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カテゴリー: 日本史(江戸)

料理通異聞

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 松井今朝子 、 出版  幻冬舎
 江戸にあった有名な高級料亭「八百善」の成り立ちを活字にした「舌品」の時代小説です。「八百善」という存在は前から知っていましたが、どうやら今に続いているようです。なんと十代目がおられるとのこと、すごいですね。
 著者の料理に関する描写は並はずれています。その素材の扱い方から調理法まで、よくもここまで調べたものだと驚嘆していましたら、著者自身が「あとがき」で曾祖父の代から続いている京都の料理屋(割烹『川上』)の長女として生まれ育ったというのです。
もちろん取材もされたのでしょうが、ともかく、美味しい料理をつくる工夫が微細に語られていて、それだけでも心が惹かれます。
どんな料理も手間のか方ひとつで味がまるで違ってくる。料理は何もないところで一から生み出すものではない。昔から伝わる仕方にほんの少し工夫を加えたり、しっかりと手間を欠けることで独自の味を創るのだ。
さばいた魚をすり身にするときには、並みならぬ丁寧さが他に優る味を生み出す。一方で、魚をさばくときには、思い切りの良さが要る。
何事も手早くして、熱い汁は熱いうちに出すのが、やはり料理の肝腎かなめだ。
 茶漬けを所望する客に対して、時間をかけて食材から水まで、手間ひまかけて取寄せて差し出した。そして二人分で一両二分を請求した。ふつうなら36文、安い店なら12文でも食べられるお茶漬けに、「八百善」が二人分で一両二分の値をつけたという話は江戸中に広まった。
「八百善」には、将軍様まで立ち寄ったようです。
「八百善」は『料理通』という本を刊行していますが、当時の著名な文化人である、大田南畝(なんぽ)などが序文や挿画を寄せています。当時、ベストセラーになりました。
油揚げをつまんで口元に寄せると日向(ひなた)臭いような匂いがした。噛めば大豆の甘みがじわじわと口中にひろがって、善四郎(主人公です)は母親の懐に抱かれたようなほっこりした気分だ。干瓢(かんぴょう)の出汁は強い主張がなくとも、大豆のほのかな甘みを損なわずに、巧(うま)く引き立てている。
 どうですか、うまいですよね。ついつい美食のワールドに引きずり込まれてしまいます。
 江戸時代の食文化の極みがよく再現されていると、読みながら何度も驚嘆しながら大いに楽しませてもらいました。
(2016年12月刊。1600円+税)

あきない世傳・金と銀(一)(二)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 髙田 郁 、 出版  角川春樹事務所
 うまいです。読ませます。しびれます。いえ。身も心も温まります。小説って、こうじゃないといけませんね。私は、感嘆のあまり、一人でなんども頭を上下させました。
 大阪の商人の世界にけなげな少女が入っていき、商人として成長していく過程が刻明に描かれていきます。主人公は幸(さち)という女の子です。学者だった父が早く死んだため、大阪の呉服商「五十鈴(いすず)屋」に女衆として奉公することになります。その女衆とは、要するに女中です。店の商売にはタッチせず、あくまで裏方として働くのです。ところが、主人である三代目徳兵衛が早くに病気でなくなったことから、呉服商は経済危機に陥ります。そこに幸が活躍する道が開けてくるのです。
 幸の父親は、商売なんかに関わるなと言っていました。
「自らは何も生み出さず、汗をかくこともせず、誰かの汗のにじんだものを右から左へ動かすだけで金銀を得るのが商人だ。商とは、即ちいつわり(詐)だ」
 これに対して「五鈴屋」の番頭は幸に次のように諭します。
 「真っ当な商人は、正直と信用とを道具に、穏やかな川の流れをつくってお客に品物を届ける。問屋も小売も、それを正業に生きるから、誰の汗も無駄にしないように心を砕く。それでこそ、ほんものの商人なのだ」
 そして、幸がついに「五鈴屋」の商売再建へ乗り出していくのです。このころ呉服商は店売りではなく、なじみの客を訪問して注文をとってきて売る方式のみ。ところが、近江商人が現銀掛値なしの店売りを始めたのでした。
 「五鈴屋」も一度やって、在庫を一掃することができました。では、すぐにこちらに乗りかえるかと思うと、そんな簡単に商売の方法を変えることにはなりません。
幸は、呉服屋仲間に認められるのに成功したのですが、それは「商売従来」を暗唱できたからです。
「挨拶、あしらい、もてなし、柔和たるべし」
見事なストーリー展開です。簡単に読み飛ばすのがもったいないほど、江戸の呉服商の世界にぐいぐいと引きずりこまれていきました。まことに、いい小説とはありがたいものです。読み終えると、気分がはつらつとしてきます。続編が楽しみです。
 
(2016年3月、8月刊。580円+税)
東京銀座の映画館でデンマーク映画『ヒトラーの忘れもの』をみました。
第二次大戦中、デンマークを占領していたナチス・ドイツ軍は連合軍の上陸作戦を防ぐためにデンマーク海岸だけでも200万個という大量の地雷を敷設しました。
終戦後、その大量の地雷の処理を捕虜になったドイツ兵にやらせたのです。
2000人のドイツ兵が地雷処理にあたらされたのですが、その大半が15歳から18歳までの少年兵でした。そして、地雷処理はとても危険な作業であるため、慣れない少年兵の半数近くが死亡ないし重傷を負ったのでした。
この映画は、デンマーク国民すらあまり知らない歴史的事実を忠実に再現しています。ははじめはナチス・ドイツ軍が餓死しようが爆死しようが当然だと考えていたデンマーク軍の軍曹が、大ケガしたドイツ兵が「ママ、ママ」と泣き叫ぶのを見て、ああ、やっぱり、まだ子どもなんだと思い考えを変えていくのです。
とても見ごたえのある映画でした。
福岡県大牟田市にあった連合軍捕虜収容所の所長だった日本軍中尉が戦犯として処刑された事実がありますが、それを映画にしたようなものでしょうか。この国では、そんなことはタブー視され、「自虐史観」だとか野次を飛ばされて、まともな議論すら許されません。
おかしな日本になってしまいました・・・。

江戸看板図聚

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 三谷 一馬 、 出版  金曜日
 ヨーロッパの街並みと日本の街路との最大の違いは看板にあると思います。色と形、ネオンサイン、電光掲示など、それこそありとあらゆる工夫を凝らした看板が商店の前だけでなく、ビルの壁一面を飾っています。
 夜のイルミネーションの派手派手しさにも独特のものがあります。
 フランスの店も、もちろん看板は出しています。ただ、街並みは厳しい景観規制が働いているようで、あくまで調和優先で、控え目なのです。ですから、落ち着いた気分で街並みを散策することができます。
この本は現代日本の街路にあふれる看板が、実は江戸時代の伝統をきちんと受け継いでいることを如実に証明しています。
 看板の重要性が増すのは江戸が開かれて以降のこと。商業が発展し、京阪の商人は江戸に商品とともに看板を送り、「下り看板」と称して商品に権威づけをした。
 商家が繁盛すると、看板の権威は一層まし、大金をかけて大看板をつくったり、漆や金銀を使った豪華な看板が目につくようになった。
江戸時代の看板は、看板屋のほか、武士、僧侶、学者、書家、作家、画家など、さまざまな人が手がけた。
有名な良寛が書いたものと伝わっている飴屋の看板もある。
看板書きの書体は、唐様(からよう)でもなく、御家流でもなく、さりとて提灯(ちょうちん)屋のものとも違っていた。
「一膳めし」屋の看板もありました。「二八そば」だけでなく、「二六そば」の看板も紹介されています。「貸本屋」もあります。もちろん新刊本を売る店もあります。
よくぞこれだけの看板の図を文献から集めてきたものだと驚きます。
 眺めているだけでも楽しい図聚です。また、江戸時代を知るためには欠かせないものだとも思いました。
 
(2016年9月刊。1250円+税)

池田屋事件の研究

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 中村 武生 、 出版  講談社現代新書
 幕末の京都に起きた有名な池田屋事件の顛末とその背景について、豊富な資料をもとにぐっと掘り下げた本格的な研究書です。400頁をこす新書ですから、ずっしりとした手応えがありますが、内容も重さに負けていません。
 池田屋事件は元治元年(1864年)6月5日に起きた。そのころ、各地で攘夷浪士による挙兵が相次いでいた。大和の天誅組の乱、但馬生野の変、水戸の天狗党の乱、長州毛利家の率兵状況(禁門の変、蛤御門の変)。
 池田屋事件のきっかけとなったのは、京都・四条小橋西詰真町の桝屋喜右衛門こと古高(ふるたか)俊太郎の逮捕だった。その6月5日の朝、古高(当時36歳)は自宅で新撰組に捕えられた。それを知った長州毛利屋敷は激しく動揺し、新選組の壬生屋敷を襲って、暴力に訴えてでも古高を奪還しようとなった。池田屋に新長州浪士たちが集まったのは、その具体化のためだった。
 なぜ町の一介の商人を毛利家中が見殺しにせず、救出しようとしたのか・・・。それほど、古高は重要人物だった。
新撰組は文久3年(1863年)3月に創立された、京都守護職会津松平容保所属の浪士集団。畿内で暗躍する新長州の浪士集団に対抗するため、会津松平家は同じく浪士集団の必要性を感じていた。
 古高は、皇族・堂上・長州毛利家をはじめとして広く交流しており、情報が集中し、面談場所として解放されていた。したがって、その存在を新撰組を気づくのは必然でもあった。
新撰組が古高を拷問にかけたとしても、その具体的供述によって初めて池田屋襲撃がなされていたというものではない。新撰組は古高の逮捕前から、浪士の潜伏場所として、20カ所あまりを確認していた。そこで、新撰組は、会津藩、一橋家、桑名藩に応援を頼んだから、応援組が遅れたので、待ちきれずに新撰組は行動を開始した。
 桂小五郎も新撰組が池田屋を襲撃した当時、その場にいて、すぐさま脱出して屋根伝いに逃げて対馬屋敷へ入った。
新撰組に襲われて池田屋内で戦死した者が7人か8人いるのは確実だが、それが誰なのか、今なお確定していない。
池田屋事件の直前、近藤勇は新撰組の解放を請願していた。近藤勇は、自分たちを攘夷を行う「尽忠報国」の士と位置づけていた。攘夷が実行されず、京都の市中見回りに配属されるのをよしとしなかった。しかし、禁門の変のあと、変化した。禁門の変のあと、近藤勇は攘夷よりまず長州征討を行うべきだと主張するようになった。そして、一・会・桑(いっかいそう)が近藤勇と新撰組を手離さなかった。薩長にとって政局打開の最前線の敵は、一・会・桑だった。その一・会・桑の最重要軍事力こそ新撰組だった。ここで、たかが150名程度の兵士と考えてはいけない。150名というのは決して少なくないし、軍事的精鋭によって構成されている。
 池田屋事件からまもなく起きた禁門の変で、長州は惨敗する。ところが禁門の変で反長州の立場をとった薩摩が、こんどは一・会・桑とことなり長州の社会復帰を助けた。あくまで毛利家の羽体化を望む一・会・桑との決戦を覚悟したのが、薩長同盟。それが長州征討の失敗につながる、会津が長州と全面戦争を行う覚悟を決めた事件として池田屋事件は位置づけられる。
 5年前に刊行された本です。絶版になっていたので、ネットで古本を入手しました。その後、研究はさらに進んでいるのでしょうか・・・。
(2011年10月刊。1200円+税)

長崎奉行の歴史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 木村 直樹 、 出版  角川選書
江戸時代の長崎奉行というのは、たくさんの役得がある美味しい地位かと思っていましたが、意外に気をつかう、大変な激職だったようです。
長崎奉行は、幕府の老中の配下にあって、幕府の遠隔の直轄地を支配する遠国(おんごく)奉行の一つ。定員は2名で、うち一名は長崎で勤務する在勤奉行。もう一名は江戸にいて、幕府の諸役人たちと調整をおこなう在府奉行。
在府奉行は7月下旬に江戸を出発し、9月に長崎に到着、それまでの在勤奉行と引き継ぎする。交代した奉行は9月下旬に長崎をたち、11月には江戸に戻ってきて、翌年夏の出発まで、江戸城内で勤務する。
長崎奉行所は、長崎には二ヶ所あるが、江戸城内にはない。
長崎は18世紀はじめの最盛期には6万人の町人をかかえる九州屈指の大都市であり、日本各地の商人や遊学する者など、出入りが多い。
長崎奉行は身分は町人だけど他役人という下級支配層という地元出身の町役人を2千人を部下としている。長崎は6人に1人は役人と称する都市であった。長崎奉行の平均的な在職期間は4年。
正保4年(1647年)、ポルトガル船2隻が長崎に入港してきた。これに対して、九州各藩は競って将兵を送り込み、5万人の軍勢が長崎湾の内外に展開した。船を横に並べて仮設の船橋を構築してポルトガル船を長崎湾内に封じ込めた。結果としては、双方とも発砲することなく、平和裸に終結した。
キリシタン摘発も長崎奉行の仕事の一つだった。1657年(明暦3年)の大村郡崩れ(くずれ)では600人以上のキリシタンが捕まっている。18世紀の長崎奉行は、目付から就任したパターンがとても多い。次は、他の遠国奉行からの就任。とりわけ佐渡奉行からの就任が目立つ。18世紀半ば以降は、勘定奉行が長崎奉行を兼任するようになった。
貿易を幕府の財源の一部として期待し、そのために勘定奉行が直接乗り込んでくると、どうしても長崎の町人の反発をかってしまう。幕府の利益や国家的利益と、長崎会所に代表される長崎に留保されて都市長崎に還元される利益は、相反していた。
長崎奉行には、たしかに役得があった。長崎奉行に就任するときには、1000両を幕府から借りることが出来た。そして、わずか1年で返済することになっていた。それほど役得は大きかった。
名奉行は、長崎の市中に利潤が留保されないように、いろいろ工夫をこらした。
19世紀に入ると、長崎奉行は、国際情勢の変動に気を配りながら長崎の都市支配をすすめていくという新しい段階に入った。
長崎奉行という職種の変遷を江戸時代を通じて把握しようとする意欲的な本でした。
(2016年7月刊。1600円+税)

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