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カテゴリー: 日本史(戦前)

「地中の星」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 門井 慶喜 、 出版 新潮社
 私の亡父・茂は17歳のとき、大川市から単身上京して、逓信省で臨時雇員として働きはじめました。1927(昭和2)年3月のことです。
 同じ年の12月末、東京で初めての地下鉄が営業を開始しました。浅野と上野を結ぶ路線です。2キロあまりを5分間ほど走りました。運賃は10銭です。当時、コーヒー1杯が10銭でした。イギリス・ロンドンの地下鉄のほうが断然早いのですが、ロンドンは蒸気機関車でしたから排煙に悩まされていたそうです。日本は初めから電気で動きました。
 この本は、渋沢栄一などの援助を受けながら、東京の地下に電車を走らせることに命をかけた早川徳次(のりつぐ)と技術者たちの苦闘の日々を生き生きと描いています。
12月29日には開業式ではなく、開通披露式がとり行われました。
 改札には、自動改札機があり、10銭硬貨を投入する。これまた日本初のこと。線路は複線で、車両は1両だけ。
 翌12月30日に一般向けの営業を開始すると、初めての地下鉄に乗りたい人々が殺到し、大変な行列をつくった。午前中だけで4万人の市民が乗車した。
 そして、それは年が明けて新年になっても続き、むしろ日曜祝祭日のほうが地下鉄は混みあった。もちろん、このころ亡父も地下鉄に乗ったと思います。18歳の好奇心あふれる青年が乗らなかったはずはありません。
 やがて地下鉄の線路は延伸し、神田駅が出来た。すると、省線(今の山手線)との接続が乗客にとって便利になる。それは利用者の増加につながった。そして、次は三越デパートと直結し、「三越前」駅が誕生した。
 東京市の人口200万人のうちの半分近い98万人が3日間の地下鉄祭で乗車した。
 次は、関連して、地下鉄ではなく地上を走る市電の女性車掌の話です。東京の路面電車は今も細々と残っていますが、かつては縦横無尽に走っていました。そして、その電車には車掌がいて、車内で切符を売っていました。すると、混雑したときには間違いがあり、また、たまに車掌の着服事件が起きたりして、女性車掌が導入されたのです。しかし、女性車掌だと、更衣室の整備が必要だったり、夜間には働かすことができないということで、いったん廃止されました。
 ところが、男性がどんどん兵士として出征していったので、再び1934年に女性車掌が復活したのです。
 しかし、これには男性車掌側から反発もありました。男性車掌の賃金が1円7銭であるのに対して女性車掌の賃金は90銭でしかなかったからです。こんな低賃金で働く女性が増えると男性の仕事が奪われるという意見です。それをストライキの理由とした争議まであったのでした。
 昭和のはじめの日本の状況は調べるほど、面白い世界です。
(2021年8月刊。1800円+税)

『国家試験』

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 国家試験編集部 、 出版 育成洞
 私の亡父は法政大学法文学部法律学科の学生のころ、高等文官司法科試験を1回だけ受験しました(残念ながら不合格)。1933(昭和8)年6月のことです。このときの合格者には川島武宜教授(民法)がいます。
 いま、亡父の足取りを調べていますので、このころの司法科試験は何月に、どこで、どんな問題が出題されていたのか、口述試験はあったのか、知りたかったのです。
受験雑誌があったらしいことを知って、ネットで検索してみました。すると、出てきたのが、この雑誌です。今は、国立国会図書館にわざわざ行かなくても、いながらにしてコピーサービスを注文して利用することができます。本当に便利な世の中になりました。
今度、NHKの朝ドラの主人公になる三淵嘉子の伝記によると、当時の試験会場として貴族院も使われていたというのですが、1933年の試験会場は今のところは判明していません。それでも、6月末ころ、1日2科目の4日間ということは分かりました。試験科目は私のとき(1972年5~9月)とほぼ同じです。憲・民・刑に商法、民訴か刑訴、そして選択科目2科目(私は社会政策と労働法でした)。
論文式はどうやら事例式ではなく、抽象的な一問を論じる形式のものだったようです。
論文式を無事にパス(合格)したら、口述試験です。これも私のときと同じです。この受験雑誌には口述試験の状況を再現した合格体験記も載せられています。私のときには『受験新報』が花盛りでしたが、この雑誌にも詳細な口述試験の問答が紹介されています。
このころの試験官といえば、末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一、鳩山秀夫など、そうそうたるメンバーです。
合格するために必要な精神状態についても、先に合格した先輩が次のように書いています。
あせらず、あわてず、粛々と堅実な歩みをすすめていくしかない。
そして、試験に合格したいという希望が必要、意思が堅固でなければいけない。私のころ、そして今でも通用する心がまえが求められています。
亡父は司法科試験のために猛勉強しすぎて神経衰弱になったとこぼしていました。私もちょっぴり、そうなりました(ほとんど1日、寝て、なんとか回復しました)。
有名な伊藤塾の塾長(伊藤真弁護士)に、戦前も受験雑誌があり、口述試験の問答が詳しく再現されていると話したことがあります。さすがの伊藤弁護士も知らなかったとのことでした。調べてはみるものなんですよね…。
(非売品、国会図書館コピーサービス)

女子鉄道院と日本近代

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 青弓社
 いま、昭和はじめの東京の状況を調べていますので、この本を読んでみました。
 東京市電(東京都ではなく、東京市でした)の女性車掌は、1925年に始まりましたが、1927年には廃止されました。ところが、1934年3月に復活しています。いったん廃止されたのは終車まで勤務させられないのと、更衣室が必要だからというのです。復活した理由は「経費の圧縮」。つまり、女性のほうが安上がりだという理由です。どれくらい安いかというと、男性なら日給1円7銭のところ、女性は90銭でした。
 そして、男性は運賃の着服横領が多いけれど、女性はそんなことしないだろうという事情もありました。このころは、車掌が車内で運賃を乗客から徴収していたのです。すると、乗客が満杯のときなど、料金の過不足が出てくるのは避けられません。それが全部、車掌の責任にさせられていました。そして、当局は、ときに密偵を車内に送り込んで車掌を監視していました。弁償させられていたのです。
 乗客のなかには今でいう「カスハラ」をするのもいて、女性だとなおさら泣かされたようです。そして、女性が働くと、女性をつけ上がらせるという世間の冷たい眼にもさらされました。
 1933(昭和8)年2月2日、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の労働者は始発からストに突入した。解雇撤回、手当を減額するな、そして、女性を採用するな、でした。低賃金の女性が採用されると、男性の職場が荒されるというのです。
 鉄道が走り出したころ、踏切番の仕事は女性が担っていた。鉄道に雇われている夫の妻として踏切番の仕事をした。ところが、この仕事は危険だった。というのは、まだ鉄道の怖さを知らないので、子どもたちまで平気で線路内に立ち入る。それで子どもを助けようとして、踏切番が犠牲になることも少なくなかった。
 踏切番として働く女性の賃金は4円。これは男性が9円81銭もらっているので、その半額以下。
 国鉄に女性の車掌が登場したのは1944(昭和19)年のこと。戦時下にあったからとされている。男性が兵役にとられて、いなかったのです。
 かつてバスには女性の車掌がいて、バスの車内で切符を売ったり、パンチを入れたりしていました。戦後まもなく生まれた私の記憶でもあります。それが、いつのまにか車掌はなくなり、ワンマンバスになってしまいました。
 鉄道とバスをめぐる、昔のことがよく分かりました。
(2023年12月刊。2400円+税)
 庭のチューリップが一気に咲きはじめました。今年はなぜか紅いチューリップが多いようです。もちろん、黄色も白もありますが…。白いスノードロップもあちこち咲いてくれています。
 雨戸を開けると、チューリップの群舞に出会えます。春を実感させる一瞬です。
 2月に植えたジャガイモが少し芽を出してくれました。こちらも楽しみです。
 春は心が浮き浮きしてきます。何かいいことがあったらいいですね。殺伐としたニュースばかりでは心が休まりません。春はやっぱりチューリップです。

戦前の日本

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 武田 知弘 、 出版 彩図社
 私の父は17歳のときに大川市から単身上京し、24歳まで7年のあいだ東京にいました。1927(昭和2)年4月から1934年8月までのことです。
 このころの日本そして東京はまさしく激動の時代でした。大正デモクラシーという自由な雰囲気が少しは残っていましたが、次第に軍人がのさばり始め、五・一五事件が起きて犬養首相が首相官邸で「問答無用」と青年将校から射殺され、ついに政党政治が強制終了させられ、軍部独裁の政治が実現しました。
 そんな時代の様子を今いろいろ調べています。この文庫本を読み返したのも、その一環です(初版は平成28年)。
 戦前の日本は貿易大国だった。紡績業がその中心にあった。そして、なんと、自転車も重要な輸出品目でした。自転車の生産台数は大正12年に7万台、昭和3年に12万台、昭和8年に66万台、昭和11年に100万台を突破し、それ以降も同水準だった。
 次に玩具(オモチャ)。セルロイドや金属を使ったり…。昭和8年には輸出額は2000万円にのぼった。
そして、日本は中国や朝鮮半島から留学生を大量に受け入れていた。中国人留学生は5000人以上、そして朝鮮半島からは3万人ほどもいた。
 つい最近、日本政府は外国人が大学に行くときには、その授業料を日本人より高値に設定するというのです。まさか、と我が眼を疑いました。この反対に外国人学生の学費はタダにして、大いに諸外国から来てもらうようにすべきです。トマホークやオスプレイのようなものを買うお金はあっても「人材育成」のために使うお金なんてないというのです。まるでアベコベ政治です。
 昭和3(1928)年10月の人口調査によると、大阪市が233万人で、東京市は、それを下回る221万人でした。信じられません。それほど大阪市は活気に満ちていたのです。
 戦前の日本は、日本映画の黄金時代。上映される映画の8割近くは邦画だった。ドイツでは6割、英仏でも7割がアメリカ映画だったのに対比させると、いかに邦画が繁栄していたかです。おかげで有名な監督が輩出しました。
 サラリーマンは、平均月収が100円。ところが大企業では課長クラスで年収1万円(今の年収5000万円)。今は、もっと格差が大きくなっていると思います。
 寿司屋では、にぎりずしが25銭、ちらし寿司が30銭。大衆食堂では、朝食10銭、ライスカレー20銭でした。ところが、高級料理店では2円だった。コーヒーは10銭で飲めた。マイホームは4000円前後で建てることができた。
 知らなかったことが、たくさん出てきました。
(2016年9月刊。648円+税)

岩田健治、若い魂

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 井出 節夫 、 出版 ウィンかもがわ
 1933(昭和8)年2月に長野県で起きた「長野県教員赤化事件」の真相に迫った本です。「2.4事件」の報道が解禁されたのは9月15日。このころは事件が起きてもすぐに報道されることはなく、半年以上たってセンセーショナルに報道されるのが常でした。
 この日、「信濃毎日新聞」は4頁の号外を発行しました。「戦慄(せんりつ)!教育赤化の全貌(ぜんぼう)」「教科書を巧みに逆用し教壇の神聖を汚辱す」などの見出しで世間に大きな衝撃を与えたのです。
 「南信日日新聞」もひどいものです。「全信濃を挙げて赤化のルツボに踊る、教壇から童心に魔手を延す赤化教員の地下活動」と報道しました。いかにも恐ろしそうです。
 長野県下の小学校教員が100人近く検挙され、顔写真つきで報道されました。そのなかに高瀬小学校の岩田健治校長(37歳)もふくまれていたのです。
 岩田校長は2月21日に検挙され、6月6日に釈放されるまで3ヶ月以上も警察署の留置場に入れられました。その処遇のひどさが日記に書かれています。
 「布団を入れた薄団のひどいことときたら全く話にならない。ボロボロに切れた綿がゴロゴロごてって居る真中に大穴がある。しかも悪臭、鼻をつく」
 ただし、校長という立場にあったからか拷問は受けていなかったようです。
岩田校長は日誌に次のように書いています。
 「いったい俺のしたことの何が悪いと言うんだ。まったく訳が分からない」
 「革命、共産党、俺らは何らそんなことに関係はない。単なる文化運動が、どうして治安維持法に引っかかるのだ。秘密運動だという、その秘密とはいったい何だ。同志数人の会合、先輩宅に集まる数人の懇談会、それがどうして秘密運動か」
 岩田校長は検挙されたというだけで7月に懲戒免職処分を受けました。ところが、実は、翌1934年3月に起訴猶予処分を受けているのです。
 「信濃毎日新聞」の社説(評論)もまたひどいものです。
 「叛逆の心理を(児童に)注ぎ込まんとする教育者は、厳罰に処するとともに、その一方を挙げて、これを教育界から除草すべきである」
 「彼らは言うところの二重人格者である。変態心理学者である彼らは教壇に立ちつつ、ある間はジキール博士であるけれども、一度これを下れば獰猛(どうもう)なる悪漢ハイドになる」
 これらの新聞は戦争遂行という国策遂行に積極的に加担していったのでした。そして、信濃教育会は共産主義の本拠であるかのように全国に報道されたことから、その「汚名」を挽回すべく、満蒙開拓青少年義勇軍の送り出しが全国第1位でした。子どもたち本位の教育を目ざし、進歩的伝統を誇っていた長野県教育界は、この「2.4事件」によって一転して戦争遂行にひたすら協力する反動的団体に変貌してしまったのです。
 恐ろしいフレームアップ事件でした。ただ、この本を読んで救いを感じたのは、岩田校長が日本敗戦後、共産党に入り、ついには国政選挙の候補者として活躍するまでになった(当選はしていません)ことです。戦前の屈辱を戦後になって見事に晴らしたのでした。たいしたものです。
 昨年(2023年)は「2.4事件」から90周年という節目の年でした。それを記念して刊行された本です。「教員赤化事件」という、おどろおどろしいレッテルを貼りつけられたものの、その内実はきわめて穏当な教育実践の交流であったことを明らかにした本でもあります。貴重な労作として、ご一読をおすすめします。
(2023年12月刊。1800円+税)

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