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カテゴリー: 日本史(戦前)

ザボンよ、たわわに実れ

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 力武 晴紀 、 出版 花伝社
 戦前、1930年代に存在した無産者診療所。そこで活動した若き「女医」、金高(かねたか)満すゑの半生を紹介した本です。
戦前、治安維持法という悪法が人々の自由な言論と行動を厳しく弾圧していたとき、不正を憎み、目覚めた若者は行動を起こしました。
 この本の主人公・満すゑは佐世保に明治41(1908)年に生まれました。私の父は明治42年生まれなので、一つだけ年長になります。
 佐世保は昔も今も「軍港」です。昔は日本海軍の拠点港であり、今は米軍と海上自衛隊が支配しています。母親が急死し、叔父の家へ父親と二人で同居するようになり、やがて父親も病死してしまいます。それでも、養女となって佐世保高等女学校に入学。片道3時間かけて、毎日、徒歩で通学したというのですから、想像を絶します。午前5時に家を出たというのです。
女学校時代は「女傑」と教師から評価されていたといいます。教師から頼まれて女学校内の派閥抗争の仲裁人になったというのです。もはや、並みの女の子の域を超えていますね…。そして、上京して、東京女子医学専門学校に入学します。よほど、学業成績が良かったのでしょう。
 そして、この女子医専に社研(社会科学研究会)があり、満すゑも入って活動を始めます。
 なぜ戦争なんかするのか、生活が苦しくなるばかりなのに…。そんな疑問をもってレーニンの「帝国主義論」を読んで納得するのです。私も大学生のころ、マルクスそしてレーニンの本を必死で読みました。今ではほとんど内容なんて忘れてしまいましたが、ともかく、その緻密な論理展開にはしびれした。そうか、そういうことなのか…。目が覚める思いでした。
 満すゑは1931(昭和6)年の卒業試験の最中、特高警察に検挙されました。学生仲間がかばってくれて試験を受けていたのですが、ついに捕まってしまい、卒業できなくなりました。それでも、学校当局は卒業式のときに、名前を呼んだというのです。
 そして、五反田駅近くに1930年1月に設立された大崎無産者診療所に入って、医師の資格はないまま手伝うようになります。いま全国各地にある民医連の通院・診療所のハシリです。
 1933(昭和8)年8月、満すゑは27歳のとき、治安維持法違反で検挙され、翌年、5月に起訴されます。
 私の父・茂は当時、法政大学法文学部の学生で、我妻栄から民法を教えられ、また高文司法科試験を受験しました(不合格)。まったく同じころ東京にいたわけです。
 そして、満すゑは市ヶ谷刑務所に2年半、囚人として収容されました。出所したときは、すっかり衰弱して、肋骨がゴツゴツ浮き出て、洗濯板みたいな身体になっていたそうです。
 それでも満すゑは1939年4月、女子医専に復学し、翌1940年3月、31歳のとき卒業することができました。
 そして新潟に行き、五泉診療所そして葛塚診療所で医師として働くようになったのです。
戦後は、民医連の病院のいくつかで働き、最後は東京中野区の桜山診療所で働いた。
 すごいですね、三度も検挙されたけど、屈することなく医師として活動を続けたのです。1997年12月、89歳で死亡。その一生を追った労作です。
(2023年11月刊。1800円+税)

未来にかけた日々(前編・後編)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 勝目テル 、 出版 平和ふじん新聞社
 戦前、関東消費組合連盟で活動し、戦後も民主的な活動を続けた著者がその人生を振り返っています。国立国会図書館のコピーサービスで読みました。本当に便利な世の中になったものです。著者が70歳前半の1975年9月に刊行されています。
 著者がまだ30歳台前半のころ、いかにも活気盛んな年頃です。そして、著者によると、1930年、31年は、戦前の日本の労働者の闘いがもっとも華やかな時代だったというのです。帝国主義政府の圧制が強まり、治安維持法が猛威をふるっていましたが、労働者も小作人も屈することなく、大勢が声を上げて圧制と果敢に闘っていたのです。
 1931年、労働者によるストライキは2284件で、小作人を中心とする農民の闘いも活発で、小作争議2478件も起きた。
どうですか、今の日本と比べて圧倒的に多いではありませんか。東京・新宿のデパートが閉店を強行するというので労組がストライキをしたとき、久々のストライキだと世間の注目を集めたことはまだ記憶に新しいところです。現代日本では「死語」同然のストライキですが、帝国政府の強権的な圧制の中で、労働者も農民も大きく声をあげ、ストライキに突入していました。現代に生きる私たちは、同じ日本人として彼らに敬意を表するだけでなく、労働者としての当然の権利を行使すべきだと考えています。それでは次に行きましょう。
 女性の参政権、投票権が戦前には認められていなかったことを体験として知る人は今や、ほとんどいません。昨今の女性は、せっかく敗戦後に勝ちとった選挙権を放棄している人が、あまりに多い状況は、本当に残念です。まあ、これは男性も同じことです。
 1932年2月、衆議院は婦人公民権案が可決された。ところが、貴族院で否決され、女性の選挙権は認められなかったのです。「女性に選挙権なんか与えたら、日本の美しい風俗がこわれるから」というのです。笑止千万です。衆議院で可決されたという事実は私は知りませんでした。
 同じ1932年3月には20日から23日まで、東京の地下鉄が全面ストップしました。地下鉄で働く労働者がストライキに突入し、地下の電車に籠城したからです。150人が参加しました。警官隊が地下に突入しようとしましたが、争議団が「触ると死ぬぞ」と大書して通電した柵で対抗したため突入を断念し、結局、労働者側が大きな成果を勝ちとり、その勝利で終わりました。
 そして、同年8月1日は国際的な反戦デーで、「米よこせ」の運動が大々的に取り組まれました。農村では娘の身売りなど、大変深刻な状況が生まれているなか、政府は米が余っているとして、1升わずか8銭で海外に米を売ろうとしていたのです。それを聞きつけた市民が大手町にあった農林省へ「米よこせ」を要求して押しかけました。
 日本人は昔から裁判を嫌っていたというのが根拠のない間違いであるのと同じように、日本人は昔からモノ言わない、羊のようにおとなしい人間ばっかりだというのも、まったくの間違いなのです。日本人だって、立ち上がるときはあります。声を上げ、要求を大勢で叫んだのです。
 先日、台湾の民主化運動を紹介する本を読んで日本とは決定的に違うのは、台湾には運動によって成果を勝ち取った成功体験が、最近、二つはあるそうです。ところが、日本では10年前の安保法制反対運動は弁護士会を含めて大きく盛り上がりましたが、安保法制法は制定されてしまいました。また、集団的自衛権の行使も認められるようになりました(幸い、まだ、現実の行使はありません)。日本に欠けているのは成功体験、そして自信をもった若者の運動です。本当に残念です。
 1933年11月、著者が治安維持法違反で検挙され、両国警察署の留置場に入れられていたときのエピソードは、まさしく胸を打ちます。
 11月7日は、ロシア革命の記念日。これを監房内で祝うことを企画していると、そこに布施辰治弁護士が両国署にまわされてきたのです。そこで、著者は革命記念日と布施辰治弁護士の歓迎会を企画して、看守長の同意を取りつけ、ついに実現したというのです。これには、いくらなんでも…と、びっくりたまげました。
 さらに、遠い親類にあたる海軍少将を動かし、なんと両国署から出ることが出来たというのです。いやはや、権力機構というものの、いいかげんさも知ることができました。
(1975年9月刊。定価不詳)

忘れえぬサイパン1944

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 吉永 直登 、 出版 同時代社
 サイパン島を守るために派遣されたのは、満州から来た戦車第9連隊と、名古屋で編成された陸軍第43師団(誉部隊)。
 アメリカ軍がサイパン島に上陸した1944年6月15日は、ノルマンディー上陸作戦(同年6月6日)と同じく「Dデー」と呼ばれた。アメリカ軍は、その日のうちに2万人のアメリカ兵を上陸させた。もちろん、M4中戦車やバズーカ砲とともに…。
日本軍はアメリカ軍の上陸を許さない「水際撃滅」作戦をとったが、初日にあっけなく崩れた。
後の硫黄島の戦いでは、栗林中将は「水際撃滅」を止めて、上陸直後を叩く作戦に替えています。
日本軍の九七式中戦車は装甲が薄いため、アメリカ軍のバズーカ砲によってたちまち撃破されてしまいました。
 アメリカ軍にも多数の戦死者を出しましたが、その遺体の回収に全力をあげました。これは今もそのようです。ところが、日本軍にはそのような理念も行動もありませんでした。
 アメリカ軍の飛行機はレーダーを使って、事前に日本の軍用機の通過ルートを予想していて、日本機より高い高度から見下すような格好で攻撃していったので、日本機は簡単に撃ち落とされた。これを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んで、日本軍を馬鹿にしています。物量だけでなく、科学、技術力にも圧倒的な差があったのです。「大和魂(やまとだましい)」を強調するだけの精神論では戦争に勝てるはずもありません。
 日本軍トップはアメリカ軍の実力を甘く見ていた。そしてアメリカ軍についての研究を怠っていた。これは今もそうですよね。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて、いい気になっていたらダメなのです。
海軍乙事件とは、日本軍の連合艦隊司令長官である古賀峯一大将が撃墜されたとき、別機に乗っていた福留繁中将(連合艦隊参謀長)がフィリピンゲリラに抑留され、機密文書を奪われて、アメリカ軍の手に渡ったというもの。ところが、この福留中将は解放されて軍に復帰して、その失態をとがめられることもなかった。
 しかし、アメリカ軍は機密文書を解読して、日本軍の動きを正確に知ることができた。ひどいものです。
サイパン島には日本軍の陸軍と海軍の将兵が4万人もいた。ただし、兵士の年齢は20代後半から30代が多かった。
 それに対して、サイパンに上陸したアメリカ兵7万1000人は20歳から22歳と若かった。そして、アメリカ軍は、陸軍と海兵隊のいくつもの師団をローテーションを組んで派遣した。休養と訓練期間を必ずはさみ、効率的な運用を目ざした。
 日本軍には休養をとり、部隊を効率よく運用するなどという発想はまったくなかった。いやはや…。ところで今の自衛隊は、その点は大丈夫なのでしょうか…?
 7月7日の夜明け前、日本軍は「バンザイ突撃」をし、アメリカ軍に多くの犠牲者を出した。このとき、実はアメリカ軍の同士撃ち(味方撃ち)が半分を占めているという説が紹介されています。日本兵が3000人も参加したとのことですが、本当でしょうか、ちょっと信じられない人数です。
 7月9日、サイパン島はアメリカ軍が完全占領し、大本営は7月18日、全員「玉砕」と発表した。そして、東条内閣が総辞職した。
 サイパンにはあまりにも有名な二つの崖があります。「バンザイクリフ(崖)」と「スーサイド(自殺)クリフ」です。そこで、死んだ日本人の人数は今も不明です。多くの自決は家族単位でした。ただし、死ぬことを必死に拒んだ子どもたちもいたとのことです。当然ですよね…。
 サイパン島で生き残った日本人は1万3000人ほど、そして朝鮮人が1400人ほどいた。ところが、1945年2月時点でも、800人ほどの日本兵(敗残兵)が山中に潜んでいたのでした。1945年12月に投降したのは大場大尉ら48人。そして、同じく12月22日、井上伍長ら13人が投降した。
サイパンを占領したアメリカ軍は、日本本土へB29爆撃機を飛ばした。のべ3万3401機。損害は485機、破損2707機。死亡した搭乗員は3041人。
 アメリカ軍は、70回の出撃に1機の割合でB29を失っていた。それでも、日本全土が焦土と化してしまいました。
 忘れてはならないサイパン島攻防戦の悲劇の実情が明らかにされています。
(2024年5月刊。1500円+税)

永遠の都6(炎都)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 加賀 乙彦  、 出版 新潮文庫
 戦前の帝大セツルメントが紹介されています。著者はセツルメント活動をしていたのです。
 帝大セツルメントは関東大震災後に生まれた学生救護団を母体にして、大正13年に帝大セツルメントのハウスが柳島元町に落成して始まった。次第に、託児所、診療所、法律相談部、市民教育部、図書部、調査部と活動範囲を広げていった。
東大本郷の五月祭のセツルメント展示場に制服の女学生が数人立ち止まった。いずれも良家のお嬢さんらしく、アイロンの掛かった白の上着に、紺のスカートを着て、作りたての人形のような、ほつれ毛一本ない三つ編みを垂れている。聖心女学院の学生たちだった。
 まさか来るとは思わず誘ったら、そのうちの一人が本当にセツルのハウスにやって来た。
ハウスは2階建ての洋館で、下に医務室、託児所、図書室、食堂、台所、小使室、浴室があり、上は法律相談室、調査室、教室、物置、そして10のレジデント室があった。
この法律相談室には、民法の大家としてあまりにも著名な末弘厳太郎そして我妻栄も週に1回やってきて、市民からの相談を学生と一緒に対応していました。
 聖心の女学生は、ハウス付近のスラム街を案内された。戸口がなく、すだれを垂らしただけで内部がまる見えのあばら屋では、病人が臥(ふ)せっているそばで赤ん坊が泣いている。軒が傾いた屋では、破れ障子の奥で老婆たちが手内職をしている。運河の岸に鋳物や紡績の町工場が並び、排水で水は黒く、酒瓶、紙屑、猫の死骸、野菜屑が悪臭を立てている。吾嬬(あずま)町の皮革工場に近づくと特有の糞臭が漂い、ドブ川は何とも形容できない醜悪な色をなして、淀んでいる。そして、このスラム街の向こうには、赤い連子窓の並ぶ色町がある。
それを全部見てまわったあと、聖心の女学生はセツルに入りたいと言って、セツラーの一人になった。
私も大学に入った4月に川崎セツルメントに入りました。幸区古市場です。そこはスラム街ではなく、大小町工場で働く労働者の街です。いわゆる民間アパートが至るところにありました。
まだまだ娯楽の少ない時代でしたから、青年労働者たちと早朝ボーリング大会、オールナイト、スケートそしてハイキングやキャンプを企画すると参加してくれました。もちろん、アカ攻撃もかかってきました。大企業の労務管理としてZD運動などが盛んなころのことです。女子学生もいろんな大学から参加していました。津田塾大学、東京学芸大学、栄養短大などです。
 日本が戦争に近づこうとしているころ、日本に長く住む神父がこう言った。
 「これから日本がどうなるかは分からない。しかし、満州事変以来、軍部が武力拡張政策で国を引っぱって行く方向では平和な未来は来ないだろう。戦争というのは、一度、火がつくと、どんどん燃え広がって、収拾がつかなくなる。そうならないことを祈るより仕方がない」
いやあ、まるで、いまの日本にぴったりあてはまる言葉ではありませんか…。「台湾危機」などをあおり立てて、軍備大拡張、そして敗戦記念日に広島で臆面もなく、「核抑止力」をふりかざす日本の首相。狂っています。声を大にして批判することが必要なときです。
(1997年7月刊。629円+税)

物語青年運動史(戦前編)

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 吉村 金之助 、 出版 日本青年出版社
 いま昭和の初期(2年から9年までの7年間)、東京で生活していた亡父のことを調べて書いています。
 東京に地下鉄が出来たのは1927年12月30日でした。当初は、上野と浅草のあいだ、わずか10分ほどを走っていました。10銭硬貨を入れると、棒がまわって入れるもので、まだ切符ではありませんでした。ところが、紙の切符を女性が売る形式に変わりました。地下の売り場に、朝6時から夜中までいなくてはなりません。汚れた空気と、ガンガンひびく、ものすごい電車の音に耐えなければいけなかったのです。
 そして、日給が男子は1円15銭なのに女子は70銭でした。そこで、従業員は会社にバレないように労働組合をつくり、ついにストライキに突入しました。会社自体が新しいのですから従業員は、16歳から28歳と、みな若い。運転手は男子で、女子は切符売りなどです。
 ストに突入したのは1932(昭和7)年3月20日の夜。
 しかし、いきなり争議に入ったのではありません。まずは軍資金の確保です。みんなでお金を出しあって、1000円を集め、それで食糧を買い込みました。パン600斥(64円しました)。砂糖1俵、醤油3升、梅干したる、かつお節30本、みかん1箱など…。地下にみんなで1ヶ月間は籠城する覚悟でした。電車4台を地下に留め置き、警官と会社が運び出さないよう、鉄条網を張って、900ボルトの電流を流し、「されると死ぬぞ」と大書したのです。そのため警官隊は地下に突入できませんでした。
 結局、ストライキは3日間で終わりました。会社側が労働者の要求の多くを受け入れたのです。神田と浅草駅には便所をつくり、詰所にはオゾン発生器をつける。女子の最賃は90銭、出札手当、トンネル手当各2円を支給するなど、です。
 ところが、警察はストライキ終結して、1ヶ月後の4月18日に、主要メンバー46人を検挙して弾圧しました。
 それでも、このような壮大なストライキが戦前の東京地下鉄であったことを知っておいた方がいいと思います。どうせ弾圧されてしまったんだから、むなしい…なんて思わず、納得できないことは、「はて」と疑問を口にして声を上げるのは、やはり大切なことなのです。
(1968年2月刊。420円)

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