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カテゴリー: 日本史(江戸)

暦のしずく

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 沢木 耕太郎 、 出版 朝日新聞出版
 江戸時代の中期に活躍した講釈師・馬場文耕が講談のなかで、時の幕府中枢を批判したら、なんと斬首・獄門となったという史実が物語になっています。江戸時代に深く関心のある身として、これは読まずばなるまい、そう思って読みはじめたのです。朝日新聞に連載されていたそうで、堂々550頁を超す大作となっています。
 講釈師とは、今の講談師のこと。今日の日本でも人間国宝に指定される講談師がいます。一龍斎貞水、神田松鯉など。残念ながら話を聴いたことはありませんが、女性講談師がいま何人も活躍していますよね。
講談のなかで、時の政府をチクリチクリと批判するのは当然のことです。時の政府を持ち上げるばかりの講談だと、歯が根元から浮いてしまって、最後まで聴こうとも思わないでしょう。でも、聴衆が聞きたいのは政治演説ではありませんので、適当な批判にとどめます。そこらあたりのサジ加減がとても難しいとは私も思います。
 馬場文耕を死刑(獄門)にする判決文が残っている。
 「かねてより古い軍記物などを講釈して生活していたが、貧しさのあまり衣服の手当てもままならず、聴衆に援助してもらうべく、極秘の物語を講釈すると喧伝(けんでん)し、現在、公儀で吟味中の事件を文章にし、実際にそれを講釈した」
 当時の出版物(書物)には、版木を掘って印刷したものを束ねる刊本と、筆で書き写したものをまとめて本にする写本の二つがあった。刊本は、幕府の許可が必要のため、あまり過激な内容のものは出すことができなかったが、原稿を書き写すだけの写真は、簡単に世の中に出すことが出来たため、政治的に過激なものが出されていた。馬場文耕の作品は、すべて写本であった。
 江戸時代の読者には、写本は、書かれているのは事実に違いないという思いがあった。
 えっ、待って…。もしかして、これって、現代SNSのフェイクニュースを真実と思い込む人と似ていませんかね…。うむむ、難しいところですよね。とんでもないインチキ政党(参政党)の言っていること(外国人は犯罪が多い…)を真実だと思い込んだ日本人が何百万人いたという事実に、私は身の凍る思いがしています。
 美濃(みの)郡上(ぐじょう)の金森家の苛政を馬場文耕は取りあげました。まさしく、公儀が内密に問題として取りあげたテーマです。ここの百姓一揆は、結局のところ、劇的な勝利を遂げるのです(首謀者は獄死したとしも…)。
 ときは徳川九代将軍家重、そして田沼意次(おきつぐ)の時代です。
 田沼家は、将軍吉宗のときに紀州から江戸入りしたのですね…。江戸時代も中期になると、公事宿(くじやど)が反映していました。江戸の人々は不正そして権力の横暴に対して黙っていなかったのです。それは自分の生命を賭けての抗議でもありました。
 金森騒動については、五手掛の裁判となった。寺社奉行、北町奉行、勘定奉行そして大目付と目付の五人が裁判体を組んだ。この評定所で吟味中の金森騒動を講釈師が取り上げて、あれこれあげつらうなど、幕府にとって許せるものではなかった。その結果は、老中や若年寄、勘定奉行が改易やら重追放、「永預け」「逼塞」など、いかにも厳しい処断がなされた。江戸時代の処分としては空前絶後の厳しさだった。そして、百姓一揆の側も、牢内で次々に死んでいった。そして判決は獄門が4人、死罪10人だった。
 文耕に対しては、「不届き至極(しごく)につき、見凝(みこ)らしのため、町中引き廻し、浅草において獄門を申し付ける」となった。
 いやあ、すごく重たい内容の本でした。それにしても、同時にその心意気を大いに買いたい気持ちで一杯になりました。いい本です。
(2025年6月刊。2420円)

幕末維新史への招待

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 町田 明広 、 出版 山川出版社
 幕末の日本にやってきたアメリカのペリー艦隊と、その結果としての日米条約は、アメリカ国内での南北戦争(1861~65年)の直前のことだった。浦賀沖にペリー艦隊が来たのは1853(嘉永6)年6月のこと。翌1854年3月に日米和親条約が締結され、安政3(1856)年7月、総領事ハリスが来日した。ハリスとの交渉で安政5(1858)年6月、日米修好通商条約が締結された。
アメリカにとって、日本と関係を結ぶことは、太平洋横断航路における石炭補給地の確保、および捕鯨船員の救助という一石二鳥の策であった。日本は、まずは航路上の寄港地であって、日本との通商自体の優先順位は低かった。
 ペリーがアメリカを出航(1852年11月)したときの大統領はホイッグ党のフィルモア。しかし、1853年3月、民主党のピアースが大統領になった。そして、1860年5月、幕府の使節たちがワシントンで会った大統領は民主党のブキャナンであり、同年11月には共和党のリンカンが大統領となっている。
 文久3(1863)年6月の下関戦争のとき、アメリカの軍艦ワイオミング号は、南部連合軍の軍艦を追撃するために東アジア地域に派遣されていた軍艦であり、日本自体は赴任地ではなかった。
 慶応3(1868)年1月、南北戦争が終了していたので、兵庫の開港にあわせて、アメリカのアジア艦隊に属する軍艦が日本近海に終結した。
ロシアのプチャーチンはアメリカのペリーに対抗するために派遣されたというのは間違い。そうではなく、ペリーが日本と結んだ条約と同じものをロシアにも得ることが目的だった。
 文久1(1861)年2月、ロシアの軍艦ポサドニック号が対馬に軍事哨所を建設した。それは対馬の全島を獲得するまでの意図はなかった。対馬の良港に海軍の拠点を設置するのが目的だった。
 明治政府にとって、千島列島の統治は、予想をはるかにこえる困難なものだった。千島列島に残留したアイヌはロシア語を母語とし、日本語はまったく分からない。しかも、彼らはロシア正教の信者だった。
この本を読んで最大の驚きは、幕府末期に、すでに欧米は海底にケーブルを敷設していたということです。ただし、まだ太平洋の海底には敷設されてはいませんでしたが…。それにしても、早くも大陸間で電話が通じていたのですね…。
 もう一つの驚きは、沖縄です。もちろん、当時は、琉球です。琉球に王様がいたことは知っていますが、江戸時代の人々は、琉球人を「異国人」とみていて、日本人だとは思っていなかったし、琉球人も、自分たちは琉球人も、自分たちは琉球人であって日本人とは思っていなかったというのです。なるほど、そう言われたら、そうでしょうね。ただ、琉球人と日本人が全然別の民族だというのは、私はそうは思いません。
また、ペリーが、日本より先に琉球に寄港していたこと、ペリーは那覇に合計して5回も寄港していたというのは初めて知りました。
 しかも、ペリーは、太平洋を渡って日本に来たのではなく、大西洋からアフリカのケープタウンを回って、シンガポール、次いで香港・上海を経由して琉球にやって来たのです。
 面白いこと、知らないことが満載の本でした。
(2025年5月刊。1980円)

動物たちの江戸時代

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 井奥 成彦 、 出版 慶應義塾大学出版会
 江戸時代、人々は今より以上に動物とともに生きていた。
 犬は、江戸初期は「食べられる動物」だったのが、中期の元禄期の「生類憐みの令」によって保護される存在となり、後期には、愛玩動物(ペット)としての特色が強くなった。日本も昔は、中国や韓国と同じように、犬を食べていた。将軍綱吉の「生類憐みの令」がそれを禁止した。四谷に1万9千坪、大久保に2万5千坪、中野に16万坪の犬小屋をつくって、中野だけでも10万頭の犬が収容された。当時の犬の寿命は10年もなく、大量の犬を飼育するのは難しくて、病死する犬も多かった。この「生類憐みの令」によって、日本人は犬を食べなくなった。
そして、何頭もの犬が単独で伊勢参宮を果たした。もちろん、これは人々が伊勢参りに行っていたので、その同伴者(犬)としてのこと。新潟市から伊勢神宮まで参宮に出かけ犬が記録されている。犬は、首に巻きつけた袋に、自宅に戻ったときは銭1貫700文も入っていた。吉原遊郭(ゆうかく)では、狆(ちん)という犬種に人気があった。犬の墓のなかには、戒名の彫られた犬の墓石が発掘されている。
江戸後期には、犬や猫はペットとして愛されていて、死んだら墓がつくられていた。
江戸城の大奥では、猫が飼育されていった。猫(ミチ姫、サト姫などと呼ばれていた…)は、餌代が年に25両もかかっていた。
 東日本と九州では、牛より馬のほうが多く、西日本では牛の比率が高かった。日本の馬は小柄で、サラブレッドのような高さはなかった。江戸時代の馬は、およそポニーと呼ばれる中・小型馬。体高130センチに満たない馬がほとんどだった。牛は、使役の役割を果たすと、供養塔を建ててもらっていた。
ペットの供養源となっていたのは「鳥屋」。鳥屋にはブリーダーとしての一面がある。
江戸時代の人々は「薬食い」と称して、猪や鹿などの獣肉を食べていた。
 象が日本にやって来たのは15世紀のこと。それ以来、何度も日本にやって来て、記録が残っている。
 江戸時代、「接待・饗応」の場として、鶴しかも黒鶴が珍重された。
 江戸時代には芝居小屋があって、芝居が演じられた。曲馬芝居というのは、衣裳を着けたプロが馬上で芝居をするという馬上芝居だった。
 江戸時代が決して暗黒の時代ではなかったことが分かります。
(2025年4月刊。2640円)

幕末女性の生活

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 村上 紀夫 、 出版 創元社
 江戸時代の庶民がどんな日常生活を過ごしていたのか、とても興味があります。
 日本人は昔からよく日記を書いていて、またよく残っています。残念ながらくずし字なので、私には原文は読めません。それでこうやって活字になったものを読むしかありません。
 この本では、4人の女性の日記が紹介されています。1人目は、和歌山城下で質屋を営む九代目六兵衛の妻。寛政3(1791)年と文政8(1825)年の日記2冊が残っている。家族で金魚の飼育に熱中していた。
 2人目は、やはり和歌山藩の学習館の校長の妻。天保8(1837)年から明治18(1885)年までの日記が残っていて、東洋文庫で活字化されている。大塩平八郎の乱、ペリー来航、ええじゃないか、なども記録されている。
 3人目は、医師の妻で、曲亭馬琴の息子嫁として、その執筆を助けた。安政地震、飼い猫の様子が紹介されている。
 4人目は、河内国の種屋を切り盛りしていた。夫との離縁、贈答品のやりとりなどが紹介されている。
 嘉永4(1851)年の元日、滝沢家に年始のあいさつにやって来たのは30人にのぼる。
 節分の日は、厄落としをする。路上に下着と銭を落として帰ることで厄を落とす。いやはや、聞いたこともありませんが、正岡子規の書いたものにも出てくるそうなので、明治にも続いていた風習。
 お盆は、旧暦の7月15日。なので、七夕から間もなくすると、お盆になる。このときのお供(そな)えは、三食だけではなく、おやつに「煮あんころもち」、夜には上酒、みりん、冷や奴が供えられた。つまり、帰ってきた祖霊は、三食に加えて、おやつと晩酌付きでもてなされた。
誕生日には、赤飯を炊いて、近所の人も招いて祝う。江戸時代には誕生日を祝う習慣が存在していた。
夏の夜は、子どもたちと一緒に花火をして楽しんだ。
 牛肉も猪肉も食べている。滝沢家では、「かすていら」を食べ、あひるの卵も食べた。
 そして、滝沢家では猫を飼って可愛がった。猫には赤い縮(ちぢみ)織りの絹でつくった豪華な首輪を付けた。猫が病気にかかったときには、猫のための薬を買ってきて飲ませている。
江戸時代金魚の飼育が流行した。金魚飼育のマニュアル本(「金魚養玩草」)まで刊行されている。庭を掘って池にして、和金魚やランチュウを飼った。10疋で銀60匁(もんめ)もした。
 日用雑貨の貸し借りはひんぱんだった。また、いただき物は、そのまま他に廻されていった。ミカンを持ってきた人は、借金の申し込みをした。それが本命だった。
江戸時代にも商品券があって、贈答品としても用いられた。板(かまぼこ)印紙、酒印紙、饅頭(まんじゅう)印紙、湯葉(ゆば)印紙がある。
 大塩平八郎の乱が起きたのは天保8(1837)年2月19日のこと。翌2月20日には和歌山にも伝わっていた。2月21日には、「町与力大塩平八」の仕業(しわざ)という情報が届いた。
 ペリー来航のあった嘉永6(1853)年には、甲冑(かっちゅう)の移動販売が始まっている。
慶応3(1867)年、10月、大政奉還になった。そのころ、京都の街では、「ヨイジャナイカ、ヨイジャナイカ」と、はやし立てて踊る集団が各地に出現した。
貴重な本だと思います。
(2025年3月刊。1980円)

松の露

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)
著者 諏訪 宗篤 、 出版 早川書房
 宝暦郡上一揆異聞。これが、この歴史時代小説のサブタイトルです。
 ときは、徳川九代将軍家重の治世下。宝暦となってからも冷夏、長雨、害虫に襲われ、農村は疲弊していた。その前の享保の飢饉のときは、250万人が飢饉に苦しみ、餓死者が1万2千人をこえた。
 中山道は美濃の関あたりで総州浪人の慶四郎が災いに巻き込まれた。浪人が郡上(ぐじょう)一揆にどうやって巻き込まれていったのか、そのきっかけの展開から読ませます。
郡上の領主である金森家は年貢(ねんぐ)をさらにしぼり上げようと考え、年貢の算定方法を変更することにした。すなわち、それまで一定額であったものを、毎年の稲の出来高を検見(けみ)したうえで変動させることにした。これに対して、村方(むらかた)の百姓たちが一斉に反発した。今でも重い年貢が暮らしを圧迫していて、今後さらなる増税となれば、田畑の枚数が少ない村方は、次の収穫まで家族が生きて暮らすことが困難となる。そこで郡上のすべての村は、検見法採用の申し渡しを拒絶した。村方衆による強硬な反対を受けて、検見法の採用はいったん差し戻しとなった。しかし、金森家があきらめたわけではない。
 検見法が実施されると、村方の人々は強訴(ごうそ)を決行した。刀や槍、鉄砲こそもたないが、武士の百倍以上の村方人員を動員して政庁を取り囲んだ。このときは、ついに、国家老の連判する免許状を出させた。
 この免許状をめぐって、金森家による反撃が始まった。免許状を取り戻そうとするのです。
村方の農夫たちは、実のところ、敗残の将兵を襲って鎧や刀を奪いとり、守護や豪族を叩き出して自治を敷いてきた者の末裔(まつえい)である。理不尽な暴政や増税にははっきり声を上げて抗(あらが)い、強訴したり、江戸まで出向くことも辞さない。対面や掟(おきて)に縛られる武士の弱点を突く、したたかさも持ちあわせていた。
 ここで公事師(くじし)が登場。江戸時代の裁判において、現代の弁護士と似た役割を果たしていた人々がいたのです。
 幕府も、当初こそ公事師を禁圧していましたが、呼出しその他で便利な存在だとして、やがて公事師を公認しています。
金森家は村方の百姓たちの一揆に対抗すべく破落戸(ごろつき)を雇った。
 郡上一揆では、百姓たちは代官所へ向かって集団で要求をつきつける行動をするだけでなく、代表が江戸に出向き、老中の登場駕籠(かご)に駆け込み訴えもした。これが意外に大きな効果があった。
この本は剣豪小説でもあります。登場する浪人は目茶苦茶に剣が立ちます。バッタバッタと悪漢の手先たちを切り倒していくのです。
 刀の優劣は技量の優劣の前では意味をなさない。技量が同等なら勝負を決めるものは、心の練度だ。
遺書で名指しして自ら先に腹を切るのを指腹と呼ぶ。いやあ、聞いたことがありませんでした。ときには書状とともに、切腹につかった刃を相手方に送って死を迫った。そ、そういうこともあったんですか…。でも、ほとんど無視されるでしょうね。
郡上大一揆は江戸時代のなかで、まれにみる大きな成果をあげたことで有名です。
 それは、まず五手掛となったことに示される。通常なら町奉行、勘定奉行、寺社奉行の三者で協議するところ、目付と大目付まで加わることになった。
 そして将軍の意を体してことにあたったのは、将軍御側御用取次役の田沼意次。いわば新参者が、家康の有力家臣だった本多正信の家系の有力老中たちを押え込んだ。
そして、問題の金森頼錦は、改易され、陸奥の盛岡に永預とされて5年後に死亡。金森家の家臣団は全員が召し放ち。勘定奉行、大目付、郡代官なども改易され、御役召放、閉門・逼塞(ひっそく)となった。
 村人のほうも処罰された。4人が獄門、10人が死罪、遠島1人、重追放6人、所払33人など…。
 巻末に参考資料が紹介されていますが、「郡上一揆の会」なる団体もあるそうです。すごいです。歴史を読みものにした、ワクワクする本です。
(2025年2月刊。2300円+税)

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