法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

馬と人の江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  兼平 賢治 、 出版  古川弘文館
 馬は、戦前、筑後平野にもたくさんいました。亡き父の実家(大川市です)でも戦前、馬を飼っていて、写真が残っています。この本は、主として東北地方の人々と馬の結びつきをテーマにしています。
 軍事権を兵馬の権(へいばのけん)と呼んだ。武芸を職能する武士にとって、馬は武威と武芸を象徴する存在だった。良馬を確保して乗りこなすことは、軍事力の優位さと、武芸の技量が秀でていることを周囲に知らしめた。馬は武士そのものを象徴する存在だった。
江戸幕府は、東北の馬、とくに南部馬を求めて馬買役人を派遣していた。いや、幕府だけではなく、全国の大名や旗本も派遣していた。
 公儀御馬買衆(こうぎおうまかいしゅう)に対して、馬買、御馬買、脇馬買(わきうまかい)と呼んだ。
 東北の馬を「奥馬」(おくうま)と呼んだが、奥馬は体格が大きく、性格は穏やかで、人によく馴れた。
 南部馬は、軍馬・常用馬として、実際の利用に適した馬であった。
 牛皮は使い勝手がいいため利用されていたが、馬皮は積極的に利用されていた形跡はない。それが19世紀に入ってから変わった。馬の尾の毛は、甲冑の飾りや、筆の材料として、また、川釣りの糸、刷毛(はけ)や、うらごし器の網などに使われた。
 馬への親しみの情から、今なお馬肉を食べるのを避ける地域がある。
 馬肉を食べる地域として有名なのは長野と熊本ですよね。熊本ではスーパーでも普通に馬肉が売られています。隣接する福岡のスーパーには見当たりませんが・・・。
 日本の在来馬は小柄だった。現在のサラブレッドは160センチほどの長身の馬だが、日本の在来馬は、140センチほど。これは、当時の平均的日本人の身長が160センチをこえていなかったことを考えたらマッチしている。
 南部曲屋(なんぶまがりや)は、人馬がひとつ屋根の下で共に暮らしていたことを如実に示している。
 岩手のチャグチャグ馬コは、さすがに戦争中は中断したそうですが、今は復活しています。3.11事故のあとも復活していますよね。
 この本には登場してきませんが、昔は炭鉱内でも馬が活躍していました。死ぬまで地底で働かされていた馬がいたのです。人間と馬とのかかわりを考えさせてくれる本でした。
(2015年4月刊。1700円+税)

遊楽としての近世天皇即位式

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者  森田 登代子 、 出版  ミネルヴァ書房
 私は、制度としての天皇制には賛成することができません。人間に無用な差別を固定化させるシステムだからです。でも、今の天皇は、心から尊敬しています。象徴天皇としての限界を守りながら、平和憲法の世界的意義を身体をはって訴えかけているからです。そこは、自民・公明の安倍内閣と真逆です。
 この本は、江戸時代の天皇即位式が庶民の楽しみの対象だったことを明らかにしています。天皇即位式のすべてではありませんが、庶民が弁当たべながら見て楽しめる儀式だったというのです。驚きました。「厳粛な儀式」とは、ほど遠い現実があったのです。やっぱり、本は読むものです。
天皇即位式を庶民が見物していた。それは絵図でも証明されている。九条兼実の日記「玉葉」には、即位式には、僧・尼と服喪者が入場禁止と書かれているから、逆に言うと、それ以外は入場できたということ。
 後醍醐天皇の即位式(1318年)にも、庶民が多く見物していた。
 このように、天皇即位式には、禁裏内に大勢の庶民が見物していた。これは公家の日記から裏付けられる。当時の天皇即位式を「厳粛な儀式」だと現代人の感覚で憶測すると、それは間違いなのだ。
江戸時代、庶民は天皇即位式の見物が許されていて、即位式で使われた調度品を見物して楽しんでいた。
 前天皇が皇位を譲り、新天皇が即位することを受禅(じゅぜん)という。前天皇は上皇となって新天皇を保佐する。前天皇が崩御(死亡)し、その結果、新天皇が皇位を継承するのを践称(せんそ)という。江戸時代より前は、天皇は生前に譲位し、上皇や法皇となって、院政を敷くのが慣例だった。
 天皇即位式のみは庶民が見物できる儀式であり、それ以外は、一般の人々には見せない秘儀とされていた。すなわち、天皇即位式は、公開することが基本中の基本だった。むしろ、「見せつける」行事だった。公家たちは、唐風装束に礼服を着ていた。その異形の服装が庶民の興味を大いに引いた。即位式の見物入場券が発行された。入場者は300人。男性100人、女性200人。
 ええっ、なぜ、女性が男性の2倍なの・・・?
 見物する庶民にとって、天皇即位式は、芝居と遊楽の一つだった。弁当を食べながら見て楽しむものだった。
 ところが、明治天皇の即位式から庶民の見物を排除してしまったのです。
 日本古来の伝統なるものは、実は、明治以来のものでしかないということです。
 それにしても、江戸時代の人々にとって、天皇とはいったいどういう存在だったのでしょうね。政権担当者でないことは明らかだったでしょうから。いわば、「象徴」天皇のようなものだったのでしょうか・・・。
(2015年3月刊。2800円+税)

天草四郎の正体

カテゴリー:日本史(江戸)

                              (霧山昴)
著者  吉村 豊雄 、 出版  洋泉社歴史新書
 島原・天草の乱には、「歴女」でなくても、大いに心が惹かれます。
 関ヶ原の戦い(1600年)から40年もたっていない1637年(寛永14年)、百姓を主体とする大規模な武力闘争事件が起きたのです。
 3万人をこす一揆群が幕府軍に皆殺しされ、この天草の「乱」は収束しました。
 私も「原城」跡に行ったことがあります。今では海に面した小高い丘があるだけです。現地に立つと、こんな狭いところに3万人もの人々が何ヶ月も生活し、最後には幕府軍によって全滅させられたというのは信じがたい思いがしました。
 この本は、天草四郎は、実は、一人ではなかったと主張しています。「四郎」とそっくりの少年たちが大勢いたことを強調しているのです。
 天草四郎は、「乱」の最後まで生きていたのですが、3万人もの一揆勢の前にはほとんど姿を現していなかったようです。不思議です。ごくごく狭い城内にいて、天草四郎が姿を最後まで3ヶ月のあいだ一揆勢に見せず隠しとおせたというのは、どういうことなのでしょうか・・・。
 島原・天草一揆(島原の乱の別名)の1年ほど前に、松倉・寺沢両家から若衆たちが集団で逃走していた。こんなこと、ちっとも知りませんでした。
 著者は、「島原の乱」を次のようにみています。
 この一揆は、百姓主体の一揆ではあるが、いわゆる百姓一揆ではない。蜂起の時点で領主側(代官)の血を流し、領主側との「合戦」と城攻めをくり返しているように、訴願に基礎を置く百姓一揆的な妥当性を切り捨てた、百姓一揆への退路を断った武力闘争、一種の「戦争」であり、有馬・小西の時代のような「キリシタンの時代」に回帰することを求めた、ある種の「聖戦」であった。
 島原・天草の状況は、キリシタン信仰へ立ち帰ったというより、ひそかに信仰を継続していた人々が信仰を公然化させたという形跡が強い。
 原城に籠城した男女は3万人以下の2万8千人ほど。軍事指揮にあたる軍奉行に牢人層が配され、村役人クラスが村々を持ち場ごとに配置した。城中は、「凝縮された村社会」を基礎にした籠城体制をとっていた。
 寛永12年末に、松倉家から、47人の家臣が退去し、牢人となった。そして、そのなかから一揆の首謀者があらわれている。
 一揆勢の盟主であり、総大将である四郎のもとに、数十人の若者・少年が組織されていた。
 幕府は、天草に「わらんべ共」は、生け捕りにして、火あぶりに処せられるべきとの命令を出した。むき出しの敵意を示している。
 天草四郎なる人物は、その最期まで一揆の全過程を通じて一揆勢の前に姿を現したことを確認できない。代わりに出てくるのが、「四郎のごとく」出で立ちをした四郎の分身たち、「十六、七の前髪の若者」たちだった。その存在は、具体的であり、可視化されている。
 一揆勢には、20人ばかりの「四郎のごとく」出で立ちをした「16,7の前髪の若者」たちがいて、どれが四郎本人であるが、教えられていなかったのではないか・・・。
 私は、この指摘を受けて、なるほど、そうだったのか・・・、と思わずつぶやいてしまいました。いま、原城跡には天草四郎の銅像が立っています。よく写真で紹介されていますが、海に顔を向けています。
 一揆勢はポルトガル船の救援を待っていたという説があります。平戸のオランダ商館長は、1638年5月1日(寛永15年3月18日)の日記に、四郎について、17,8歳の無名の人で、その首は見つからなかった。行方不明になったもの思われる」と書いているそうです。私も、なんとなく、そういうことじゃないのかな・・・、と思いました。
 世の中は、不思議だらけです。ですから、面白いのですよね。
(2015年4月刊。950円+税)

江戸の飛脚

カテゴリー:日本史(江戸)

                               (霧山昴)
著者  巻島 隆 、 出版  教育評論社
 江戸時代は、今の便利な宅急便こそありませんが、手紙や物を送るシステムは、かなり整備されていたようです。旅先で買った瀬戸物を自宅宛に送り、軽装のまま旅を続けることができました。私も宅急便を旅先からいつも利用しています。車中・機中で読み終えた本を自宅あてに返送するのです。これは本当に楽ちんです。
 江戸時代の旅行者は、旅先で買った荷物を道中の負担とならないよう、さまざまな方法で目的地へ先に送った。
 宛先と同じ方向へ赴く者に手紙を託す幸便(こうびん)も利用している。
 飛脚問屋は、手紙だけでなく、品物も運んだ。
 幕府専用の継飛脚がいた。御状箱(手紙を入れる箱)の人足のことである。道の真ん中を「エイさっさ」と掛け声とともに走っていく。旅人は、継飛脚が来ると、道の両脇に避けた.継
飛脚は、川明けの朝一番の渡船で川を渡ることが認められていた。
 武家専用の「三度飛脚」というものがあった。大坂と江戸を結ぶもので、大坂城定番の武家荷物と書状を運んだ。月三度の発送だったことから、三度飛脚と呼ばれた。あとでは荷物が増えたので、月3度では間にあわなくなって、月3度より増やしたが、名称の「三度飛脚」はそのまま残った。
 飛脚問屋の荷物延着の原因は、川支(川止め)と馬支(うまづかえ)だった。問屋場で馬が不足している状況を馬支と言った。
米飛脚は、先物取引をする地方の商人に、日々上下変更する米相場の情報を伝達した。
 吉田松陰は、手紙を飛脚と幸便に託した。
 大名(武家)飛脚は、石高や職務がなく、上級から下級武士まで手紙や荷物を運んだ。
 京都には、宛先別に100軒もの飛脚問屋がひしめきあっていた。
 江戸時代には、すでに為替手形が流通していた。
 江戸時代は現金を運ぶこと、それなりのリスクがありました。強盗に早変わりするのです。
 飛脚問屋は、得意先や交通上の関係者などへ、しきりに融資していた。
 飛脚問屋は、小口融資(20年初登場)を行い、金融業も兼ねていた。
江戸時代の飛脚の実際の姿を研究成果をふまえて、平易な文章で明らかにしています。
 やはり、いつの世も情報は宝です。
(2015年2月刊。2600円+税)

御松葺騒動

カテゴリー:日本史(江戸)

                              (霧山昴)
著者  朝井まかて 、 出版  徳間書店
 尾張徳川藩を舞台とする話です。作家の想像力とは、すごいものです。たっぷり朝井ワールドに浸って楽しませていただきました。
 尾張藩は徳川宗春時代の放漫政治が今なおたたっていて、借金を抱えて四苦八苦しているというのに、藩士たちの生活には緊張感が認められない。それを主人公が一人で改革しようと躍起になるのですが・・・。
 空回りしてしまって、ついには御松茸同心(おまつたけどうしん)を命じられて、都落ちさせられます。要するに、江戸屋敷づとめからの左遷です。
 才能ある自分がなぜ左遷させられるのか納得できないまま尾張へ出向き、山の中の仕事に向かうのでした・・・。
 松茸ができるのは黒松ではなく、赤松。その生成過程が紹介されます。
 松茸が四、五分開きまでの物が御松茸になる。地表に出たものは傘が開ききっているので上納できない。地表から半寸ほど頭を出したときに掘りとなる。手を差し入れて根元から押し上げるように採取する。
 軸が肉厚で白く、太く、かつ湿り気を帯びていなければ、風味は格段に落ちる。松茸でさらに肝要なのは香りと芳しさだ。匂いは傘にある。早採りしても匂いが足りないので、上納品にはならない。このように、松茸の収穫はごく短期間に限られる。
松茸の収穫をどうやって確実にするのかということが、次第に才能ある若き武士の挑戦すべき人生の課題となっていくのでした。
 主人公を取り巻く人々も魅力的な個性あふれる人物に描かれていて、しっかり朝井ワールドを楽しむことができます。
(2014年12月刊。1650円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.