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カテゴリー: 日本史(戦後)

ラスト・バタリオン

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  野嶋 剛 、 出版  講談社
 旧日本軍の上級将校が蒋介石の下で大陸反攻作戦に関わっていた事実を丹念に掘り起こした労作です。
台湾において、蒋介石の指示のもと、中国を取り戻すための「大陸反攻計画」の策定に深くかかわり、1968年に「白団」が解散するまで台湾にとどまっていた。
数百人に及ぶ帝国陸海軍の軍人が台湾渡航の打診を受け、100人が正式に応じたが、実際に台湾に渡ったのは83人だった。
蒋介石は、中国大陸を中国共産党軍に奪われ、台湾海峡をいつ人民解放軍が押し寄せてくるか分からないなかで、日本軍人によって国民党軍を立て直すというプランに望みをつないでいた。日本軍人の力を借りて、共産党に対抗する。これが蒋介石の秘策だった。
 白団のメンバーに加入すれば、出発手当として、団長は20万円、団員は8万円が支給される。さらに、留守宅手当として1ヵ月につき3万円が支給され、契約満了時には、離任手当として5万円が支給される。このころ(昭和25年)の大卒初任給は3千円だった。そして、勤務による病気・負傷のときは台湾側が治療し、日本への移送にも責任をもつこととされた。
台湾に撤退したとき、国民党政府の軍は悲惨な状態にあった。ところが、蒋介石にとって、この台湾撤退は、それまで頭を悩ませてきた陸軍の派閥と腐敗という問題を解決するための絶好の機会となった。「白団」によって中央集権的な軍事教育を企図したのだ。
 「白団」は、あとでアメリカ軍の警戒の目から逃れるために「覆面」の地下組織となったが、当初は公的な組織だった。最初は「訓練班」という名称だったが、すぐに「訓練団」と改名し、団長には蒋介石みずからが就任した。
 1951年には、「白団」の日本人教官は76人が在籍していた。これが最大人数。
 蒋介石は1915年、28歳のときに日記を書きはじめ、85歳になった1972年まで、57年間にわたって日記をつけた。その日記のなかに「白団」関係は、しばしば登場している。
 蒋介石は、台湾に渡るとき、故宮の貴重な文物を運び、また、黄金を持ち出した。運ばれた金塊は2500億円以上の価値があった。
 台湾の戦後政治の変遷のなかで「白団」はどう位置づけられるのかなど、歴史的な掘り下げの点で、いささか突っ込み不足ではないか、少し物足りないところも感じました。それでも、よく調べていることは間違いありません。戦後日本史の貴重な一断面です。
(2014年4月刊。2500円+税)

失郷民

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  中田 哲三 、 出版  作品社
 1948年に起きた済州島四・三事件の目撃者であり、その後、日本に密航してきて、大阪で「在日」として、身を起こした趙南富の生涯を描いた本です。
 著者は趙南富の娘の夫になります。フランスで料理人として修行し、日本に戻ってレストランを経営していたという経歴には驚かされます。モノカキに転身したということでしょうか・・・。私も父親の伝記に挑戦し、なんとか、小冊子にまとめてみましたが、400頁ある本書には負けてしまいました。戦後の朝鮮半島、そして韓国現代史が大変詳細に調べてあり、読みものとしても大変よくまとまっています。
 済州という名は、1214年に高麗王朝の属国なったときにつけられたもので、「海の向こうの大きな都」を意味する。かつては、耽羅(たんら)という王国が464年間にわたって済州島を支配していた。一時期、20年間ほど、元の直轄地としてモンゴルの軍用馬の一大生産地とされていたこともある。今も、済州馬が飼育されている。朝鮮王朝時代は、政治犯の流刑地でもあった。
南富の母は、済州島の女性らしく、12歳ころから、一人前の海女(あま)として海にもぐって働いていた。
 南富は、戦前、国民学校で日本語教育を受けた。そこでは朝鮮語は禁止されていた。
 1945年8月5日、日本統治が終わり、日本人教師は島を去った。
 独立を得てから、朝鮮半島に住む人々は怒濤の日々にもまれていきます。
 戦前、日本に渡っていた人々が済州島に続々戻ってきて、島民人口は倍の30万人にまでふくれあがった。そして、1948年4月3日、「四・三蜂起」が始まった。
 蜂起した武装隊と、鎮圧する側の討伐隊の双方が島民を殺す事態が続いていきます。済州島の悲劇の始まりです。
討伐隊の容赦ない粛清を恐れ、村の青年たちが大挙して武装隊に加わったり、山奥や海辺の洞窟に身を隠した。
 ごく普通の人々のごく普通の生活が、ある日突然、戦場のただ中に追いやられたというのが、1948年冬の済州島の姿だった。
 1950年6月25日、朝鮮動乱(朝鮮戦争)が始まった。
 南富の兄・南湖が在籍していた花郎部隊は激戦のなかで壊滅した。
そして、1953年、南富は親から日本へ密航することを命じられた。南富17歳のとき。
済州島から釜山に行き、オンボロ漁船で日本へ渡った。下関に着いたところ、駅構内で全員が検挙され、大村収容所へ入れられることになった。ところが、増改築工事中のため、平戸に入れられた。
 そして、収容所の便所から脱出して、海に飛びこんだ。平戸でキリスト教の信者に助けられ、ついに神戸までたどり着いた。
このあたりは嘘のような展開です。よほど運のいい人だったのでしょうね。
 密航者の身なので、公然とは働けない苦しさ。また、日本の大学で勉強したいのに簡単にはいかなかった苦労が紹介されています。結局、大学に入ったものの、中退したのでした。
 1959年、北朝鮮への帰還運動が大々的に始まります。このとき、民団の青年決死隊500人が北送阻止闘争までしていたことを初めて知りました。
 南富の親しい友人が北朝鮮に渡っていきました。反対しても止めることが出来ません。なぜなら、その友人は、朝鮮学校で北送を子どもたちにすすめていたのです。責任上、自分も行かないわけにはいかなかったというのです。そして、その友人は何十年もして日本にやって来ました。その前、ソウルでも再会しています。大変くらい表情だったようです。そんな映画が最近、上映されましたね。
暗殺された朴大統領との交流もありました。南富は、民団のなかでリーダーになっていったのでした。
 いつも希望を失わずに、在日のプライドをもって誇り高く生き抜いた人生だったと思います。とても読ませる、いい本でした。著者に、ありがとうございました、とお礼を申しあげます。
(2014年5月刊。2000円+税)

シベリア抑留者たちの戦後

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  富田 武 、 出版  人文書院
 シベリア抑留の問題を実証的に追求した貴重な本です。
 先に紹介した『シベリア抑留全史』については、よくまとまった労作であると評価しつつ、関東軍の行動や日本の満州支配を正当化しかねない論調を首肯できないとしています。スターリン批判(断罪)のみでは、視点が一方的になるということですね。
 日本軍将兵は、自らが捕虜であるという認識をほとんど持っていなかった。というのは、戦闘もせずに、「天皇陛下の命令で武器をおいた」と思っていたから。なーるほど、そういうことだったのですね・・・。
 ところが、ソ連のほうは、9月5日まで戦闘を続け、拘束した軍人、軍属はすべて捕虜扱いとした。これをアメリカもイギリスも黙認した。
捕虜とは、軍隊の所属または指揮下にあり、戦闘に直接・間接に参加した軍人・軍属で、敵国に捕らわれた者をいう。
 抑留者とは、戦闘後に拘束された非軍人・軍属である。
収容所の所長が、対独戦で苦労していたり、近親者に政治犯がいたりすると、決して表には出さないが、スターリン体制を快く思っていないときには、日本人捕虜に寛容だった。
日本人捕虜は、自分の生き残りに必死で、他人のことを思いやる余裕を失っていた。
捕虜は、肉体的状態に応じて、三級にランクづけされた。一級は、どんな重労働にも耐えられる者。二級は、中程度の労働に適した者。三級は軽労働にしか向かない者・・・。
 最初の苛酷な1945-46年の大量の死者を出した冬が終わると、出勤率は少しずつ向上しはじめた。
 ソ連は、戦後復興の進展、国際世論の動向を見ながら、小出しに抑留者を日本に送還した。
 シベリア抑留者のなかに近衛文磨の息子である近衛文隆も混じっていた。しかし、文隆は収容所で病死した。
 シベリア抑留者の戦後は、さまざまだったわけですが、本当に大変なことだったと、つくづく思います。
(2013年12月刊。3000円+税)

「東京裁判」を読む

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  半藤 一利 ・ 保阪 正康 、 出版  日経新聞出版社
 「東京裁判」を全否定したと思われるNHK経営委員の発言がありました。その常識のなさには呆れるばかりです。なるほど、戦勝国による「東京裁判」に問題が全くなかったわけではありません。しかし、侵略国家・日本が裁かれるべき対象であったことは否定できない歴史的事実だったと思います。この本は、そのことをいろんな角度から実証的に明らかにしています。
 完全無欠の裁判でなかったのは事実だが、その不備を根拠に、そこで明らかにされた事実までも「東京裁判史観」として全否定するのは間違っている。忘れてならなのは、裁判は連合国側の一方的な断罪に終始したのではなく、日本側も大いに主張し、根拠を提出して、裁く側の問題点を突いていたことだ。
東京裁判でもっとも重要なことは、検察(連合国)側が出てくる情報を日本国民はほとんど知らなかったということ。その驚きが、当時の日本人が東京裁判を肯定した大きな理由だった。そこでは、戦争という名目で、日本の軍事指導者がかなり無茶をやった事実が明らかになった。
東京裁判は1946年5月3日に始まり、2年半に及んだ。裁判の場所は市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂を改造した。
 占領政策を円滑にするため天皇の戦争責任は問わないというアメリカの方針に従う検察側は、弁護側以上に天皇への言及に神経質になっていた。
 東京裁判では日本軍による南京大虐殺も問題とされた。
 中支那方面軍司令官の松井石根(いわね)は、尋問で日本軍による暴虐行為を「南京入城と同時に知った」と答えており、虐殺が事実であったことは否定できない。そして、殺害された人が「30万人」というのが過大であったとしても、同胞が無残に殺害された中国人の憤りに変わりはないだろう。
 まことに、そのとおりです。「30万人」が過大だとしても、虐殺された人数がゼロになるわけではないのです。こんなところで、「コトバ遊び」をしてはいけません。
 ポツダム宣言は、軍隊の降伏であって、国家の無条件降伏ではない。
 東京裁判の検察側証人として、日本紙芝居協会の会長が登場する。軍国紙芝居も、言論統制の一環だった。この証人には驚きました。井上ひさしの劇にも登場します。
 日本軍による真珠湾攻撃について、ルーズベルト謀略説というのがある。しかし、そんなことを言う人こそ自虐史観だ。それほど日本人はバカだったのか。ルーズベルトに「はめられた」というけれど、日本人はそんなにバカではない。
 広田弘毅は、大事なところで無能だった。陸軍の言いなりになった、その責任は大きい。
 一番問題なのは、2.26事件のあと、首相として陸軍の要望を全部うけいれてしまったことにある。軍部大臣現役武官制も陸軍から要求されて認めているし・・・。軍部を抑えるために出て行ったような顔をして、実際には、軍部からいいように操られた。
 昭和10年代に広田広毅が外交官を代表する形で出て行ったことは日本の最大の不幸だ。
 板垣征四郎・陸軍大臣について、昭和天皇は、「あんなバカ、見たことない」と言った。「臣下として、最低のレベル」だと・・・。
 南京大虐殺にしても、南から言った日本軍は虐殺をあまりしていない。だから南から攻めた軍人の話を聞いたら、虐殺はなかったことになる。
 弁護側は、虐殺の事実自体は否定しきれなかった。日本国民は南京虐殺事件のことを本当に知らなかったので、愕然とした。
 インドのパール判事も、南京虐殺については事実として認定している。
 東京裁判とはどういうものだったのか、それを知るときに絶好の手がかりになる本だと思いました。
(2009年8月刊。2200円+税)

シベリア抑留全史

カテゴリー:日本史(戦後)

著者  長勢 了治 、 出版  原書房
 終戦直後、中国東北部(満州)にいた日本軍将兵がソ連軍によってシベリアに連行され、極寒の地で捕虜として働かされたシベリア抑留について、あますところなく明らかにした教科書的な全史です。600頁もの大作なので、読み通すのに骨が折れてしまいました。ともかく、大変な労作です。シベリア抑留を知りたい人にとっては欠かせない一冊だと思います。これを読んだら、あとは香月泰男や宮崎静夫・山下静夫などの画文集でイメージをつかむ必要もあるように思います。飢えと寒さと重労働というシベリア三重苦は想像をこえる辛さだったことでしょう。今の私たちには、ほんの少しだけ想像できるにとどまるのでしょうが・・・。
満州にいた日本人は、建国時の1932年に24万人、1936年に52万人、敗戦時には155万人だった。それにも増して毎年100万人もの漢人が流入し、3000万人に達していた。だから、終戦後は満州人は大量の漢人にのみこまれて、民族としてはほとんど消滅するに至った。
 実際のところ、どうなのでしょうか。満州族は消滅してしまったと言ってよいのでしょうか・・・。
 スターリンは、最終的に対日参戦を決意した段階で、日本兵のソ連領への連行を決めていたと思われる。ソ連は5年にわたる苛烈な独ソ戦を戦って、国土が荒廃し、経済が疲弊していた。2500万人といわれる膨大な犠牲者を出し、とりわけ若い男性労働力が決定的に不足していた。戦後の国民経済復興には、新たな労働力を必要としていた。
日本軍の将兵を1000名単位の作業大隊に再編成したのは、将官や上級将校を分離し、旧軍組織を解体することで日本兵の団結や抵抗を防ぐためだった。
ソ連は日本兵を一貫して「戦争捕虜」として取り扱った。シベリアに抑留された日本人にとって不幸だったのは、弾圧機関NKVDに管理された捕虜収容所に入れられたことだった。
 冷戦が始まり、米ソの対立が深まるなかで、捕虜が冷戦の人質となった。これが捕虜の本国送還が10年以上も遅れた要因の一つである。最初に本国送還されたのは、アメリカ人、フランス人、ルーマニア人であり、祖国への道が最も遠かったのがドイツ人と日本人だった。
 寒さに強い体質のロシア人が平気で耐えるシベリアの酷寒も、温暖な気候で育った日本人には殺人的な寒さとなる。日本人に凍傷が多かったのは、粗末な衣服と相まって体質に一因がある。ソ連人は、自分たちと同等もしくはそれ以上に食料を支給し、同じ酷寒で働いているのに、なぜ日本人に犠牲者が多いかといぶかった。
 ソ連の調査によると1946年(昭和21年)1、2月は、ドイツ兵に比べて日本兵の死亡率は3倍近かった。
 ソ連のノルマの大きな特徴の一つは、多少とも技術的な作業のノルマは低く、単純作業は高いことにある。
収容所では、日本人は、酷寒、飢餓、重労働の三重苦に耐えて、よく働いた。
 ドイツ人捕虜は、対照的に、出来るだけ仕事をサボろうとし、決して無理な労働はしなかった。収容所では、小さな配給食(パン)ではなく、大きな配給食が死をもたらす。少しでもパンを多くもらうために費やす体力は、増配されるパンのカロリーより大きく、かえって体力を消耗して死を早める。
 ラーゲリではパンを減らされようとも、なるべく働かないこと。空腹に耐えるほうが生きのびる確率は高い。
体格検査ではパンツをおろさせ、お尻の肉づきを見る。お尻の肉を手でひっぱってみる。体力のあるものの肉には弾力とつやがある。衰弱している者のお尻はたるんでいて、空気の抜けた風船のようにだらっと、たれている。
 日本人は、収容所のなかのないない尽くしの生活で、創意工夫と器用さを発揮した。最盛期には35ほどの劇団があった。
巻末の参考文献を見ると、シベリア抑留に関しては体験記をふくめて、たくさんの文献が出ていることに目を見張ります。『夢顔さんよろしく』(文春文庫)もその一つです。かの瀬島龍三の闇も知りたいところです。
(2013年10月刊。6800円+税)

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