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カテゴリー: 日本史(江戸)

百姓たちの幕末維新

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   渡辺 尚志 、 出版   草思社
 江戸時代、全国にあった村は6万3千ほど。現在、全国の地方自治体は1800なので、一つの地方自治体に35ほどの村があった計算になる。平均的な村は、人口450人、戸数60~70軒、耕地面積50町、村全体の石高450~500石。
 江戸時代の百姓は、二重の意味で農民と同義ではない。一に、百姓のなかには、漁業、林業、商工学など多様な職業に携わっている人たちがふくまれていた。第二に、農業をすることが即百姓であることにはならなかった。
 農村における本来的な百姓とは、土地を所有して自立した経営を営み、領主に対して年貢などの負担を果たし、村と領主の双方から百姓と認められた者に与えられる身分呼称であった。つまり、百姓とは、特定の職業従事者の呼称ではなく、職業と深く関連しつつも、村人たちと領主の双方が村の正規の構成員として認めた者のことだった。
 百姓たちは、先祖伝来の所有地を手放すことについて非常に大きな抵抗感をもっていた。土地を失うということは御先祖様に顔向けできない大失態だった。
無年季的質地請け戻し(むねんきてきしっちうけもどし)慣行が存在した。
 借金返済期限がすぎて請け戻せず、いったんは質流れになった土地でも、それから何年たとうが、元金を返済しさえすれば請け戻せるという慣行が広く存在していた。質流れから、10年、20年、場合によっては100年たっても請け戻しが可能だった。
 これは、村の掟だった。村人たちが全体として貸し手に有形無形の圧力をかけることによって、この慣行は有効性を発揮した。
 百姓たちがとった没落防止策として、経営の多角化を徹底させることがあった。
 19世紀、とりわけ幕末になると、百姓たちもファッショ運に敏感になってきた。江戸などの大都市での流行が村にも波及し、10年周期くらいで流行が変遷した。
 江戸時代は、今以上に古着が広く流通していた。
 江戸時代の百姓が米を食べられなかったというのは、明らかな誤りだ。年間1石(150キログラム)以上の米を食べていた。近年の日本人の年間消費量は一人あたり60~65キログラムなので、倍以上も食べていた。ふだんは、米と麦、雑穀を混ぜて炊いた「かてめし」や粥(かゆ)や雑炊を食べ、婚礼などのハレの日には米だけの飯を腹一杯食べた。
江戸時代の百姓が肉類をまったく食べなかったというわけでもない。魚、鮮魚はあまり食べなかった。多くの村人が年貢納入に苦労しているときには、それを当人の自己責任に帰してすまさず、村役人が中心となって村として借金し、そのお金を困っている村人たちに融通していた。隣人の苦境を我がこととして、村全体で対策をとった。村人の所有地が貸し手に渡ってしまったあとは、そこからの小作料を納めないと言うことで貸し手に対抗した。
 江戸時代、幕府や大名・旗本は、領地の村々に対して、村全体の年貢納入額と各村人への割り付け方の原則を示すだけで、あとはすべて村に任せていた。実際に村内のここの家々に年貢を割り当て徴収するのは村だった。このように、年貢を一村の村人たちの連帯責任で納める制度を「村請制」という。したがって、領主は、村の一軒一軒がどれだけ年貢を納めているのか、正確には把握していなかった。
 村での年貢の割付・徴収業務を中心的に担ったのは、村役人、とりわけ名主だった。したがって、年貢の滞納者が出たとき、名主は自費で立て替えてでも上納しなければならなかった。
 村々では、村役人に無断で抜地などの不正な土地取引がさかんに行われたため、村役人も土地の所有関係を把握しきれていなかった。土地台帳が実態を反映しなくなっていた。
村人たちは、農産物価格の適正化を求めて国訴(こくそ)を起こした。幕府に訴え出たのです。日本人は昔から裁判が嫌いだったなんて、とんでもない誤りです。すぐに裁判に訴えるのが日本人でした。江戸時代は、実にたくさんの裁判が起こされています。
 百姓たちが代官をやめさせるのに成功した例もあります。老中や勘定奉行などの幕府の要人に対する非公式の働きかけを百姓(名主)がしていたのでした。
 江戸時代の百姓は、脇差を差すことが認められていた。
 江戸時代の村々には、多数の刀や鉄砲が存在していた。百姓一揆は、統制のとれた秩序と規定ある行動だった。一揆勢は、武装蜂起して武士と戦うことは考えておらず、人を殺傷するための武器も携行していなかった。手に持ったのは、自ら百姓であることを明示するための鎌や鍬といった農具だった。身につけた蓑や笠も、百姓身分を示すユニフォームだった。
 百姓一揆は反権力の武装蜂起というより、今日のデモ行進に近い。ただし、処罰を覚悟していた点が合法的なデモ行進とは異なる。
 ところが、19世紀になり、百姓一揆のあり方に変化が見られた。領主に対する要求より、買い占め、売り惜しみなどの不正行為をしたと見なされた富裕な百姓・町人に攻撃の矛先が向けられるようになった。武士に対するたたかいから、庶民内部の争いへと変わっていった。百姓一揆のなかで攻撃対象の百姓・町人の家を襲って建物・家財を破壊する打ちこわし頻発した。そのなかで一揆勢の秩序と規律が乱れ、略奪・放火・暴力行使など、従来の百姓一揆では見られなかった逸脱行為も発生するようになった。
 このように百姓一揆が攻撃性・暴力性を強めるにつれて、鎮圧する領主側との武力衝突も起こるようになった。
 江戸時代の村の様子そして百姓一揆の実態を知ることのできる本です。
(2012年2月刊。1800円+税)

おれは清麿

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著者   山本 兼一 、 出版   祥伝社
 幕末の刀鍛冶の一生を描いた小説です。刀剣をつくりあげていく過程の描写の迫力には圧倒されました。
焼き入れた鉄の色は赤から黄に移っていく。濃い紫、小豆(あずき)色、熟(う)れた照柿(てりがき)の色、夕陽、山吹、満月そして朝日。色によって熱さが違い、やる仕事が違う。
 うへーっ、さすがは職人の芸です。こまかいです。こまかすぎます。
ここで鉄(かね)を沸かしちゃならん。赤めるだけ。あとの鍛錬のときも、湧かしすぎると鉄が白けて馬鹿になってしまう。焼き入れをしても刃が冴えず、ぼけて眠くなる。
下手な鍛冶は、炭をたくさん無駄につかって、鈍刀(なまくら)しか鍛えられない。上手な鍛冶は、少しの炭で効率よく鉄を赤め、沸かし、冴えた鉄で秀抜な刀を鍛える。
上古のころ、まっすぐだった日本の刀は、平安のころから反(そ)りのある優美な太刀姿となった。鎌倉のころから次第に力強く豪壮な姿となり、さらに戦乱の激しい南北朝となれば、より勇ましい長大な姿となる。ここまでが古刀(ことう)である。戦国の世が終わり、関ヶ原や大阪の陣のあった慶長のころからの刀は、新刀(しんとう)と呼ばれる。古刀とは、姿がずいぶん違う。
 腰で反っている古刀に対して、新刀は先のほうで細くなり、反っているものが多い。甲冑(かっちゅう)を着て闘った戦国乱世のころと違って、着物を着た戦いでは突き技の有効性が高いからだろう。
刀を見るときの奥義。刀を選ぶときは、まず、肌(はだ)多きもの好むべからず。肌とは、鉄(かね)を折り返して鍛えたときの模様が刀の地の表面にあらわれたものをいう。
 沸(にえ)多きものを好むべからず。沸は、焼き入れのときにできるごくごく微細な鉄の粒子。
刃文(はもん)深きもの好むべからず。焼きの入った刃の幅が広く深いということは、とりもなおさず焼きが入りすぎていて折れやすいということ。
 反り深きもの好むべからず、反りなきものを好むべからず。長きを好むべからず。短きを好むべからず。いずれも、ほどほどがよいということ。
 刃鉄(はがね)、心鉄(しんがね)、皮鉄(かわがね)につかう三種の鋼をそれぞれ積み沸かして、折り返し鍛錬する。それを本三枚で造り込む。軟らかい心鉄とやや硬めの刃鉄を硬い皮鉄ではさみ、鍛着させる。それを細長く素延(すの)べする。皮鉄を折り返し鍛錬するとき、質のよい鋼を挟み込んでおく。そうすれば、金筋(きんすじ)がうまく刃中や刃の縁にあらわれる。下手な鍛冶なら失敗してしまう。
 すごい描写に言葉も出ません。
(2012年3月刊。1600円+税)

井関隆子の研究

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著者   深沢 秋男 、 出版   和泉書院
 幕末を生きた旗本婦人に関する本です。幕末といっても、水野忠邦と同時代を生き、天保の改革についても、あれこれ論評しています。それだけ幕閣の内情を知る立場にあったのです。
 60歳で亡くなっていますが、50代に物語を創作し、日記のなかで、鋭く世相を斬っています。現代日本女性とまったく変わらない驚くべき批評家です。
日記のなかで井関隆子は冷静な批判・批評を貫いている。鋭い感受性と、それに支えられた厳しい批判的精神にあふれている。そして、それは決して止まるところを知らない。
 幼いころの隆子は、常に利口ぶって、生意気な言動をする、差し出がましいふるまいをする、こましゃくれた、年の割に大人びた、そんな女の子だった。原文では、「この子は、常にさくじり、およづけたる口つきの子供」と言われていたとあります。
 そして、少女時代の隆子は、自宅の庭に蛇がよく出るのを見つけては打ち殺していた。それを見た母親は、私のためにはありがたいが、女の子に似合わないことをするものではない、ことにあなたは巳年の生まれなんだからとたしなめた。すると隆子は、巳は私の年なので、私の思うようにしてどこが悪いのかと言い返した。さらに付け加えて十二支など中国の人の考えたもので、もとからあったものではない。だから自分の生まれ年だからといって、どうということはない。こんな迷信を神のように信じ込んで祀ったりするのはうるさいことだと言った。
 うひゃあ、これが、江戸時代に生きた少女の言動だなんて信じられませんよね。蛇を打ち殺すということ自体が男でもなかなかできないことです。そして、生まれ年が十二支の巳年だから慎めという母親に対して、そんなのは迷信に過ぎないことだと言い返すなんて、その大胆不敵さには思わず腰を抜かしそうになりました。
 江戸詰めの武士が品川宿の遊女と心中した事件についても日記に詳細に書きとめています。養育費をとって預かった子どもを次々に殺していた老婆、ネズミ小僧など、当時の事件が生き生きと日記に記録されています。
 隆子は迷信を信じない、実に合理的な考えの持ち主だった。家相見、地相見、墓相見など、いずれも不用のものとした。
隆子はきわめて好奇心の強い女性だった。
 地獄売春、陰間、ふたなり、相対死、駆け落ち、ネズミ小僧、遊女の放火事件、女髪結僧侶と奥女中の事件など、かなりきわどい話題も自在に書きとめられている。
 そして、花見だ、月見だといっては家中集まって酒を飲み、何かにつけて酒を飲んで楽しんでいる。隆子が酒を大好きなことを心得ていて、家中みなが母であり、祖母である隆子を大切にしていた。
隆子が物語として描いた江戸の様子を紹介します。
 人前では礼儀正しく、恥じらいあるものが、かげでは猥りがわしい行動をとっている。このうえなく尊ばれている僧侶が、陰で酒色にふけっている。課役を逃れるために賄賂を贈る大名、出世のために幣をおくる旗本たち。水野忠邦をモデルとする少将は、色好みで、負けじ魂のみ募り、その身分に似合わず文才もない。税金の増額から来る庶民生活の窮乏、公の人事の不公平、少ない禄に対する旗本たちの不平不満・・・。
江戸時代とは一体どんな時代だったのか、大いに目を見開かせる貴重な研究書です。少し高値の本ですので、図書館で借りて読まれたらいかがでしょう。
(2004年11月刊。1万円+税)

伊予小松藩会所日記

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著者  増川 宏一 、  北村六合光  、  出版   集英社新書   
 日本人の日記好きは昔からのことです。なんでも文字にして残したがる習性は、私にもしっかり受け継がれています。私は今年2冊目の本を編集して発刊しようとしています。写真もふんだんに盛り込んで、読んで楽しい冊子を目ざしています。
 この本は、なんと150年間もの長きにわたって書きつづられてきた藩の公用日誌を読み解いたものです。その苦労のほどがしのばれます。
 舞台は、愛媛県の小松町。藩の人口は1万人。武士はわずか数十人しかいない、ごくごく小さな伊予小松藩の公用日誌です。
 小松藩の家臣のうち武士は60人、足軽は40人。士分として扱われたのは幕末時に  130人。これに足軽や小者をふくめても200人ほど。これが家臣団とされていた。
 家老は1人だけ。喜多川家が家老を世襲した。家老の禄高は400石。藩政は、家老と数人の奉行の合議制によっていた。家老が公用の政務をつづった記録を「会所日記」という。この会所日記は150年間にわたって書きつづけられたが、小藩なので、領内の隅々にまで目が行き届いている。そこで領民の生活の実情を知ることができる。
 小松藩は、大きな商人からだけでなく、公家や近在の百姓からもお金やお米を借りていた。
領民のぜいたくを禁止する倹約令は次のような内容だった。
 ひさし付きの家や瓦葺の屋根を禁止する。
 お寺で三味線や琴で高声をあげ、にぎやかに振る舞うことを差し止める。
 衣類や髪かざりが華美になっている。象牙のかんざし、絹の帯をしめているのは倹約令にそむく。
下級武士については、武家以外の農民や承認との縁組を認めていた。これは、減俸への有効な対応でもあった。
 幕府は各藩に対して藩札の発行を禁止していた。それは、通貨の混乱を防ぐための措置である。しかし、小松藩は、幕府の公許をえないまま、非合法の藩札発行にふみ切った。ただ、藩札には藩の名前は入れなかった。名前も藩札ではなく、「銭預り札(ぜにあずかりふだ)」とした。しかし、印刷と発行には、藩が全面的に取り組んだ。
この銭預り札を発行して、藩の権威で強制的に流通させることによって、藩は領内で通用している銀を吸い上げることができた。そして、銀は、江戸屋敷の費用や大阪での支払いに充てることができた。つまり、消費にまわされた。
藩札発行にふみ切った慢性的な財政危機の一因は、参勤交代の旅費と江戸屋敷の維持費だった。藩の年貢収入の半分はこのために支出された。
小松藩の参勤交代時の行列は総勢110人。随員としての藩士は30人ほど。それでもこれは、全藩士の半分に近い。
小松領内で殺人や傷害、強盗のような凶悪で粗暴な犯罪は起きていなかった。ほとんど、空き巣狙いのような窃盗犯である。平和な藩だったようです。
江戸時代の人々の生活が実感として伝わってくる本でした。
(2011年10月刊。2800円+税)

旗本御家人

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著者  氏家 幹人   、 出版   洋泉社歴史新書y   
 おさそいとは、職務上の過失などを犯した幕府の役人が罷免されたり、病気と称して辞任すること。
御宅(おたく)とは、幕臣が重大な過失を犯したとき、夜になって名代(みょうだい)の者が若年寄の御宅に呼び出され、監察官である目付立ち会いの下、役職の剥奪と厳重な謹慎を申し渡されること。
いずれも、現代の用語とは全然ちがった意味の言葉だったのですね。
 幕府の職場では、陰湿で卑劣なイジメが習慣化していた。それによる殺人事件も起きていた。
蔵宿師(くらやどし)は、お金に困った蔵米取りの幕臣から高額の礼金を受け取って、蔵宿に多額の借金を強請(ゆす)るワルな連中のこと。
番町のあたり(千代田区には有名な番町小学校があります)には、旗本などの武家屋敷が並ぶので、上品でお堅い町だと思っていると、実は、番町辺の武家の息女たちは、当地の風として淫奔な娘が多く、処女は百人に1人くらい。千二百石とか五百石とかの立派な旗本の息女たちの色恋沙汰には歯止めがかけられなかった。番町辺の旗本のお嬢さんというと、それだけで良縁がまとまりにくかった。
うひゃあ、これって全然イメージがこわれてしまう話ですよね。まあ、日本は、昔から性的に解放されていたことで世界に冠たる国というわけなんですが・・・・。
 江戸城内には、老衰場(ろうすいば)と呼ばれる場所があった。旗奉行、鑓(やり)奉行には高齢者が多い。73歳で旗奉行になったり、69歳で鑓奉行になったりしていた。そして、在職中に没することが少なくなかった。83歳で大奥の取締り等が職掌の留守居に就任した人物もいる。
 ところが、他方で、年齢についてはゲタをはかせて届け出ることが常態化していたのでした。なぜか?
大名や旗本の当主が17歳未満で亡くなると、養子が許されず、家は断絶するという相続の法があったからである。そこで、息子の年齢をあらかじめ何歳も高く届ける詐称が慣例となっていた。
 出生届は、いいかんげんだった。すると、幕臣の弟子たちは、本来なら17歳で受験すべき素読吟味に8歳や9歳でトライしなければならないことが起きていた。
与力や御従などの御家人の地位は「株」として実質的に売買が許されていた。百姓町人でもお金を出せば、御家人すなわち御目見以下の幕臣になることができた。そして、ひとたび御家人になれば、御目見以上の旗本に昇格し、さらには幕府の要職に就くことだって可能だった。いま想像する以上に、幕臣社会とりわけ御家人社会には庶民出身者は多かった。川路聖謹と井上清直の兄弟も、正真正銘のなりあがり組である。
 遠山金四郎に似た奉行が実在したというもの面白い話です。能勢甚四郎は、八代将軍吉宗のときに町奉行に就任したが、かつて通った新吉原の遊女たちから「お久しぶり」と声をかけられたというのです。ええっ、本当の話なんでしょうか・・・・。
 江戸時代のことを知るというのは、本当の日本人の姿を知ることだとつくづく思います。
(2011年10月刊。890円+税)

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