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カテゴリー: 日本史(戦後)

母べえ

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:野上照代、出版社:中央公論新社
 ベルリン映画祭で惜しくも受賞できませんでしたが、山田洋次監督の映画『母べえ』は、実に良い映画でした。見終わったあと、胸のなかに温かい湯たんぽを抱えたような気分にずっと浸っていました。観客150万人突破という宣伝文句が出ていますので、興行成績もまずまずのようで、うれしい限りです。まだ見ていなかったら、今すぐどうぞ映画館に足を運んでくださいね。反戦・平和のためには、今すぐ足を動かすことが求められています。
 山ちゃんが兵隊にとられて南方戦線へ輸送船で運ばれていくシーンがあります。薄っぺらな船です。護送艦隊もないのですから、アメリカ軍の潜水艦に狙われ、魚雷をうち込まれたら、ひとたまりもありません。またたくまに、海のもくずと化していきます。今回、初めて、そのシーンをビジュアルなものとして見ることができました。
 ああ、こうやって、前途有望な多くの日本人青年が無念の死に追いやられたのだなと思うと、それだけで胸が一杯になりました。戦死といっても、まるで意味なく殺されただけなのです。それは、アメリカ軍に殺されたというより、軍上層部の無謀な戦争指揮によって死なされただけ。そうとしか思えませんでした。
 吉永小百合は、私より少し年長なのにもかかわらず、相変わらず凛々しい美しさを保持していて、畏敬の念にかられました。まさに信念の女性ですよね。反戦・平和の志を常日頃から表明しているのにも敬意を表します。
 著者の父親(父べえ)は、1926年に日本大学予科教授に就職し、執筆活動していたところ、治安維持法にひっかかっりました。日大を追放され、1940年から拘置所に入れられた。そのときの家族との往復書簡集がノートに書き写されて残っているのです。
 山田洋次監督の序文のかなに紹介されている詩を紹介します。
 戦死やあわれ
 兵隊の死ぬるや あわれ
 遠い他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもいないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こいびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまうや
 その心や          (竹内浩三、「骨のうたう」)
 戦争反対です。私は、どんな口実であっても、戦争に反対します。
(2007年12月刊。1100円+税)

画文集・シベリア抑留1450日

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:山下静夫、出版社:東京堂出版
 シベリア抑留の実情を初めて目で見ることができました。これまで書物としてはいくつも読んでいましたが、この本によって初めてビジュアルなものになりました。
 著者はシベリアから帰国して25年後の1974年春、抑留されていた4年間を日記風に書きはじめ、10ヶ月間で書きあげた。その過程で挿画を入れ、7年のうちに400枚あまりの画になった。
 B6ケント紙に黒のボールペンで、ペン画のスタイル。経験したものだけを、現場でカメラのシャッターをきった写真のように忠実に描写することを心がけた。
 いやあ、本当によく描けています。シベリアの酷寒の大自然と、抑留されていた日本兵、そして監視していたロシア兵の人間性がよくぞ描けています。感心してしまいます。
 著者は1945年(昭和20年)夏、抑留されたとき27歳でした。昭和18年に召集されて満州に渡り、佳木斯(チャムス)で敗戦を迎えた。輜重兵聯隊の主計軍曹だった。著者は商家の息子で都会っ子、小柄な身体で体力的にも劣っていたが、不屈の気力と日本人の誇りを胸に仲間に助けられながら、収容所で中隊長となり、肺炎・赤痢・マラリアにかかり、膝にケガをしながらも、昭和24年9月に日本に帰国できた。
 日本軍捕虜のシベリア抑留はスターリンによる1945年8月23日の極秘指令、日本軍捕虜50万人をソ連に移送せよという指令にもとづく。
 抑留者は60〜65万人。抑留中の死亡者は6〜9万人。
 戦争により2500万人という膨大な犠牲者を出して国土が荒廃したソ連は、復興のためノドから手の出るほど労働力を必要としていた。
 比較として、ソ連の捕虜になったドイツ軍人は320万人で、そのうち110万人(34%)が死亡した。ドイツの捕虜になったソ連軍人は570万人で、そのうち330万人(58%)が死亡した。この死亡率の高さは独ソ戦の苛酷さを意味している。
 これに比べると、日本軍人の捕虜の死亡率が1割程度ですんだというのは、まだましだったことになります。驚くべき数字です。
 著者が4年のシベリア抑留のあと日本(舞鶴港)に帰ってきたとき、日本政府の高官は、「ながらく御苦労様でした」と挨拶することもなく、ソ連の内情はどうだったか、スパイまがいを強要した。このことに著者は怒っています。なるほど、そうですよね。
 著者がようやく日本に帰れることを知ったとき、ロシア人たちは、「よかった、よかった。達者でお帰り」と喜んでくれたというのです。そして、きみたち日本人のおかげで住みやすい町になった、ありがとうという感謝の言葉をかけられたといいます。
 ひゃあ、そんな感じだったのですか・・・。
 シベリアの極寒の地を日本人捕虜が大変な苦労をして切り拓いていったことが、画と文章によって、ことこまかに紹介されています。
 シベリアでは冬にマイナス25度の日が続くと、今日はぬくい日だなあと喜び、防寒外套を脱ぎ、素手で作業することがあった。日本でマイナス27度と言えば、大変な寒気で異常事態といえるが、常時マイナス30度のシベリアでは服装もそれにあわせてあるため、むしろ暖かさを感じるほど。
 シベリアに日本人捕虜を抑留して多くの犠牲者を出したのは、第1に、日本軍の将校、下士官の横暴をソ連が黙認し、利用したことによる。食糧も公平ではなかった。第2に、作業遂行にノルマを強制し、将校、下士官に追求したため、作業兵を死においやった。第3に、なれない作業への無知のため発生した犠牲者がいる。第4に、生活環境が改善されず、もっぱら野外作業にかり出され、凍死者さえ出た。
 日本軍捕虜は、経費のかからない安い労働力とみられ、限られた期間内に精一杯つかいまくる、ソ連は消耗品視していた。
 木の枝にとまっている三羽のヤマバトをソ連の兵士が一羽ずつ長い歩兵銃で撃ち落としていったというウソのような話も紹介されています。
 シベリア抑留の実情を少しでも知りたい人には欠かせない本だと思いました。
 陽も長くなり、いっそう春めいてきました。それは良いのですが、花粉症に悩まされて困っています。鼻づまりがひどく、夜、口を開けて寝ていたらしく、朝、起きたときに舌がザラザラして嫌な感じでした。涙目になり、目が痛痒いのも困ります。もっとも、こちらは目薬で何とかなります。夜、寝る前に、鼻のあたりに温湿布をあてて温めています。すると、少しは鼻づまりがやわらぎます。黄砂で車体が黄色くなっていて驚きました。いろいろあるのも春なのですね。
(2007年7月刊。2800円+税)

枢密院議長の日記

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:佐野眞一、出版社:講談社現代新書
 大変な労作です。日本人が世界に冠たる日記好きの民族とはいえ、主人公のつけた日記は群を抜いています。なにしろ、26年間に297冊の日記をつけていたのです。ひと月にノート1冊分のペースです。1日あたり、400字詰め原稿用紙で50枚をこえることもある。26年分の日記をすべて翻刻したら、分厚い本にして50冊はこえる。すごーい。
 ところが、この日記は死ぬほど退屈なもの。といっても、その恐ろしく冗長な日記のなかに、ときに歴史観を覆すような貴重な証言が不意をついて出現する。
 主人公は、久留米出身の倉富勇三郎。嘉永6年(1853年)、久留米に生まれ、東大法学部の前身の司法省学校速成科を卒業したあと、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院議員、帝室会計審査局長官、枢密院議長などの要職を歴任した。
 この本は、その膨大な日記のうち、大正10年と11年に焦点をあてて紹介している。
 宮中某重大事件が登場する。昭和天皇の妃に内定していた良子女王の家系に色盲の遺伝子があるとして、婚約辞退を迫られた事件。婚約辞退を主張した急先鋒は、枢密院議長だった元老の山県有朋だった。山県をバックとする長派閥と、良子の家(久邇宮家)をバックアップする薩閥の対立に発展した。
 貞明皇后と良子女王のあいだには、まだ結婚前なのに、すでに穏やかならざる空気が漂っていた。ちょうど、いまの皇室の危機と同じように・・・。
 主人公の日記には、警視総監が久邇宮家の意を体した壮士ゴロの金銭要求をなんとか飲んでくれないかと言ったという話がのっている。これは内務大臣も了解ずみで、久邇宮家が皇后の座をお金で買ったことを認めているのも同然。
 うむむ、そういうことがあったとは・・・。
 倉富勇三郎には、恒二郎という2歳年上の兄がいた。この恒二郎は福岡から上京して官界を目ざした弟の勇三郎とは反対に、明治維新後、福岡で自由民権運動に加わり、福岡日日新聞社の創刊者の一人となり、最後は、同社の社長となった。福岡県弁護士会史(上巻)によると、明治24年8月に41歳で亡くなっていますが、久留米で代言人をしていました。自由民権運動で活躍し、死ぬまで県会議員でした。
 倉富の風貌は、村夫子(そんぷうし)そのもの。その春風駘蕩然とした表情には、緊張感がまったく感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめたのか不思議なほど。
 倉富は、超人は超人でも、スーパーマンではなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だった。
 柳原白蓮と宮崎龍介の騒動も紹介されています。2人のあいだに生まれた子は、早稲田大学にすすみ、学徒出陣で鹿屋の特攻隊基地で、敗戦の4日前にアメリカ軍機の爆撃を受けて戦死しました。白蓮女史は昭和42年2月に83歳で亡くなり、夫の宮崎龍介は4年後の昭和46年1月に80歳で死亡しています。
 主人公は日記をつけるために、下書きのメモまでつくっていた。そして、ヒマさえあれば読み返していた。まさに寸暇を惜しんで日記を書き続けた。
 いやあ、こんな人がいるんですよね。膨大な日記をこうやって読みやすい新書にまとめていただき、ありがとうございます。お疲れさまでした。
(2007年10月刊。950円+税)

BC級戦犯裁判

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:林 博史、出版社:岩波新書
 東京裁判の被告が28人、BC級戦犯裁判では7ヶ国によって5700人が裁かれた。死刑になったのは東京裁判で7人に対し、BC級裁判では934人にのぼっている。
 うむむ、この差はなんということでしょう。これは、『私は貝になりたい』というケースがたくさんあったことを意味しているようです。
 アメリカ政府は、1944年夏まで、戦争犯罪の問題に積極的には取り組んでいなかった。その状況が一変したのは、財務長官がナチス・ドイツの指導者たちをつかまえたら即決処刑すること、「人道に対する罪」の責任者は軍事法廷で裁くことを提案したことからだった。ルーズベルトもチャーチルも、この考えに同調していた。しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は危機感を抱いた。そのような政策では、かえってドイツを徹底抗戦に追いやってしまうので、やはり裁判によって処罰すべきだと批判した。
 そこで、即決処刑方式は連合国全体に共通するもっとも基本的な正義の原則に反するとして否定され、主要戦犯は裁判にかけることになった。
 ドイツ指導者を裁判にかけることにチャーチル首相のイギリス政府は抵抗したが、ヒトラーが1945年4月末に自殺し、法廷でヒトラーの演説を聞かなくてよくなったので、国際裁判案をイギリスも受け入れた。
 A級とは平和に対する罪、B級とは通例の戦争犯罪、つまり戦争法規または慣例違反、C級とは人道に対する罪のこと。
 スガモプリズンで執行された最初の死刑判決は、1946年1月7日の福岡俘虜収容所第17分所(大牟田)の由利敬所長(中尉)だった。死刑は4月26日に執行された。
 捕虜への犯罪が43%、民間人への犯罪が55%を占めている。
 死刑になったのは、准士官と下士官が圧倒的に多い。将校では下級将校に集中しており、とくに大尉が多い。高級将校のなかでは、中将と大佐が比較的多い。軍人のなかでは、憲兵が高い比率を占めている。憲兵は死刑の30%、全件数の27%、人数の37%である。朝鮮人の俘虜収容所監視員のように、軍属で死刑になった者も少なくない。
 アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜となった連合軍将兵は35万人。そのうち29万人が開戦後、半年内につかまっている。そのうち15万人がイギリス人、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの本国軍将兵だった。
 日本は捕虜の「無為徒食」を許さないという方針をとり、各地で捕虜を強制労働に従事させた。きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで多くの捕虜が倒れた。6ヶ国の捕虜15万人のうち4万人、28%が死亡した。これは、ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7%、シベリアに抑留された日本兵の死亡率が10%だったのに比べると、きわめて高い死亡率である。
 『私は貝になりたい』という映画で2等兵が戦犯裁判で死刑に処せられているが、2等兵が死刑に処せられた事実はない。曹長ならあった。曹長と2等兵では、軍の中での立場はまったく違う。
 『私は貝になりたい』の原作者は上官の命令であったということだけでは免責されない、侵略戦争に協力した世界のすべての人の一員としてのあなたの責任が問われているという趣旨のことを指摘しています。
 イラク戦争に相変わらず狂奔するアメリカの下働きをする新テロ特措法を成立させた自民・公明の政府と、それを側面から支えている民主党の責任は重大です。
 戦争は、ある日突然に始まるものではない。この言葉を今こそかみしめるときではないでしょうか。
(2005年6月刊。740円+税)

アジア・太平洋戦争

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:吉田 裕、出版社:岩波新書
 太平洋戦争は真珠湾戦争で始まったものではない。その前の、1941年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍は英領マレー半島のコタバルへ上陸作戦を開始した。その1時間後に真珠湾攻撃が始まった。
 この事実は、なにより対英戦争として始まったことを示している。オランダに対して日本は宣戦布告せず、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシアを無疵で手に入れようとした。日本政府は、宣戦布告の事前通告問題の重要性をほとんど認識していなかった。
 日本政府が太平洋戦争を始めたときの戦争目的は、明らかに「あとづけ」でしかなかった。1941年11月2日、昭和天皇は、東条首相に対して、戦争の大義名分をいかに考えるのかと下問し、東条は「目下、研究中」と奉答した。
 むむむ、なんということ、「目下、研究中」の大義名分のために戦争を始めようとしたとは・・・。絶対に許されないことですよ、これって・・・。
 12月8日午前11時40分の宣戦詔書では、「自衛のための戦争」となっていた。ところが、同じ日の夜7時30分には「アジアの解放のための戦争」となっていた。
 日本政府のかかげた戦争目的は、「自在自衛」から「大東亜新秩序維持」と「大東亜共栄圏建設」とのあいだをゆれ動いた。
 いやあ、これって、あまりにもいい加減すぎます。まるで信じられません。
 日本軍がアメリカとの戦争を決意した理由は、臨時軍事費による軍備の充実だった。開戦時、太平洋地域では、日本の戦力はアメリカを凌駕していた。国策よりも、自らの組織的利害を優先するという海軍の姿勢があった。つまり、軍備拡充に必要な予算と物資とを確保するため、武力南進政策を推進する。しかし、十分な勝算のない対米英戦は、できれば回避したい、というのが海軍のホンネだった。ところが、海軍首脳が対米開戦反対を明言できなかったのは、海軍は長年、大きな予算をもらって、機会あるごとに海のまもりは鉄壁だ、西部太平洋の防守は引き受けたと言ってきた手前、今となってにわかに自信がないなどとはどうしても言えなかったということである。
 対米戦争の主役は海軍である。このことは陸軍もよく理解していた。だから、海軍が本当に対米開戦を決意しているのか、あるいは対米戦に勝利する確信をもっているのかというのは、陸軍の重大関心事だった。
 9月6日に開かれた御前会議の時点では、昭和天皇は、対米英開戦について確信をもてず、参謀総長などに対して、その勝算について厳しく問い正している。ただし、天皇が開戦に反対していたというわけでもない。勝算のない開戦には大きな危惧を抱きながらも、統帥部(軍部)の主張に耳を傾けていた。
 11月5日の午前会議の時点では、天皇は木戸幸一内大臣などの宮中グループの助言を受けいれながらも、はっきり戦争を決意していた。『機密戦争日誌』には、「お上もご満足にて、ご決意ますます強固になっているようだ」と書かれている。
 日本政府は、戦争瀬戸際外交をとっていたので、強力な言論報道統制と世論指導をした。
 政府には内乱への恐怖があり、内乱を避けるために戦争を決意せざるをえないという転倒した論理が生まれていた。戦争瀬戸際外交は、国内的にも、日本政府をあともどりできない地点まで追いこんでいく結果となった。
 アメリカの主力艦隊との艦隊決戦に備えて、まずアメリカの植民地であるフィリピンと米領グァム島を攻略したい海軍とは異なり、陸軍にとってアジア・太平洋戦争とは、何よりも日英戦争を意味していた。
 アメリカのルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたという一次資料は存在しない。ルーズベルトは、通信諜報などによって、日本が戦争を決意したこと、東南アジアで軍事行動を開始したことは事前に知っていた。しかし、陰謀論は成り立たない。
 素人の私も、そうじゃないかと思います。
 真珠湾攻撃は、潜水艦部隊による攻撃としては、完全な失敗に終わっていた。真珠湾攻撃に際して5隻の小型潜航艇に2人ずつ乗り組み、戦死した9人の隊員(残る1人の将校はアメリカ軍の捕虜となった)を「九軍神」とたたえる大キャンペーンが展開された。
 日露戦争のときの軍神は30代から40代の中堅将校であったが、今度は20代の「軍神」である。時代は若者の大量死の時代にふさわしい新しいヒーローを必要としていた。
 うむむ、なるほど、なるほど、すごく鋭い指摘だと思いました。
 東条首相は、陸相として陸軍省の機密費を自由につかうことができたという有利な立場にあった。東条首相の政治資金の潤沢さは鳩山一郎からも指摘されていた。東条は、アヘン密売の収益金10億円を鈴木真一陸軍中将から受けとったという噂があった。東条のもっているお金は16億円で、それは中国でのアヘン密売からあがる収益だった。
 宮内省などに東条の人気が良かったのは、東条の付け届けが極めて巧妙だったから。たとえば、東条は、秩父宮と高松宮に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には、食物や衣服そして、万年筆などの贈り物をしていた。東久邇宮のところには、アメリカ製自動車が届けられた。いやあ、これって全然知りませんでした。東条が汚いお金で宮中などの要人を「買収」していただなんて・・・。ひどい話です。
 東条首相が昭和天皇の信頼を得ていたのは、東条が天皇の意向をストレートに国政に反映させようと常に努力していたから。
 1942年4月の翼賛選挙のとき、非推薦候補に対しては露骨な選挙干渉がなされたが、推薦候補に対しては1人あたり5千円の選挙費用が政府から交付された。この費用は、臨軍費から出ていた。ところが、激しい選挙干渉にもかかわらず。85人もの非推薦候補が当選した。そこには、翼賛選挙に対する国民の批判が一定反映されていた。
 東条内閣の政治では、憲兵の存在を忘れてはならない。陸軍大臣を兼任していた東条首相の意を受けた憲兵政治がなされた。憲兵の私兵化だ。
 また、東条は、メデイアを意識的に利用した最初の政治家だった。東条は絶えず国民の前に姿を現わし、率先して行動し決断する戦時指導者という強烈なイメージをつくり出そうとした。くり返しラジオに登場した。東条は最後までオープンカーにこだわった。国民の視線に常に自らをさらすというのが、一貫して姿勢だった。
 東条の芝居がかったパフォーマンスは、識者の反撥と顰蹙を買った。しかし、一般の国民は東条を強く支持した。東条は、一般の国民にとって「救国の英雄」だった。うむむ、そうだったのですか・・・。ここで、つい小泉純一郎の姿が東条英機にかぶさって思われました。
 陸海軍の兵力が急激に膨張したことは、精強さを誇ってきた日本軍が弱体化したことを意味する。幹部の質の低下である。指揮・統率能力が低く、体力・気力ともに劣る、兵士に対して押さえのきかない将校が増大した。同時に彼らは、一般社会の空気を吸い、一般社会での経験を積んできた将校でもあった。軍隊の地方化、市民社会がすすみつつあった。
 1944年3月、日本軍は「玉砕」という言葉をつかわないようにした。玉砕という表現が逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断にもとづいている。昭和天皇の弟である高松宮の日記(1943年12月20日)にも、「玉砕は、もう沢山」という表現がある。
 1943年12月。民心は、東条内閣からもうまったく離れていると小畑中将が細川護貞に語った。東条の極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙を買っていた。
 大変勉強になる本でした。知らないことが、こんなにもあるなんて・・・。
(2007年8月刊。780円+税)

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