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カテゴリー: 日本史(戦前)

戦場の人事係

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 七尾 和晃 、 出版 草思社
 凄惨な沖縄の戦場を生きのびた軍曹(准尉)が、戦時名簿をもとに亡くなった兵士の遺族たちに、その最期の状況を伝えるべく全国を歩いたという実話です。
 この元軍曹(石井耕一)は、新潟県で1913年に生まれ、1944年7月、3度目の召集で沖縄に配属されたのでした。野戦高射砲大隊の人事担当として勤務し、1945年6月、米軍の捕虜となり生きのびることができました。戦後は町の助役を6期24年つとめたあと、豊栄市長も4期16年つとめました。2012年2月、享年98歳で永眠。
 著者は95歳の石井から話を聞き、戦時中に石井が作成し、本土に持ち帰った戦時名簿の現物を見せてもらいました。
 捕虜収容所にいるとき、米兵と親しくなり日本刀が欲しいという米兵からジープに乗せてもらって、戦時名簿を埋めていたガマ(洞窟)に行き、掘り出したのです。缶に入れて防水の布でくるんでいたので、名簿や行動・死亡記録は無事でした。奇跡的な発見です。
遺族に手紙を出すと、届かない人もいたけれど、届いた遺族から最期の様子を聞きたいという申し出があったりした。
 あるとき、遺族は、帰り際にこう言った。
 「そこまで家族のことを思っていてくれたのなら、なんで、何としてでも生きのびてくれなかったのでしょうか…」
 いやあ、遺族の言いたいことは分かりますよね、でも、沖縄の戦場はそれを許さない厳しさだったのです。石井が生きのびたのは、ただ運が良かっただけでした。沖縄戦で、日本兵は米軍の本土攻勢を少しでも遅らせるよう死守せよと厳命されていたのですから…。
沖縄に上陸した米軍は18万3000人で、艦船1500隻が一気に押し寄せた。
 この沖縄戦では、指揮していたバックナー中将も1945年6月18日に日本軍の砲弾があたって戦死しています。それほどの激戦だったのです。
貴重な記録がよくぞ残ったものです。そして、それを掘り起こした著者にも敬意を表します。
(2024年8月刊。1870円)

写真が語る満州国

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 太平洋戦争研究会 、 出版 ちくま新書
 日本が中国東北部につくりあげた満州国の実相を豊富な写真とともに明らかにした新書です。かなり前に大連に行ったことがあります。日本統治下でつくられた大連ヤマトホテルがそっくり残っているのに驚きました。その前は大きな広場になっていて、朝早くは太極拳を練習している老若男女でいっぱいでした。
 ヤマトホテルは主要都市15ヶ所にあったそうです。いずれも満鉄直営です。
 関東とは、万里の長城の東端にあたる山海関から東の地方を指す中国語。当時の満州の省である奉天・吉林・黒龍の三省を総称した。つまり関東とは、満州全体の呼称だった。
 ロシアが旅順・大連周辺を関東州と命名したのを日本も踏襲した。
 1906年11月に発足した満鉄は1万3000人の社員を擁した。このうち中国人は4000人で、全員が社員より格下の日給の雇人だった。
満鉄の軌道は世界標準の広軌にした。日本は狭軌。
日本は満州を我が物とすべく、関東州の租借期間を1997年までの99年間に延長した。同じく満鉄は2002年まで経営できることにした。
 満州国が「建国」されたのは1932(昭和7)年3月のこと。日本の繁栄は満州であってこそというキャンペーンが功を奏していた。「満蒙は日本の生命線」というスローガンです。
 上海事変は、満州国の実態を調査するため国際連盟が派遣したリットン調査団に対する目くらまし戦法の一つでした。ところが、中国軍はドイツの軍事顧問団の指導を受けていて、近代的兵器も備えてクリークで待ち構えていたので、日本軍は予想外に苦戦させられた。このとき「肉弾三勇士」の話があり、日本人の戦意高揚に役立てられた。
満州国の国防・インフラ建設、官署の人事などは、すべて関東軍司令部が握っていたので、リットン調査団が満州国を独立国家ではないと認定したのも当然でした。その結果、1933年2月、日本は国際連盟から脱退してしまったのです。
文字どおりのカイライ政権だった満州国ですが、幻想を抱いて日本から満州に渡った大勢の日本人は、日本敗戦後、大変な辛酸をなめさせられました。生きて日本に戻ることのできなかった人が無数にいました。
今、再び戦前の日本へ復帰しようという動きが現実化しています。とんでもないことです。
(2024年8月刊。1200円+税)

もう一度!近現代史

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 関口 宏 ・ 保阪 正康 、 出版 講談社
 戦前の日本は三つの大きな過(あやま)ちをおかした。その一は、統帥(とうすい)権の名のもとに軍事が政治の上に立ったこと。その二は人間の命を戦争の道具として使ったこと。特攻隊や「玉砕」がその大きな例。その三は、戦争を国家の事業と考えたこと。
 私も、この三つの指摘に同感しています。今、日本は戦争に備えるという口実で、大々的に軍事予算を増やしています。5年間で43兆円という気の遠くなる莫大な軍事費です。これまで5兆円をこえるというのに大騒ぎしていたのがウソのように、今では年8兆円といってもまあ、そんなものか、仕方ないなという雰囲気です。これでは福祉や教育予算が削られるのは必然です。でも、戦争にならないようにするのが政治家の最大の任務のはずです。
 軍部と軍需産業が癒(ゆ)着し、大威張りだった戦前の状況に戻ったら大変です。そんな日本にならないよう、戦前の日本にたどった道を振り返って、そこから大いに学ぶ必要があると思います。
 日本の陸軍は、中国軍なんて弱いもの、いくらか日本兵を派遣したら一撃で屈服させられるものと錯覚していた。上海事変が、その典型ですよね。実際には、中国軍はドイツ軍人の顧問団によって訓練され、最新兵器も備え、しかも士気旺盛だったのです。日本軍が慣れないクリーク戦で大苦戦したのも当然でした。
 東条英機は関東軍の参謀長だったことがあります。そして、東条と反目していた石原莞爾が、その下に参謀副長になったのでした。
 二人は互いにまったく口をきかなかった。 その後、東条英機は陸軍大臣になって「戦陣訓」を発表した。石原莞爾は、「こんなものは読む必要がない」といって、開封もせずに倉庫に収納させた。いやはや、すごい反目ですね。結局、石原莞爾のほうが予備役に追いやられてしまいました。
日本軍は中国大陸での泥沼の戦争にひきずり込まれ、総数129万人のうち、90万人をこえる将兵を中国大陸に置いていた。満州からは精鋭の師団が沖縄をふくめ南方に送られ、次々に敗北の道をたどりました…。
 名門中の名門である近衛文麿は優柔不断で決めきれない男だった。
松岡洋右は諸突猛進で、また言うことがくるくる変わる男だった。
アメリカの暗号解読の能力は大変なものがあったようです。山本五十六元帥の撃墜もミッドウェー海戦の失敗も暗号で内情を知られていたことで起きた悲劇でした。
天皇の弟宮で陸軍にいた秩父宮、海軍にいた高松宮も東条英機に強い反感をもっていた。秩父宮は、東条英機に対して、3度も詰問状を送っている。
 日本がなぜ戦争に敗れたのか、きちんと知ることは大切なことだと私は思います。それは自虐史観なんていうものでは決してありません。
(2022年4月刊。1980円)

羊は安らかに草を食み

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 宇佐美 まこと 、 出版 祥伝社文庫
 いやあ、よく出来ています。満州開拓民の戦後の苛酷すぎる逃避行を現代によみがえらせるストーリー展開で、思わずのめり込んでしまいました。
 私も、叔父(父の弟)が応召して関東軍の兵士となり、日本の敗戦後は八路軍(パーロ)と一緒に各地を転々としながら紡績工場の技術者として戦後9年ほど働いた状況を本にまとめ(『八路軍とともに』花伝社)たので、日本敗戦後の満州の状況は調べましたが、この本は、11歳の少女2人が親兄弟を失いながら助けあって日本に引き揚げてきた状況をストーリー展開の核としながら、その苦難の状況と、それが戦後の生活といかに結びついたのか、少しずつ解き明かされていきます。その手法は見事というほかありません。
その苦難の逃避行をした女性の一人は、今や認知症になっていて、自ら語ることは出来ません。でも、人間らしさは喪っておらず、また、昔の知人と会えば反応はするのです。認知症だからといって、完全に人格が崩壊しているのではありません。
 俳句を通じて仲良くなった80歳台の女性3人が、四国そして長崎の島まで認知症となった女性ゆかりの地へ旅行するのです。
人間の尊厳を見つめた、至高のミステリー、とオビに書かれています。11歳の少女のときの苛酷すぎる状況の記憶が現代にいかにつながるのか、しかも、それが認知症だとどうなるのか、人間とは何かをも考えさせられる文庫本でした。  
東京からの帰りの飛行機で一心に読みふけりました。初版は3年前に刊行されていて、今回、著者が加筆修正して文庫として刊行されたものです。
 参考文献のいくつかは私も読んでいましたが、未読のものも多々ありました。
(2024年3月刊。990円)

沖縄県知事・島田叡と沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 川満 彰 ・ 林 博史 、 出版 沖縄タイムス社
 1945年、日本敗戦の直前、沖縄では本土の捨て石とされて、日本軍がアメリカ軍と死闘を展開していました。そのとき、沖縄県知事と警察部長は沖縄県民を必死で守ろうとしていたという「美談」がほぼ定着しています。でも果たして、「美談」は本当に成り立つものなのか、冷静に分析した本です。これまで、つくられた「美談」に乗せられていた私は大いに反省させられました。
 沖縄戦当時の県知事・島田叡と県の警察部長・荒井退造は、2人とも内務省から任命された官選の知事であり、警察部長だった。
この本では、2人とも特高警察の幹部だったという経歴も明らかにしています。昭和の特高は小林多喜二をはじめとして、多くの罪なき人々を拷問にかけ殺し、また精神的に追い詰め変調をきたした人々を数多く生み出した官許の犯罪者集団でもあります。
 島田叡と荒井退造が沖縄の苛酷な戦場において、人間味を失わず、勇猛果敢に住民を保護したとして英雄視される「物語」は、沖縄戦の実相を知らない人々に誤った沖縄戦後を植え付けるものだ。人々が戦争の本質を見えなくなったとき、再び戦争は歩みよる。著者たちは、このように警告しています。
沖縄戦で亡くなった人は少なくとも20万人。沖縄県民が13万人近くいる。
 沖縄戦は日本軍(第32軍)が地上戦で持久戦を遂行したことから、住民はさまざまな戦場で、さまざまな戦没のありようで犠牲となった。
「集団自決」は、日本軍による強制された集団死だった。
 当時の沖縄の人口は60万人。食糧は3ヶ月分しかなかった。住民の一般疎開は、軍隊のための食糧確保が目的だった。8月22日、学童や一般人を九州に疎開するため航行中の対馬丸がアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、1484人が亡くなった。
 日本政府は沖縄県民10万人を県外へ疎開させるという方針を立てた。これに対して、当時の県知事らは反対していた。
大阪府内政部長だった島田叡が沖縄県知事として着任したのは1945年1月末のこと。
 このころ沖縄県民を北部へ疎開させようとしていたが、これは戦えない住民の棄民政策(北部に十分な食糧は確保されていなかった)、また戦場に残された「可動力ある」住民は、「根こそぎ動員」の対象者だった。
 荒井警察部長は、アメリカ軍が沖縄に上陸したあと、沖縄の人々がアメリカ軍の捕虜となって日本軍の動向をスパイすることを恐れていた。島田知事も荒井警察部長も二人とも、住民が捕虜となってアメリカ軍に機密情報を漏らすことを恐れていた。そのため、島田知事は、アメリカ軍に対する敵意と恐怖心をあおった。そして、国民義勇隊なるものを創設して、アメリカ軍と戦わせようとした。これは、男女を問わず、50歳以下の人は全員招集させられ、前線での弾薬運びなどに使役させられるものであった。
 島田県知事と荒井警察部長は日本軍の要請に応じて県民(この時点では避難民)を戦場に駆り出し続けていた。島田県知事も荒井警察部長も、捕虜になって生きのびることは認めず、アメリカ軍への恐怖心を煽り、竹槍でも鎌でも、何でも武器にして最後まで戦うことを求めた。この二人は、「恥ずかしくない死に方」を一般県民に指導した。その責任を不問に付してはならない。
島田叡の経歴は、1925年から1945年までの20年間のうち15年間は警察官僚だった。
 荒井退造は、東京の警察署長を歴任したあと、満州でも警察の幹部となって、日本に戻ってからは特高警察の幹部であった。この経歴から、当然、二人とも、見図史観、「団体護持」思想を受け入れていたと思われる。
 島田知事の人柄は良かったようだが、そこからは沖縄戦の実相は見えてこない。
 沖縄戦において、アメリカ軍が上陸したあと、県民の生命を本気で守る気があったのなら、戦場への県民駆り出しなどやるべきではなかったし、アメリカ軍への恐怖心を煽って、最後まで戦えと指示することなんてするべきではなかった。そうではなく、アメリカ軍は民間人を殺さないから安心して捕まるべきで、それは恥ではないと、もっと早くから呼びかけるべきだったとしています。
 なるほど、まったくもって、ごもっともです。いやあ、目の覚める思いのする大変刺激的な本でした。
(2024年4月刊。1650円)

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