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カテゴリー: 日本史(江戸)

幕末の漂流者・庄蔵

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 岩岡 中正 、 出版 弦書房
幕末のころ、開国・通商を求めるアメリカ船モリソン号が幕府の「打払令」によって浦賀沖と薩摩で砲撃されて上陸を断念したというのは私も知っていました。天保8(1837)年のことです。
この本によると、このモリソン号には熊本・川尻出身の原田庄蔵が乗っていたのでした。庄蔵は26歳のとき大嵐で遭難してフィリピンに流れつき、そこから中国マカオに送られ、日本へ帰国しようとして砲撃されて断念したのでした。
このモリソン号には、尾張の音吉らをふくめて日本人が7人乗っていました。
日本に帰国できなかった庄蔵はマカオに戻り、あとでペリー提督の日本語公式通訳をつとめるアメリカ人宣教師S.W.ウィリアムズに日本語を教えた。さらに、聖書「マタイ伝」の初めての邦訳に協力している。
庄蔵が故郷の父宛に書いた手紙は、2年半後に家族に届いて、この本でも紹介されている。その後、庄蔵は香港に移住し、アメリカから来た女性と結婚し、洗濯屋・仕立屋として成功し、ゴールドラッシュにわくカリフォルニア州に苦力(クーリー)10人を連れていっている。
尾張の山本音吉の活躍については、『にっぽん音吉漂流記』(春名徹)がある。
庄蔵に知性教養と指導力があったことは間違いない。過酷な運命との出会いで、現実に身を処す合理主義的思考をもった人だと著者はみている。
宣教師ウィリアムズは庄蔵や音吉たちについて、次のように書いている。
「彼らは扱いにくい人たち。母国を深く愛していて、思いがけず国外追放者の立場になった事態をどうにも受け入れようとしない。でも、今では、この立場を最善にいかそうとしている。もはや日本に帰国する一切のチャンスがなくなってしまったという現状を理解し、自分たちなりに有用な人間になりたい一心でいる」
庄蔵自身は日本に帰国することができなかったが、写本の「マタイ伝」は誰かの手を経て、ついに日本に帰国した。
庄蔵は香港で仕立屋として成功し、3階建ての家を建て、アメリカ人の妻と男の子が1人いた。そして、日本人漂流者を日本に帰すことに尽力した。
庄蔵が聖書の翻訳に協力したということは、それだけの知的レベルにあったということ。
幕末の川尻には寺子屋が多くあったことも紹介されています。
幕末のころの日本人の知的レベルの高さを、証明する一つだと思いながら、漂流民の果たした役割の大きさに思い至りました。
著者は私と同じ団塊世代の学者であり、俳人です。早くロシアの侵略戦争とコロナ禍がおさまってほしいものですよね。
(2022年1月刊。税込1650円)

近江商人と出世払い

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 宇佐美 英機 、 出版 吉川弘文館
出世払いという慣行は近世期に成立したもの。出世証文を書き、出世払いをするということは、現在でも法律で認められている行為。これは確かにそう言えます。私も、出世払いの証文があるので、時効を気にせず、債務者に請求者を送ったところ、病気で落ちぶれていることが分かって(本人の弁明書)、それ以上の追求をやめたことが最近でもあります。
近江国には、日本でもっとも多くの出世証文が伝来している。
近江商人は、往路では近江国内の特産物や上方で購入した商品を他国に持ち下り販売し、復路では地方の特産物を購入して登(のぼ)せ落として、上方・近江国などで販売をするという、「のこぎり商い」を実践した商人だった。
「持ち下り商い」と称し、他国稼ぎをすることを商いの特徴とした近江商人たちは、近世期の既存の商業・流通構造を変化させた局面で、重要な位置を占めている。
近江商人について、「三方(さんぽう)よし」と言われる。これは、近世にはなく、後世に造語されたもの。1988(昭和63)年の小倉榮一郎の本に初めて書かれたもので、「売手によし、買手によし、世間によし」とされていた。ここでは、「に」が入っている。
滋賀県(近江国)には、175点もの出世証文が確認されている。出世証文とは、「将来の不定時において、債務を弁済することを約束した証文」。この証文によって債務額が確定し、このあとの利足(利子)は加算されない、また、このあと催促もされない。出世証文を書いた債務者は家屋敷にそれまでと同じく居住・利用しながら、多額の債務を弁済すべく出世の努力することになる。
著者は、出世証文には担保があると考えるべきだとしています。それは債務者本人であり、連署している家族の「栄誉」だというのです。
通説は、出世証文は「仕合(しあわせ)証文」とも称されたとしている。出世のほか、出精、出情、仕合、出身と同じ意味で書いた証文もある。
出世したというのは、普請(ふしん)できるほどの資産の回復を意味する。通常は、とりあえず、商売を続けることによって、家名を相続させていくことができるようになった状態と認識された。
出世証文は、ほとんど個人と個人とのあいだでとりかわされている。しかし、村の共有文書になっているものも存在する。
出世証文は、上方地域を中心とする西日本に伝来しているものがほとんどで、東日本にはごく一部のみ。しかも、それは受取人のほとんどが、また一部の差出人も上方の商人というもの。
大審院は明治43(1910)年10月31日、「出世払い証文」を法律上有効と判示した。また、大正4(1915)年2月19日、「出世払いの約定は停止条件ではなく、不確定期限である」とした。
伊藤忠商事・丸紅の創業者である初代伊藤忠兵衛も近江商人だったのですね…。
近江商人を輩出した地域を歩くと、そこには、ヒナにはマレな舟板塀で囲まれた大きな屋敷が今でも存在するのを見ることができる。その居宅には高級な部材が使用され、土蔵には、高価な書画、秦什器が収蔵されている。
立身し、出世できた奉公人は、商家に奉公した者の1割程度だった。
近江商人の番付表は、資産の多寡(たか)ではなく、何代にもわたって家が継承されてきた老舗であることが評価の中心に置かれていた。つまり、老舗とは、何代にもわたって世間に貢献してきた商家だとみなされたのだ。
出世証文について、初めて深く知ることができました。
(2021年12月刊。税込1980円)
 遠く神奈川に知人から、タラの芽を送ってもらいました。さっそく天プラにして、天ツユと塩の両方でいただきました。ほんの少し苦味もあって、まさしく春の味でした。いやあ、いいものです。
 ロシアの戦争のせいで、身近なところに影響が出ています。スケボーが入荷しない、トイレの便座が入らない、家具が入ってこないなどです。一刻も早く、戦争やめてほしいです。

元禄の光と翳

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 大下 武 、 出版 ゆいぽおと
尾張藩士100石(こく)取りだった朝日文左衛門は、今から300年前の元禄のころの人。将軍は五代綱吉から六代家宣(いえのぶ)。赤穂浪士の討入りがあり、富士山が大噴火した。
朝日文左衛門は芝居が大好きで、御城代組の同僚と一緒に何度も見物に出かけた。当時は、大きな社寺の境内に小屋がけで芝居が興行された。その日記に出てくる芝居見物はなんと143回にも及んでいる。
ところが、当時、藩士の芝居見物は原則として禁止されていた。なので、人目をはばかり、とくに両親の目をはばかって文左衛門は芝居見物に出かけている。途中の茶店で「なら茶」(軽食)を食べ、そこで編笠を借りて芝居小屋に潜り込んだ。また、魚釣りに行く振りをして芝居をみて帰宅すると、なぜか親にバレていて、こっぴどく叱られてもいる。それでもこりずに47歳で死ぬ前年まで芝居見物に行ったことが日記に書かれている。
1707(宝永4)年11月に富士山が爆発的に大噴火した。このとき、東京ドームの800個分が吹き飛んでいる。11月23日の噴火から翌12月9日に噴火が収まるまで、江戸で降り積もった灰は15センチだった。藤沢は25センチ、小田原は90センチ、御殿場1メートル、小山町の須恵では4メートルに達した。その結果、灰や砂で人々は気管支をやられ風邪をひきやすくなった。
「是れはこの 行くも帰るも風引きて 知るもしらぬも 大形はセキ」(これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関)
この噴火の後始末のため、幕府は諸藩に石高に応じて課税する「砂徐国役金(すなよけくにやききん)」を課した。全国一律に100石につき金2両。48万8700両が集まった。このうち6万両が川浚(かわさらえ)費用に使われて、残る42万両は幕府財政の赤字補填に充てられた。
関東郡代の伊奈半左衛門忠陣(ただのぶ)が復旧策の先頭に立って実行した。丹念な巡検踏査、村人の代表を会議に出席させるなどが、村人の信頼を勝ちとり、復興がすすんだ。いつの時代も先進的な偉人がいるものなのですね。つい中村哲医師を思い出してしまいました。江戸時代の人々の生活の一断面を知ることができる本です。
(2014年11月刊。税込1760円)

幕末社会

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 須田 努 、 出版 岩波新書
江戸時代、とりわけ幕末のころの日本について改めて深く知ることのできた本です。
まず何より百姓一揆について認識を深めることができました。
天保11(1840)年の老中水野忠邦が画策した三方領知替え反対一揆については、藤澤周作が傑作『義民が駆ける』で詳しく紹介しています。ノンフィクション小説として、本当に読ませます。この本でも、史料にもとづいて、詳しく解説していて、この百姓一揆のすごさに改めて驚嘆しました。
山形から江戸まで百姓たちが何百人も集団で出かけていって「江戸愁訴」を繰り返したのです。4ヶ月のあいだに6回も実行しています。そして、彼らは百姓一揆の作法を厳しく遵守(じゅんしゅ)しました。あくまでも幕藩領主に柔順な百姓であることを強調し続けたのです。そのため、脇差し(刀)を持たず、鎌を一艇ずつ持参するだけでした。また、このとき、江戸愁訴のやり方については、江戸の公事師の指導を受けていたそうです。
そして、庄内の百姓たちは、近隣の諸藩にも手分けして愁訴しました。仙台藩には、蓑笠姿で、鍋米を背負った300人もの百姓が押しかけています。百姓たちは、飲酒、乱暴しないという申し合わせし、それを実行しました。5ヶ条の「掟」を定めています。
さらに、地元で参加者「何万人」という大規模集会を繰り返したのです。いわゆる主催者発表によると、7万人とか数万人規模といいますから、1ケタ少ないとしても、たいしたものです。
結局、この「三方領知替え」は中止され、百姓たちが勝ったのです。しかも、百姓たちから一人の処罰者も出さなかったというのですから、まさに完全勝利でした。
庄内の人々は、あくまで冷静、見事な戦略・戦術を組み立て、実行していったのです。その政治的力量はずば抜けています。江戸「登り」などに多大な費用が発生したのも、百姓でなんとか処理できたのでしょう。いやはや、すごいです。ぜひ、藤沢周平の小説を読んでみて下さい。感動そのもののノンフィクション小説です。
百姓一揆については、もう一つ、対照的なのが天保7(1836)年の甲州騒動。こちらは、今の山梨県全域で打ちこわしが発生した。騒動勢の中心は20代以下の無宿の若者たちであり、「悪党」と呼ばれた。「悪党」たちが、百姓一揆の作法を守らなかったことから、幕府は騒動勢の殺害命令を出し、それを受けて、村々は独自に自衛し、騒動勢を殺害した。結局、騒動勢は敗れ、500人も捕縛されて、死罪9人、遠島37人となったが、ほとんど牢死した。
本書によると、著者が調べた百姓一揆1430件のうち、武器を携行し使用したのはわずか14件のみ(1%未満)、そして、この14件のうち18世紀には1件だけで、残り13件のうち8件は19世紀前半に集中している。つまり、18世紀まで、百姓たちは百姓一揆において暴力を抑制していた。百姓にとって要求を実現するには、武装蜂起よりも、訴願のほうが有効だと認識されていたことが分かる。
この本は百姓一揆だけを論じたものではありません。国定忠治など博徒(ヤクザ)の生態も紹介されていますし(忠治の妻・一倉徳子についての興味深い紹介もあります)、また水戸の天狗党の乱について詳しい実情が紹介されていて、大変勉強になりました。興味深い本です、ご一読をおすすめします。
(2022年1月刊。税込1034円)

江戸の科学者

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 吉田 光邦 、 出版 講談社学術文庫
3歳の孫がオモチャとして遊んでいたソロバンは、コンピューター万能の現代でもしぶとく生き残っています。少なくなりましたが、ソロバン塾も健在です。
ソロバンを発明したのは中国、日本には室町時代末期に入ってきた。読み書きソロバンは江戸時代、塾で教えられていた。
そして、東洋独特の計算機として、算木(さんぎ)がある。長さ5センチ、幅1センチの小さな板。縦に1本置くと1、2本置くと2を表す。6は横に1本、縦に1本と、丁字形に置いて数を表す。十位の数は、逆に横に置いて10を表す。位の上るにつれて、その置き方を変えるので、どんな数でも算木で示すことができる。また、算木を赤と黒に分けて、赤はプラス、黒はマイナスを表すことにした。これは知りませんでした。マイナスも表示できたんですね。
日本で盛んだった和算は、その根本が計算術、実用だった。数式や図形の本質を考えるものではない。和算は芸能に近いものだった。和算家は直感を重視した。帰納法は直感から生まれる。和算家は、すぐれた直感によって、西洋数学に匹敵する公式を発見した。神社や仏寺に算額を奉納したのも、芸術的な感覚からだった。
関孝和によって、和算は、その面目を一新し、大きな飛躍をとげた。
小野蘭山は、幕府の命によって、江戸から東北地方、また近畿・中部地方を旅行してまわった。73歳のときから5回も大旅行した。すごいですね、江戸の人々は、本当によく旅行しています…。
享保19(1734)年に生まれた麻田剛立は、太陽を観測して、黒点が移動すること、それは東から正面、さらに西へと30日で移動することを知り、このことから太陽の自転周期を知った。すごいですね、太陽の黒点をじじっと観測して、ついに太陽の自転周期まで解明するとは…。そして、暦書までつくったのでした。
杉田玄白たちの苦労も大変なものがありました。オランダ語を小さな辞書しかないなかで、自分たちで訳文を考え、つくり出していったのです。訳本が完成したとき、長崎にいたオランダ通訳たちに大きなショックを与えたのでした。それはそうでしょうね。オランダ語を独占・運用しているのは自分たちだけと思っていたでしょうから。これによって、オランダ研究・西洋研究が大きく促進されました。
杉田玄白は「九幸」と号した。九つの幸福をもったとの意味。一は太平の世に生きたこと。平和は大切です。二は天下の中心の江戸で成長したこと。田舎もいいものなのですが…。三は広く人々と交友できたこと。友だちは大切です。四は長寿を保ったこと。五は安定した俸禄を受けていること。六は非常に貧しくはないこと。大金持ちでなくてもいいので、そこそこお金があることは心の安定に欠かせませんね…。七は天下に有名になったこと。八は子孫の多いこと。結婚して子どもがもてて、さらに孫までできたら、もう言うことありませんよね。九は老人となってなお元気なこと。玄白は85歳で死亡しました。
江戸の科学者をあげるとき、平賀源内を抜かすわけにはいきません。残念なことに源内は獄死しています。源内は江戸時代に全国の物産会を6年間に5回も開いた。全国30余国から実に1300余種が収集・展示された。江戸時代って、こんなに交流が密だったんですよね…。源内は、小豆島の古代象マストドンの化石にも注目しています。電気(エレキテル)やアスベストも…。
江戸時代は幕府の鎖国政策によって、世界の流れから取り残された暗黒の時代だったというのは、まったくの誤解でしかないことがよく分かる文庫本です。
(2021年9月刊。税込1265円)

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