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カテゴリー: 日本史(戦国)

山本五十六

カテゴリー:日本史(戦国)

 著者 田中 宏巳 、吉川弘文館 出版 
 
 日本海軍の連合艦隊司令長官として有名な山本五十六提督の実像を仮借なく暴いた衝撃的な本です。この本を読むと、山本五十六っていう海軍提督がなぜ、東郷平八郎と並んで有名なのか、わけが分からなくなります。
 たしかに真珠湾攻撃で華々しい戦果をあげたが、4ヶ月のあいだ勝ち続けたあとは、じりじり後退する一方であり、日本が劣勢に立たされはじめたところで山本提督は早々に戦死したため、敗戦の将にならずに死んだ。だから、山本の名声の根拠は不明なのである。
 ロンドン軍宿会議の当時、日本政府は、国民の存在が視野に入っていたとはとても思えない。うへーっ、なんだか、これって今の日本政府とまるで同じですよね。
強い軍備によって国を守るのも国家のためだが、国の財政負担を軽減させることも国家のためであり、どちらも国家のために欠かせなかった。海軍軍人は軍備にしか関心がなかっただけでなく、軍縮が外国との約束事であり、これを破れば国家間の対立を助長しかねないにもかかわらず、海軍軍人が国際通という一般論とは裏腹に、意外なほど国家間の関係に無節操だった。
日本においては、陸海軍におよる航空機開発がまったく別個にすすめられた。これは世界的にみても特異な現象であった。アメリカでさえ国家をあげてやっとB29を完成させたのに、日本では、同じような性能をもつ大型攻撃機の開発を別々にやろうとした。このとき、陸軍が支配的になることを山本五十六が嫌ったため、空軍として独立できなかったし、研究開発が一本化できなかった。山本五十六は歴史の流れに背を向けた。空軍を独立させたとき、その指導権を陸軍出身者がとり、陸軍の用兵思想にもとづく空軍になることを山本たちは危惧した。要するに、組織の縄張り争いであり、人数の多い陸軍にはかなわないが、指導権を取りあげられたくないというのが山本の考えだった。そもそも、山本は海軍航兵隊だけで戦えると錯覚していた。
日本海軍は、日露戦争の教訓をあたかも絶対的公理のように扱い、もっとも近い第一次世界大戦の教訓を究明しなかった。このため、海軍では戦訓研究の発展が妨げられ、戦略戦術思想の研究が停止状態になった。
 日本海海戦から40年たつのに、この海戦の勝利の戦訓を取り入れた「海戦要務令」は高い価値をもつとし、軍機として厳しい秘密扱いを続けた。日進月歩の軍事技術の進歩と古色蒼然たる「海戦要務令」の軍事思想とが矛盾なく整合することはありえなかった。
 山本五十六は革新性にみちた軍人ではなかった。艦隊決戦で大勝利すれば、日露戦争のように講和の機会が訪れると海軍軍人が抱いていた極楽トンボに近い楽観論に近い考えを山本五十六も持っていた。つまり、艦隊決戦にアメリカ海軍を引き込み、これに大勝すれば和平の機会があると山本も日本海軍も考えていた。総力戦では、途中の和平が不可能なことを山本は理解していなかった。
 日本海軍における艦隊決戦主義は宗教の教義みたいなもので、情勢や環境がそんなに変わっても信じられ続けた。技術の進歩や兵器の変化を認めながら、それを駆使する思想を変えようとしない矛盾に気づかない海軍軍人が多すぎた。
 山本五十六が辞職をちらつかせて要求するからハワイ作戦(真珠湾奇襲)にお付きあいはするが、本当は南方作戦が主作戦だから、ハワイ作戦で空母を損傷して南方作戦に支障が出てはたまらないというのが海軍軍令部の本音だった。だから、せっかくのハワイ奇襲も、軍令部や南雲・草鹿らによって肝心な点が骨抜きにされてしまった。真剣に勝利の機会を探し続けた山本が気の毒なほどだ。うへーっ、そうだったのですか・・・・。
昭和17年3月の珊瑚海海戦で、日本海軍が敗退した。このとき、世界初の空母機動部隊戦だった。しかし、歴史に学ばない、戦訓に学ばない日本軍人の性向が、日本の運命を左右することになった。珊瑚海海戦は、日本海海戦のように並行する戦艦中心の敵と味方の艦隊が打ち合う近代海戦を過去のものとし、空母機が相手の艦隊に対して爆弾、魚雷を放つ、新しい戦闘形態に切り替わる転換点だった。
このころ、山本五十六の声望は頂点に達しており、その一言一言がまるで神の声であるかのように海軍内にこだましていた。周囲のそんな雰囲気に山本自身も冷静な観察眼を失っていた。部下たちが浮ついていても、その雰囲気を戒め、失敗を客観視する冷静さこそ司令官の責任だったが、このころの山本には、これが欠けていた。
山本だけでなく、連合艦隊の指揮官に欠けていたのは、歴史の教訓に学ぶ姿勢、時間軸をたどって物事を考える態度であった。
山本五十六がラバウルへ飛行機に出かけるのをアメリカ軍は暗号解読で察知していたのは有名ですが、そのとき日本軍の打った電文は長く、なんと二回も発信したのでした。巡視の準備(たとえば、服装など)まで電文にしていた。これは最前線の緊迫感が欠如していたことの反映である。
なるほど、ですね。山本五十六提督と日本海軍の実像を初めてしっかり知った気がしました。
(2010年6月刊。2100円+税)
 ディジョンから車で1時間ほどかけてフラヴィニ・シュル・オズランという村へ出かけました。フランス映画『ショコラ』の舞台となったちいさな村です。フランスの美しい村の一つに選ばれているというので行ってみました。陸の孤島にポツンと浮かんでいる本当に小さな村でした。小さなスーパーが一つ、カフェが一つしか見当たりません。周囲には平穏な牧草地が広がっています。ところどころ白い牛たちが固まって点在して、いかにものどかな風景です。大きな古い納屋が食堂になっていて、人々が詰めかけ満員盛況でした。私はカフェでワインを一杯飲んでゆっくり休憩しました。
 ここで日本人夫婦とばったり出会いました。やはり同じようなことを考える人はいるものなんですね。

日本の城

カテゴリー:日本史(戦国)

著者 西ヶ谷 恭弘・香川 元太郎、出版 世界文化社
 日本の城の多くが、カラー国判で詳しい解説とともに紹介されています。見て、読んで楽しい、日本の城の大国鑑です。
 みなさんに、ぜひ一度は現地に行くことを私がおすすめするのは、安土城と一乗谷城です。
 一乗谷(いちじょうだに)は、越前の朝倉氏の本拠地でした。ここは戦国時代に織田信長に滅ぼされ、そのときの戦火にあったまま埋もれていたのです。現在、大々的な発掘調査が進行中です。私が現地に行ったのは、もう10年ほども前になります。ぜひ、もう一度行ってみたいと思います。
 現地には、朝倉義景(よしかげ)の館が発掘されています。また、被官の屋敷が立ち並び、さらには町屋も軒を連ねています。 
 中世の町並みをほうふつさせる貴重な発掘状況です。
 安土城には2度行ってみました。なにしろ、あの織田信長の居城となった安土城です。ルイス・フロイスの「日本日記」にも紹介されている、豪華けんらんのお城です。
 本丸御殿には、天皇を迎えるための御幸(みゆき)の間とあいました。
 羽柴秀吉邸跡とみられる場所もあります。
 天主に向かって幅広い直線一本道の大手門もあります。豪壮な天主閣を仰ぎながら多くの将兵そして町民たちが朝に夕に登り降りした道です。
 天守の跡が頂上に残っています。私は、案外に小さい、狭いと思いました。でも、少し離れたところに天主の一部を原寸で復元した建物があります。それを見ると、やはり壮大な建物だったようです。 
 織田信長が安土城に移る前に居城としていたのは岐阜城です。ここは完全な山城です。ここで、信長は、ルイス・フロイスと3時間も話し込み、世界各国の話を聞いて、大いに満足したといいます。 
 今は金華山とも呼ばれ、昔は稲葉山城とも呼ばれていました。「まむしの道三」が支配する城でした。木下藤吉郎が攻め落としたことでも有名です。
 私もこのお城に登りましたが、あまりに急峻な名山城なので、驚きました。
 「のぼうの城」で有名になった埼玉県行田市にある忍(おし)城には一度行ってみたいですね。石田光成の水攻めに耐えた壁城です。日本のお城めぐりも楽しいですよね。そのときのガイドとして大変役に立つ本です。
 
(2009年6月刊。2800円+税)

長篠の戦い

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:藤本正行、出版社:洋泉社新書
 長篠(ながしの)の戦いは、戦国時代の日本史に関心のある人で知らない人はいないでしょう。
 1575年(天正3年)5月21日、三河の長篠城外(現在の愛知県新城―しんしろ―市)で、織田信長と徳川家康の連合軍が、武田勝頼の軍を大敗させた。このとき、信長は、鉄砲隊3千を3段に分け、千挺ずつの一斉射撃を行うことによって、精強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した。これが「通説」である。
 この本は、その「通説」がまったく根拠のないものだということを改めて(初めて、というのではなく)実証したものです。私も、改めてなるほど、と思いました。
 この長篠の戦いのとき、信長は42歳で、勝頼は30歳だった。
 通説が誕生したのは、戦前の陸軍参謀本部が編纂した『日本戦史』シリーズによるものだと知って驚きました。
 織田信長には、直属の銃兵のほか、大小の家臣たちが所有する銃兵がいた。つまり、信長直属の常備鉄砲隊があり、このほかに臨時編成の鉄砲隊がいた。常備鉄砲隊は、装備もととのい、火薬などの消耗品も潤沢に支給され、集団訓練も受け、強力だった。しかし、信長だけが鉄砲の威力を理解していたわけではない。鉄砲隊にも二種類あったなんて、初めて知りました。
 信長の「三千挺、三段撃ち」を初めて言い出したのは、江戸初期の儒医であり、作家であった小瀬甫庵(おぜほあん)である。
 しかし、火縄銃を等間隔で連続して射撃することは、一人でも容易なことではない。これが複数になると、等間隔の連続射撃は、いっそう困難になる。まして、実戦の場で3千人が千人ずつ、交替で連続射撃することなど、空想の産物以外の何ものでもない。著者は火縄銃の構造もふまえて、このように断言します。
 火縄銃は、発射準備が、人により、銃により一定しないのである。
 長篠の戦いにおいて、信長は自軍の大兵力を隠そうとしていた。そして、別働隊を勝頼軍の背後にまわした。
 長篠の戦いのとき、柵から押し出したのは徳川勢であり、信長の軍勢は、みな柵の内にひきこもって一人も出なかった。
 要するに、織田信長の「三千挺三段撃ち」というのは、完全な創作なのである。これを実現するには、銃兵のなかから誰一人として死傷者が出ないこと、何発うっても銃の調子が変わらないこと、戦線の端から端まで敵が一斉に射程距離内に入ること、戦線の端から端まで射撃開始の命令が連続して届くことなど、奇跡に等しい諸条件が整わない限り、絶対に不可能なのである。
 この本は、敗戦後の勝頼の行動についても紹介しています。「先衆が少々敗れただけ」というのでした。実際には、大損害だったわけですが・・・。それに対して、信長のほうは、勝頼を誇大に宣伝しています。さすがです。
 この本では、長篠の戦いで信長が勝ったことについて鉄砲は勝因の一つに過ぎないと強調しています。
 背後を強力な別働隊に占領されたうえ、退路を川でふさがれ、左右への迂回路はなかった勝頼が、他に選択する余裕のないまま圧倒的な兵力で堅固な陣地に拠った織田・徳川軍を正面から攻撃して勝てるはずはない。要するに、信長の作戦勝ちだった。 
 この長篠の戦いから鉄砲が急増したということもない。鉄砲が一挙に増加したのは、束の間の平和で軍備を整える余裕ができ、明と朝鮮の連合軍との激戦が展開された朝鮮出兵のころのことである。
 著者の本は、大変に実証的だと、いつも感嘆しています。
(2010年4月刊。840円+税)

日本人の戦争

カテゴリー:日本史(戦国)

著者:ドナルド・キーン、出版社:文藝春秋
 まず、有名な著者を紹介します。
 1922年にアメリカはニューヨークに生まれました。コロンビア大学で日本文学を学び、アメリカ海軍の日本語学校で学んだあと、情報士官として太平洋戦線で日本語の通訳官をつとめました。戦後、京都大学にも留学しています。つまりは、日本語が読める、日本の研究者であるアメリカ人の学者です。
 日本人作家の日記を読んで、その分析がこの本にまとめられています。
 ここでは、私にとって「くのいち忍法」などで身近な存在である山田風太郎にしぼって紹介することにします。
 日本人が日記をつける習慣は古く10世紀にまでさかのぼる伝統である。日本人は、別に事件のないときでも、ごくあたりまえの日常の経験を、日記に書くことで残す必要を感じていた。それは老年になってからの備忘録として、あるいは子どもたちの教育に資することを願ってのことだった。
 日本軍の兵士は、新年になるたびに日記帳を支給された。アメリカの軍人は日記をつけるのを禁じられた。敵にとって有利な情報が日記に記されることを恐れたから。日本軍で日記をつけるのが奨励されたのは、日記を検閲して、思想状況を確認しようとしたから。
 山田風太郎は、昭和20年1月1日、医学部の学生として日記に次のように書いた。
 「運命の年、明く。日本の存亡、この1年にかかる。祈るらく、祖国のために生き、祖国のために死なんのみ」
 激しい空襲、また原爆が落とされたあとも、山田の戦争支持の姿勢は揺らぐことがなかった。8月15日の天皇の放送を聞いたとき、山田が味わったのは、安堵の思いではなく、苦い失望だった。
 山田は、戦時中、この戦争での日本の勝算について、客観的に考えることが出来なかった。日本の敗北の可能性について触れることは、山田には出来なかった。
 ヒットラーの死を知った山田は、ヒットラーを絶賛している。
 ヒットラーは、実に英雄なりき。シーザー、チャールス12世、ナポレオン、アレキサンダー、ピーター大帝に匹敵する人類史上の超人なりき。いやはや、なんということ・・・。
 8月15日朝、友人から天皇が放送すると聞いた山田風太郎は、いよいよソ連に対する戦線の大詔であると確信した。うむむ、ちょっとどうなんでしょうか。
しかし、終戦後まもなく、山田は人々が軍人を軽蔑の眼で見るようになったことを知って愕然とする。そして、9月1日の日記に山田は、多くの日本人が驚くほど短時間のうちに、従来とまったく正反対の態度をとるようになるに違いないとの予言を書いた。
 「今まで神がかり的信念を抱いていたものほど、心情的に素質があるわけだから、この新しい波にまた溺れて夢中になるだろう。敵を悪魔と思い、血みどろにこれを殺すことに狂奔していた同じ人間が、1年もたたぬうちに、自分を世界の罪人と思い、平和とか文化とかを盲信しはじめるであろう」
 さらに、山田は次のように予言した。
 「このぶんでは、いよいよ極端なる崇米主義が日本に氾濫するだろう」
 山田の嘲笑の対象となったのは、新たに手にした自由を喜び、軍閥によって課せられた奴隷状態の束縛から日本人を解放してくれたことで、マッカーサー元帥に感謝を捧げている類の人々だった。
 終戦時に大学生だった山田風太郎の日記を主として紹介しましたが、それは、彼が当時の典型的な軍国青年だったことを意味すると思ったからです。
(2009年10月刊。1714円+税)

関ヶ原、島津退き口

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著者、桐野 作人 、学研新書 出版
 天下分け目の戦い、関ヶ原の合戦において西軍の雄、島津義弘軍は敗戦が決まったあと、決死の敵中突破を図り、なんとか成功します。この本は、まず著者自身が「島津の退(の)き口(ぐち)」のルートを実地に踏破した体験にもとづいて書かれていること、そして、生還した将兵たちの手記を活用しているところに大きな特徴があります。つまり小説ではなく、その意義を実証した本なのです。
この本を読むと、当時の島津家というものが対外的にも内部においても、きわめて微妙な立場にあって、義弘が大軍を動かせなかった実情とその苦悩がよく伝わってきます。そんな苦しいなかで、よくぞ敵中突破300里に成功したものです。驚嘆せざるをえません。
 島津家中で義弘は孤立化していた。石田三成と義久との間で板ばさみになっていた。
 関ヶ原合戦において、義弘は太守ではなかったので、領国全体に対する軍事動員権を有しておらず、そのため、義久や忠恒の家臣はもちろん、一所衆とよばれる一門衆や国衆からの協力もほとんど得られず、自分の家臣団以外はほとんど動員できなかった。
 義弘は、西軍に加担することを決めてから、11通もの軍勢催促状を国許に送った。しかし、義久・忠恒は義弘の懇請を黙殺し、ついに最後まで組織的な動員はなかった。
 結局は、関ヶ原における義弘の軍勢は1500人ほどだったと推定される。
 島津勢は、関ヶ原合戦においては、「二備え」(にのそなえ)、二番備、後陣だった。勝機は去ったと判断し、66歳の義弘は、前方を突き破って故国へ帰ろうと考えた。
 島津勢の主要武具は鉄砲だった。これを足軽ではなく、武士が撃った。退き口の敵は、飢えだけでなく、東軍方や百姓たちの落武者狩りが容赦なく義弘主従に襲いかかった。
 途中で300人ほどのはぐれ組みが発生した。
 関ヶ原の戦場離脱から鹿児島帰着まで190日かかった。走破距離は海路をふくめて千数百キロに及ぶ。何より義弘の生き抜くという牢固な意志力と義弘を慕う家臣たちの自己犠牲的な奉公と献身の賜物であった。
義弘とともに大阪に戻ったのはわずか76人でしかないが、これは島津勢の生き残りすべてではない。1500人の島津氏の将兵3分の2が戦死もしくは行方不明となった。逆にいうと、3分の1も鹿児島にたどり着いたわけです。
義弘は、85歳の大往生をとげた(1619年)。
 義弘軍の敵中突破の実情をしのぶことができる面白い本でした。
(2010年6月刊。790円+税)

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