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カテゴリー: 日本史(江戸)

島原の乱

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 神田 千里 、 出版  講談社学術文庫
九州で見るべき古戦場跡と言えば、原城と田原(たばる)坂ですよね。ちょっと違いますが名護屋城も欠かせません。もちろん私はいずれも行ったことがあります。行っていないのは龍造寺隆信が討ち取られた沖田畷(おきたなわて)という島原半島の古戦場です。今、どうなっているのでしょうか。きちんと保存・表示されているのでしょうか。ご存知の方はお教えください。
さて、島原の乱です。この本にも参考文献として紹介されている吉村豊雄の三部作はその詳細な記述に驚嘆しました。小説としては飯嶋和一の『出雲前夜』が読ませますよね。市川森一の『幻日』にもぐいぐい惹かれてしまいました。
この本は、2005年に中公新書から刊行されたものを、その後の批判を受けて「あとがき」で反論も加えたものです。
原城の戦いで、幕府側の鎮圧軍は総勢12万人。その1割の1万2千人の死傷者を出した。これに対して籠城軍3万7千人は山田右衛門作を除いて皆殺しになったとされています。ところが、著者は捕虜も籠城軍には逃亡した者もいるという説を肯定しています。最終決戦の前までに1万人が城から抜け出したとも書いています。
籠城していた3万人もの人々が本当に皆殺しになったのかどうか、知りたいところです。また、山田右衛門作は天草四郎の側に支えていた重臣の一人なわけです。幕府軍と通報していたことがバレて裏切り者として処刑されようとしたところ、一人だけ助かったというのですが、その救出の過程も具体的に知りたいところです。激戦が続いているなか、重臣の一人だけが助かるなんて、嘘みたいな話ではありませんか・・・。
著者は、一揆の目的はキリシタン信仰の容認であり、飢饉も重税も、こうした要求を先鋭化されるきっかけに過ぎなかったと考えています。
一揆の参加者はキリシタンといっても、いったんはキリシタンを棄教し、再びキリシタンに復帰した人々が大半です。つまり、「転びキリシタン」が主体なのです。ところが、同じ「転びキリシタン」であっても、天草の一部の地域の人々は一揆に加わらなかったというのです。それは、当時の日本に存在したキリシタンが一枚岩ではなかったことを反映していると言います。
キリスト教宣教師内部での派閥争いが、島原の乱に対するキリシタンの帰趨に影響を与えたと考えられる。
一揆の指導部は有馬家旧臣たち、合戦に習熟した武士身分の牢人たちだった。
当時は、藩の軍隊といっても、少数の武士に多数の「百姓」が従うという構成をとっていた。このような藩の軍勢と対峙するキリシタン一揆側も、天草四郎を大将とし、これを擁立した少数の牢人たちを中村として村の百姓たちを大量に動員したものであった。つまり、身分的な構成内容は同様のものだった。
秋月の郷土資料館に秋月藩の原城合戦絵巻があります。これは一見の価値があるものです。そこには「百姓」の軍隊というイメージは描かれていないように思いましたが、私が見落してしまったのでしょうか・・・。
文庫本ですが、島原の乱に関する本格的な研究書で、大変知的刺激を受けました。
(2018年8月刊。1090円+税)

出島遊女と阿蘭陀通詞

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 片桐 一男 、 出版  勉城出版
江戸時代は厳しい鎖国がとられていたというのが定説でしたが、最近では、案外、日本は世界の情報をさまざまなルートで入手していたとされています(と思います)。
その窓口のひとつが、長崎は出島にあったオランダ商館です。そこに出入りするのは通詞(通訳です)と商売人(商工業者)だけでなく、一群の遊女たちがいました。
オランダ商館にいる異人たちは、その大半が10代か20代の青年たちでしたから、日本人女性との交流も盛んであり、実は商館内に遊女たちが寝泊りしていたようです。
日本最古の仏和辞書も、このオランダ語通詞たちが、オランダ語によるフランス語の辞書を翻訳してつくられたものでした。これは最近のNHKラジオ講座で得た知識です。長崎の歴史・文化博物館に原物が展開されているそうです。ぜひ見てみたいです。
この本によると、オランダ商館の人々が日本語を習得することは禁じられていたとのこと。キリスト教の布教を恐れたことと、密貿易を未然に防止する必要からのようです。ですから日本人通詞たちが活躍するわけです。ところが、出島での宴会風景を描いた絵(有名な川原慶賀の、写真のように精密な再現図)によると、そこに遊女が存在するのですが、必ずしも通詞がそばにいるわけではありません。要するに、出島に出入りする遊女たちは、どうやらオランダ語を聞いて話せていたらしいのです。
そして、遊女たちがオランダ人に宛てた手紙がオランダのハーグにある国立文書館に100通もあることが判明したのです。江戸時代の女性の手紙ですから、私にはほとんど読めませんが、それでも、いわゆるカナクギ流の文字ではなく、流れるような草書体の立派な筆づかいです。
著者は、オランダ語通詞たちが、ルビのようにオランダ語を手紙に書き添えているのに助けられて、その100通あまりの遊女の手紙を解読したのです。本当に学者って、すごいですね。盛大なる拍手を贈ります。意外な事実を知りました。オランダ人とのハーフの子どもたちもそれなりに生まれたことでしょうね。最近よんだ本(泡坂妻夫『夜光亭の一夜』)に、そのような生まれの遊女が登場します。
(2018年4月刊。3600円+税)

刀の明治維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 尾脇 秀和 、 出版  吉川弘文館
刀というと武士の特権として、武士だけが腰に差していたというイメージがあります。
しかし、江戸時代は、百姓も町人も刀を腰に差していたのです。ええっ、そんなバカな・・・。
でも、旅する男たちを描いた絵には、たしかに腰に刀を差しています。百姓も町人も、旅には脇差という短い刀を帯びた。なあんだ、百姓・町人が差していたのは短い刀(脇差)だけだったんじゃないか・・・。そう思うのは早トチリなんです。
たとえば、伊勢神宮への参拝を案内する御師(おんし)は、身分は百姓なのに、腰には大小の二本の刀を差していた。また、旅籠(はたご)を営む百姓が腰に大小二本の刀をさしている絵もあります。
刀を差している(帯刀)者が武士とは限らないのです。江戸時代には、「帯刀」した姿で歩く、武士以外の人間がかなり存在していたのでした。
当時の絵が紹介されていますから、これは疑うわけにはいきません。
江戸時代、刀と脇差の組み合わせを「大小」と呼び、この二本を腰に帯びることを「帯刀」と呼んだ。そして、この「帯刀」の歴史は、実は、それほど古くなかった。それは、戦国時代の末期以降の風俗であった。
中世の合戦は、馬に乗り、弓矢を主体としていた。太刀と腰刀を2本セットとみて特別視し、それを武士の代名詞とする文化は、中世には存在しなかった。
刀と脇差を一緒の帯に差し込む風俗は、戦国時代に、雑兵や下級の武士たちから発生したものと考えられる。
江戸幕府は、刀を差すことはもちろん、刀剣の所持も禁じず、刀・脇差の没収もしなかった。江戸という都市部において、刀は、武士と町人とを外見で決めて区別するための身分標識ともなっていた。
江戸時代の後期になると、幕府は長脇差をよばれるものだけは、強い態度で禁止した。
百姓・町人は、脇差を帯びていた。当初は常に差していたが、やがて吉凶と旅行などの際に限るようになった。したがって、江戸時代の民衆が「丸腰」だったというのは、近現代につくられた「まったくの虚像」である。
神職は帯刀していた。江戸時代は神事の際は帯刀することになっていた。
19世紀になると、御用町人への帯刀許可の増加によって、大小を帯びた町人が、再び江戸を闊歩(かっぽ)する状況が生じた。
刀と武士、そして町人と百姓との関わりが深く分析されています。大変楽しく読み通しました。知らないことって、本当に多いですよね。
(2018年8月刊。1800円+税)

木喰上人

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 柳 宗悦 、 出版  講談社文芸文庫
木喰(もくじき)上人(しょうにん)とは、真言宗(真言宗)の僧であって、江戸時代にたくさん輩出した、木喰戒(もくじきかい)を守る僧を呼ぶ。
著者が大正14年から15年にかけて全国を調査し、5百個の仏躰を目撃してまとめたのが本書です。
木喰上人は、北海道から四国、九州まで足を運んでいます。安永2年から寛政12年まで、28年間に及ぶ旅です。
木喰戒は、火食を避け、また肉食を摂(と)らない。しばしば、木の葉や木の実で足りた。五穀やソバ粉を生のままとった。ソバ粉は特に好むものだった。チベットを旅した日本人僧もソバ粉を主食としていたことを思い出しました。それでよく生きられたものだと思いますが、なんと80歳の長寿と健康を誇ったというのです。少量の食物で、全国を旅して、病気にかかることなく80歳まで長寿をまっとうしたなんて、なんと素晴らしいことでしょう。
このほか、温泉に浸るのは好んでいますし、お酒もたしなんだようです。
ときに弟子が同行していますが、基本はひとり旅です。
木喰上人の彫った仏像はいかにも独創的で、見る人に圧倒的なインパクトを与えます。固定した形式からは自由。伝統への執着がなく、また伝統への反抗もない。木喰上人の仏像は、無心から生まれた。
木喰上人の仏像には模倣の跡がない。したがって、何らマンネリズムがない。ある作風への固守もなく、また慣例的な様式もない。旧習への追従もなく、同時に新案への作為もない。因襲への愛も、憎しみもない。
木喰上人が仏を刻んだのは、いつも夜だった。誰も、それを見ることは許されなかった。開眼(かいげん)の日までは、不浄の眼に触れるべきものではないからである。
昼間は木喰上人にとってことのほか多忙であった。なぜなら、病める者に治療を施していたから。
わが心、にごせばにごる すめばすむ すむもにごるも 心なりけり
木喰上人の仏像は、円突上人の仏像と似ています。どちらも素朴さをありありと残しつつ、いかにも尊い仏様の表情です。
村々をめぐりながら、仏像を刻みながら、村人たちにどんな話をしたのか、どうやって91歳という長寿を木喰戒を尊守しながらもまっとうすることができたのか、とても興味深く、惹きつけられた文庫本です。
(2018年4月刊。1800円+税)

戊辰戦争の新視点(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 奈倉 哲三 ・ 保谷 徹 ・ 箱石 大 、 出版  吉川弘文館
幕末から明治はじめにかけての戊辰戦争のとき、ヨーロッパやアメリカから大量の銃が日本に輸入されていたことを知りました。
イギリスから制式軍用銃だったエンフィールド銃(エンピール銃)が15万挺ほども入ってきていた。フランスのナポレオン3世はシャスポー銃を2000挺、幕府に贈った。
フランス式大砲である四斤砲は分解して搬送可能だったので、道路条件が悪く山路でも搬送できたため、多用された。
幕末維新期の日本には、全部で70万挺の小銃があったと推測される。そして、新鋭の後装連発銃も少なくなかった。
オランダの歩兵銃はゲベール銃という。有効射程は100メートルほど。
アメリカの連発式のスペンサー銃は弾薬の補給に苦労した。
イギリスのアームストロング砲は戊辰戦争で使われたことが確認できるのは、佐賀藩の二門の6ポンド砲だけ。
三井は、開戦直前に薩摩藩に1000両を献金した。その前、三井は琉球通宝の引換を請負い、薩摩藩の御用達となった。同時に、将軍の家族の御用達をつとめていて、天璋院篤姫に呉服を納めている。三井は京都を本拠としたが、大阪にも店があり、大阪町人としての顔をもち、大阪の大両替商たちと縁戚であった。
秩父・飯能あたりでは幕府軍に対する親近感があり、民衆も幕府軍を支えて新政府に抵抗した。ところが敗戦が続くなかで「賊軍」と決めつけられ、殺害されていった。
面白いのは、このような政府軍に倒された人たちの墓が今も残っていて、「脱走様」と呼ばれて徴兵忌避の信仰対象となっていたということです。「脱走様」の墓所を参拝すれば、徴兵を逃れられると地域で伝わっていた。つまり、兵役逃れの信仰対象だったのです。
みんな戦場になんか行きたくないし、戦死者になるより生きて働いていたいと考えていたのです。もっとも戦争とは無縁のはずの年寄りたちが若者たちのホンネを代弁していました。
(2018年3月刊。2200円+税)

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