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カテゴリー: 日本史(江戸)

さし絵で楽しむ江戸のくらし

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 深谷 大 、 出版  平凡社新書
私は江戸時代に大変興味があります。現代日本とまったく違った時代であるようで、実はものすごく連続性がある時代なのではないかと今では考えています。
その江戸時代の実際の様子を絵で実感できるって、すばらしいことです。
年始の挨拶まわりは、1月1日は休んで、1月2日からしていた。というのも、1月1日は、旧年中の疲労がたまっているから、門を閉ざして休んでいたからだ。うひゃあ、そうだったんですか・・・。現代日本で、コンビニやスーパーが1月1日から開いているのは異常なんです。みんな休みましょうよ。
そして、もっていくお年玉はお金ではなく品物、たとえば、手ぬぐいや扇(末広がりで縁起がいい)だった。
新春の挨拶用語としては「御慶(ぎょけい)」という言葉がフツーだった。ええっ、聞いたことない言葉です・・・。
江戸時代は、キセルに詰めるタバコが大流行していた。「舞留(まいとめ)」と「龍王」が当時のタバコの有名ブランド。そしてタバコを売る店では、歯磨き用品も売っていた。
嫁入り婚となったのは江戸時代から。そして、結婚式は夜の行事だった。新郎と新婦は並んで座ってはいなかった。
二月の初午(はつうま)の日は、6歳か7歳になった子どもが寺子屋に入門する日だった。そして、寺子屋に入学するときには、子どもたちは、それぞれマイデスクを持ち込んだ。
町人社会は、50歳ころまでに隠居するのが通例だった。
江戸時代、下駄は高級品だった。裸足で外出する人も多かった。だから履物を玄関先で脱いだまま放置しておくと、盗られる恐れがあった。下駄はぜいたく品だったが、足袋も高級だった。遊女は冬でも足袋をはかないのが常だった。
江戸時代は、家族が一つの卓を囲んで食事するという習慣はなかった。めいめいが自分の膳に向かって食べた。
たくさんの図をもとにした解説なので、よくイメージがつかめます。
(2019年8月刊。800円+税)

三河吉田藩・お国入り道中記

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 久住 祐一郎 、 出版  集英社インターナショナル新書
江戸時代の参勤交代の実情を知ることのできる興味深い新書です。
参勤交代には、人材派遣会社(人宿)から臨時雇いの人夫が加わっていたことも知りました。そして、参勤交代とは関係ありませんが、三河吉田藩は島原の乱(原城一揆)に際して松平伊豆守(「知恵伊豆」)とともに従軍していて、その子孫はずっとあとまで藩内で優遇されていたということまで知りました。つい先日、原城跡を現地見学した身として、これまた興味深い話でした。
参勤交代は時期が定められていた。外様大名は4月、譜代大名は6月か8月。
近隣の大名同士の癒着を防ぐためもあって、ある大名が江戸へ出仕(参勤)したら、その近隣の大名が交代で国元へ戻った。経路も幕府によって決められており、許可なく他のコースを通行してはいけなかったし、寄り道もできなかった。
東海道は、150家の大名の経路に指定されていたため、参勤交代シーズンには、多くの大名行列でにぎわった。そのため、宿舎の確保に責任者は苦労していた。
参勤交代は、幕府が大名財力を削るための制度だと言われているが、それは結果としてそうなっただけのこと。大名同士が行列人数の多さや道具の華やかさを競いあっていたが、街道の混雑や藩財政の圧迫を招いたことから、幕府は人数を規制するお触れを出すなど、むしろ歯止めをかけていた。
本書は、1841年(天保12年)に江戸から吉田(愛知県豊橋市)までお国入りしたときの参勤交代について、当時35歳の吉田藩士・大嶋左源太豊陣(とよつら)の書いた文書の紹介をもとにしています。
「知恵伊豆」と呼ばれた吉田藩の始祖・松平信綱(初代)は、「才あれとも徳なし」と評されていた。うひゃあ、そ、そうだったんですか・・・。ちっとも知りませんでした。だから原城総攻撃のとき、3万人みな殺しを指揮したのですね・・・。
松平信綱は、この島原の乱に1500人の軍勢を(正規の家臣は100人)を率いていて、3人の武士と陪審(又者)3人の計6人が討死し、103人が負傷した。
「島原」とは、信綱を初代とする松平伊豆守における唯一の武功を指し示す言葉であり、後代の当主や家臣団にとってきわめて重要な意味をもった。大嶋左源太豊陣の祖先である豊長も島原へ出陣した。元禄4年(1691年)当時、島原扈従100人のうち、家が断絶しているのか半数の50人。生存者わずか10人だった。
参勤交代の実務を担うのは、宿割・宿払・船割の三役。
宿割(やどわり)は、宿舎を確保する。
宿払(やどばらい)は、宿泊代や食料費・燃料費などの支払いをする。
船割(ふなわり)は、行列が何川を渡る手筈を整える。
中間(ちゅうげん)は、総人数345人のうち2459人もいた。そのほかは士分53人、足軽33人。この中間は、非武士の武家奉公人で、その多くは人材派遣業者である人宿(ひとやど)の三河屋から派遣されていた。三河屋は、いくつもの大名家の参勤交代を請け負っていた。
大名行列の75%は中間であり、派遣労働者で成り立っていた。
人宿は、委託先である大名に対して、通日雇の給金として高額な代理を請求していた。行列の人数を確保しなければならない大名側は、言われるがまま払った。
人宿などは、通日雇の給金をピンハネして、莫大な利益を得ていた。
お供する家中(士分)には、道中計(どうちゅうばかり)という、吉田へ着いたら、すぐに江戸に戻る人間と、詰切(つめきり)という、吉田に着いたら次の江戸参府まで滞在する。この二つがあった。
交通費・宿泊費・食事代など、旅をするのに必要最低限の部分が公費負担だった。
映画に出てくる、「下に~、下に~」という掛け声とともに庶民は道ばたで土下座するというのは、徳川御三家などに限られていて、それ以外の大名行列は「脇寄れ」というくらいで、庶民は行列の進行を妨げないよう道の脇に寄るだけでよかった。
『道中心得』という15ヶ条のこの吉田藩は他藩から借りてきたマニュアルを活用していた。
いやあ勉強になりました。さすが学者です。
(2019年5月刊。840円+税)

「生類憐みの令」の真実

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 仁科 邦男 、 出版  草思社
生類憐みの令から個々の動物に対する愛情はほとんど感じられない。
著者は、このように断言します。ええっ、では一体なぜ、なんのためのものだったの・・・。その謎を解き明かしていく本です。最後まで面白く読み通しました。
徳川五代将軍綱吉は、将軍になる前の27年間、松平右馬頭(うまのかみ)綱吉と呼ばれていた。娘のほか馬と鶴には特別な愛情をそそいでいたが、それ以外には犬をふくめて可愛がったという形跡はまったくない。
江戸城内に「御馬屋」はあっても「御犬小屋」はなかった。
綱吉は、少年時代から人や動物の死に対する嫌悪感が強かった。12歳のとき、明暦の大火を体験している。このときは綱吉邸も燃えている。死者は10万人をこえ、町には、人や牛馬、犬猫の死体が山積みされた。
鷹狩りの鷹は、犬の肉が餌として与えられていた。
江戸城内には狐が多く、大奥では、狐が嫌がる狆(ちん。犬の種類)を座敷に放して、狐の侵入を防いでいた。
生類憐みの令は、まず、江戸限定の犬の車事故防止・養育令として登場した。当時の江戸には、大八車(だいはちぐるま)が2000台もいた。そして、犬が大八車にひかれて死亡する事故が相次いだ。
町の犬たちは、あらゆる生ゴミを食べるので、町の清潔さを維持することに貢献していた。
大八車による犬や猫の事故については処罰されたが、逆に故意でない人身事故は罪に問われなかった。「人」の生命は軽く、「生類」の生命は重かった。
令が出たことで、江戸の町には人を恐れない犬が次々に生まれていった。
綱吉は、虫を飼うことも禁止した。ただし、江戸限定だった。
綱吉が本当にこだわり続けたのは馬だった。
生類憐みの令の「生類」のなかに「人」はふくまれていない。
綱吉が力をいれたのは「捨て子の保護」ではなく、「捨て子の根絶」だった。綱吉は捨て子を防ぐため、町民の妊娠まで報告させた。
綱吉のころの江戸には、5000人をはるかにこえる非人がいた。
綱吉は理屈を好んだ。少年時代から学問が好きだった。
犬小屋の話は有名ですが、収容された犬は、ストレスから来る病気などのために早死したようです。知らなかったことがたくさんありました。
(2019年9月刊。1800円+税)

原城と島原の乱

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 服部 英雄、干田 嘉博、宮武 正登 、 出版  新人物往来社
2008年2月に開かれたシンポジウムをもとにして、島原の乱をふくめて原城の意義を多面的に探った本です。
1528年(天正10年)に天正遣欧使節団として、はるかヨーロッパへ旅だった4人の少年、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノは、いずれも原城近くの日野江にあった有馬セミナリヨの卒業生だった。原マルチノと中浦ジュリアンは有馬セミナリヨの一期生、千々石ミゲルが二期生。伊東マンショだけが、あとで有馬セミナリヨで学んでいる。ところが、8年後に帰国したとき、日本はキリスト教が禁止されていた。
それでも、4少年は豊臣秀吉の閲見を受けているし、活版印刷機を日本に運んできて、それでキリスト教関係の本を印刷などしている。
原城のなかには竪穴建物が密集していたが、この竪穴建物には戸別に炉やカマドといった暖房や煮炊きかかわる造構物が見つかっていない。これは籠城中に失火を起こさないように高い規律を守り、また人々は寒さに耐えていたということが分かる。旧暦の12月から2月までの3ヶ月なので、今の暦でいくと、2月から4月にかけてのことでしょうが、寒いことには変わりありません。
食料を集中管理して、調理し、食事を配給していたと推測されている。
原城は外周が4キロメートルに達する。大きすぎるほどの城だった。
原城に立て籠もっていた一揆軍は、イエズス会を通じてポルトガルの援軍を得る戦略を描いていた可能性が高い。さらに、全国の隠れキリシタンに蜂起を呼びかけ、内乱状態が全国一斉に湧き起こることを狙っていた。
かつてのキリシタン時代、島原半島には最盛時7万5000人ものキリシタンがいた。今、カトリック信者は100人ほどしかいない。
原城跡の現地に立ち、ガイド氏の説明を聞き、帰宅してからこうやって本を読むと、原城そして島原の乱がいっそう身近に思え、また人々の祈りが今に通じている気がしてきます。
(2008年11月刊。2200円+税)

海に生きた百姓たち

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 渡辺 尚志 、 出版  草思社
なるほど、そうだったのか・・・、ぞくぞくするほど知的好奇心がかきたてられ、心の満たされる思いのする本でした。
日本人って、昔から裁判が大好きだったんですね、このこともよく分かる本です。なにしろ海辺に生きる男たちが真っ向から相反する主張を書面にして代官所でぶつけあうのです。これを裁く当局は大変だったと思います。もちろん、その多くは話し合いで解決した(させられた)のでしょうが、納得いかないほうは、しばらくすると蒸し返すのでした。
そんな実情が古文書を読み解いて判明するのですから、こたえられません。
この本は、奥駿河湾岸で長らく眠っていた古文書を渋沢敬三が発掘し、世の中に公開した成果を踏まえていますので、話は具体的ですし、何より証拠があります。
海辺の村の百姓たちは漁業だけをしていたわけではない。農業・林業・商業など多様な生業を漁業と兼業している百姓が大多数だった。なので、漁業に特化したイメージのある漁村ではなく海村(かいそん)と呼びたい。著者は、このように提起しています。
江戸時代の人々は魚介類をとって食べる量は明治期を下まわり、現代よりはずっと少なかった。それは、動力船と冷蔵・冷凍技術の未発達による。エンジンなどの動力がなければ、漁船は漁師が手で漕ぐしかない。沿岸漁業だけでは、漁獲量に限界がある。また、魚は生鮮食品で、長く保存できない。
江戸時代の人々は、新鮮な刺身などは、めったに食べられなかった。
瀬戸内海や金谷村の事例をあげて、浜方百姓(漁師)と地方百姓(農民)とのあいだには、ときに深刻な利害の対立があったことが明らかにされています。
ただ、農業と漁業は共存が難しいというだけでなく、補いあう関係にもあった。
漁師たちは、船の網を操る技術とともに、浮力や長い時間、海中にいられる耐寒能力が求められた。それで相撲取りのような体形が適していた。そして争いごとが起きることも少なくないので、相手を威圧する相撲取りの体形の者が必要だった。
さらに、海中での体温低下を防ぐためには酒が必要で、漁師たちは日常的に酒を飲んで海に入った。また、酒の勢いが争いをエスカレートさせることもあった。漁村は、酒の一大消費地だった。
奥駿河湾の伊豆国内浦の400年間の古文書が日の目を見た。渋沢栄一の孫の渋沢敬三が病気療養に来ていて出会った古文書である。
漁師は、まったく割に合わない商売だ。漁師は、乞食に次いでなりたくないもの。
親は泣く子どもに、「漁師の子にくれてやる」と脅していた。
その一方で、ここの漁師はぜいたくだとも言われた。たびたび大漁となると、大いにうるおったからだ。
村々の漁師と魚商人とは、相互依存関係にあったが、価格決定や代金支払いをめぐっては対立する場面も生じた。商人側が同業者団体をつくったのに対抗して、村々の側も議定書を結んで力をあわせた。
網子(あんご)と津元(つもと)とが争い、代官所へそれぞれ書面で訴えた。津元は経営者で、網子がその下で働く労働者。当局に納税するにあたって、よその町人が入ってきて請負するやりかたもあったが、それを排除して村請とした。すると、村内での津元と網子の対立が生まれることになった。
1649年(慶安2年)、網子たちが津元の不法を幕府の代官に訴え出た。そして、100年後の1748年(寛延1年)に今度は津元4人が網子の不法を訴え出た。幕府の代官は1750年(寛延3年)7月に判決を下した。これは、いくらか網子側に有利な内容だったが、双方ともに不満だった。そして、津元側はすぐに判決の内容の変更を求めて代官に願書を提出した。
村同士の争いも起きていた。1765年(明和2年)3月、内浦六カ村が静浦の獅子浜村を訴え出た。幕府は同年12月に判決を下した。しかし、獅子浜村はこれを無視したようで、31年後に再び内浦などの5ヶ村が訴えた。
いずれも生活がかかっているだけに必死だったのです。この訴えの文書は、それぞれにもっともと思われる内容ですので、裁きを受けもつ当局の苦労は大変だったことと思います。
それにしてもよくぞ、このような古文書が残っていたものです。やはり、私のような記録魔そして保存魔が昔からいたのですね・・・。
解読して解説していただいたご労苦に頭が下がります。ありがとうございました。
(2019年7月刊。2200円+税)

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