々にとって、この起請文に記載した誓約内容を裏切るということは、単なる他者への契約不履行という問題以上に、その罰文に書かれた神仏を裏切るという宗教的な背徳行為を意味した。ここらあたりは、現代人の感覚とかなり違うようです。
 鎌倉幕府の法廷に御家人の妻の不倫疑惑にまつわる訴訟が持ち込まれた(1244年)。離婚したあと、元夫が元妻を「密通」(不倫)の罪で訴えた。元妻も反論したので、裁判が始まった。この夫婦は結婚したとき、離婚したときには、妻は夫からいくつか土地を譲り受けるという契約状をかわしていた。しかし夫は元妻に、これらの土地を渡したくなかった。そこで、妻に不倫ありと訴えたのである。
 えへーっ、なんだか現代日本にもありそうですが、さらに一歩進んでいますよね。だって、結婚するときに、離婚したときの条件を定めておくなんていうことは、弁護士生活36年間を過ぎましたが、一度も経験したことはありません。
湯起請は、「合法的」なかたちで、「犯人」を共同体から排除する最良の方法として活用されていた。人々が恐れていたのは、犯罪そのものより、狭い生活空間のなかで、人間関係が相互不信によって崩壊していくことだった。湯起請を実際に執行したのは27%だった。ほとんどのケースでは、話題にのぼっただけで、実行に移されていない。
専制政治を志向する為政者にとって、湯起請は、自らの政治判断の恣意性・専制性を隠蔽するための最良の道具だった。だから、足利義政にとって、うるさい重臣がいなくなり、自分の意志を自信をもって全面的に打ち出せる状態になったとき、もはや「神慮」を必要としなくなった。
 湯起請は、信心と不信心の微妙なバランスのなかで、生まれた習俗だった。そのため、大局的な時代潮流が信仰心を捨て去り、両者のバランスが崩れたら、おのずと湯起請は終わるべきものだった。
 中国は、世界でもっとも早く神判が姿を消した地域と評価されている。
 大変面白く、一気に読了しました。
 
(2010年5月刊。760円+税)

江戸図屏風の謎を解く

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 黒田 日出男、 角川選書 出版 
 
 江戸は明暦の大火(振袖火事、1657年)によって、大きく変わった。これを前提として、近世初期の江戸を描いた二つの屏風(絵)について、いつころ、誰が、何のために描いたのかを解明していきます。その謎ときには読んでいて小気味よいものがあります。
 この本は推理小説ではありませんので、その謎ときをここに少しだけ紹介します。
 「江戸天下祭図屏風(てんかまつりずびょうぶ)」は、明暦の大火以前の江戸城内を進んでいく山王祭礼の行列が描かれている。これが第一の主題。
 次に、江戸城内にあった壮麗な紀伊徳川家上屋敷と、その門前で天下祭りの行列を楽しんでいる徳川頼宣・瑤林院夫妻の姿が第二主題。
 そして、徳川頼宣にとって慶安事件(由比正雪事件)の嫌疑と明暦大火の際の流言による危機。これらの危機乗り越え、帰国の暇を賜ることができた頼宣の喜び。それが第三の主題となっている。
 家主死後に発生した由比正雪の乱のとき、紀州藩主徳川頼宣の判がつかわれていて、当然のことながら、頼宣に疑いがかかった。家光の次の将軍家綱がまだ11歳であったことから、頼宣は以後10年間にわたって「在江戸」を強いられ、国許への帰国を許されなかった。頼宣が紀州に帰ることを幕府は心配したのである。
 著者は、この屏風(図)に誰が、どのように描かれているのかを仔細に検討して、このような結論を導いていきます。学者って、さすがに鋭いと思います。ぼんやり絵を眺めていても出てこない結論です。読んでいて、素人ながら、とても納得できる推論だと感嘆してしまいました。
 
(2010年6月刊。1800円+税)

鉄砲を手放さなかった百姓たち

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 武井 弘一、 朝日新聞出版 
 
 秀吉以来の刀狩によって、百章は刀も鉄砲も何もかも武器というものをまったく持たなくなったという常識は間違いである。
 のっけにこんな事実が摘示されて驚かされます。
 刀狩は、まさに刀を取りあげたのです。なぜなら、刀は武士身分を表像するものだったからです。そして、江戸時代の百姓は大量の鉄砲を手にしていました。
江戸幕府は時として鉄砲改めを実施していた。しかし、そのとき百姓から鉄砲を取りあげたわけではない。百姓の鉄砲は没収されずに、そのまま所持することが認められた。
ところで、百姓のもっていた鉄砲が、たとえば一揆のときに人間に向けて殺傷するために使われたことはない。それは武器としてではなく、音をたてる鳴物として使用された。そして、百姓一揆のとき、領主が百姓に向けて鉄砲を使うこともなかった。そんなことをすれば、たちまち支配の正当性を失うからである。すなわち、領主と百姓のあいだには、鉄砲不使用の原則があった。
 うへーっ、そうだったんですか・・・・。これって、まったく知りませんでした・・・・。
 ところが、一揆にアウトローが参加するようになってくると、様相が異なる。
 アウトローは、土地を失う百姓が増え、村が荒廃したからこそ生まれでてきた。
 百姓にとって鉄砲は、アウトロー対策そして、イノシシなどの「害獣」対策に必要なるものとして使われたのでした。  
 百姓は鉄砲を村全体の管理下において、その使用を規制していた。百姓は鉄砲が武器となることを自制していた。だからこそ、当局は村に管理をまかせることができた。
 害獣を防ぐための、数ある方法のなかから最適な道具として、百姓みずから鉄砲を選んだ。農具としての鉄砲が村の管理下におかれて広まり、害獣を防ぐために百姓が手にして使い続けた。
 日本人の若者が若いときから人を殺すための銃を持たされることもないのは大変幸せなことなのですよね。これを平和ボケなどと言ってほしくはありません。
(2010年6月刊。1300円+税)

甦る五重塔

カテゴリー:日本史(江戸)

著者:鹿野貴司、出版社:平凡社
 江戸時代に建立された五重塔が見事、現代によみがえったのです。ところは身延山久遠寺です。もちろん、言わずと知れた日蓮宗の本山です。
 その五重塔が竣工するまでが見事な写真で刻明に紹介されています。さすが圧倒的存在感のある建物です。
 初代の五重塔は1619年(元和5年)に建てられた。加賀藩主・前田利常の生母(寿福院) が寄進・建立した。ところが、江戸時代の末期に焼失し、そのあと再建された塔も明治8年、再び大火にあって焼失。それを再建したのです。
 使用する木材は国産にこだわり、高知・四万十川上流で切り出した檜を用いた。それを組み立てるのは、世界最古の企業として名高い、大阪の(株)金剛組の宮大工。
 法華経の根本道場たる身延山に133年ぶりによみがえった七堂伽藍。その一角にひときわ空高くそびえ立つ123尺(37メートル)の五重塔は、身延山からお題目の輪を広めるための発信基地。
 五重塔がつくり始められるときから竣工するまでの2年間、東京(千葉)から通いつめた若手カメラマンによる素敵な写真集です。さすがに8万枚の写真から選び抜かれたというだけあります。見るものにぐいぐいと迫ってきます。
 五重塔を拝むありがたさが違ってくること、うけあいです。
(2010年4月刊。3800円+税)

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