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カテゴリー: 日本史(江戸)

盆踊り、乱交の民俗学

カテゴリー:日本史(江戸)

著者   下川 耿史 、 出版   作品社
 日本の女性が昔から弱かったはずはない。これは弁護士になって38年になる私の確信です。もちろん、弱い女性も存在します。しかし、そんなことを言ったら、日本の男性の方がよっぽど弱いのです。自殺する日本人の6割以上は男性です。私が弁護士になって驚いた三つのうち一つが、日本では(恐らく全世界で)、不倫というのは日常ありふれた出来事だということです。もちろん多くの場合、男性が仕掛け人です。しかし、その積極的な受け皿に女性がなっています。というか、それは、いわば男女「同罪」なのです。ですから、本書の冒頭に次のように書かれているのも納得です。
 「見知らぬ相手との性関係は、つい最近まで、日本人の性関係の基本とされていた」
 そうなんです。つい最近まで露天風呂どころか銭湯での混浴も平気だったのが日本人なのです。これは、私自身の体験にも裏付けられた事実です。
 盆踊りは、本来は年に一度の乱交の場であった。
 黒い覆面に目穴だけを開けた踊り子による盆踊りが日本各地にある。これは、好きあっている男女が誰に顔を見られることもなく、お互いは浴衣の柄などで確認しあって逢い引きを楽しんだ証しであった。
古代日本では若い男女は近所の山に登り、気が合ったら、その場で性的な関係を結ぶという風習があった。これが歌垣(孀歌。かがい)である。
 女性をものにするには、歌垣で歌を抜露することが慣例となっていた。同時に、女性が男性を歌で負かすことによって、性的関係を拒否することも可能だった。
 『万葉集』の額田王、平安時代の和泉式部など、奈良や平安時代の日本に優れた女流歌人が輩出したのは、まさに歌垣の伝統によるものだった。
 平安時代の初め、男女の混浴を戒むという混浴禁止令が出された(797年)。これは、そのころ潔斎という神聖な行動が混浴というどんちゃん騒ぎに堕ちていたことを表している。宮廷人たちは、決して品行方正ではなかった。
 夜這い(よばい)は、南北朝時代から鎌倉時代にかけて、村落共同体の構造の基本として定着していた。女性が男性の下へ通うケースも多く、こちらは「ヨバイト」と呼ばれた。
 若者組と娘組と夜這いの三つは不即不離の関係にあった。
 青森見黒石市の盆踊り「よされ祭り」は、3日間は、まったく性が解放されていた。奈良県吉野郡十津川村の盆踊り、四国山中の木頭村の盆踊りも同じく。この盆踊りは1961年ころまでは確実に存在していた。
もっとも、日本では、性関係は女性の主導で行われることが多かった。宮本常一も、「日本では女によってなされる踊りがきわめて多い。それは、もともと男を選ぶためのものであったと言っていいほど、踊りにともなって情事が見られる」と指摘している。この点、私もまったく同感です。
 強姦はひどいし、許せませんが、不倫の多くは女性主導ではないか、私は長年の弁護士経験をふまえてそう推察しています。
 女性は弱いし、されど強し。これが私の実感なのです。建て前ときれいごとだけに終わらせない日本史を語りあいたいものです。
(2011年10月刊。2000円+税)
 朝、雨がやんで、ウグイスの高らかに鳴く声が聞こえてきました。いよいよ春到来です。日差しもやわらかくなってきて、重たい外とうを脱ぎすてたように心もいくらか軽くなりました。
 夜、自宅に帰ると、大型の白封筒が届いていました。あっ、合格したんだ。うれしくなりました。1月に受験したフランス語の口頭試験に合格していたのです。21点が合格基準点で、26点とっていました。実際にはしどろもどろだったのですが、なんとか国の情報開示のあり方を語ろうとしたことを認めてくれたのでしょう。まあ、これからもあきらめずにがんばりなさいという合格証書をもらいましたので、引き続きがんばるつもりです。

とっぴんしゃん(上・下)

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著者  山 本  一 力 、 出版   講談社
 うまいですね。読ませますね。家族で楽しむ時代小説とオビに書かれていますが、まさにそのとおりです。
 大人の私が読んでも十分に楽しめる内容ですが、小学校の中学年以上だったら、ワクワクしながら読みすすめていくのではないでしょうか。
 町内で子供たちの駆けっこが始まります。町内対抗リレーです。仲町と冬木町が走者をそれぞれ7人ずつ出して競争するのです。大人も応援団として取り巻きます。
 走る直前は食べすぎない。バトンタッチはうまくやる。第一走者で差をつけたほうが精神的に楽になるから走者の順番はそれを考えて選ぶ。いろいろ知恵をしぼりながら本番にのぞみます。
ところが、本番では稽古のときのようにはうまくいかず、足がもつれたり、波乱万丈です。日頃、足の速いのを自慢していても、バトンタッチで失敗したり、世の中、何が起きるか分かりません。そして、最後にゴールインしたのは・・・。
単なるスポーツ根性ものの話ではありません。それにしても、息もつかさず読ませる技は、いつもながら見事なものです。さすがに毎日小学生新聞に連載したものだけはあります。
 子ども時代の心に帰って、ハラハラドキドキしながら上下巻を楽しく読み通しました。
(2011年11月刊。1400円+税)
 この春はじめてウグイスの鳴き声を聞きました。まだ本格的な調子ではなく、目下、練習中という感じで、少しせわしい鳴きかたでした。
 朝の日差しもすっかり春めいてきました。チューリップもぐんぐん芽を伸ばしています。いま庭に咲いているのは、黄水仙です。

蜩の記

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著者   葉室 麟 、 出版   祥伝社
 ひぐらしのき。このように読みます。しっとり味わい深い、江戸時代の武士を描いた小説です。休日、コーヒーショップをハシゴしながら読みふけりました。
 戸田秋谷(しゅうこく)は、かつて郡奉行(こおりぶぎょう)まで勤めていた。若い頃から文武に優れている。江戸表の中老格要人にまで出世したが、今では山村に幽閉され、藩史の編纂にあたらされている。10年内に完成した時点で切腹という処分を受けている。
話は秋谷が切腹を免れることになるかどうか、なぜ切腹される事件を起こしたのか、その真相は何か・・・。スリルにみちた展開なので、片時も目が離せません。そこで、寸暇を見つけてコーヒーショップに入りこんで読みすすめ、一気に読了することが出来たのでした。この作者の筆力は、いつもながら、たいしたものです。
 藤沢周平は東北の架空の海坂(うなさか)藩を舞台にしてますが、こちらは、福岡藩に近い羽根(うね)藩ということですので、秋月藩あたりを想定しているのかなと思って読みすすめました。
 子どもたちが登場し、恋人を大切にする女性もいて、いろどりあざやか、すっきりした読後感の一冊です。
(2011年11月刊。1600円+税)

新、倭館

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著者  田代和生    、 出版  ゆまに書房   
 鎖国時代の日本人町、というサブ・タイトルのついた本です。
江戸時代、日本は完全な鎖国をしていたわけではない。朝鮮半島に、10万坪、500人の日本人の住む町「倭館」があった。全員が男性である。そこの人たちは江戸幕府公認で貿易に従事していた。
 対馬藩がニセの国王印をつかっていたことを知っても、江戸幕府はそれを貿易のために黙認した。
 そうなんですよね。長崎のオランダ出島だけでなく、また琉球朝貢貿易だけではなかったのです。
 朝鮮半島の南端の釜山に10万坪という広大な敷地をもつ「倭館」が存在した。そこに 400~500人が住んでいた。江戸時代の全期間のみならず、明治期の初めに至るまで、外国の地にあった唯一の日本人町である。もちろん、幕府公認だった。
 江戸時代には、長崎出島にオランダ商館と唐人屋敷、そして鹿児島城下に琉球館があった。
 釜山にあった倭館の歴史は古く、そして長い。創設は15世紀の初め、朝鮮王朝が渡航してきた日本人を応接するために客館として都においたことに始まる。
 新倭館(草梁倭館)は、現在の釜山の市街の中心、龍頭山公園の一帯にあった。
対馬島を支配してきた宗氏の出自は、実ははっきりしない。もともとは惟宗(これむね)という姓で、平安時代以来、九州太宰府の在庁人の流れをくむ一族であった。対馬へ渡って次第に武士化していき、自ら島主を名乗って、宗姓に改めた。
 米の生産がほとんど望めない対馬では、使船の経営権を宗氏の家臣団や特権商人に割り当てる方式(使船所務権)が中世から続いていた。家臣へ土地を与えるかわりに、船(交易権)を与えるという対馬らしいやり方がとられた。
 寛永6年(1629年)ころ、対馬藩の内部は一枚岩ではなかった。実力派の重臣、柳川氏が主家である宗氏と対立していた。柳川氏は、肥前にある宗氏の飛地領2800石のうち1000石が与えられていた。それも家康の直命だった。これは、一大名家の陪臣の地位を越えている。
 対馬では、日朝関係をとりしきるうえで、公文書を偽造していた。対馬での印鑑の不正使用を証明する模造印14個の木印が最近発見された。
 朝鮮国書の偽造は、徳川時代よりさかのぼり、豊臣時代にはじまったことが証明された。柳川氏が偽造を幕府に通報して大問題となったが、結局、幕府は、なんとか従前どおりの日朝外交を継続できるよう、宗氏の温存をはかった。
 新倭館は33年間にわたる移転交渉の末、丸3年の歳月をかけて駿工した。この誕生は、強い政治力とあわせて、豊富な資金力が可能にした。
 対馬藩の知行高は無高(むだか)。麦を石高に換しても2000石にならない。
 三井(越後屋)は、巨額の融資をして深江屋を丸抱えし、一種のダミー商社として、もっぱら対馬経由の絹織物買いを開始した。
 あの三井が対馬経由で中国産品を輸入していたなんて、初めて知りました。
 そのころ日朝間では活発な外交、貿易、交流がなされていたことを実感させてくれる本です。
(2011年9月刊。1800円+税)

幻日

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著者  市川 森一    、 出版   講談社   
 島原の乱について、またまた読ませる小説の登場です。先に紹介しました『出星前夜』(小学館)も読ませましたが、今回もなかなかの力作でした。さすがは天下に名高い脚本家だけあります。
 島原と天草は、旧領主の有馬晴信と小西行長がキリシタン大名だった影響もあって、キリシタン信徒の多い地域だった。そこで公布された禁教の触れは、逆にキリシタン信徒の結束をうながした。為政者が改宗させるために試みる残忍な拷問の数々も、かえって邪宗の門徒を増やしていくという不思議な現象を生んだ。
 キリシタンにとって、信仰のための死はパライソ(天国)の狭き門をくぐる免罪符にほかならない。一揆軍の指揮者たちは、戦闘を指揮する評定衆と、信仰生活の指導にあたる談合衆に分かれている。
 高来郡の口之津からキリシタンの布教活動を開始したイエズス会は、ポルトガル語で「コンフラリア」という信徒組織を導入した。その仕組みは、村々のキリシタン信徒が男50人に女子どもを加えた単位を一つの小組として、その小組が10組で大組となる集団をつくり、その大組の長を組親と称し、ほとんどは看坊が組親を兼ねた。
 看坊(かんぼう)は、信徒の懺悔(ざんげ)の聞き役とし、「水方」(みずかた)は洗礼を授ける役。教え方はキリシタンの教理を伝授する役を務めた。
 コンフラリアは、浄土真宗の「講」の仕組みと共通するところも多く、日本人信徒に無理なく受け入れられた。
 幕府・支配層はキリシタン摘発に躍起となったが、その先頭にたつ庄屋層がキリシタンの元締めの看坊であり、コンフラリアの組親だったから、これでは盗賊に夜警を命じるようなものだった。
 庄屋たちは、代官所には「わが村には、もはや一人のキリシタンもおりません」と何年も偽りの報告をしていた。そして、島原半島のキリシタン組織は、強靭な団結の根を芋づるのように地底に張りめぐらしていた。
 島原一揆勢も天草一揆勢も、背後に、有馬勢には有馬家の遺臣団が、天草勢には小西家の遺臣団が、それぞれ参謀格でついていた。
 ローマのイエズス会本部は、慶長2年(1597年)4月、ヴァリニャーノ宛に在日イエズス会宣教師たちの日本での軍事介入を厳禁する指令を公布していた。
 交易商人とポルトガル船長はポルトガル対日本の全面戦争を目論んでいた。ローマから帰国した4人の遣欧使節のうち、3人は司祭に叙任され、千々岩ミゲルだけが棄教して俗界に戻った。このドン・ミゲルこと千々岩清左衛門こそ、天草四郎の実父である。四郎の母親は、イザベルといって、ポルトガルのリスボアから流れてきた、船乗り相手の娼婦だった。天草四郎は、慈悲屋(枚貧施設)の施設で育てられた。つまり、背教者ミゲルが異国の娼婦に生ませた罪の子を、天命をかけた大反乱の棟梁に担ぎあげているというわけだ。
 4人の遣欧使節のうち、伊東マンショは、長崎の教会で司祭に叙任された直後に病死した。39歳だった。
 原マルチノは、慶長19年のキリシタン大追放令で、マカオに追放され、その地で60歳の生涯を閉じた。
 千々岩ミゲルは棄却したあと、ひっそりと63歳のときに長崎の貧民窟で息絶えた。
 ローマに渡った少年たちのなかで、中浦ジュリアンだけが64歳まで生きのびて、殉教した。
原城の籠城者は122万7千人ほど。およそ1万人が決戦前後に原城を脱出した。
 一揆鎮圧の戦費は、40万両、ざっと600億円、1日に7億5千万円も消耗した。
 その結果として、松倉藩は改易され、松倉勝家は斬首の末路をたどった。寺沢賢高は発狂して悶死し、この両家は断絶した。
 原城跡にもう一度行ってみたくなりました。
(2011年6月刊。1700円+税)

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