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カテゴリー: 日本史(戦後)

父の戦地

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:北原 亞以子、 発行:新潮社
 召集され、遠くビルマへ派遣された父親が、故郷日本へ送った葉書70数枚が再現されています。愛する我が娘(こ)が小学校に入学する姿を見れず、祝福の声をかけられなかったって、どんなに残念なことだったでしょう。その娘によって、葉書に書かれた状況が生き生きと再現されています。亡き父親は残念な思いと同時に、今では、この本を知って天国で満足しているのかもしれません。それにしても、人間の作り出した戦争って、罪な存在だとつくづく思いました。好戦派の石破大臣も、自分や家族が戦地に出されたら身にしみて分かると思うのですが、今はひたすら口で勇ましいことを言うばかりで、厭になってしまいます。戦争は、中山前大臣みたいな「口先男」と利権集団のために起こされるものだとしか思えません。
 直木賞作家の著者の父は、著者が3歳のときに応召してビルマへ派遣された。東京・新橋で家具職人として働いていた。ビルマに送られてからは、絵入り葉書を故郷の娘へ大量に送ってきた。
 カタカナ文字に絵が描かれているのですが、素人絵ながら、本当に味わいがあります。決して上手な絵ではないのですが、それが妙に面白いのです。
 母が父の戦死の公報を受け取ってきた日のことは鮮明に覚えている。よく晴れた日、外で遊んでいた小学3年生の著者は、母に呼ばれて、日当たりの良い座敷に座った。終戦の翌年(1946年)のこと。
 「ちょっと話があるんだよ」
 「なあに」
 「お父ちゃんは死んだよ」
 「お父ちゃんが死んだなんて嘘みたい」
 母は泣いていなかった。母の膝にふつぶせて泣いた。自分の悲しさをどうすればよいのか分からず、ただ泣きじゃくっていた。
 昭和20年4月、ビルマから退却していた途中、輸送船に乗っているところを空襲されて死んだらしいということが分かった。
 父があの世へ旅立ったのは、父が病に侵されたからではない。まして、死にたいという意思があったからではなかった。もっと生きていたかったはずである。この世に未練も執着もあった。
 母に宛てた葉書に、「若く見られて恥ずかしいって、結構だ。うんと若くつくれ、今まであまりにくすぶりすぎていたから、これからはうんと若くつくれ。ズキン、ワイシャツ、どんな格好だろうな。どんなでもいいから、きれいにしていてくれ」と父は書いている。
 最後に、その父親の写真が一枚だけ紹介されています。俳優にしていいような素敵な笑顔です。つい、私は、亡くなった佐田啓二を連想してしまいました。
 幼い娘を泣かせてしまった戦争を私は憎みます。 
(2008年5月刊。740円+税)

平頂山事件とは何だったのか

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:平頂山事件訴訟弁護団、 発行:高文研
 わずか180頁の薄い本ですし、1400円ですので、多くの人に買ってぜひ読んでほしいと思いました。日本人として知っておくべき事実がこの本には書かれています。私もなんとなく知ったつもりになっていましたが、平頂山事件についての正確な事実経過とことの本質を知っていませんでした。
 1932年(昭和7年)9月16日、当時、満州(今の中国東北部)の撫順に駐屯していた日本軍が、平頂山地区の住民3000人を崖下の平地に追い立て、一斉機銃掃射を浴びせかけ、その遺体はガソリンがかけられて燃やされたうえ、ダイナマイトで崖を爆破して土砂によって完全に隠蔽した。
 1932年というと、日本で5.15事件が起きた年です。軍部の横暴・独走がますますひどくなっていたころ、中国で日本軍はとんでもない大虐殺事件を起こしていたのです。被害者は何の罪もない労働者とその家族です。国民党軍でも八路軍でもありません。
 平頂山事件の起きた1930年代の撫順には、日本人が1万8000人も住んでいた。ちなみに、朝鮮人は4000人、中国人は44万5000人。日本人のうち1万人は、日本の国策会社である満鉄の社員とその家族である。
 撫順炭鉱は満鉄が管理していた。石炭埋蔵量は9億5000万トンといわれ、世界有数の規模を誇っていた。撫順炭鉱は、関東軍によって厳重警備されていたが、抗日義勇軍(大刀会)が撫順炭鉱を襲撃した。そこで、日本軍の守備隊は、平頂山の村民が抗日義勇軍に加担したとみて、今後の見せしめのためにも、徹底的に殺しつくし、焼き尽くすという方針に出た。村民をだますために、記念写真を撮るとか、適当な嘘を言い募って住民を集合させ、重軽機関銃で一斉掃射した。
 ところが、当時の日本政府の見解は、不正規軍や共産党員の男たち2000人からなる部隊捜索のために村に入ったところ、日本軍が攻撃されたために戦闘となり、戦闘中にその場所の大半が焼けて壊滅したが、住民虐殺はなかったというもの。
 そして、この日本政府の見解は、今もなお、正式に改められてはいない。そして、日本では今も平頂山事件そのものがまったく知られていない。まったく、そのとおりです。
 この平頂山事件でも生き残りの人々がいました。(幸存者と呼ばれています)。幸存者の人々が日本政府を被告として訴えを起こしたのです。
 ところが、日本政府は「国家無答責」という論理を使って、責任を認めようとしません。これは、国の権力的行為によって生じた損害については、国は賠償責任を負わないという考え方です。なぜ権力的行為なら賠償責任を負わないでいいというのか、私には理解できません。
 「国家無答責」というのは、明治憲法下において、判例の積み重ねによって徐々に形成されていった法理論のようです。しかし、日本国憲法下の裁判所が戦前の法理論に拘束されるというのは、おかしな話です。なのに、現代日本の裁判所はそれを認めた判決を次々に下しています。
 学者は次のように解説します。国家無答責(無責任)の法理が認められるのは、たとえば強制執行処分、徴税処分、印鑑証明の発布、特許の付与といった国の権力的公務が法律によって許されている場合に限られるし、そもそも外国人には適用されない。平頂山事件は1932年の事件であって、いわゆる日中戦争のさなかの事件(行為)ではなく、平和に暮らしていた中国の一般市民を突然に、日本軍が残虐の限りを尽くして虐殺した事件であるので、国家無答責の法理は適用されるべきではない。
 なるほど、そう、そうですよね。ところが、残念なことに、日本の裁判所は一審も二審もそして最高裁も、幸存者の請求を認めませんでした。残念ですし、中国人の被害者・遺族の方々に申し訳ないと思います。
 被害者の要求は3つです。第一に、日本政府が平頂山事件の事実と責任を認め、幸存者と遺族に対して公式に謝罪すること。第二に、謝罪の証として、日本政府の費用で謝罪の碑を建て、被害者の供養のための陵苑を設置し警備すること。第三に、平頂山事件の悲劇を再び繰り返さないため、政府は事実を究明しその教訓を後世に伝えること。
 いやあ、どれもごくごく当然の要求ですよね。一刻も早く日本政府がこれらの要求を受け入れることを私も強く望みます。
 ところで、この3つの要求には金銭賠償が含まれていません。いろいろの議論があったようですが、その点も当然考えられるべきものと私は思います。
 それにしても、この困難な裁判を日本で起こし、遂行していった日本の弁護士の皆さんの労苦にも感謝したいと私は思います。
 ちなみに、私も「すおぺい」ニュースを読んでいます。 
(2008年8月刊。1400円+税)

戦争の法のもとに

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:宮道 佳男、 発行:クリタ舎
 1945年8月6日、広島に原子爆弾が落とされた。その直前の7月28日、呉軍港にアメリカ軍が空襲をかけた。このとき、沖縄から発信したB-29が2機、そして艦載機も2機が撃墜され、アメリカ兵12人が捕虜となった。B-29の機長は、尋問のため東京へ護送され、残る捕虜11人が広島に残った。8月3日にはB-24の5機編隊が広島市街地を爆撃し、1機が高射砲で打ち落とされ、9人が捕虜となった。1人は住民に殺され、将校2人は東京へ護送されて、残る6人が広島に残された。
 そこで、アメリカ兵17人(23人説や11人説もある)が、広島師団内の拘置所に収容されていた。8月15日の終戦時にアメリカ兵が広島に何人生存していたのか、明確ではない。8月19日にアメリカ兵2人が死亡したことは確実だが…。結局、広島にいたアメリカ兵の全員がアメリカの原爆によって死亡した。
軍律裁判は軍法会議とは異なるもの。軍法会議は主として自国兵士の規律違反と罰するもの。敵前逃亡兵は銃殺が決まりである。軍律裁判は、戦闘地域とか占領地域で敵国民や被占領国民に対して占領国的違反を罰するものである。軍律裁判は、戦闘地域であるため、即決非公開、弁護人はなく、上訴もない。懲役もなくて、すべて銃殺ばかりという特殊性があった。それでも、少なくとも戦場における即決リンチ処刑よりはましなものだった。戦後、連合国が行ったA級戦犯そしてBC級の戦犯裁判は、この軍律裁判と同じものだ。
 この本は、原子爆弾で壊滅させられた広島にいたアメリカ兵たちに対して、軍律裁判で死刑に処せられようとするに至るまでを克明に描いています。
無差別爆撃は人道無視の暴虐非道の犯罪だ。だから死刑になるのも当然だ。このような暗黙の前提で裁判はあっという間に終わってしまいます。そして、やがて処刑されてしまいます。
 はたして、死刑に処する必要があったのか、あったとして、では軍の最上層部には責任がなかったのか、という疑問にぶち当たります。
 著者は、私の司法研究所での同期の名古屋の弁護士です。先日、箱根で開かれた35周年記念行事のとき、本人からサイン入りでもらいました。手術を受けて入院中に執筆し始めたということでした。実は、東京に出張したとき日弁連会館の地下の本屋にこの本を見かけたので、次のときに買おうと思ったところ、その次にはありませんでした。やはり本は買おうと思ったらすぐに買わなくてはいけません。
 それにしても、よく調べてあるなと感心しながら読みました。 
(2008年5月刊。1400円+税)

天皇制の侵略責任と戦後責任

カテゴリー:日本史(戦後)

著者:千本 秀樹、 発行:青木書店
 明治天皇は日本軍の朝鮮半島出兵には積極的だった(1894年)が、清国が乗り出してくると聞いて急に不安になった。そして、日清戦争の始まりは不本意であり、ストライキもやった。ところが、勝った勝ったとの報告が相次ぐと、最後の決戦を行って清国軍主力をたたくため、自ら中国大陸へ乗り込もうとする。大本営を旅順半島、さらには洋河口へ進めようとまでした。これは、さすがに政府・軍首脳部が反対して思いとどまらせた。
 うひゃあ、こ、これは知りませんでした。なんと、大本営を天皇自身が中国大陸へ持っていこうとしたなんて…。そりゃ、身の程知らず、無謀でしょ。
 日露開戦のとき、明治天皇はロシアを恐れていた。ふむふむ、なるほど、ですね。
2.26事件(1936年)のとき、昭和天皇は侍従武官長、軍事参議官会議、東京警備司令官という統帥の要に当たる組織や人物、さらに川島陸相らが反乱軍側に肩入れするなか、孤立しながらも強い意思を持って統帥大権をもつ者として鎮圧の命令を発し続けた。それこそが将軍たちの思惑を排し、2.26事件を4日間で解決する力となった。
張作霖爆殺事件は、関東軍の謀略事件であるが、この陰謀を昭和天皇は承認した。むしろ真相の徹底究明・軍紀粛清を目指した田中義一首相を罷免したことから、侵略的体質の強い関東軍を大いに力づけることになった。昭和天皇は政治に強い関心をもっており、田中義一首相に対して「辞表を出したらよい」とまで言った可能性がある。
 うひょお、そういうこともあり、なんですか…。
 1941年9月に開かれた御前会議で、日本開戦が正式に決まった。このときの昭和天皇の関心は、あくまでも戦争に勝てるかどうかであって、政治的に、あるいは思想的に平和外交を主張するものではなかった。いわば、「勝てるなら戦争、負けそうなら外交」というものであった。つまり、昭和天皇が日米開戦に消極的であったというわけではない。そうなんです。昭和天皇が開戦に消極的で平和主義者だったというのではないのです。
 終戦のときの「聖断」神話は間違いである。昭和天皇は、支配層の中では陸軍に次いでもっとも遅くまで本土決戦論にしがみついていた一人だった。ただし、それを放棄してからは、積極的に終戦の指導にあたった。そして、その結果、さらに多くの沖縄県民が犠牲になったわけです。
 1945年3月に始まった沖縄の地上戦について、昭和天皇に「もう一度、戦果を」という頭があったため、激戦が長引いてしまった。ポツダム宣言が日本に届いてからも、昭和天皇は、大本営の長野県松代への移転と本土決戦を覚悟していた。
 終戦後、昭和天皇はマッカーサーと会見したとき、次のように語った。
 日本人の教養はまだ低く、かつ宗教心の足らない現在、アメリカに行われるストライキを見て、それを行えば民主主義国家になれるかと思うようなものも少なくない…。
 昭和天皇から宗教心が足りないと言われたくはありませんよね。だって戦前の日本では、それこそ日本人は靖国神社にこぞってお参りしていた(させられていた)のではありませんか。
 この本は著者のゼミで学んだ学生(永江さん)が私の事務所で働いていますので、勧められて読みました。私の知らなかったことも多く、大変勉強になりました。ありがとうございます。
(2004年9月刊。2200円+税)

「百人斬り競争」と南京事件

カテゴリー:日本史(戦後)

笠原十九司 大月書店
 靖国神社のご神体が刀だということを初めて認識しました。この本は、第二次大戦(日中戦争)中、日本軍が中国大陸において、罪なき市民や法廷で裁かれ捕虜待遇を受けるべき敗残兵を日本刀で虐殺していた事実をあますことなく立証し尽くしています。
 日本刀は、日本軍が戦時国際法に反して、中国軍の投降兵、捕虜、敗残兵、更に便衣兵の疑いをかけた中国人を捕獲し、座らせて背後から首を切り落とす、いわゆる「据え物斬り」には大変有効な武器であった。弾丸も節約でき、銃声もせず(周囲に知られる危険がない)、一刀の斬首によって絶命させられるので、銃剣の斬殺よりも処刑法として効果的だった。
 日中戦争で、日本から兵士が中国戦場へ送られ、戦傷者も多くなるに従い、護身用の「お守り」として、下士官・兵卒でも日本刀を携行するのが「黙認」されるようになっていった。親などが士征に際して餞別として与えていた。
 地方紙は、各地の郷土部隊の将兵の軍功を競って掲載し、戦場の手柄話が郷土の新聞に掲載されることは名誉として戦場からも歓迎された。
 日中15年戦争において、中国戦場には、何百・何千の「野田・向井」がいて、無数の「百人斬り」を行い、膨大な中国の郡民に残酷な死をもたらした。
 中国兵の捕虜を「据え物斬り」したというのは明らかに戦時国際法に違反する行為であるが、戦争犯罪行為をしているという意識は全くなく、上官・軍事郵便の検閲も「皇軍の名誉を失墜するもの」と考えないどころか、新聞に掲載させるに値する「名誉な」行為だとしていた。
 全国各地の新聞が実質のコピーと共に紹介されていますが、戦前の日本はまさに狂気の支配していた国であったことがよく分かります。武器解除された無抵抗の捕虜を斬首していった実情を新聞記事では戦場における白兵戦という勇壮な手柄話に脚色して報道していたというのが事実なのです。
 なにしろ師団長だった中島今朝吾自身が、日記に中国を捕虜として収容・保護せず、処理(殺害)する方針だったことを明記しているのです。
 そして野田少尉は、鹿児島で小学生を前に自らの武勇伝を語ったのですが、そのとき、「実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4,5人しかいない。あとは投降した中国兵を並ばせて片っ端から斬った」と述べ、聞いた小学生が「ひどいなあ、ずるいなあ」とショックを受けたという話が紹介されています。この小学生の感想はまともですが、世間一般は、あくまで武勇伝としてもてはやしていたのです。そこに日本社会の反省すべき汚点を認めなければならないと思います。これは決して過去の話ではありません。
 中国戦場にあっては、日本軍の将兵が軍民を問わず中国人を殺害するのは日常茶飯事だった。野田少尉が抵抗しない農民を無惨にも切り捨てた。そのことを士隊長も知っていながら黙認した。そして、マスコミも農民であることをぼかして報道した。
 著者は、南京大虐殺事件の被害者が「30万人」であったか否かという数字(人数)にこだわるべきではないと強調しています。私も、まったく同感です。「30万人」という数字にこだわると、日本側の「否定派」の思うツボにはまることになるからです
 二人の若手将校を「百人斬り競争」の英雄として喝采し、時代の寵児に仕立て上げた「異常な競争社会」が戦前の日本には実際にあった。日本刀は、捕虜にならない、捕虜はとらない、という兵士の使命を軽視し、人権を無視した行為を日本軍将校に強制する上での凶器となった。
 そして今日、少なくない日本人が「異常な競争社会」から目覚めていない、あるいは目覚めることが出来ていない。その根本的原因はどこにあるか。主要には、多くの日本人が「他人の足を踏んづけておいて、踏まれた人の痛みを考えもしない」自己中心的な思考の枠にはめられ、また、その枠を出ようとしないからである。
 「百人斬り競争」については、日本刀で斬首された中国人の立場を考えようともしないで、「できるはずがない」「やるはずがない」と常識論から簡単に否定してしまう。そして、左右のイデオロギーの「泥仕合」だと嫌悪して、歴史的な事実はどうだったのかについての思考を停止してしまう。
 加害者の側にある日本人としては、被害者の中国人の恐怖、衝撃、怨恨、憤激の感情を伴った記憶の仕方を理解するように努力することが必要である。
 そこに目を閉ざす者、南京事件という非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、「異常な戦争社会」を到来させる危険に陥りやすい。
 いやあ、本当に鋭い指摘です。いっぱい赤鉛筆でアンダーラインを引きながら読み進めた本でした。
(2008年6月刊・2600円+税)

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