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カテゴリー: 日本史(江戸)

大名倒産(上)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 浅田 次郎 、 出版 文芸春秋
ときは文久2年(1862年)8月のこと。
越後丹生山(にぶやま)三万石の松平和泉守(いずみのかみ)信房(のぶふさ)21歳は、老中に呼び出された。
献上品の目録はあるが、現物が届いていない。いったい、いかなることか…。
「目録不渡」であった。これは一大事…。どうしてこんなことが起きたのか。
借金総額25万両。年間の支払利息1割2分は3万両。ところが、歳入はわずかに1万両。いったい、どうやって支払うのか…。
藩主は前藩主の父に問うた。
「父上にお訊ねいたします。当家には金がないのですか」
隠居の身である父は気魂を込めて返した。
「金はない。だからどうだというのだ」
質素倹約、武芸振興、年貢増徴。これしかない。
次に考えついたのが、計画倒産と隠し金。いったい、どうやって…。
25万両の借金に対して1万両の歳入しかない藩財政。この財政を再建する手立てなど、あろうはずもない。
ところが、ひょっとして…。
さすがに手だれの著者です。ぐいぐいと窮乏一途の藩政のただなかに引きずり込まれてしまいます。さあ、下巻はどんな展開になるのでしょうか…。
(2019年12月刊。1600円+税)

日本史、自由自在

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 河出新書
東大の史料編纂所の教授である著者は、小学生のころから日本史が大好きだったとのこと。
私も、そう言えば日本史というか歴史物は大好きでした。小学生のころは偉人伝をよく読んでいましたし、中学生のときは山岡壮八の「徳川家康」を読みふけりました。高校に入ると、日本史の教師が、いかにも歴史を愛しているという風情で熱心に教えてくれましたので、その感化を受け、私も歴史が大好きになり、いつも満点に近い成績をとり、これだけは自慢でした(数学がパッとしませんので、理系志望を3年にあがる寸前に文系に切り替えました。理系クラスにはとどまりましたが…)。
著者は友人から「日本史がよく出来るって、どういうことなわけ?」と尋ねられたといいます。はてさて、どういうことなんでしょうか…。
史料をもとにして「考える」からこそ、日本史という学問は楽しい。
そうなんですよね。日本史を深く知ると、考える材料がたくさん手にすることができるというわけなんです。
著者は、「令和」という年号について、「これは良くない」と批判して、大炎上したとのこと。その理由は何だったのでしょうか…。
645年の「大化」が一番初めの年号。ところが、その後、年号のない空白の期間もある。うひゃあ、知りませんでした。701年の大宝からはさすがに継ぎ目なく定められている。つまり701年ころが日本という国の大きな画期になっている。
奈良・平安の貴族は、修めるべき教養として、4つの道があった。律令のことを勉強する明法道(みょうほうどう)、算数を勉強する算道。文章道と明経(みょうきょう)道の二つは、中国の文献を学ぶもの。貴族にとって、歴史とは、日本史ではなく、中国史を指していた。
戦国大名の師匠は中国史を学んでいるお坊さん。織田信長もそうだった。
岐阜城という「阜」とは小高い山、丘という意味なので、岐阜は岐山と言える。この岐山は、周王朝の始祖、武王の父親(文王)の本拠地。つまり、信長はこれから新しい王朝を起こすぞという姿勢を示すため、岐阜城と名づけた。信長は、中国の歴史をこのようによく勉強していた。
水戸光圀は、南朝、後醍醐天皇の皇統こそが正統だ、北朝系に正統性はないと考えていた。勤王家といっても、現在の朝廷は偽であり、まさに将軍が治める世の中なのだ。これが水戸学の本当の姿だった。ええっ、これって本当なんですか…。
水戸光圀だけでなく、新井白石も同じように考えていた。すると、水戸は勤王派というより、徳川将軍中心派ということになります。ところが、後期水戸学は、光圀とはちがい、将軍より近い存在が天皇だと考える国体論です。明治維新を実現した「志士」たちは、みな、この国体論で動いていた。
そして、幸徳秋水は、「明治天皇を殺して何が悪い。あれは偽物ではないか」と主張した。これを聞いて山県有朋たち明治政府の首脳部はあわてた。それで、南朝と北朝の矛盾をなんとか解消するよう命じられたのは、東大の史料編纂所だった。なーるほど、そんな経緯があったのですか…。
日本人が昔、肉を食べなかった理由は、調味料が塩しかなかったから。肉を食べるにしても、焼くか炒めるかだけど、食用油がなく、醤油がなく、味噌もないと大変。茹でても塩だけだと、物足りない。
昔の中国では、魚の王様は鯉(こい)。今は、海の魚のほうが人気があるとのこと。そして、江戸時代の日本人にとっての一番は鯛(たい)、次に鯉(こい)。
平安時代の「芋粥(いもがゆ)」は、サツマイモではなく、自生するつるみたいなものから甘味をとっていた。つまり、柿で甘味をとっていた。なので、虫歯は少なかった。女性のお歯黒も虫歯予防のため。
豚を食べないので、ビタミンB1をとれないから脚気になってしまう。昔の貴族は酒をがぶがぶ飲むので、糖尿病になる。肺病、糖尿病そして脚気が多かった。日本人が肉が美味いというのを知ったのは明治になってからのこと。なーるほど、やはり調味料は大切なのですね…。
朝鮮では一貫して「文」が上だったのに対して、日本では「武」が優先されてきた。そして、日本に軍師はいない。文官にして軍事にあたる軍師なるものは、日本には大江広元のほか、いない。
黒田官兵衛も竹中半兵衛も、みな本質的に武士なので、軍師ではない。
石田三成は「ミツナリ」ではなく、「カズシゲ」と読むべきだというのを初めて聞きました。一も二も三も、みな「カズ」と読むのだそうです。
知らないことだらけの日本史の話、オンパレードでした。
(2019年12月刊。810円+税)

歩く江戸の旅人たち

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 谷釜 尋徳 、 出版 晃洋書房
江戸の人々は旅を楽しんでいたようです。
誰が旅をしていたのか…。
平均年齢は30歳代ですが、最年長は50歳代後半でした。
5歳まで生きのびるのは、出生者全体の3分の2、40歳時点での生存者は当初の半分、晴れて60歳の還暦を迎えるのは3分の1。70歳に達するのは当初の2割。
ということは、旅に出た50歳代の男性は、連日の長距離歩行に耐えうる健康体を維持していた人々だった。
では、江戸の人は1日にどれくらい歩いていたのか…。男性で1日に35キロ、女性は28キロ超。1日に70キロ歩くのも不可能ではなく、最大50キロが普通だった。
朝の4時から7時ころに出発し、宿泊地には午後4時から6時ころに到着する。1日に少なくとも7時間、長いときには15時間にも及び、平均して10時間ほど。
江戸時代の庶民は寺社への参詣(さんけい)を旅の目的として藩の了解を得ておいて、真の目的は道中の異文化に触れて遊ぶことにあった。
近世庶民は、信仰を後ろ盾にして日本周遊旅行を存分に楽しんでいた。
伊勢参宮が最大だったのは文政13年(1830年)で、3月から6月までに427万人に達した。日本人の庶民の6人に1人が行った計算になる。
江戸の人々の歩き方は、現代日本人とは違っているようです。爪先歩行、前傾姿勢、小股・内股、歩行が奇妙であること。
日本人は歩行のとき足を引きずる。また、音を立てて歩く。こんなことに外国人が驚いています。
いまはコロナの関係で、それこそ自粛させざるをえませんが、日本人の旅行好きは昔からだということもよく分かる本です。
旅行ガイドブックがたくさん売られていました。それだけ需要があったわけです。
この本は江戸の旅人たちの様子をいろんな角度から紹介していて、大変勉強になりました。
ところで、旅の安全性はどうだったんでしょうか。女性の一人旅も少なくなかったと聞きましたが、本当でしょうか。ケガしたり、病気したときには、どうなる(なった)のでしょうか…。次々に疑問が湧いてきます。
せっかくここまで明らかにしていただいのですから、続編も大いに期待します。どうぞよろしくお願いします。
(2020年3月刊。1900円+税)

せき越えぬ

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 西條 奈加 、 出版  新潮社
東海道は箱根の関をめぐる人情話です。ころは文政の時期。シーボルトが時代背景として登場してきます。そうです、蘭学に目を向ける人々もいた時代です。
私は、この本を読みながら山田洋次監督による時代劇『たそがれ清兵衛』に出てくる下級武士のつつましい暮らしぶりの情景を思い出しました。
主人公は武士といっても、わずか四人扶持でしかない武藤家の跡取りです。勉学よりも行動力で世の中をまっすぐ渡ろうという正義感があります。
主人公が少年時代に通った道場では、出自や家柄はまったく斟酌(しんしゃく)されず、平等に扱われた。この道場には町人の子も参加していたことになっています。果たして本当にそんな「平等」優先の道場が江戸時代にあったのでしょうか…・。
また、主人公の親友は、蘭学を教えてくれる塾に通っていたということになっています。そして、それが周囲の圧力から閉鎖されたというのです。
これまた、本当にあった話なのだろうか、と疑問を感じました。
恐らく、どちらも本当のことなのでしょう。身分制度が固定していたと言われている江戸時代でも、お金をもつ町人が大金を出して武士になれていたようです。やはり、お金の力は偉大なのですね…。
関所の役割、関所破りの実態、そもそも江戸時代の旅行というのは、どんなものだったのか…。関所破りは、どれほどあっていたのか、失敗して処刑されたという人はどれほどいたのか…、いろいろ知りたくなります。
それにしても、じっくり読ませるストーリーでした。いろんな伏線がどんどんつながっていくのには、小気味の良さも感じられます。江戸情緒たっぷりの良質の時代劇映画をみている気分で、最後まで一気に読みすすめることができました。
(2019年11月刊。1500円+税)

奇妙な瓦版の世界

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 森田 健司 、 出版 青幻舎
瓦版(かわらばん)とは、江戸時代に大変な人気を博していたマスメディア。明治に入ってからも20年以上は存続していた。ただし、もっとも勢いのあったのは、江戸時代の中期から末期にかけてのこと。
和紙に記事と絵が摺(す)られていた木版画で、簡易な新聞のようなもの。
江戸時代には瓦版とは呼ばれず、読売(よみうり)、一枚摺(いちまいずり)、絵草子などと呼ばれていた。
瓦版は基本的に違法出版物であり、幕府は瓦版によって庶民に情報が流通することに危機感をもち、早くも1684年(貞享元年)には瓦版の禁令を出している。それでも、瓦版は庶民のなかでしぶとく生き続けた。
瓦版は店舗販売ではなく、町中で読売という売子が売っていた。売子は深い編笠で顔を隠して売っていた。瓦版は墨摺1枚4文、100円ほどで、多色摺だと倍以上した。
瓦版は商売のため、もうかるためのもので、作成者に社会的使命はなかった。
黒船に関する瓦版の絵は大変迫力がありますが、これは長崎版画のオランダ船図を模倣したものという解説に、なるほどそうだろうなと納得しました。単なる遠くからの目撃で、これほど細密に黒船を描けるとは、とうてい思われません。
九隻の黒船について、八隻が瓦版で紹介されていますが、船や乗組員の名前に正解に近いものが多い。例えば、船名のレキスンタンはレシントン、ホウハワタンはポーハタン。通訳のホツテメンは、ポートマン、五番船の大将「フカナン」はブキャナンなど…。
ペリー一行に対して日本の高級料亭として名高い「百川」(ももがわ)の料理を提供した。その費用は1500両(今の1億5千万円)。ただ、魚介類中心の料理だったので、ペリーたちの評価はあまり高くなかった。瓦版は、その食事風景を描いています。当時の庶民の好奇心を満たしたことでしょう。
幕末には写真が登場しますが、その前には絵しかなかったわけですので、瓦版の絵とそれを紹介する文章は大変貴重なものだと思います。楽しく眺めることのできる瓦版の世界でした。
(2019年12月刊。2500円+税)

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