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カテゴリー: 日本史(戦国)

黒田官兵衛

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  諏訪 勝則 、 出版  中公新書
 滋賀県や岡山県にある黒田氏発祥の地といわれるところは、福岡黒田氏とは関係がないと見られる。
 官兵衛が人質になっていたとき、その子・松寿(長政)の殺害を命じたかどうかは不明である。竹中半兵衛を通じて、黒田家中はしっかり一つにまとまっていると信長に報告がなされ、これを聞いた信長は大いに喜んだと記されている。つまり、信長は黒田家中を信頼しており、松寿(長政)の殺害までは指示していないと推察される。
 秀吉の九州平定過程において、官兵衛は、二度の大きな失敗をしている。一度目は、島津氏を豊後から逃したこと、二度目は豊前国内で一揆を発生してしまったこと。それでも、秀吉から格別のとがめはなかった。
 官兵衛は、高山右辺や蒲生氏郷の勧めによりキリスト教に入信した。そして、領国のある播磨国でキリスト教を広め、秀吉の家臣たちに改宗を促した。官兵衛は、洗礼名をシメオンといった。官兵衛の息子・長政は17歳で洗礼を受け、ダミアンといった。長政の洗礼を官兵衛は大いに喜んだ。
長政は秀吉による禁教令が出てもキリスト教から離れることなく、自分の妻や重臣たちに教えを説き、自分はキリシタンであると公言していた。
 官兵衛は、宣教師にとって非常に力強い存在であり、官兵衛も彼らの要望に対応した。官兵衛は、多くの人々をキリスト教に入信させた。
 ところが、秀吉は官兵衛がキリシタンになったことについて、非常に憤りを感じていた。
 ルイス・フロイスの報告書(1592年10月1日付)によると、秀吉は官兵衛の話をさえぎって言った。
 「おまえは、性懲りもなく伴天連どものことを話すのか。おまえがキリシタンであり、伴天連らに愛情を抱いていたために、私はおまえに与えようと最初に考えていたよりも低い身分にしたことが、まだわからないのか」
 官兵衛は、終生、キリシタンであり続けた。高山右辺はキリスト教から離れなかったために処罰された。官兵衛も棄教せず、九州遠征では二度も失敗したのに、秀吉から追求されることがなかった。そして、小田原合戦や朝鮮出兵などで重用された。
 官兵衛は、秀吉の意向にしたがって朝鮮に渡り、豊臣軍のいわば「軍事顧問」として活動した。
 交渉・調整にたけていた官兵衛が音をあげるほど、朝鮮出兵では指揮・統制が混乱していた。官兵衛は、この状態を憂え、秀吉に進言するために参上したが、門前払いにあった。
 しかし、それでも、官兵衛に対して秀吉は格別の処罰は下されなかった。それだけ、秀吉にとって官兵衛は必要不可欠な存在だったのだろう。
 黒田官兵衛が終生キリシタンだったことなど、意外な一面を知ることができました。
(2013年12月刊。780円+税)

長篠合戦と武田勝頼

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  平山 優 、 出版  吉川弘文館
 とっても面白く、一心不乱に読了しました。著者は山梨県の高校教諭ということですが、これほど深い学識のある教師に教わる生徒は幸せですね。私は、この本を読んで、武田勝頼をすっかり見直しました。といっても、長篠合戦で決定的な敗北を喫したことの意味を軽視しているわけではありません。なぜ、これほど重大な決戦になったのかということが、よくよく理解できたということです。
 この本は、通説を否定する最近の学説をさらにひっくり返しているという点で、画期的な本だと思います。
 まずは、勝頼が凡愚の将ではなかったということです。そして、鉄砲の三段(三列)撃ちがあったかもしれないということ。その「三列」とは限らず、「三グループ」を意味していた。「三段撃ち」は、秀吉の朝鮮出兵のあと、中国に輸入されて、そこで同じことが図解されている。この点については、前に書評として紹介しています。
 長篠合戦(ながしのかっせん)ほど、数多くの謎に包まれ、その謎解きを巡って百家争鳴、百花斉放という状況になっているのも珍しい。
 武田勝頼は、同時代の人々から暗愚の主君とは見られていなかった。武田の家臣たちにとって、勝頼は「強すぎた大将」だった。父の武田信玄を超えるために無理を重ねていった。勝頼は、武勇に優れた武将だった。
 勝頼は父の武田信玄時代よりも領国を拡大していた。勝頼は、諏訪勝頼として誕生した。
 諏訪勝頼は、武田姓になったものの、官途もなく、武田氏の通字である「信」もいただかなかった・・・。
 武田信玄は53歳で亡くなった(1573年。天正元年)。そして、信玄は自分の死を3年間は秘密にしろと言い残していた。織田信長は、4月になくなった信玄の死を7月には確信していた。
勝頼は、古くからの武田家臣のなかには溶け込めなかった。
 織田信長は、信玄が死んだとき、その後継者である勝頼を完全に見くびっていた。ところが、勝頼の攻勢が成功すると、「若輩ながら、信玄の掟を守り、表裏を心得た油断ならぬ敵」だとして、高く評価した。
武田信玄・勝頼は、全軍の寄親にたいし、軍事に関する厳格な方針(軍法)を定め、しばしば通達している。
武田軍の騎馬武者には、「貴賤」が混在しており、それが騎馬衆を構成していた。身分の上下にかかわらず、装備は同じような完全装備にせよとしていた。
 武田軍では、騎馬武者は侍身分や一揆合衆のような小身の侍などのみで構成されたのではなく、被官、忰者、傭兵、軍役衆など、実に多様な身分の人々によって構成されていた。
 長篠合戦において武田軍に騎馬衆が存在していたことは、織田信長が警戒して「馬防」柵を構築させたことで証明できる。東国の平原を戦場とした人々は、騎馬武者が馬を疾駆して敵陣に乗り込み、続く足軽に働きどころをつくることにかけて、実に巧みだった。
 騎馬武者は、家来や指揮下の足軽衆と共同して戦った。
 武田軍の騎馬衆の突入は、敵の備えが万全で乱れのないときには実施されることがなく、合戦のとば口からいきなり乗込をかけるような運用法はなかった。鉄砲や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対し突撃を仕掛ける攻撃法は、当時として正攻法だった可能性がある。
 武田軍の兵力が少なく、織田軍の鉄砲を制圧することが出来なかったのが敗因となった。
当時、「三段」を「三列」と解する考え方はなかった。「段」とは、部隊の将兵を列に配置することを意味せず、「三段」を「三列に並べる」というのは、明らかに誤解であり、誤読である、織田軍の鉄砲衆3千挺は三部隊(備)に分割され、5人の奉行の指揮の下、三カ所(三段)に配備された。そして、その部隊内部で銃兵は、複数列に構成していた。
武田軍の重臣たちは、合戦の前、こぞって撤退を主張した。ところが、勝頼は決戦を決めた。勝頼は、織田・徳川軍の動きを誤認していた。勝頼は、信長と家康の二人が眼前に出てきた好機を逃さず、ここで撃破し、「本意」を遂げることだけに固執していた。つまり、勝頼は、信長・家康と戦って勝ち、不安定な当主の地位を一挙に確立させたかったのだ。
 織田軍の大半は、武田軍に隠れて待機していた。
 また、勝頼の判断ミスは、織田・徳川両軍の情報部門の情報不足に起因していた。
 信長は、馬防柵をかまえ、軍勢に対して柵の外へ出て戦わないように指示した。
 織田・徳川軍の擁する3千挺に及ぶ鉄砲と、それを間断なくうち続けることができるほど用意された玉薬、そして鉄砲衆を脇から援護する多数の弓衆は、武田軍がそれまでに対峙したことのない圧倒的な数量であり、数で劣る武田方の鉄砲衆、弓衆は徐々にうち倒されていった。また、支度した玉薬の量も、織田・徳川軍よりもはるかに少なく、全弾うち尽くしてしまい、対抗する余地がなくなった場合もあっただろう。
 武田軍の猛攻が始まるのは、背後の味方が壊滅した情報を知ってからだった。
武田勝頼の作戦は、武田勢が鉄砲や弓の攻撃をしのぎながら敵陣に突入し、これを無力化し、さらに後方から続く軍勢が続々と乗り込みをかけて勝機を見出すという浸透戦術だったと推察される。しかし、武田軍には、敵の火力をしのぎつつ、敵軍を制圧できるだけの兵力に欠けていた。このように、長篠合戦の帰趨を決定づけたのは、両軍の火力はもとより、兵力差にあった。
 勝頼が退去したあとも、これを狙う織田・徳川軍と武田軍は2時間に及ぶ殿(しんがり)戦を展開していた。
 勝頼は、長篠合戦での敗北からわずか2ヵ月あまりで、1万3千とも2万ともいわれる軍勢の組織・編成に成功した。しかし、軍勢の質的低下はいかんともしがたかった。
 勝頼の無謀な突撃作戦が失敗の根本というのは間違っている。突撃は、当時の合戦において常道だった。
 よくよく、ここまで調べつくしたものだと驚嘆しました。戦国時代に関心のある人に一読をおすすめします。
(2014年2月刊。2600円+税)

裏切り淳山

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  中路 啓太 、 出版  講談社
 裏切り者というと、いやなイメージですよね。私も、裏切り者とは呼ばれたくありません。
 戦国時代は、主君を裏切ることが横行していた時代でもあります。下克上の世界です。
一年をこす兵糧攻めでも落ちない難攻不落の三木城。業を煮やした秀吉が送り込んだ、最後の使者。
 それが、この本の主人公です。朝倉義景が本拠地の一乗谷を織田信長より攻め滅ぼされ、浅井長政も自害したころのことです。
 秀吉は信長に命じられて中国道に進出するのですが、なかなか思うように成果が上がらず焦っていました。尼子氏の再興を願う山中鹿介ら尼子十勇士も結局、見捨ててしまうのです。
 竹中半兵衛そして黒田勘兵衛が脇役のように登場します。秀吉も、ちょい役でしかありません。
 戦国時代にタイムスリップ気分に浸ることのできた本でした。
(2007年12月刊。1700円+税)

変り兜

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  橋本 麻里 、 出版  新潮社
 こんなにいろんな形と色のカブトがあるなんて、ちっとも知りませんでした。
 戦場のオシャレは命がけ、とありますが、大将たちはまさしく命がけの戦場で精一杯のおしゃれをしたのです。
徳川家康の19歳のときの甲冑(かっちゅう)はゴールド尽くしです。戦場で光り輝いたことでしょう。
 「井伊(いい)の赤備(あかぞなえ)」で有名な井伊直政のカブトは朱塗りです。戦場に朱塗りで固めた一団が現れたら、さぞかし脅威だったことでしょう。
 伊達政宗の重臣の伊達成実(しげざね)の南蛮鎖兜(くさりかぶと)は、なんと、巨大なムカデをその前面につけています。ムカデは怪異なる動物で、毘沙門天の仲間だった。
 蝶兜(ちょうかぶと)もあります。こちらは、優美な蝶のイメージです。
毛利家伝来の兜には、孔雀の羽で装い、ヤクの白い毛がついている。
 ウサギの頭がそっくりカブトになっているのもあります。ウサギの耳がピンと立っています。
 サザエの形をしたカブト、しゃちほこ形のカブト。いろんなものがあります。なんと、ハマグリをのせたカブトまであります。
見るだけで楽しいカブトの写真集です。
(2013年9月刊。1600円+税)

甲斐姫物語

カテゴリー:日本史(戦国)

著者  山名 美和子 、 出版  鳳書院
今から5年前、『のぼうの城』(和田竜。小学館)を読んだとき、これって完全にフィクションだと思いました。話が面白すぎたからです。ところが、実は、歴史的に有名な攻防戦のフィクションとして再現したものだと知って腰が抜けるほど、驚いてしまいました。
 『のぼうの城』の巻末の参考文献として、『行田市史』や『成田記』など、たくさんの本が並んでいることからも、単なるフィクションではなく、一定の史実にもとづいた本だということが分かります。そして、この本は、『のぼうの城』よりも、ぐっと味わい深いものがあります。
 なにしろ、主人公は、城主の娘、そして、その跡取りとして武芸にも優れている若き女性なのです。これで話が面白くないわけがありません。
 忍(おし)城をわずか300人ほどで守る。敵は秀吉軍。石田三成を大将とする3万人の軍勢。守れるはずがありません。ところが、地の利を得て、城下の百姓のたすけもあって、ついに守り通すのです。
 ここらは『のぼうの城』と同じで、知略を尽くすのです。ちょっと違うのは籠城する将兵の仲間割れをいかに防ぐかという難局を乗り切ったところです。戦国時代の戦いで活用されたのが、この仲間割れ作戦でした。武将同士に不和があることを聞きつけると、そこに乗じて餌をちらつかせて寝返りを誘うのです。常套手段でした。それにしても、小田原城に立てこもった北条勢が陥落したあとまで、ちっぽけな忍城を守り抜いたのですから、すごいものです。これは史実なのです。
 石田三成の「水攻め」にあっても陥落しなかったのでした。そして、甲斐姫は落城後、蒲生(がもう)氏郷(うじさと)の配下になります。そして、ついには秀吉の下に召されていくのでした。
歴史的な事実と、どの程度あっているのかは、恥ずかしながら知りませんが、物語としてとてもよくできていると感嘆しつつ、二日間で読み通しました。著者略歴によると、たくさん歴史書をものにしておられることを知りました。
 軽やかで、巧みな心理描写に、感情移入がスムーズに出来て、すっと読み通すことができました。ありがとうございます。
(2013年10月刊。1600円+税)

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