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カテゴリー: 日本史(江戸)

裸は、いつから恥ずかしくなったか

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 中野 明、 新潮新書 出版 
 
 日本人は江戸時代まで、男も女も人前で裸であることになんのためらいもなかった。風呂は混浴があたりまえだった。明治政府が外国からの批判を受けて禁止してから裸は恥ずかしいものとされ、今や逆説的に見せる下着が流行している。ところが、ドイツなどには、今も混浴サウナがあって、旅行した日本人が驚いている。
 なーるほど、と思う指摘ばかりでした。混浴風呂と言えば、私が小学生の低学年のころ、父の田舎(大川です)に行くと、集落の共同風呂があり、入り口こそ男女別でしたが、なかの浴槽は男女混浴でした。昭和30年代の初めのころです。そして、私が司法試験を受けていたころ(1970年代はじめ)、東北一人旅をしたとき、山の温泉は混浴が普通でした。昼間、私が一人で温泉に入っていると、山登りを終えた女子高生の一団がドヤドヤとにぎやかに乱入してきたので、慌ててはい出した覚えがあります。
私は残念ながら体験していませんが、ドイツやオーストリアでは、サウナに男も女も皆すっぽんぽんで堂々と入っているそうです。驚いた日本人女性がその体験記をブログでいくつも紹介しているとのことです。
江戸時代の銭湯が男女混浴であることに驚いた外国人によるレポートが図入りでいくつも紹介されています。ただし、江戸幕府は何度も禁令を出していたようです。天保の改革のとき、水野忠邦も混浴を厳しく禁じました。これって、7歳になったら男女席を同じくしない、どころではありませんよね。
 そして、夕方になるとタライで水浴びします。若い女性が素っ裸になって道路に面したところで水浴びしているのを、通りかかった外国人が驚嘆して見ていたのでした。
 人前での行水や水浴ばかりか、そもそも日本人は、性器を隠そうとする意識がきわめて低かった。そして、当時の日本人は、裸体を公然と露出していても貞操が危うくなることはなかった。要は、裸体とセックスの結びつきがきわめて緩やかだったのである。
 当時の日本人にとって裸体は、顔の延長のようなものであり、日常品化されていた。明治4年、裸体禁止令が出された。外国人の目を政府が気にしてのことである。
 明治9年、裸体をさらして警察に検挙された者が東京だけで2091人にのぼった。
 明治政府による裸体弾圧以降、日本人は裸を徐々に隠すようになる。この結果、日本人に裸体を隠す習慣が根づいていった。しかし、それには予期しない副作用があった。
 裸体を隠すことで、女性の性的魅力を高めてしまった。明治政府の裸体弾圧は、セクシーな日本人女性を形成するための一大キャンペーンになったのである。
 そもそも日本人は、現代でいうパンツをはく習慣はなかった。まして、ブラジャーをやである。男性は褌、女性は腰巻である。
 下着の一部を見せる現代の女性の行為は、現代社会が下着を隠す社会だからこそ成立するのである。そして、下着を隠す習慣が生まれることで、女性は裸体を五重に隠すようになった。現代の日本人の常識って、案外、底の浅いものだったんですね。
 
(2010年5月刊。1200円+税)

新・雨月(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 船戸 与一、 徳間書店 出版 
 
 ときは幕末。戊辰戦後の実相を小説でもって生々しく語り尽くそうという壮大な小説です。明治維新を目前にして、人々がそれぞれの思いで生命をかけて戦い続けます。ここでは維新の生みの苦しみと怨念がしっかり語られている気がします。
 明治1年9月、ようやく会津藩が降伏。2日後に庄内藩が降伏した。だが、戊辰戦役はこれで、終わったわけではない。翌明治2年の箱館戦争へ引き継がれる。榎本釜次郎(武揚)が五稜郭を出て降伏したのは5月。鳥羽伏見の戦いから1年半が経過していた。
 榎本と行動をともにしていたフランス士官ブリュネがフランス本国に宛てた報告書のなかで、北海道に建設される国家は共和制になるだろうと記したうえで、その共和国をフランスは植民地化すればいいとしていた。うむむ、なんということでしょうか・・・・。
会津藩は、敗戦によって明治新政府から下北半島と三戸・五戸地方へ減知転封され、斗南藩と命名された。それは、挙藩流罪とも呼ぶべき処置であり、藩士たちは、誰もが咎人(とがにん)のような仕打ちを受け、すさまじい飢餓にさらされた。
 いずれにせよ、鳥羽伏見から箱館五稜郭まで戊辰戦役の死者数は1万5千人と推計されている。ただし、これには、戦地で徴発された陣夫や戦火の巻きぞえとなった反姓たちの死は含まれていない。そして、この死者数は、後の日清戦争に匹敵する。すごい数ですよね。日本が生まれ変わる苦しみであったことを意味します。
 会津藩の二本松攻撃の戦闘指揮をとった薩摩六番隊長・野津七次(のづしちじ)は、箱館戦争後に、野津道貫(みつら)と改名した。明治7年、大佐となって佐賀の乱に出征。西南の役では、第二旅団参謀長。日清戦争には第五師団長として出征。明治26年、大将となり、近衛師団長、東部都督などを歴任。日露戦争では第四軍司令官。後年、戊辰戦役について、次のように述懐した。
 余は数えきれないほどの戦場を駆け抜けてきたが、二本松の霞ヶ城攻撃のときほど恐怖に駆られたことはない。なにしろ十三か十四の子どもが切先をこっちに向けて次々と飛び込んでくる。剣術は突きしか教わっていない子どもが命を捨てに来る。あの二本松少年隊ほど余の心胆を寒からしめたものはない。霞ヶ城の、あの光景は絶対に脳裏から消えはせんよ。
よくぞここまで調べあげたものだと、ほとほと感嘆した歴史小説です。
(2010年3月刊。1900円+税)

吉原手引草

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 松井 今朝子、 幻冬社文庫 出版 
 
 うまいですね、すごいです。見事なものです。よしはらてびきぐさ、と読みます。江戸の吉原で名高い花魁(おいらん)が、ある晩を境として忽然と姿を消したのです。それを尋ねてまわる男がいました。吉原に生きる人々の語りを通して、吉原とはどういうところなのかが、少しずつ明らかにされていきます。その語りが、また絶妙です。ぐいぐいと引きずりこまれていきます。
 同じ見世(店のこと)で別の妓(女性)に会うのは、廓の堅い御法度(ごはっと)でござります(禁止されているということ)。
花魁が見世から頂戴してるのは朝夕のおまんまと、行灯の油だけ。部屋の調度はもとより、畳の表替え、障子や襖の張り替え、ろうそく代や火鉢の炭代に至るまで、これすべて自らの稼ぎでまかなう。紙、煙草、むろん髪の油に紅脂(べに)白粉(おしろい)はけちらず、毎月、同じ衣裳も着ていられない。
櫛簎(こうがい)の髪飾りは値の張る鼈甲(べっこう)ばかりだ。遣手(やりて)の婆さんやわっちらばかりが、引手牢屋や船宿の若い衆にも心づけは欠かせないときてる。禿(かむろ)がいれば、子持ちも同然で、一本立ちの女郎に仕立てるまでの費用(かかり)は半端なものじゃない。それでもって慶弔とりまぜての物入りがまた馬鹿にならない。花魁は皆いくら稼ぎがあっても年から年中ぴいぴいしておりやす。ちょっと病気をしたり、親元から催促されたら、たちまち借金が嵩んで・・・・。うむむ、いや、なるほど、そうなんですか。
 男は女の涙に弱いから、女郎が泣けば客もたいがいは許してくれる。だが。そうやすやすとは泣けないから、女郎は着物の襟に明礬(みょうばん)の粉を仕込んでおく。それを眼のなかにいれたら涙が出てくる。
女郎は、客の煙草の水や印籠もしっかり見ている。廓に来る客はたいてい衣裳には張り込むが、持ち物にまでは手が回らないから、本当にお金をもっているかどうかをそれで見分ける。女郎だって、客をお金で値踏みする。
昔から、女郎の誠と卵の四角はないという文句があるのを、ご存知ねえんですかい。
 最後に二つの文章を紹介します。まず、著者の言葉です。
 小説を書く何よりの醍醐味は、妄想の海にどっぷりと浸って、自身の現実にわりあい無関心でいられること。
もう一つは、書評する側の人物の言葉です。
書評をした人間の良心がどこにあるかと問われたら、それは自分の書いたことばに責任を持てるか否かにかかっている。
 なるほど、いずれも、なーるほど、そうだよね・・・・と、つい思ったことでした。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

新・雨月

カテゴリー:日本史(江戸)

船戸 与一  著 、徳間書店 出版 
 江戸時代最後、幕末の日本の状況を実感させてくれる貴重な小説だと思いました。
  明治維新というのは、幾多の多大なる犠牲なしには実現しなかったのです。
明治維新に反抗したのが、たとえ後世になって「反動」と呼ばれようとも、薩摩や長州勢の言いなりにはならないという日本人も多かったのではないでしょうか。そして、新政府をかたちづくった薩長土肥その他の内部にも、また皇族や公じ家の中にも大いなる矛盾と激しい抗争が存在しました。
 この本は、その点を多面的な角度から描こうとした意欲的な小説です。私も、こんな本を1968年の「大学紛争」について小説として書いてみたいと思ったことでした。
 上巻1冊で500項もある大作です。かなり強引な飛ばし読みをしましたが、それでも丸2日間、3時間はたっぷりかかってしまいました。それだけ読みごたえのある本なのです。
 よく調べて書かれていますので、幕末から明治維新にかけての日本各地の雰囲気を知りたい人には絶好の本だと思いました。
(2010年3月刊。1900円+税)

「おたふく」

カテゴリー:日本史(江戸)

 著者 山本 一力 、日本経済新聞 出版 
すごいですね、うまいですね、ほとほと感嘆しながら、江戸時代の気分を満喫して読みすすめました。著者は同じ団塊世代ですが、この描写、ストーリー(筋立て)、なんとも言えない巧みさに、いつもいつも降参しまくりです。
ときは江戸時代、真面目で倹約家の定信が登場してくる寛政の世。そうです。寛政の改革というのを日本史で習いましたよね。
幕府はぜいたくは敵とばかり、徹底した倹約を大名から庶民に至るまで求めます。借金まみれの旗本、御家人の窮状を救うため、借金棒引きを命令します(棄損令)。
ところが、これまでの借金がなくなったのはいいとしても、次の借金がなくなってしまうと、生活が出来ない仕組みです。さあ、大変。世の中は大変な不況に見舞われてしまいます。
そのときに、地道な商売を見つけて、工夫しながら生き抜いていく商売人がいました。いつもながら無理のないストーリーです。読んでいるとホンワカ心があったかくなります。得がたい作家ですね。日経新聞の夕刊に連載されていました。でも、そのとき、私は読んでいませんでした。
(2010年4月刊。1800円+税)

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