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カテゴリー: 日本史(戦前)

不屈のひと。物語「女工哀史」

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 石田 陽子 、 出版 岩波書店
有名な 「女工哀史」を書いたのは細井和喜蔵。そして、細井に女工の実情を語り聞かせたのは、その妻(内縁)の堀トシヲ。堀トシヲは、19歳のとき、東京モスリン亀戸工場に女工として働いていた。そして、そこで労働組合に出会った。
 日本労働総同盟友愛会の鈴木文治会長は、次のように女工たちに語りかけた。
 「労働者は人格者である。決して機械ではない。個性の発達と社会の人格化のために、教養を受け得る社会組織と、生活の安定と、自己の境遇に対する支配権を要求する」
 今日の日本で多くの人がスキマバイトをして毎日の生活をやりくりしています。そこでは人格が尊重されることなく、単なる機械のように働かされています。教養を身につける余裕どころか、生活の安定もなく、ひたすら企業に支配されるばかりです。
 「外国人」のためにそうなったのではありません。営利しか念頭にない企業優先原理が生み出した病理現象です。
細井和喜蔵の出身地は京都の丹後半島の付け根にある与謝郡加悦(かや)町。13歳のとき大阪に出て工場で働き始めた。
 堀トシヲが働きはじめたのは10歳5ヶ月のときで、岐阜県大垣市の織物工場。
細井和喜蔵は織布工場で働きながら、悲惨な労働実態を世に問うべく書き続けた。
 1923(大正12)年9月1日、関東大震災が発生。警察と憲兵隊は「朝鮮人襲来」のデマを拡散し、民間人を扇動しつつ、自らも朝鮮人の虐殺を開始し、あわせて「主義者」として労働組合運動の活動家を根こそぎ検挙して、憲兵隊とともに大虐殺を敢行していった。
 いやあ、本当にひどいものです。この朝鮮人虐殺(中国人も含まれますし、間違われて相当数の日本人も殺されています)は歴史的に証明された事実です。ところが、小池百合子・東京都知事は知らんぷりを決め込んだままです。ひどいものです。
 細井和喜蔵は1925年8月、病死した。その後も「女工哀史」は売れたが、堀トシヲは内縁の妻ということで、印税はもらえないという。堀トシヲは高井信太郎とともに香川豊彦夫妻の下で働いた。
 そして、日本敗戦後、高井信太郎も病死し、トシヲは、子どもたちを養うため、ヤミ商売を始めた。ヤミタバコ売り…。
 ヤクザ(暴力団)とも、警察や裁判所とも対等にわたりあった。
 次はニコヨン暮らし。ここでは自由労働組合づくりを進めた。このとき出色なのは、組合で映画を安くみれる取り組みをして喜ばれたということ。
 ところが、自由労組にも第二組合が出来て、団結は切り崩された。
 堀トシヲは高井トシヲとして、伊丹全日自労の委員長として活動した。
 「女工哀史」の作者(細井和喜蔵)を支えた元紡績女工が今なお元気に活動している。それを知って、大学の先生が、堀(高井)トシヲの人生の歩みを聞き書きすることになった。
 主要参考文献のトップに、高井としを「わたしの『女工哀史』」(岩波文庫)があげられています。私の知らない本でした。東洋モスリン亀戸工場で起きた壮絶なストライキのことを少しばかり調べて、父のことを書いた本(『まだ見たきものあり』花伝社)で紹介したのですが、認識不足というか、調査(探索)不足でした。さすが半藤一利氏の調査補助者として長く活動してきた著者ならではのきめこまかさに圧倒されてしまいました。
(2025年6月刊。2420円)

仮面の奇人・三木清

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 宮永 孝 、 出版 法政大学出版局
 三木清は、戦前に活躍した哲学者であり、法政大学の教授でもあったが、治安維持法によって2度も逮捕・投獄され、2度目は、日本が敗戦後したあとなのに、すぐに解放されることもなく、ついに獄死してしまいました。本当にむごいことです。
 本書は三木清という哲学者を奇人として、さまざまな角度から分析しています。 この本を読んで、三木清に対するイメージを一変させました。
三木清は、戦前の日本の哲学界と論壇のスターだった。
 著者は、法政大学社会学部で教えていますので、いわば三木清の後輩にあたります。三木の文体は独特な様式、奇異な文体であり、一読してすぐ分かるような文章ではない。発想があまり日本語的ではない。
 三木のパスカル解釈は、なまかじりのもので、それが十分に自分のものになっていない。三木は半解の徒であった。
戸坂潤によると、三木は「無から何を創り出すというような意味での独創家ではない」。三木は発明家というより、発見家、応用家である。
 大内兵衛によると、「三木は死して時代の英雄になった。三木が英雄になったのは、その死に方が英雄的であったから」だという。また、三木は西洋の哲学をよくかみくだいて身につける能力をもっていた学者であり、その教養を基礎として、広義の社会的な問題について、ひととおりの見識をもつ人であったと大内は評価している。
 三木は好きになった女性から、ことごとく袖にされた。愛する女性に受け入れてもらえなかったのは、単に顔かたちや容姿だけが理由ではない。人から嫌われる要素、悪い性格があったようだ。三木は慎み深さに欠け、常識では考えられない奇怪さ(ふしぎさ)があった。
 三木は、一種の天才的直観をもって問題点を掘りおこし、結論を導き出すことにすぐれていた。三木論文を構成しているものは、小さなテーマ(題目)の集合体であり、それが複雑に入りまじり、かつ、からんでいるために、大きな筋道が立たず、議論の大きな流れや一貫性がみられない。それが三木の論文を分かりにくくしている理由の一つになっている。
三木は三高の教師を経て、京大哲学科の教官になるはずだった。しかし、女性スキャンダルのため、こと志に反して私大(法政大学)に勧めざるをえなかった。三木にとって、それは大きな誤算だった。
三木清は世間では哲学者として通っていたが、実際は多面的な才子だった。
 三木は学校秀才にありがちな自信家であり、衒気(げんき)が強く、見栄っぱりだった。ときに、おごり高ぶり、他人(ひと)をはばかることなく批判した。その直言癖も三木の治らぬ病のひとつだった。
三木はひとつの哲学から次の哲学へと、旅を続ける哲学者だった。三木は、自分の哲学をもつという見果てぬ夢を追いながら、あの世へ旅立った不幸な哲学者だった。
 三木清は徴用通知を受け、フィリピンに派遣された。そして、フィリピンで三木は報道班員として活動した。三木は他人(ひと)からお金を借りることが平気な人間だった。要するに、三木は円満な人格者ではなかった。
 同じ法政大学の哲学の教授だった戸坂潤は、1938年11月、治安維持法違反で検挙され、1944年懲役3年の実刑となり、東京拘置所から長野刑務所に送られ、1945年8月9日に獄死した(45歳)。
 三木清は1927年4月、法政大学文学部哲学科の主任教授となった。1930年5月、三木は共産党にカンパしたことで検挙された。
 三木や戸坂の偉いところは、法政大学を追われたあとも法大生のために哲学会主催の課外授業を行い、また、講演などもしている。
 1945年3月、三木は特高に検挙された。6月、東京拘置所に入っていたときは疥癬(かいせん)所に入っていた。三木はもともと丈夫な体格で体重も60キロ以上あった。
 ところが、日本敗戦後の8月26日、全身にむくみがあらわれ、疥癬が腎臓をおかし、汚物まみれになってベッドからころがり落ちて死んだ。その遺体はあまりに悲惨だったので、娘も見ることができなかった。
 三木清という偉大な哲学者の等身大の人となりを知ることができました。
(2025年3月刊。3740円)
 

七三一部隊「少年隊」の真実

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 エイミ・ツジモト 、 出版 えにし書房
 日本軍は満州(今の中国東北部)に七三一部隊を置いて、残虐非道の限りを尽くしました。日本軍に反抗したような人々(無実の人々もいました)を逮捕・連行してきて、生体実験し、結局、全員を殺害してしまいました。正式な建物(施設)が出来てからは脱走した人もいません。ナチス・ドイツの絶滅収容所でユダヤ人が何百万人も殺害されましたが、連合軍が解放したときに少なくない生存者がいて救出されたのですが、七三一部隊では、逃亡に成功した人はただの一人もいません。
 そして、ドイツでは殺害されたユダヤ人の遺族に対して政府と企業がそれなりの賠償金を支払っていますが、日本は、殺された人の遺族に対して一切の補償をすることもなく、今日に至っています。
 七三一部隊で殺害された人々の名簿はまったくありません。ナチス・ドイツは詳細な名簿をつくって収容者を管理していましたが、七三一部隊は、収容した時点で、それまでの氏名ではなく、すべて番号でのみで管理していました。
 七三一部隊の存在は日本陸軍のトップも皇族たちも知っていた。東条英機は七三一部隊を数回は訪問しているし、竹田宮も訪問している。
 七三一部隊の建設にあたっては、石田四郎の出身地である千葉県の加茂村や多古地区から多く関わっている。
 七三一部隊で生体実験の対象とされた人々は「マルタ」(丸太)と呼ばれた。人間扱いはされなかった。ただし、実験データをきちんとするため、食事は良く栄養管理はされていた。
 憲兵隊や特務機関などが捕まえた、ロシア人・中国人・モンゴル人そして朝鮮人もアメリカ人捕虜もいた。この本には少年隊にいた人が黒人(それほど真黒ではなく、浅黒い人とされている)もいたと証言しています。アメリカ軍は自分たちの仲間が人体実験の材料とされたうえで殺害されても、七三一部隊の首脳部である石井四郎たちの責任を追及することはなかったのです。それより人体実験の材料の入手を優先させたのでした。
 マルタには女性もいた。ロシア人女性も中国人女子学生もいた。妊娠して出産した女性もいたが、赤ん坊はすぐに殺された。
少年隊は、14歳、高等小学校在学中で、向上心に燃え、知的好奇心が旺盛な者ばかりだった。ここで勉強すれば、医学校に進学できて、医者にもなれるという甘言もあったようです。
アメリカ軍の捕虜は、飛行士で撃墜されて日本で捕虜になって満州に送られてきた。少尉。薄黒く、背丈は大きかったが、やせていた。30歳くらいで、15番と呼ばれた。
ソ連は七三一部隊の関係者を裁判にかけ有罪としました(死刑はなし)が、アメリカ軍は、そもそも東京裁判の対象ともせず、すべてを闇に葬ってしまいました。
戦後の帝銀事件のときも、犯人は七三一部隊の関係者だという有力説がありましたが、そちらのほうは追及されることもなく、うやむやにされました。
 それにしても、七三一部隊の隊員に少年隊員が多数いたとは驚きです。
(2025年3月刊。2750円)
 参政党の公約は「15歳までの子ども1人に10万円」を毎月配るといいます。とても耳ざわりがいいコトバですよね。でも、参政党は医療費の無償化や教育の無償化をなくして、その代わりに月10万円を配るというのです。とんでもないことです。医療費や教育費が全額自己負担になってしまったら、大変です。
 「月10万円」の公約の裏には、こんな危い話が隠されています。参政党の正体を見た思いがします。

沖縄戦

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 集英社新書
 第二次世界大戦(太平洋戦争)のとき、沖縄で多くの人が亡くなりました。もちろん上陸してきたアメリカ軍の砲撃によって殺された人もいますが、日本軍によって殺された人も少なくなかったこと、また、日本軍から自決死を強いられた人々も多かったことを明らかにした本です。
 当時の沖縄県の人口は60万人で、うち8万人は県外に疎開していたので、50万人が戦争に巻き込まれた。その結果、沖縄県民は軍人軍属、民間人あわせて12万人から15万人が亡くなった。つまり沖縄に残っていた人の3分の1が亡くなったということ。しかも、民間人のほうが軍人の死者を上回っている。なお、本土出身の軍人やアメリカ軍人をあわせると、死者は20万人をこえる。
 沖縄戦において重要な事実は、日本軍が多くの沖縄県民を殺害したこと。スパイと疑われて多くの沖縄県民が日本軍から殺されている。この事実を文部省(今の文科省)が歴史の教科書から削除しようとしたのを知って、沖縄県民総ぐるみの抗議によって削除を止めさせた。ところが、日本軍が住民に「集団自決」を強制させた事実については今日なお教科書から削除されたまま。
 集団自決については、中国本土で残虐な行為をしてきた沖縄出身の兵士たちが自分たちが中国でしたことを語り、敵(アメリカ軍)に捕まったら自分たちも同じことをされる、「鬼畜」の米兵なら、もっとひどいことをするだろうと恐怖心を煽(あお)ったことも背景にあった。
 アメリカ軍が上陸したあと、多くの住民がアメリカ軍によって保護されていることを知っていた日本軍(第32軍)や県(県知事)は、彼らをスパイだと警戒するように、南部に避難していた日本軍の将兵や民間人に繰り返して宣伝した。その結果、壕に隠れていた年寄りを日本軍(第24師団)が引きずり出して斬り殺してしまった。軍と警察が一体となった活動によって、住民・避難民は食料がなくなってもアメリカ軍に投降することもできず、飢えとマラリアで苦しみ、犠牲者を増やした。
 アメリカ軍に保護された女性や子どもたち十数人が日本兵によって浜辺に集められ、手榴弾を投げ込んで殺したという事件も起きている(5月12日、大宜味村渡野喜屋)。また、日本兵は住民を銃剣で脅してイモなどの食糧を奪った。
日本軍は捕虜になることを許さなかった。そのため、沖縄戦でも多くの戦死者が出た。
 沖縄戦では、アメリカ軍にも多数の死傷者を出したが、それだけでなく、兵士の精神にも深刻な打撃を与えている。アメリカ第10軍の戦死者は7374人、戦傷3万1807人、行方不明239人。しかし、このほか非戦闘死者2万6211人を出している。このなかに戦闘神経症による者も含まれる。たとえば、第一海兵師団第5連隊第3大隊K中隊の場合485人いたうち、作戦終了時に残っていたのは1割の50人だった。しかも、上陸時から最後まで残ったのは26人のみ。残りは戦死傷などで戦列を離れている。
海兵隊には戦闘経験のない補充兵がたくさん投入されていて、多くの死傷者を出した。
今はおもろまちは近代的な街並みになっていますが、そこにあった「シュガーローフ・ヒル」では、まさしく凄惨きわまりない死闘が日本軍とアメリカ軍によって延々と繰り返されたのでした。
 1945年5月末の時点で、天皇も大本営も沖縄への関心を失って本土決戦の準備に移っていた。しかも、6月下旬には天皇は本土決戦を断念した(そんな準備は日本軍にないことを知ったから)ので、5月末の時点で沖縄の日本軍が降伏していれば、兵士たちを含めて10万人以上が死ななくてすんだはずなのです。
 また、アメリカの学者によっても、沖縄で正面からの戦闘などする必要はなかった。沖縄を残したまま日本本土(九州)に攻め込んだほうが早く決着できたという説を読んだことがあります。つまり、シュガーローフ・ヒルのような正面からの決戦をすることにどれだけの意味があったのか、実はなかったのではないかという指摘です。なるほど、と思いました。
 今また、「台湾有事」ということで沖縄や南西諸島がすぐにも戦場になるかのような雰囲気がつくられ、大軍拡がすすんでいます。でも、戦争にならないようにするのが政治の本来の役目ではありませんか。それを忘れてもらっては困ります。
(2025年6月刊。1243円) 

力道山

カテゴリー:日本史(戦前)

(霧山昴)
著者 斎藤 文彦 、 出版 岩波新書
 力道山(りきどうざん)というプロレスラーがいました。ともかく強いのです。狭いリングのなかで、いかにも悪役という外人レスラーが反則技ばかりするため、それこそ一時はタジタジとなりつつも、ついに堪忍袋の緒をふり切って得意技の空手チョップを繰り出し、とうとう悪漢レスラーをやっつけてしまうのです。胸のすく思いとは、このことでした。もちろん、生のリングを見ているのではありません。まだ全部の家庭にはなかった時代、わが家のテレビを見ていたのです。
 力道山は、日本におけるプロレスの父である。
 力道山のプロレスは、戦後そのものであり、昭和そのものであり、テレビそのものであった。力道山はプロレスラーであると同時に、「力道山」という、ひとつの社会現象であった。
 力道山が現役のプロレスラーのまま殺害されて亡くなったのは1963(昭和38年)12月のこと。私は15歳、中学2年生でした。
小売酒屋の主(あるじ)だった父がプロレスの大ファンで、私も一緒にみていましたが、父は力道山になりきったようにして、画面をくい入るように見て、肩をいからせ、かけ声を茶の間で上げていたのを思い出します。
 まさしく、力道山はヒーローでした。
 力道山が生まれたのは、今の北朝鮮であり、両親ともに朝鮮人。当時の朝鮮は、日本の植民地支配下にあった。美空ひばりも同じく朝鮮人でしたが、二人そろって戦後日本の輝けるヒーロー、ヒロインでした。
 若き力道山にとって、相撲とりになることが貧困からの脱出を意味していた。本名は、金信洛。三男で末っ子。戸籍上は百田光浩。ところが、生年月日のほうは、大正11年、12年、13年。7月4日、7月14日、11月14日と、確定していない。
 力道山がプロレスラーとしてデビューしたのは、1951年10月28日。1ヶ月にもならないトレーニング期間だった。
 プロレスでは、殴る、蹴る、地獄突きといった反則をする悪役、憎まれ役をするプロレスラーがいたけれど、力道山は、一度もこんな憎まれ役を演じることなく、ベビーフェイスで正統派のポジションを維持した。
日本テレビの正力松太郎オーナーはテレビを通じたプロレスの父でもあった。
1954(昭和29)年2月、蔵前国技館を借り切ってプロレスの国際大試合が3日間連続で開催された。この初日、新橋駅前の西口広場に特設された街頭テレビに2万人をこす見物客が押し寄せた。その写真が紹介されていますが、まさしく、黒山(くろやま)の人だかりです。大変な熱狂ぶりでした。まさしくスター誕生の瞬間だった。このあとも全国を巡行して、興行総収入は8千万円をこした。これって、大変な巨額ですよね。
力道山を主役としたプロレスブームは社会現象となり、プロレス中断を独占していた日本テレビは1953年8月の開局から、1年足らずの1954年上半期に黒字経営に転じた。
子どものころ熱中して見ていた私は、プロレスは毎回、真剣勝負だと信じ切っていました。それがショーだったというのは、東京で学生生活を始めたあと、それを知らされて驚いたのでした。純朴そのものでした。
著者はプロレス・ライターだそうです。そんな職業があるとは知りませんでした。
ともかく、力道山が戦後の社会現象であることは間違いありません。でも、いったいなぜ殺されたのでしょうか…。
(2024年12月刊。960円+税)

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