法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: 日本史(江戸)

日光の司法

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 竹末 広美 、 出版  ずいそうしゃ新書
「百姓は菜種(なたね)きらすな、公事(くじ。訴訟)するな」
という呼びかけが近世の村社会で叫ばれました。
ということは、それだけ実は裁判が多かったということです。
当事者は、勝つか負けるかの必死の請願・訴訟を展開した。日光宿は、そんな人々を助け、また円滑な「御用」の処理のために奉行所と村人の間にあって活躍した。
日光奉行の職務の一つに公事(くじ)訴訟があった。江戸時代、争論や訴訟といった「公事止入」は、村の秩序を維持するうえで、戒めるべき行為だった。身をもちくずし貧乏になる原因の一つとして、「公事好み」(訴訟を好むこと)があげられた。
しかし、実態は、地境や入会地・用水をめぐる村内の争いや村と村の争論、あるいは私人間の金銭貸借訴訟など、領主や村役人層が、公事出入の非を百姓たちに絶えず、説きあかさなければいけないほど、公事出入は発生していた。
日光には、日光目代(もくだい)や日光奉行と深く関わりあい、「日光宿」(にっこうやど)と呼ばれて活動した公事宿が3軒ないし6軒ほど存在していた。
公事宿の活動を今に伝える史料として済口証文(すみくちしょうもん。和解調書)と、願書が残っている。
日光宿は、謝礼を受けて、訴訟になれていない者たちの訴訟行為を助けた。目安や願書等の文書を作成したり、訴訟に必要な知識・技術を提供した。ときには、本来、差添人(介添人)となるべき町村役人とともに奉行所まで行き、白州にのぞんだ。
江戸時代、幕府・領主は、訴訟ができるかぎり当事者の自発的な内済(ないさい。示談・和解)によって決着させる方針だった。これは日光目代・日光奉行も同じで、この内済を扱う人を「扱人」(あつかいにん)とか「内済人」と呼んだ。日光領では、日光宿も有力名主や年寄と並んで扱人となっていた。
尋問や命令の伝達のため役所へ出頭を命ずる差紙(さしがみ。召喚状)を、日光宿も日光奉行所から当事者ないし関係人に送達した。すなわち、日光宿は、日光奉行所やその関係役所の上意下達の伝達期間として機能し、下役的役割を担っていた。
著者は日光高校の教員です。とても分かりやすく、日光奉行所の活動の全貌を理解できました。昔から日本人は訴訟嫌いどころか、訴訟大好きだったことがよく分かる本です。
(2001年4月刊。1000円+税)

江戸の目明かし

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 増川 宏一 、 出版  平凡社新書
江戸時代、目明かしがもっとも使われたのは天保の改革のころ。ということは、江戸も末期ということになります。
天保4年(1833年)に判決が言い渡された「三之助事件」では、処罰された士分の者だけで33人、百姓・町人をあわせると総勢64人が処罰された。与力・同心そして目明かしである。
水野忠邦が主導した天保改革の真の狙いは思想統制にあった。反対意見を封殺して、幕府の権威を取り戻そうとした。そのために出版規制を強めた。
このころ、かるた賭博もさいころ賭博も、特別な賭場ではなく、普通の民家でおこなわれ、商人、職人、主婦が気軽に参加していた。
目明かしは、元犯罪者であることが多い。目明かしになる最初のきっかけは、自分が捕えられたときや入牢中に、他人の犯罪を訴えること。訴えた犯罪者は減刑されたり、特赦された。幕府は、犯罪捜査に役立つとして、これらの元犯罪者を目明かしとして採用した。元は犯罪者であった目明かしの弊害はすぐに表れた。江戸市中では、目明かしと自称して強請(ゆすり)をする者があとを絶たなかった。
このころ、現在の東京23区より狭い地域に60万人の町人が住んでいた。これを、わずか100人弱の同心で取り締まるのは不可能だった。そのため、同心の補助として目明かしが必要とされた。しかし、この目明かしは、お金をむさぼりとって賭博を見逃した。
目明かしは、奉行所の収入から同心を通じて定期的に手当を与えられていた。ところが、目明かしたちは、些細なことで町民に難癖をつけて強請(ゆす)ることを日常的におこなっていた。目明かしとその子分たちは、権力公認の暴力団ともいえる存在だった。
債権者より依頼されて借金の取立てをするときには、債務者に犯罪の容疑となる証拠もないのに逮捕し、その親類に借金を返済したら釈放するといって返済を強要する。取立がうまくいったら、債権者に礼金を強請る。
目明かしは、入牢したら裏切り者として牢内でリンチされる危険もあったので、入牢することを非常に恐れていた。
天保8年(1837年)に大坂の与力だった大塩平八郎の乱が起きた。
水野忠邦は天保14年(1843年)に老中を罷免された。明治維新まであと20年ほどです。水野忠邦は、その後いったん老中に再任された(1844年)が、翌年に辞職し、完全に失脚した。
天保の改革が終わって庶民がひと息ついたとき、黒船が来航し、世情は騒然とした。
明治維新の直前には、目明かしとその子分、そしてその手引たちが1500人ほどもいて、その横暴は目に余るものがあった。目明かしの存在じたいが治安を揺るがす問題となり、幕府も取り締まる姿勢を示さざるをえなかった。
目明かしは、決して「正義の味方」ではなく、非道の輩(やから)だったということがよく分かる面白い新書でした。
(2018年8月刊。780円+税)

佐賀藩アームストロング砲

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 武雄 淳 、 出版  佐賀新聞社
佐賀に行き、維新博なるものを見学してきました。幕末のころ、佐賀は弘道館をつくり、人材を育成・輩出したこと、反射炉をつくってアームストロング砲をイギリスから輸入したばかりでなく自分でも製造し、活用していたというのです。
明治10年の西南戦争で田原坂が最激戦地となったのは、重いアームストロング砲を馬と人力で引き上げるには、この道しかなかったからだということのようです。上野の彰義隊も佐賀藩のアームストロング砲の前に壊滅したとされています。
いったい、なぜアームストロング砲は、それほど威力があったのか、ぜひ知りたいと思って本書を購入し、認識を深めました。
アームストロング砲は、イギリスのアームストロングにより1855年に発明されたもの。それまでの青銅鋳物(いもの)製ではなく、鉄製砲身をもち、砲尾より装弾ができる。しかも、砲身は錬鉄の4層構造。後装式施条砲は、この当時の最新鋭の兵器で、射程距離、射撃精度、そして連射性で際立った性能を有している。アメリカの南北戦争、日本の戊辰(ぼしん)戦争でフルに活用された。
アームストロング砲は、1分間に2発ないし3発と連射性があり、最長3600メートルの射程距離があった。錬鉄による層威砲身なので、砲身の強度が確保された。錬鉄の細長い棒をつくり、それを加熱して芯金に巻きつけ、コイル状にしたものから鍛造加工で筒状にした。そして径の異なる筒を焼バメして層を重ねて、砲身の強度を確保した。
佐賀藩は、アームストロング砲を完全に自前ではつくれなかったようです。というのも、佐賀藩のつくった反射炉に錬鉄をつくる性能はあっても、錬鉄をつくるパドル炉の機能がなかったからです。したがって、アームストロング砲に似せたものまでつくって明治になってしまったのではないかと著者は書いています。
それにしても、佐賀藩だけが当時、鉄製大砲をつくっていたのですね。知りませんでした。
佐賀藩は鉄製大砲を200門をつくっただろうというのです。
かの白虎隊が奮戦した会津戦争でもアームストロング砲が活用されたとのことです。
初代の司法郷として近代的な裁判制度をつくろうとした江藤新平については、もっと知りたいと考えています。今後の課題です。
(2018年2月刊。1800円+税)

江戸城御庭番

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 深井 雅海 、 出版  吉川弘文館
将軍直属の隠密(おんみつ)集団として有名な「御庭番」の実情に迫った本です。その人事や報告書を丹念に紹介していますので、なるほどそうなのかと納得できます。
御庭番は将軍吉宗が始めたもので、和歌山から引きつれて来た武士の一団だった。御庭番の家筋は、吉宗が将軍家を相続するにともなって幕臣団に編入した紀州藩士205人のうち17人を祖とする。紀州藩で隠密御用をつとめていた薬込役を幕臣団に編入した。
御庭番は直接、将軍に報告することもあった。つまり将軍御目見の存在だった。しかも、仕事ができると見込まれたら、異例の昇格を実現していた。御庭番出身で勘定奉行にまで大出世した者が3人いる。そのほかの奉行になった者も4人いる。
御庭番は、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍職を継いだとき、将軍独自の情報収集機関として設置された。この将軍直属の隠密という点が、他の隠密とは異なる最大の特色だった。
御庭番は、将軍やその側近役人である御側御用取次の指令を受けて、諸大名や遠国奉行所・代官所などの実情調査、また老中以下の諸役人の行状や世間の国聞などの情報を収集し、その調査結果を国聞書にまとめて上申し、将軍は、その情報を行政に反映させていた。
御庭番の偵察は老中などの幕府内を対象とすることもあり、町奉行の無能を報告すると、その奉行は左遷された。
薩摩藩を対象としたときには町人になりすましたようだが、さすがに薩摩藩への潜入はせず、熊本・長崎・福岡などの周辺で聞き込みをしている。
御庭番の結束は固かったが、それは、報告するときには上司(先輩)の了解を得て書面を作成していたことにもよる。
大変興味深い内容なので、途中の眠気も吹っ飛び、車中で一気読みしてしまいました。
(2018年12月刊。2200円+税)

赤い風

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 梶 よう子 、 出版  文芸春秋
川越藩の藩主は、かの有名な柳沢吉保です。私が最近扱った一般民事事件で、柳沢吉保の子孫だと自称する女性が、人の好い高齢の男性から次々に大金を詐取していったというのがありました。
この本では、柳沢吉保は単なる悪役ではありません。将軍・綱吉のお気に入りではあり、その意向を体して行動するのですが、それでも、藩の百姓の生活向上も考え、荒涼たる原野を2年で畑地にするよう厳命を下すのです。そんな無茶な話はないと、現地の人々から総スカンを喰うかと思うと、案外、話がすすんで畑地づくりが取り組まれていきます。やはり、百姓だって、自作の畑は欲しいのです。でも、どうやったら荒れ地を畑につくりかえられるのか・・・。
この本では、そのあたりの実務的な作業過程が、とても行き届いていて、迫真の描写になっています。同時に、入植した百姓たちのなかにも不和が生じます。それをいったいどうやって落ち着かせるのか。紆余曲折あって、なんとか畑地が出来上がります。
ここは水田にはできない台地の畑地だったので、サツマイモが植えられました。
江戸にも舟運を利用して運ばれ、サツマイモは、やがて庶民の間食として大人気になりました。
「九里(くり)よりうまい十三里」という、この十三里とは、江戸から川越までの距離をさすといわれています。「九里」は、そのころの間食だった栗をさし、それより(四里)うまい、つまり、川越のサツマイモは栗よりうまいという洒落(しゃれ)が出来たのです。
江戸時代の開墾・畑づくりの大変さがひしひしと伝わってくる、気のひきしまる本でした。
埼玉県三芳町史が参考文献にあがっています。
(2018年7月刊。1800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.