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カテゴリー: 日本史(戦後)

ノモンハン事件

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書
 今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
 日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
 1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
 ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
 しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
 航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
 ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
 そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
 こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
 
(2009年8月刊。760円+税)

阿片王

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 佐野 眞一、 出版 新潮社
 満州そして中国で日本が何をしたのか。そこでうごめき甘い汁を吸っていた人間が戦後の日本で素知らぬ顔で政財界などでのさばっていた、なんていうことを知ると、背筋に虫酸が走ります。つくづく日本って嫌な国だなと思います。そんな史実には目をつぶったらいいんだよというのが、例の自虐史観です……。でも、そんなわけにはいきませんよね。
 生アヘンには、平均8~12%のモルヒネがふくまれ、これが人間の神経を麻痺させて、肉体的苦痛を鎮静させる。アヘン煙膏を吸引すると、モルヒネの麻薬作用で、あたかも桃源郷に遊んでいるかのような幻覚に襲われる。
 ペインは、無色の結晶状のモルヒネを加工し、純度を上げたもの。
 アヘン中毒者は共通して、果物が猛烈に欲しくなる。
アヘンが厄介なのは、性欲という人間の本能と分ちがたく結びついていること。アヘン常用者の性交時間の調査によると、最高17時間も陶酔感にひたっていた。その結果、男は精力を使い果たして腹上死する例が多かった。
 日本は幕末以来、アヘンを国家の厳重な管理下に置いた。日本がアヘンを禁制品としたのは、亡国に直結する隣の中国のアヘン禍に衝撃を受け、これを反面教師としたから。
 そして、それを承知の上で日本は、アヘンを中国に売り込んでいった。中国の奥地に日の丸の旗が翻っていたが、それはアヘンの商標だった。関東軍が中国の熱河に侵攻したのは、実はアヘン獲得作戦だった。
 日本軍は満州から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込み、これでペルシャ阿片を輸入した。
 ペルシャ産アヘンの海上輸送には危険がともなったため、日本の外務省と軍の保証がなければ不可能だった。上海には、常に阿片を必要とした人間が人口の3%、実数にして十万人いた。
 里見甫はアヘン取引で莫大な利益を上げ、軍の情報工作に欠くべからざるものとなった。アヘン売買による利益は日本の興亜院が管理し、3分の1が南京政府の財務省に、3分の1がアヘン改善局に、残りの3分の1が安済善堂に分配された。
 アヘン王の里見がGHQから起訴されなかったのは、当時の国際状況の生み出したパワーポリティクス力学が複雑に絡んでいる。里見が極東国際軍事裁判で裁かれることになれば、その過程で「戦勝国」中国の阿片との深いかかわりが必然的に明るみに出てくる。そうなると蒋介石政権も無傷では済まなくなる。蒋介石の率いる国民党軍の資金の少なからぬ部分がアヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった。
 アヘン売買は割のいい商売だった。アヘン1両が内蒙古で20円、天津で40円、上海で80円、それがシンガポールでは160円に跳ね上がった。
 日本軍は南京攻略後、南京市財政の立て直しのためにアヘン売買を利用した。そのおかげで、たちまち南京市の財政は好転した。
 里見の前では、東条英機も岸信介も頭が上がらなかった。佐藤栄作も同じで、頭が上がらなかった。うひゃあ、恐ろしいことですね。戦時日本の首相を務めた兄弟が、中国で飽く逆の限りを尽くしたアヘンのおかげを蒙っていたとは……。アヘンは中国の人々をダメにしただけでなく、その経済もめちゃくちゃにしたのですから、責任は極めて重大です。こんな事実を覆い隠そうと言うのは、間違っています。やっぱり、悪いことはきちんと糺されなければいけません。青臭いと言われるかもしれませんが、私は本心からそう思います。皆さんは、どう思いますか?
 440頁もの労作なので、いくらか、冗長すぎる気はしました……。すみません。でも、労作です。
 
(2005年9月刊。1800円+税)

軍艦島(上)(下)

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 韓 水山、 出版 作品社
 崎戸島(三菱崎戸炭鉱)は幽霊島、高島(三菱高島炭鉱)は白骨島、端島(三菱端島炭鉱)は地獄島と呼ばれた。端島はその形格好から軍艦島とも呼ばれた。
 朝鮮人の皇民化教育を推進するなかで、朝鮮人を半島に居住する日本国民と定め、朝鮮人を半島人と呼ぶようになった。
 三白一黒一青という言葉があった。日本が朝鮮から持っていこうとしたものである。三つの白いものは、朝鮮の米と絹、綿花だ。黒いものは海苔、青いものは竹である。日本は朝鮮からこの 三白一黒一青を全て奪い、持ち去った。
 端島には、9階建てアパートが65棟も建っていた。この地獄島と言われる端島から逃亡した朝鮮人がいました。もちろん失敗して亡くなり、あるいは刑務所に入れられた人も少なくありません。逃亡しても、言葉の壁があるため、日本で自由に生活できるわけもありません。逃亡者の一人が長崎の造船所で働けるようになったのは、偶然といってよいほどの幸運でした。
 軍艦島では、売春宿まで三菱が直営していた。小さな島でしかないため、鉱夫が孤立して生活せざるをえない。ほかの炭鉱なら周辺の民間人が金もうけにやっている娯楽福祉も、ここでは会社が整えてやるしかなかった。その一つが売春と賭博だった。会社は娼婦を雇用し、売春事業の遊郭を直営にした。森田屋、本田屋、そして朝鮮人が経営をまかされていたこともある吉田屋という三軒の店があった。働いていた女性は1軒に9人、全部で27人だった。
 長崎に原爆が落とされた瞬間を目撃した人もいます。
目を開けると、あたり一面、火の海だった。燃え上がる炎は、太陽の下で黄金色に光っていた。周りには人影すらなかった。ピカッと光った瞬間、周囲は燃えあがる炎と化し、その炎がうねり、あらゆるものが狂ったように揺さぶられた。そして、どこからか地鳴りのような音が響いてきた。
 長崎には、昭和20年7月までに375人の捕虜がいた。彼らは朝6時から夜7時まで工場で働かされた。暖房のないバラックは、耐えられないほど寒い。冬の終わるころには、捕虜の4分の1にあたる、125人が肺炎で亡くなっていた。
原爆にあった朝鮮人は母国語で泣き、うめいた。
 救護隊の日本人は、アイゴー、オモニーと泣き叫ぶ朝鮮人は決して病院に運ばなかった。朝鮮語を話す者には水も食料も与えなかった。防空壕からでさえ、追い出された。そして、遺棄された朝鮮人たちは、崩壊した建物のガレキの下で死んでいった。最後まで取り残された死体も朝鮮人だった。一見、日本人と見まごうが、千切れた服から朝鮮服だと分かったり、アイゴー、オモニーという呻き声を聞いたりして救護隊は区別していた。
端島炭鉱に朝鮮で「募集」された朝鮮人労働者が働くようになったのは1918年(大正7年)5月からである。このとき、端島炭鉱に70人が就労した。1939年(昭和14年)には総動員体制の確立ともに、朝鮮人労働者の「募集」は微用となり、強制連行に等しくなった。
端島炭鉱をふくむ炭鉱に4000人の朝鮮労働者が微用されていた。
軍艦島が観光ブームで脚光を浴びていますが、このような過去はもっと知られるべきではないでしょうか。
(2010年1月刊。(2400円+税)×2)

在日一世の記憶

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 小熊 英二・姜 尚中、 出版 集英社新書
 780頁もある新書です。とても新書とは思えない異例の厚さです。もちろん中身もぎっしり詰まっています。
 「在日」の人たちの生きざまを知ると、戦前・戦後の日本の実像が見えてくる思いがしました。この本には、52人もの在日コリアン一世のライフ・ヒストリーの聞き取りが収録されています。あとがきを読むと、膨大な分量だったのをぐっと減らす作業はかなり大変だったようです。私も弁護士の講演録を編集したことがあります(今もしていますが……)ので、その大変さはよく分かります。話し言葉は冗長になりやすいので、それを読みやすいように要点に絞って削っていくのです。
 「在日」一世たちは、明らかに日本社会における「異物」であったが、現在の三世・四世の在日は、言語的・文化的に日系日本人と差異はない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更されて以来、生まれる子どもは日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六世・七世という存在はありうるが、ごく少数でしかないのではないか。しかし、今後とも「在日」は存在し続けるだろう。
 1952年のメーデー事件のときに、人民広場の決起大会に参加した。日本共産党が始動したが、デモの最先頭にいた人々はほとんど在日だった。ええーっ、そうだったんですが……。私は、「ナンジ臣民、飢えて死ね。朕はたらふく食っているぞ」とプラカードに書いて不敬罪で捕まった松島松太郎氏を知っています。
 日本にパチンコが一番はじめにできたのは新潟。新潟の人が栃木県に来てすすめるので始めた。パチンコには、韓国人・朝鮮人を問わず、血を流した歴史がある。今はそうじゃないけど、当時はお金があるから、土地があるから、出来るという商売ではなかった。どの町でもヤクザと喧嘩して、それでパチンコを守ってきた。殺された人もいるし、命がけだった。
 北朝鮮に1983年をふくめて、もう3回行った。行ってみて、ああ、こんな社会主義があるかと思った。こうしようと思って、こんなに苦労してきたのか……。上と下の差がすごい。体制だ。上の人はそれこそ天国。下の人は地獄。貧富の差っていうもんじゃない。それで総連をやめて民団に移った。
 タイにある俘虜収容所には1万1000人の俘虜がいた。これを日本下士官17人と130人の朝鮮人軍属で管理する。朝鮮人軍属のうち148人が戦犯になり、23人が死刑を宣告され、現地で処刑された。
 朝鮮高級学校の教員生活をしていたので、卒業生に謝らなければならないことがある。一つは、全世界をキムイルソンの主体思想に一色化するというイデオロギーを掲げ、押しつけたこと。二つには、キムイルソンだけを将軍とし、自分の国の歴史と地理をきちんと教えなかったこと。
 なるほどですね。歴史を偽って子どもたちに教えてはいけませんよね。それは、今の日本で自虐史観とかいって、日本の戦前の侵略戦争を引き起こした事実を認めない誤りと根は一つだと思います。
 四・三事件は、無残な敗北だった。しかし、四・三事件は不正を認めない、祖国分断を許さないという民衆のエネルギーから起きたのだ。四・三事件では、南労党(南朝鮮労働党)の済州島軍事委員会が武力抗争の核になっていたのは事実だ。しかし、民衆が軍事委員会に呼応したのは、呼びかけがあったからだけではない。アメリカに対して恨みが一杯あったんだ。当時の民衆は、山に入って武装した南労党の部隊が自分たちの思いを晴らしてくれると信じていた。
 憲法改正や自衛隊派兵の理由として、「北朝鮮の脅威」を挙げるのはガセネタに過ぎない。これはまったく同感です。
大変な労作です。多くの人に一読をお勧めします。
私が子どものころ、近所に朝鮮人部落がありました。ときどき警官隊がドブロク密造を検挙するため、そこに出動していると聞いていました。
 
(2008年10月刊。1600円+税)

昭和20年夏、僕は兵士だった

カテゴリー:日本史(戦後)

著者 梯 久美子、 出版 角川書店
 この本で紹介されている三国連太郎の話には驚きました。彼は大正12年(1932年)生まれで、召集されます。しかし、その前に日本を逃げ出すのです。
 鉄砲を持たされて人を撃つのもいやだし、自分が殺されるのもいやだ。徴兵検査には合格したけれど、入隊するのは何としても免れたかった。それで、とにかく逃げよう。逃げるんなら、大陸がいいんじゃないかと、中国にわたり、朝鮮・釜山に行き、また日本に舞い戻ってきた。そして入隊通知が実家に来ているのを知り、九州・唐津へ逃げ、そこで特高警察に捕まった。
 刑務所には入られず、すぐに入隊させられて中国戦線の戦地へ送られた。入院したりしているうちに幸いにも終戦を迎えて日本に戻ってきた。
戦争の中では美しい人間も美しい出来事も一度も見なかった。
 戦争で死ななかったことより、戦後、いろいろなことを偽って生きてきたことの方に負い目がある。人を利用し、便乗し、嘘をつき、そんなふうに生きてきた。
 俳優になってロケで地方に行くことがあるが、昔の自分を知っていそうな所に行くのは怖い。正直、今でもそんなところがある。
 こんな自分の体験を率直に語るのですから、やはり正直な人だと私は思います……。
 別の人の話です。レイテ沖海戦で戦艦に乗っていた人です。
 陸の戦いでは寝泊りしている場所と戦場は普通は別である。生活の場を離れて出陣していくわけだ。しかし、海の戦いでは、そこで眠り、飯を食った場所に何時間か後には遺体が散乱し、負傷者が横たわっているという状況になる。生の営みと死とが、同時にそこにある。このレイテ沖海戦で、まさにそんな体験をした。そうなんですね、海上では逃げるところがありません。
 もう一つ。これも船に乗っていて、アメリカ軍に沈没させられた人の話です。
 もう駄目だと思ったとき、ズタズタに切れたクレーンのワイヤーロープが何本もぶらさがっているのに気がついた。思わず、そのうちの一本にとびついた。うまく捕まることができると、脚にだれかがすがりついてきた。その重さでずるずると下に落ちて行きそうになる。そのまま落ちれば、下は燃えさかる船底だ。そこで、しがみついてくる者をけり落とし、ふりほどいた。必死だった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と同じである。誰だか分らない兵隊をけり落として、反動をつけて甲板によじ登り、そこから海に飛び込んだ。けり落とされた兵隊は死んだはずだ。人を殺してしまった……。
 船がやられたら、泳いだらいけない。船が沈むときには、いろんなものが浮くから、それにつかまること。つかまって、早く船から離れる。
 いやはや、すさまじい戦争のむごさを改めて実感させられました。戦争は絶対にいやです。
 
(2009年9月刊。1700円+税)

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